荘村省三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

荘村 省三(しょうむら しょうぞう、1821年〈文政4年〉) - 1903年〈明治36年〉)は、幕末の肥後藩士、明治政府の官僚。通称は助右衛門、右衛門。姓は庄村とも書く。
幕末には肥後藩の海軍司令官を務め、坂本龍馬と肥後藩を薩長同盟に加えようと画策するなど活動した。長崎では瓜生寅(三寅)とも連携。聖公会として日本で初の受洗者としても知られる[1][2]

人物・経歴[編集]

1821年(文政4年)、肥後藩士、荘村一郎助の長男として生まれる。その後、横井小楠の門弟となる[1]

1853年(嘉永6年)、佐久間象山に入門し、兵学、砲術を学ぶ[1]。同年12月には、後に助右衛門と協働する坂本龍馬も佐久間象山の私塾に入門している。

同年11月に、肥後藩がペリー来航を受けた江戸湾防衛として「相州警備」を江戸幕府から命じられたが、助右衛門は、1854年(安政元年7月)に警備の一員として派遣されることとなり、海防の現場に就いた[1]

同年、吉田松陰が肥後(熊本)を訪れた際、横井小楠や萩昌国の矢嶋源助(横井門下の高弟)と会った際、助右衛門も松陰と面談した[1][2]

1855年(安政2年)、池部啓太に従い長崎海軍伝習所で学ぶ[1]

1857年(安政4年7月)、砲術研究のため江戸に行くように命じられた池部に従い、太田黒亥和太を含め3名で江戸へ向かう。江戸滞在中、蘭学者の川本幸民に入門したと思われる[1]

1859年(安政6年5月)、池部とともに肥後(熊本)へ帰国[1]

1861年(文久元年7月)、再び池部ら三人とともに砲術修得のために長崎に遊学し、長崎海軍伝習所で学ぶ。これは佐賀藩が引き続きオランダ人から海軍伝習を受けていることを知った池部が自ら参加を希望し、助右衛門を引き連れ遊学したものであった[1]

1862年(文久2年)に、長崎でグイド・フルベッキから聖書をもらう[1]

1863年(文久3年)、荘村は大砲、火薬の研究の必要性を家老に建策し、またも長崎へ遊学した。この時、幕末期に幕府御用の軍需品製造に従事した武蔵国川口の増田弥曽六(八十六)を熊本へ呼び、長崎に帯同している[1]

1863年(文久3年)8月、に、長崎で知り合いの日本人からチャニング・ウィリアムズ立教大学創設者)を紹介され、立教大学の源流となるウィリアムズの私塾で学んだ。2週間毎晩のように私塾に来ては漢訳聖書を読んだ。その後、荘村は、熊本に戻ることなるが、ウィリアムズが持っていた書籍や小冊子の写し、宗教書を持って帰った。1864年1月以前には、肥後藩の軍事指揮官として、藩士8000名を従える立場となり、ウィリアムズに頼んで兵学書を入手するとともに、長州藩の下関戦争での英米蘭仏四か国側の考えや、アメリカの南北戦争に関する情報を仕入れた[1]。当時、ウィリアムズを訪れる日本人の将校の中には、公式な訪問を避けるために夜間に訪れるなど、秘密裏に情報交換をするものもおり、荘村はそのうちの一人であった[3]

同年、英米蘭仏四か国へ長州攻撃の延期を頼みに長崎を訪れていた勝海舟と、肥後藩の横井小楠の使者として接触した。この時、同じく横井の弟子であった河瀬典次三村市彦とともに、勝へ強力な海軍の建設を説いた横井の著書「海軍問答書」を贈っている[1]

荘村は、軍事司令官として、ウィリアムズのほかにも、トーマス・グラバーとも深い付き合いだっともみられ、グラバーから薩摩が長州が協力関係を結ぼうとする極秘情報を得た。これは1866年(慶應2年1月)に薩長盟約として倒幕にむけ日本が大転換していく情報であった。グラバーは五代友厚とも親しく、薩摩藩と関係を深めていたが、両者と結びついた荘村だったからこそ、得ることができた情報であったと思われる[1]

また、1865年(慶應元年7月27日)に長州藩の伊藤博文桂小五郎(木戸孝允)に送った書簡に、瓜生寅(三寅)と荘村助右衛門が協同していることを伝えており、共にウィリアムズ門下であった瓜生と荘村が長崎にて連携し活動していた。同年10月(旧暦)、瓜生が英国海軍の艦長から聞き取って和訳した越前藩への報告書を、荘村は丸ごと写し取って熊本へ報じ、11月にも、同じく瓜生が翻訳した兵庫開港についての神奈川県発行の英字新聞記事を、荘村が熊本へ送るなど、瓜生の英語力を自由に活用しており、両者は深い関係にあったことが分かっている[1]

