久坂玄瑞

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久坂 玄瑞
Genzui Kusaka.jpg
生年: 天保11年(1840年5月
生地: 日本の旗 長門国
没年: 元治元年7月19日1864年8月20日)(満24歳没)
没地: 日本の旗 山城国 京都
活動: 尊皇攘夷
藩: 長州藩
久坂玄瑞之墓、同じ長州藩高杉晋作の墓のすぐ横にある、霊山護国神社、京都市左京区

久坂 玄瑞(くさか げんずい)は、幕末長州藩士。幼名は秀三郎、は通武(みちたけ)、通称は実甫、誠、義助(よしすけ)。妻は吉田松陰の妹、。長州藩における尊王攘夷派の中心人物。栄典正四位1891年)。

経歴[編集]

幼少年期から藩医になるまで[編集]

天保11年(1840年長門国萩平安古(ひやこ)本町(現・山口県萩市)に藩医久坂良迪、富子の三男・秀三郎として生まれる(二男は早世している)[1]。幼少の頃から城下の私塾の吉松塾四書の素読を受けた(この塾には高杉晋作も通っていた)[2]。ついで藩の医学所・好生館に入学したが、14歳の夏に母を亡くし、翌年には兄・久坂玄機が病没した。そして、その僅か数日後に父も亡くし、15歳の春に秀三郎は家族全てを失った。こうして秀三郎は藩医久坂家の当主となり、医者として頭を剃り、名を玄瑞と改めた。17歳の時に、成績優秀者は居寮生として藩費で寄宿舎に入れるという制度を利用して、玄瑞は藩の医学所である「好生館」の居寮生となった。身長は六尺(約180cm)ほどの長身で恰幅がよく、声が大きく美声であった。片目は少しスガメであった[3][4]

九州遊学から松下村塾入門へ[編集]

安政3年(1856年)、玄瑞は兄事する中村道太郎のすすめで九州に遊学。九州各地の著名な文人を訪ね、名勝地を巡りつつ詩作にふける旅に出た。玄瑞がこの旅で作った詩は、のちに『西遊稿』としてまとめている[5]。熊本に宮部鼎蔵を訪ねた際、吉田松陰に従学することを強く勧められた[6]。玄瑞はかねてから、亡き兄の旧友である月性上人から松陰に従学することを勧められており、久坂は萩に帰ると松陰に手紙を書き、吉田松陰の友人の土屋蕭海を通じて届けてもらった[7]

まず玄瑞が松陰に送った手紙の内容は、「弘安の役の時の如く外国の使者を斬るべし。そうすれば、必ず米国は来襲する。来襲すれば、綱紀の緩んだ武士達も覚醒し、期せずして国防も厳重になるであろう」という意見であった[8]。しかし、これに対して松陰は、玄瑞の手紙をそのまま送り返し、その欄外に、「あなたの議論は浮ついており、思慮も浅い。至誠より発する言葉ではない。私はこの種の文章を憎みこの種の人間を憎む。アメリカの使節を斬るのは今はもう遅い。昔の死んだような事例をもとに、現在のまったく違った出来事を解決しようということを思慮が浅いと言うのだ。つまらぬ迷言を費すよりも、至誠を積み蓄えるべきだ。実践を抜きにした言説は駄目だ」と書いて玄瑞の論を酷評した[9]

だが、松陰が玄瑞に痛烈な批判を加えたのは考えがあってのことだった。玄瑞を紹介した土屋への手紙に松陰は、「久坂の士気は平凡ではない。何とか大成させようと思い、力をこめて弁駁しました。これで激昂して反駁してくる勢いがあれば、私の本望です。もし、これでうわべを繕って受け入れたふりをするような人ならば、私の見込み違いであったというべきでしょう。」と玄瑞を試していたのであった[10]。玄瑞は猛然と反駁した。「米英仏が強いことは昔の朝鮮の如きとは比較にならない。米英仏の巨大な戦艦と大砲、鉄砲には我が国は太刀打ちできない。だからといって座して国が亡びるのを待つのは如何なものであろうか。まず守りを固めるべきである。」「あなたの不遜な言説では私は屈しない」「もしあなたがこのような罵詈、妄言、不遜をなす男ならば、先に宮部殿があなたを称賛したのも、私があなたを豪傑だと思ったのも、誤りであったようだ。私は手紙に対して、憤激のあまり拳を手紙に撃ちつけてしまった。」と書いた[11]

