社会革命党
社会革命党 Партия социалистов-революционеров | |
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![]() 1917年憲法制定議会選挙でのシンボル | |
主な創設者 | ヴィクトル・チェルノフ |
指導者 |
ヴィクトル・チェルノフ[1] ニコライ・アウクセンチェフ[1] グリゴリー・ゲルシューニ[1] |
成立年月日 | 1901年末 - 1902年初め[1] |
前身政党 | 社会革命同盟・社会革命党など[2] |
解散年月日 | 1921年 |
後継政党 |
革命前: 勤労人民社会党(右翼)[3] マクシマリスト同盟(左翼)[3] 革命後: 左翼SR党[1] |
党員・党友数 | (1906年10月[4]) |
政治的思想・立場 |
ナロードニキ主義[1][2] 社会主義[4] 農民社会主義[5] テロリズム[1] 修正主義[2] 社会排外主義[3] |
機関紙 |
『革命ロシア』[1][2] 『ロシア革命通報』[1][2] |
党旗 |
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公式カラー | 赤 |
社会革命党(しゃかいかくめいとう、ロシア語: Партия социалистов-революционеров, ラテン文字転写: Partiya sotsialistov-revolyutsionerov[6]、略称:SR[7]、エス・エル[2][7])は、20世紀初頭のロシアに存在した政党[8]。「社会革命党」は日本における慣用的な呼び方で、党名を直訳すると「社会主義者・革命家党[1]」という意味となる。
思想[編集]
社会革命党はナロードニキ系グループが連合して生まれた政党で[1]、その伝統を受け継いでいる[9]。ナロードニキの理論家・ニコライ・ミハイロフスキーは評論活動のなかで分業批判の進歩観や批判的な主観主義を説いた[10]。チェルノフや社会革命党の面々は彼の哲学的立場からマルクス主義者と論戦を交わし、革命的ナロードニキ主義、ネオ・ナロードニキ主義へと発展させる[10]。
チェルノフが中心となってまとめた綱領案では、プロレタリアート・勤労農民・社会主義インテリの団結による社会主義が掲げられており[4]、チェルノフの農民社会主義論も定式化された[5]。「土地社会化」を特徴とする『農業綱領』[1]では、私的土地所有の廃止と共同体による管理への移行、勤労基準に基づく土地有益の均等化の実施、協同組合の発展を目指している[2][4]。
一方、社会革命党の綱領を分析したウラジーミル・レーニンは、進歩的な革命的民主主義の性格を帯びていると評しながら、土地の共同体所有や協同組合を農民の救済にならないとし、実際は社会主義的なものではないとも指摘した[3]。社会革命党はナロードニキ主義と修正主義の折衷主義であり、プロレタリアートと農民との階級的な差異を無視したり、農民内の階層分化・対立を曖昧化しており、革命におけるプロレタリアートの指導的な役割を否認していた[2]。
その他、専制の打倒、民族自決と連邦原理による民族問題解決、民主共和国の実現、政治的自由、国家からの教会分離、普通選挙、全ロシア憲法会議の招集、累進所得税、労働立法を主張した[1][4]。
歴史[編集]
結成[編集]
1890年代末、革命的なナロードニキ運動の伝統を再生しようとする人々が「社会主義者・革命家」を名乗りはじめる[4]。1901年末から翌年にかけてテロリズムの復権を目指す「社会革命同盟」と組織結集を目指す「社会革命党」がゲルシューニ、アゼフらの協議によって合同を決し、これに亡命者も加わって社会革命党が結党された[4]。
綱領・規約は結党時には作らずに、活動する中で徐々に作っていく方法が採られた[4]。綱領と規約の正式な採択は1906年1月に執り行われた第一回党大会でなされる[4]。
ロシア臨時政府[編集]
トルドヴィキにいたアレクサンドル・ケレンスキーは、1917年の二月革命後にロシアで成立した暫定政権下で社会革命党に移籍して、ロシア臨時政府のゲオルギー・リヴォフ政権下の司法相・陸海軍相となり、第2代大臣会議議長(首相)としてケレンスキー内閣を形成した(1917年7月21日 - 1917年11月8日)。チェルノフも農相として入閣している。
1917年10月25日(グレゴリオ暦11月7日)の十月革命により、ボリシェビキの主導するソビエトによって臨時政府は解体された[11]。脱出・逃亡したケレンスキーを除く第三次臨時政府の閣僚たちのほとんどは逮捕・監禁されたが、その後国外追放され、もしくは脱獄・亡命した[注釈 1]。リヴォフ以下その他の閣僚経験者も大多数が亡命した。
