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クロンシュタット

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
クロンシュタット

Кронштадт
行政区
海軍大聖堂、高さは約70 m,1903–1913年建築
海軍大聖堂、高さは約70 m,1903–1913年建築
クロンシュタットの旗
クロンシュタットの公式印章
印章
サンクトペテルブルク連邦市内のクロンシュタット区
サンクトペテルブルク連邦市内のクロンシュタット区
クロンシュタットの位置(ロシア内)
クロンシュタット
クロンシュタット
サンクトペテルブルク連邦市内のクロンシュタット区
クロンシュタットの位置(サンクトペテルブルク内)
クロンシュタット
クロンシュタット
クロンシュタット (サンクトペテルブルク)
北緯59度59分27秒 東経29度46分29秒 / 北緯59.99083度 東経29.77472度 / 59.99083; 29.77472
ロシアの旗 ロシア
連邦管区 中央連邦管区
連邦構成主体 サンクトペテルブルクの旗 サンクトペテルブルク
創設 1704年
面積
 • 合計 19.35 km2
人口
(2021年)
 • 合計 42,999人
等時帯 UTC+3 (MST)
郵便番号
197760-197762
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1890年の地図(湾内の島がクロンシュタット)

クロンシュタットロシア語: Кроншта́дт, ラテン文字転写: Kronstadt ロシア語発音: [krɐnˈʂtat])はサンクトペテルブルク中心から北西に約32 km、フィンランド湾に浮かぶコトリン島に位置する都市。バルチック艦隊軍港がある。

行政的には、島全体でサンクトペテルブルク市クロンシュタット区Кронштадтского района)をなす。区の人口は4万2999人(2021年)[1]

1921年のクロンシュタットの反乱のほか、聖人クロンシュタットのイオアンで知られる。

歴史

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ロシア帝国時代

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大北方戦争のさなか、1703年ロシア帝国軍はスウェーデン領であったコトリン島を占領。ピョートル大帝によって首都ペテルブルク防衛のための要塞が築かれ、1720年代にはバルチック艦隊の主力基地となった。

19世紀の半ばに、エドゥアルド・トドレベン英語版によって大きく改築され、町は城壁で囲まれた。

クロンシュタットの反乱

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20世紀初頭には革命運動が昂揚し、1905年の革命では、帝室に対する水兵たちの大きな反乱が起こった。

1921年3月7日、クロンシュタットの水兵たちが独裁化しつつあったボリシェヴィキ政権に対して、「全ての権力をソヴィエトヘ!」というスローガンの下、自由選挙の保障、言論・出版の自由、政治犯の釈放、個人の財産の所有権などを要求して蜂起した。当時、ロシア共産党政治局員の一人でペトログラード・ソヴィエト議長だったジノヴィエフは、ただちにクロンシュタットに軍を送り、トゥハチェフスキーの指揮の下でこの蜂起を鎮圧した。これは、ボリシェヴィキ政権のソビエト国内で、最後にして最大規模の反政府反乱であった[注釈 1]

脚注

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注釈

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  1. ^ 「クロンシュタット蜂起」鎮圧の指揮を執ったのはトロツキーとする俗説があるが誤り。当時トロツキーは南部戦線で指揮を執っていた。しかし、トロツキーは後年、スターリンによる追放後も「クロンシュタット蜂起はなんらの展望も持たない反革命蜂起であった。私はソヴィエト政府による鎮圧を擁護するし、その意味においてこの鎮圧の全責任を負う」と述べている。

出典

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  1. ^ population hub”. 2023年5月6日閲覧。

外部リンク

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