松陰はすぐに返事はせずに約1カ月の間をおいて筆を執った。「今や幕府は諸外国と条約を結んでしまった。それがだめだといっても、我が国から断交すべきではない。国家間の信義を失うことは避けなければならない。外国とは平穏な関係を続けながら、我が国の力を蓄え、アジア、中国、インドと手を携えたのちに欧米諸国と対峙すればいい。あなたは一医学生でありながら空論を弄び、天下の大計を言う。あなたの滔々と語る言説はただの空論だ。一つとしてあなたの実践に基づくものはない。すべて空論である。一時の憤激でその気持ちを書くような態度はやめよ。」と返書した[12]

しかし、三度玄瑞は反論の筆を執った。「外国人との交易はどちらを利しているのか」「人心は現状を保つことに汲々としているが、武器はいつ備えるのか。士気はいつ高まるのか。危急存亡について誰が考えているのか」と食い下がった[13]。これに対して松陰の三度目の返信はこれまでとはうってかわって、「あなたが外国の使いを斬ろうとするのを空論と思っていたのは間違いだった。今から米使を斬るようにつとめてほしい。私はあなたの才略を傍観させていただこう。私の才略はあなたにとうてい及ばない。私もかつてはアメリカの使いを斬ろうとしたことがあるが、無益であることをさとってやめた。そして、考えたことが手紙に書いたことである。あなたは言葉通り、私と同じにならないように断固としてやってほしい。もし、そうでないと、私はあなたの大言壮語を一層非難するであろう。」と書いた[14]

松陰は玄瑞に実践を求めたのであったが、玄瑞に米使を斬る手だてはなかった。ここに両者の議論に決着がついた。このやりとりの後しばらくして玄瑞は、翌安政4年(1857年)晩春、正式に松門に弟子入りした。

松下村塾では晋作と共に「村塾の双璧」、晋作・吉田稔麿入江九一と共に「松門四天王」といわれた。松陰は玄瑞を長州第一の俊才であるとし、晋作と争わせて才能を開花させるようつとめた。そして、安政4年(1857年)12月5日、松陰は自分の妹・文を玄瑞に嫁がせた。

尊王攘夷運動[編集]

安政6年(1859年)10月、安政の大獄によって松陰が刑死した。

文久元年(1861年)12月、玄瑞は、松下村塾生を中心とした長州志士の結束を深めるため、一灯銭申合を創った(参加者は桂小五郎、高杉晋作、伊藤俊輔山縣有朋ら24名)。

文久元年頃から玄瑞と各藩の志士たちと交流が活発となり、特に長州、水戸、薩摩、土佐の四藩による尊攘派同盟の結成に向けて尽力し、尊王攘夷運動、反幕運動の中心人物となりつつあった[15]

文久元年の年初から、藩論は、長井雅楽の「航海遠略策公武合体」に傾きつつあり、5月23日、藩主は長井に、朝廷に参内させ攘夷論の朝廷を説得せしめることに成功した。しかし、これに対し玄瑞は以下の観点から反駁した。

一点目は経済の観点から、「今の通商は亡国への道である。売るものがなく、買うばかりの一方的な貿易で年々多くの国幣を失っている。物価は高騰し、国民は塗炭の苦しみの中にある。貿易を盛んにする前に、国産の開発が大いになされなければならない」。

二点目は幕府を助けることのみに終わるという観点から、「最終的には我が国は海外へ出ていかなければならないのはわかっている。先師(松陰)の考えもそうだった。だが、それが幕府を助け天朝を抑えることになってはならない。いずれは万里の外へ航海に乗り出す策を立てねばならないのは当然だ。しかし、今回対馬を占領されており、これだけの凌辱を受けながら、その罪も正さず、頭を垂れて尻尾を振って、航海に乗り出しても武威の高まることはないと思う。先日、佐久間象山を訪ねたが、同じ航海説でも「力を計り勝ちを計る」という考えで、大人物かつ発想に秀でており、戦を恐れて航海を唱える者と同じ土俵で論ずるべきではない」[16]