ロシア内戦[編集]
11月に憲法制定議会の選挙が行われ、社会革命党が第一党となり、翌1918年1月、チェルノフはマリア・スピリドーノワを破り、憲法制定議会の議長に選出される。これに対してボリシェヴィキは、憲法制定議会に対してソビエト権力と諸政策の承認を要求するが、憲法制定議会がこれを拒否すると、ボリシェヴィキは憲法制定議会を力で解散させた。
同年5月国内戦が起こると、社会革命党は6月サマーラに移り、反ソビエト政権を樹立、チェルノフもこれに参加する。その後各地でソビエト政府に対する抵抗運動に参加し、モスクワに潜入するなどしたが奪権に失敗し、1920年プラハに亡命した。チェルノフは社会革命党在外代表として活動したが、1926年に社会革命党在外代表団は分裂しチェルノフは脱退した。
その後[編集]
ロシア内戦終結後、党員の多くが逮捕・処刑されるか海外に亡命した。1922年にはレーニンの指示により社会革命党員の裁判が行われ、起訴された社会革命党員は12名全員が死刑判決を受けたが後に減刑された。この裁判は、事実上モスクワ裁判を先取りする『見せしめ裁判』であった。事実として、彼らは人民委員としてボリシェヴィキ政権内に残った左派党員たちと共に1930年代半ばの大粛清により殺害された。
亡命者による社会革命党在外代表団は労働社会主義インターナショナルの一員として1940年まで存続した。
著名な人物[編集]
- ヴィクトル・チェルノフ
- マリア・スピリドーノワ
- アレクサンドル・ケレンスキー
- イサーク・シュテインベルク(Исаак Штейнберг):ボリシェヴィキ=左翼エスエル連立政権時代の司法人民委員。亡命後回想録を発表。
関係書籍[編集]
- サヴィンコフ『テロリスト群像・戦闘団の全貌』
- ニコライェフスキー『革命のユダ・アセーフ』
- シテインベルク『左翼エスエル戦闘史』
- ロマン・グーリ『アゼーフ』(1959年)
脚注[編集]
- ^ a b c d e f g h i j k l m 木村英亮. “SR(エスエル)とは”. コトバンク. 日本大百科全書(ニッポニカ). 2020年3月8日閲覧。
- ^ a b c d e f g h ヴェ・イ・レーニン 1979, p. 188.
- ^ a b c d ヴェ・イ・レーニン 1979, p. 189.
- ^ a b c d e f g h i j k 和田春樹 2009a, p. 545.
- ^ a b 和田春樹 2009b, p. 572.
- ^ 和田春樹 2009a, pp. 544–545.
- ^ a b 阿部齊 1999, p. 492.
- ^ 和田春樹 2009a, p. 544.
- ^ 栗生沢猛夫. “ナロードニキとは”. コトバンク. 日本大百科全書(ニッポニカ). 2020年3月9日閲覧。
- ^ a b 和田春樹 2009c, p. 199.
- ^ 藤本他 1999, pp. 195–196.
注釈[編集]
- ^ 陸軍大臣のアレクサンドル・ヴェルホフスキーのみ赤軍に参加し、後に大粛清の犠牲となる
参考文献[編集]
- ヴェ・イ・レーニン 著、新田礼二 訳「事項訳注」(日本語) 『民主主義革命における社会民主党の二つの戦術』(新訳)大月書店〈国民文庫〉、1979年 (原著1905年)。ISBN 427281060X。
- 阿部齊、内田満、高柳先男(日本語) 『現代政治学小辞典』(新版)有斐閣、1999年。ISBN 4-641-00216-9。
- 和田春樹(日本語) 『世界大百科事典』 3巻(改訂新版)、平凡社、2009a。
- 和田春樹(日本語) 『世界大百科事典』 17巻(改訂新版)、平凡社、2009b。
- 和田春樹(日本語) 『世界大百科事典』 21巻(改訂新版)、平凡社、2009c。
- 藤本和貴夫・松原広志 編 『ロシア近現代史 ピョートル大帝から現代まで』ミネルヴァ書房、1999年。ISBN 9784623027477。
- Abraham, R. (1987). Kerensky: First Love of the Revolution. Columbia University Press. ISBN 0-231-06108-0
- アレクサンドル・ケレンスキー. The Catastrophe: Kerensky’s Own Story of the Russian Revolution. New York: D. Appleton and Company, 1927.
- 『ケレンスキー回顧録』 倉田保雄・宮川毅 訳、恒文社、新版1978年、ISBN 4-7704-0135-3