1866年(慶應2年)、上海経由で米国に帰国する前のウィリアムズより洗礼を受け、聖公会信徒となった[1][4]

同年9月(旧暦8月)に荘村が作成した書簡には、佐賀藩士の副島種臣大隈重信から得た情報を記しており、副島、大隈とも関係性があったことが分かっている[1]

同年12月31日のアーネスト・サトウ(イギリスの外交官・駐日公使)の日記では、グラバーと夕食をともにした際、荘村に会い、荘村は日本で再び将軍が出現することはなく、天皇が本来の地位に復帰することになると質問に応え、この時点で肥後藩の海軍士官として、将軍から天皇への主権交代が行われることを正確に見抜いていた[1]

1867年(慶應3年1月21日)には、桂小五郎(木戸孝允)に書状で、肥後藩が第二次長州戦争で長州攻めに加わったことを詫びた[1]

同年5月から、坂本龍馬とともに肥後藩を薩長同盟に参加させようと画策した。この時、龍馬は木戸に書状を送り(旧暦6月1日)、荘村助右衛門と面会するように促し、その理由を海援隊士の石田英吉から内密に口頭で木戸へ伝えた。結果的には肥後藩の同盟参加は実現しなかったものの、荘村はこの時期、長崎だけでなく江戸や京都、大阪、熊本へと駆け回り、活動を続けた[1]

明治維新後は、明治政府の太政官少史となり、太政大臣・三条実美の秘書として政治や社会状況の探索、調査をするなどの諜報活動役を担った[4]。同時に、キリスト教の知識を拡げようとする姿勢を持ち続けた。荘村にとって、キリスト教は西洋文明の根幹をなすものとして捉え、西洋について学ぶ上で理解することは不可欠であるという側面が強かったと思われる[2][5]

1870年(明治3年)には、省三と改名した[1]

1871年(明治4年)、後藤新平が荘村の門番兼雑用役(食客)を務めるが、客人に新平を「奥羽の朝敵の子」と紹介され、新平は怒って翌年1月に帰郷している[6]

教育者として[編集]

長崎では、肥後藩の遊学者の監督(藩子弟の教育総監)も務めていた[2]

海外新聞の定期購読[編集]

荘村は、1864年7月31日(元治元年6月28日)に浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ)が創刊した日本で最初の民間邦字新聞とされる「海外新聞[注釈 1]を定期購読していたことで知られている[1]


脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 日本の新聞の始まりは、江戸時代以前から存在していた「瓦版」とされるが、近代的なジャーナリズムとしての日本初の邦字新聞は1862年(文久2年)正月に幕府が公刊した『官板バタビヤ新聞』とされる[7][8]
    日本初の民間邦字新聞は、浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ)が発行した『海外新聞』とされ、横浜に入港する英国船などがもたらす新聞から得た海外情報を、ジョセフ・ヒコが翻訳して岸田吟香本間潜蔵(清雄)らが日本文で記したもので、慶応元年(1865年)5月から翌2年12月まで26号発行された[9][10]
    日本初の邦字日刊新聞は、1871年(明治3年)に創刊された『横浜毎日新聞』とされる[7][11]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 中島一仁「日本における聖公会初の受洗者・荘村助右衛門 : その人物像とウィリアムズとの交友をめぐって」『立教学院史研究』第16号、立教大学立教学院史資料センター、2019年、2-20頁、doi:10.14992/00018017ISSN 1884-1848NAID 120006715214 
  2. ^ a b c d 松平信久『ウィリアムズ主教の生涯と同師をめぐる人々』第5回すずかけセミナー 2019年11月28日
  3. ^ Welch, Ian Hamilton (2013-12-11). “The Protestant Episcopal Church of the United States of America, in China and Japan, 1835-1870. 美國聖公會 With references to Anglican and Protestant Missions”. ANU Research Publications 1. https://hdl.handle.net/1885/11074. 
  4. ^ a b 世界宗教用語大辞典(中経出版)しょうむらすけえもん【荘村助右衛門】
  5. ^ 大日方 純夫 『維新政府の密偵たち』 吉川弘文館 2013年9月20日
  6. ^ 藤原書店 『後藤新平 略年譜』
  7. ^ a b 国立国会図書館『日本初の〇〇新聞』2022年7月11日
  8. ^ 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)『官板バタビヤ新聞』- コトバンク
  9. ^ 日本新聞博物館『初の民間邦字紙の創始者 ジョセフ・ヒコ<日本名:浜田彦蔵(はまだ・ひこぞう)>』
  10. ^ ニッポン旅マガジン『新聞誕生の地』
  11. ^ 東建コーポレーション株式会社・メディアポ『日本の新聞のはじまり』