玄瑞は、長井雅楽に何度を議論を挑み、また、藩主への具申をしたが、藩論は覆ることはなかった。文久元年、公武合体の考えに沿うように和宮の降嫁が実現した。

このような中、玄瑞は、全国の「草莽の志士糾合」に賭けざるを得なくなる。文久2年(1862年)正月14日、坂本龍馬が剣道修行の名目で、武市半平太の書簡を携え、玄瑞との打ち合わせのため萩へ来訪。馬関の豪商白石正一郎と結び、白石宅をアジトにして、薩摩の西郷隆盛、土佐の吉村寅太郎、久留米、筑前の志士たちとも謀議を重ねた。松門の同志は血盟を交わし、桂小五郎は、繰り返し藩主親子、藩の重臣たちに、長井雅楽弾劾を具申し続けた。4月、玄瑞は同志と共に上京し、長井の弾劾書を藩に提出。6月、玄瑞は長井要撃を試みるが襲撃の時機を逸したため、藩に長井への訴状も兼ねて待罪書を提出。京都にて謹慎となる。しかし、桂小五郎らは、攘夷をもって幕府を危地に追い込む考えで、藩主・毛利敬親に対し攘夷を力説し、7月6日、長井失脚に成功した[17]。。

廻瀾條議と解腕痴言[編集]

玄瑞は謹慎中の文久2年(1862年)8月、『廻瀾條議』と名付けた建白書を藩主に上提した。これが藩主に受け入れられ、長州藩の藩論となる。藩論は航海遠略策を捨て、完全に尊王攘夷に変更された(長井は翌年二月自刃を命ぜられた)。また、翌月には、全国の尊攘派同士に向けた実践綱領の書『解腕痴言』を書いた。

廻瀾條議』と『解腕痴言』は、結局、「西洋の強大な武力に屈服する形で開国するのではなく、対等に交渉する気力を奮い起こすべきであり、それによって国力を回復させ、軍備を整えた後、対等な立場で条約締結に及ぶ」という意見であった。これは師松陰の開国的攘夷論を踏まえたものであるが、他方、「攘夷」という主張は、政権を幕府から朝廷へ回復させる倒幕という目的からも有効であると玄瑞は力説した[18][19]

『廻瀾條議』要点(『思想からみた明治維新―「明治維新」の哲学』市井三郎著 講談社学術文庫刊pp.166-167より)

(1)汚名を蒙って処刑された吉田松陰の遺骸を改葬して、その「忠烈節義」「殉国の志」を顕彰し、藩内で誰の意見が正しくまた邪であったかをはっきりさせること。

(2)安政五年の修好通商条約をはじめ幕府の怯懦な方策により、日本が将来植民地同様となる危機が生じており、その責任を負うべき井伊直弼以下の閣僚はさらに安政の大獄という暴虐の責めをも負うべきで、厳罰に処さねばならない。

(3)下田の和親条約までは良く、安政五年の条約はすべて下田の条約にまで引き戻し、外国貿易は長崎、下田、函館の三港に限ること。

(4)安政五年の条約は違勅の大罪をも犯しており、「大義をもって論ぜば」幕府を「誅戮殲滅」させてもいいのだが、朝廷が「ご寛容」に将軍の過誤を改める機会を与えられたのだから、「長薩二藩」が「督責」して条約に関する処罰や下田条約への引き戻しをさせねばならない。

(5)朝廷に「御政事所」を設け、ちくいち重要政務を幕府から奏聞させ、また、「御親兵」を置くなどして、ゆくゆくは「天下の御威権」を「朝廷に帰」すべきだが、ものごとには順序が大切であり、まず先の項(4)を実現するようにもってゆき、もし「承服つかまつらず」は、「決闘死戦と御勇決猛断」をなされねばならない。

以上をなして、諸外国の様子を洞観し、海軍を充実させ士気を高めて積極的海外に雄飛せよ。

同年9月、謹慎を解かれた玄瑞は、早速活動を開始。薩長土三藩有志の会合に出席し、攘夷御下命の勅使を激励する決議をなした。また、9月末には土佐の坂本龍馬福岡孝弟らと会い、三藩連合で近衛兵を創設する件を議した。10月、玄瑞は桂小五郎とともに、朝廷の尊王攘夷派の三条実美姉小路公知らと結び、公武合体派の岩倉具視らを排斥して、朝廷を尊攘化した。そして同年10月、幕府へ攘夷を督促するための勅使である三条実美・姉小路公知と共に江戸に下り、幕府に攘夷の実行を迫った。これに対し、将軍・徳川家茂は翌年上京し返答すると勅旨を受け取った。

