花房直三郎
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花房 直三郎(はなぶさ なおさぶろう、安政4年11月3日[1](1857年12月18日) - 大正10年(1921年)10月16日[2])は、日本の統計学者、内閣官僚。法学博士。
目次
経歴[編集]
岡山藩士花房端連の三男として岡山に生まれる[1]。東京に出てドイツ語を学んだ後、太政官御用掛となった[1]。その後、外務省に転じ、お雇い外国人ヘルマン・ロエスレルの通訳を務め、ロエスレルから法学・経済学を学び、特に統計学の研究に打ち込んだ[1][2]。のち伊藤博文の知遇を得、伊藤が枢密院議長のときは枢密院書記官となり、第2次伊藤内閣が成立すると内閣総理大臣秘書官に就任した[1]。その後、内閣統計局長に昇進し、人口調査の方法に改良を加え、官庁の発行する統計書類の刷新を図った[3]。1916年(大正5年)に退官[4]。
また、統計局長在任中の1899年(明治32年)、国際統計協会正会員に選出され、1906年(明治39年)にはベルギー中央統計委員に選出された[5]。1908年(明治41年)、法学博士号を授与された[5]。1914年(大正3年)にはアメリカ合衆国統計協会名誉会員に推薦された[5]。
統計局長退任後も内閣統計局顧問を務め[1]、1918年(大正7年)12月16日には錦鶏間祗候となった[5][6]。1920年(大正8年)に国勢院が新設されると参与を務め、第1回国勢調査の準備にあたった[5]。
また論文を投稿するなど東京統計協会・統計学社の両統計団体に貢献した[2][5]。
栄典・授章・授賞[編集]
- 位階
- 1886年(明治19年)7月8日 - 正七位[7][8]
- 1891年(明治24年)12月5日 - 従六位[7][9]
- 1894年(明治27年)2月28日 - 正六位[10]
- 1896年(明治29年)9月21日 - 従五位[11]
- 1898年(明治31年)12月10日 - 正五位[12]
- 1903年(明治36年)12月26日 - 従四位[13]
- 1908年(明治41年)12月26日 - 正四位[14]
- 1913年(大正2年)12月27日 - 従三位[15]
- 1916年(大正5年)4月21日 - 正三位[16]
- 勲章等
- 1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[17]
- 1895年(明治28年)10月31日 - 勲五等双光旭日章[18]
- 1903年(明治36年)6月26日 - 勲三等瑞宝章
- 1907年(明治40年)2月11日 - 旭日中綬章
- 1911年(明治44年)6月28日 - 勲二等瑞宝章
親族[編集]
脚注[編集]
- ^ a b c d e f 『大正人名辞典』p.1300
- ^ a b c 『岡山市史』pp.3862-3863
- ^ 『大正名家録』ハの部 p.41
- ^ 『官報』第1105号、大正5年4月11日。
- ^ a b c d e f 『大日本博士録』法博 pp.119-120
- ^ 『官報』第1912号、大正7年12月17日。
- ^ a b 『花房直三郎』 アジア歴史資料センター Ref.A06051166300
- ^ 『官報』第908号「叙任及辞令」1886年7月12日。
- ^ 『官報』第2532号「叙任及辞令」1891年12月7日。
- ^ 『官報』第3199号「叙任及辞令」1894年3月1日。
- ^ 『官報』第3972号「叙任及辞令」1896年9月23日。
- ^ 『官報』第4636号「叙任及辞令」1898年12月12日。
- ^ 『官報』第6148号「叙任及辞令」1903年12月28日。
- ^ 『官報』第7653号「叙任及辞令」1908年12月28日。
- ^ 『官報』第427号「叙任及辞令」1913年12月29日。
- ^ 『官報』第1115号「叙任及辞令」1916年4月22日。
- ^ 『官報』第1943号「叙任及辞令」1889年12月18日。
- ^ 『官報』第3704号「叙任及辞令」1895年11月1日。
参考文献[編集]
- 原田道寛『大正名家録』二六社編纂局、1915年。
- 五十嵐栄吉『大正人名辞典』東洋新報社、1917年。
- 井関九郎『大日本博士録 第壱巻』発展社、1921年。
- 『岡山市史 第五』岡山市役所、1938年。