イギリス公使館焼き討ち[編集]

江戸に着いた玄瑞は晋作と合流した。晋作は外国人襲撃を画策していたが、玄瑞は「そのような無謀の挙をなすよりも、同志団結し藩を動かし、正々堂々たる攘夷を実行するべき」と主張し、晋作と斬るか斬られるかの激論となった。それを井上聞多が巧く裁き、結局、玄瑞も受け入れ長州藩志士11名が襲撃を決行することとなった[20]。しかし報せを聞いた長州藩世子・毛利定広や三条実美らの説得を受け中止に終わった。だがその後11名の志士は、御楯組を結成し血盟した。ちなみにその趣意精神を記した「気節文章」は玄瑞が書いたものである。そして12月、彼らは品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを実行した。

下関戦争と光明寺党、奇兵隊[編集]

文久2年12月、玄瑞は再び佐久間象山を訪ねるため、水戸を経て信州に入った。象山を長州藩に招聘するためだったが、象山は辞退した。しかし象山は、玄瑞を数日滞在させて助言を与える。翌文久3年の正月に、この助言を藩主に詳しく説明したところから、伊藤俊輔、井上聞多らの藩費によるイギリス留学が実現した[21]

文久3年(1863年)1月27日に京都翠紅館にて各藩士と会合。2月21日には朝廷の攘夷決定にもかかわらず幕府が因循しているのため、玄瑞は関白鷹司輔煕の邸に推参し建白書を提出し、攘夷期限の確定を求めた。また、京都藩邸御用掛として攘夷祈願の行幸を画策した。これらが実現し、朝廷の指導権は長州が握ることとなった。

幕府は朝廷に御親兵をおくこと、攘夷期限を定めることを認めざるを得なくなり、3月には幕府より奉勅攘夷の決定が列藩に布告され、4月には攘夷期日を5月10日とする勅令が発せられた。

4月25日、玄瑞は帰藩し、5月10日に関門海峡を通航する外国船を砲撃する準備を整えるため、50人の同志を率いて馬関の光明寺を本陣とし、光明寺党を結成した。光明寺党は、他藩の士や身分にとらわれない草莽の士を糾合したものであり、その行動は藩意識を超脱したものだった。これを長州藩の玄関たる馬関の地で実行した[22]

この光明寺党が後の奇兵隊の前身となる。玄瑞は公卿中山忠光を首領として、久留米藩の真木和泉も加え、士卒の意気を高めた。5月10日から外国船砲撃を実行に移した(外国艦船砲撃事件)。

アメリカ商船「ベンブローク」、フランス軍艦「キャンシャン」、オランダ艦「メデューサ」への攻撃を行ったが、長州藩の砲台は、旧式の青銅砲であり、射程が短く、海峡の反対側を通る船舶には弾が届かないことが判明したため、玄瑞は、かつて松陰が書いた『水陸戦略』の「海戦は奇なり、陸戦は正なり、・・・・夜中など賊船に潜み近づき、船腹を打ち貫き候様の術、・・・」に倣い、夜中に船で近づいて攻撃するという戦法を実行した[23]

この戦いで、長州藩の海防上の問題(旧式の青銅砲は射程が短く、外国間の報復攻撃の際に、門司側が無防備では十分な反撃ができないということ)が明らかになった。また、5月20日に朝廷の攘夷急進派の中心人物で長州藩の最も重要な後ろ盾であった姉小路公知国事参政が薩摩藩の田中新兵衛に暗殺された。そのため藩は、5月28日、朝廷へのパイプの太い玄瑞を、朝廷への攘夷報告と対岸の小倉藩の協力要請のための使者に伴わせて京都に向かわせた[24]

6月1日、玄瑞ら長州藩は朝廷に攘夷の報告をし、朝廷から藩主への褒め詞を賜った。3日には、朝廷から各藩への攘夷趣旨貫徹の下達を請願した。朝廷は、5日に小倉藩へ通達。6日には列藩に対しても攘夷の趣旨が伝えられた。

攘夷実行と同時に起きた京都政界の急変に対応するため、入江九一を除き、光明寺党の中核をなしていた玄瑞、寺島忠三郎吉田稔麿野村靖ら松下村塾の門人たちは、皆、京都、山口、馬関の間を駆け巡らなければならなくなった[25]

玄瑞が京都へ東上した頃、光明寺党の幹部と真木和泉、中山忠光白石正一郎らが話し合い、新しい隊を結成することとなった。光明寺党を基として、足軽、農民、町人、工匠等の希望者を募って、隊づくりが進行した[26]

しかし、玄瑞が京都で政治活動中の6月1日、5日に長州藩は、アメリカ艦、フランス艦から報復攻撃を受け、長州藩軍艦二隻が撃沈、砲台が破壊され、寺、民家を焼かれた。玄瑞不在の代理として藩は6月5日、討幕挙兵を唱えて謹慎中であった高杉晋作に馬関防衛を命じ、6月6日、晋作は現地に赴任し、奇兵隊の総管となった。『奇兵隊日記』によると、光明寺党が奇兵隊へ名称変更したのは、晋作が着任以前のことであることがわかる[27]

八月十八日の政変から禁門の変(蛤御門の変)へ[編集]

(戦闘に至る経過・詳細等は「禁門の変」項目参照)

玄瑞は『解腕痴言』において、『幕府が攘夷の勅旨を受けながら、「優柔不断 挙を」なさぬときは、「回天の御良策」として(外国と幕府への)「御親征」あおぐ』と記していた[28]が、真木和泉は、「攘夷の難題を以て、幕府に迫り、この攘夷の大詔を実行できない罪を正すために幕府を討伐する」という、「御親征」と「倒幕」の「名分を立てる」ための攘夷実行を長州藩主に具申した[29]

それらの考えに基づき、長州藩は朝廷に攘夷御親征の建白書を提出し、文久3年(1863年)8月13日、三条実美ら長州派公卿の尽力により、「大和行幸、御親征」の詔勅が発せられた。

しかし、幕府は長州の独断攘夷を問題視し、大和御幸の密謀を察知すると、会津、薩摩、中川宮朝彦親王ら公武合体派公卿らと提携し、長州藩をはじめとした急進尊攘派の動きを封ずる挙に出た。これが、八月十八日の政変であり、攘夷親征の延期、長州派公卿の更迭が行われた。

長州藩は、宮門警衛の任を解かれ、禁裏への出入りを禁じられ、これにより公武合体派が天下を圧する時期が再び到来した。なお、このクーデターの背後には、孝明天皇の「攘夷は希望するが、倒幕には反対する」という考えがあった[30]

この情勢のなか玄瑞は政務座役を仰せつけられ、藩の要職として後事を策するため、京都詰めを命じられた。その間、三条実美真木和泉来島又兵衛らの唱える「武力をもって京都に進発し長州の無実を訴える」という進発論を、桂小五郎らと共に押し止めていた。

しかし玄瑞は、元治元年(1864年)4月、薩摩藩島津久光福井藩松平春嶽宇和島藩伊達宗城らが京都を離れたのを機会と捉え、急遽、進発論に転じ、長州藩世子・毛利定広の上京を要請した。

6月4日、長州にて進発令が発せられた。また、池田屋事件の報が国許に伝わると、藩は上下を挙げて激発したとされている。玄瑞は来島又兵衛や真木和泉らと諸隊を率いて東上した。

6月24日、玄瑞は長州藩の罪の回復を願う「嘆願書」を起草し、朝廷に奉った。この段階では長州藩に同情し、寛大な措置を要望する他藩士や公卿も多かったが、7月12日に薩摩藩兵が京に到着すると形勢が変わってきた。また、その頃幕府は諸藩に令を下し、京都出兵を促していた。

7月17日、男山八幡宮[要曖昧さ回避]の本営で長州藩最後の大会議が開かれた。

大幹部およそ20人ほどが集まった。玄瑞は朝廷からの退去命令に背くべきではないとして、兵を引き上げる案を出したが、来島又兵衛は「進軍を躊躇するのは何たる事だ」と詰め寄った。玄瑞は「今回の件は元々、君主の無実の罪をはらすために、嘆願を重ねてみようということであったはずで、我が方から手を出して戦闘を開始するのは我々の本来の志ではない。それに世子君の来着も近日に迫っているのだから、それを待って進撃をするか否かを決するがよいと思う。今、軍を進めたところで、援軍もなく、しかも我が軍の進撃準備も十分ではない。必勝の見込みの立つまで暫く戦機の熟するのを待つに如かずと思うが」と述べ、来島の進撃論と対立した。来島は「卑怯者」と怒鳴り、「医者坊主などに戦争のことがわかるか。もし身命を惜しんで躊躇するならば、勝手にここにとどまっているがよい。余は我が一手をもって、悪人を退治する」と座を去ったとされている。最年長で参謀格の真木和泉が「来島君に同意を表す」と述べたことにより、進撃と決定した。玄瑞はその後一言も発することなくその場を立ち去り、天王山の陣に戻った。

諸藩は増援の兵を京都に送り込んでおり、その数2万とも3万ともされる。対して長州藩は2,000に満たない数の兵力で戦いを挑むこととなった。

蛤御門を攻めた来島又兵衛は会津藩隊と交戦したが、薩摩藩の援軍が加わると劣勢となり、指揮官の来島が狙撃され負傷すると長州軍は総崩れとなった。来島は自害。この時、狙撃を指揮していたのが西郷隆盛だった。

現在の堺町御門

来島隊の開戦に遅れて到着した玄瑞・真木らの隊は、既に来島が戦死し、来島隊らが総崩れとなっていることを知ったが、玄瑞は鷹司輔煕に朝廷への嘆願を要請するため、鷹司邸に近い堺町御門を攻めた。門を守備する越前藩隊を突破できなかったため、隊の兵に塀(生垣)を乗り越えさせて鷹司邸内に侵入して交戦した。玄瑞自身は鷹司邸の裏門から邸内に入った。鷹司邸に入った玄瑞は鷹司輔煕に朝廷への参内に付随し、嘆願をさせて欲しいと要請したが、輔煕はこれを拒絶、玄瑞を振り切り邸から脱出した。越前藩隊は会津藩から大砲を借り受けて表門から邸内を攻めたため、長州兵は各自逃亡を始めた。鷹司邸は既に炎上し始めていたため、玄瑞は共に自刃しようとする入江九一を説得し「如何なる手段によってもこの囲みを脱して世子君に京都に近づかないように御注進してほしい」と後を託した。ただし入江は屋敷を脱出する際に越前兵に見つかり、槍で顔面を刺されて死亡している。

最後に残った玄瑞は寺島忠三郎と共に鷹司邸内で互いに刺し違えて自害して果てた。享年25。

邸宅は炎上した為、玄瑞の遺体は確認されていない、との話がある。入江の首級は変後、福井藩士が松平春嶽に許可を得、同様の戦死者8名と共に福井藩の京の菩提寺である上善寺に手厚く葬られた。その後忘れられていたが、旧福井藩士が毛利家に連絡した為、明治三十年代に碑石が修築された。この塚にかつては玄瑞も葬られていた、という話がある。

詩歌等[編集]

義烈回天百首所収[編集]

明治7年(1874年)発行の義烈回天百首には、玄瑞の歌が収録されている。

時鳥 血爾奈く声盤有明能 月与り他爾知る人ぞ那起

(ほととぎす ちになくこえは ありあけの つきよりほかに しるひとぞなき)

自警六則[編集]

安政6年(1859年)5月 恩師・吉田松陰が江戸に護送される直前に、自らの志を立てた『自警六則

  • 明らかに苟偸(こうとう)の愧ずべきを見、審に節義の貴ぶべきを見よ。しかして苟温偸飽すること、日また一日ならば、ついに席蓐の上に老死し、寸義尺節あることなけん。これ粘滞に座し勇断乏しきのみ。
  • 旦に夕を圖らず、日に月を謀らず、茫乎として向かう所を知るなきは、これ大いに慚(は)づべきこと也。
  • 今我にして没するも なお一好人たるを失はず。然れども今これ生くる也。袖手高拱するは、ただ朋友・士夫の間に愧づべきのみならず、天地萬世、我はた如何せん。
  • 吾が性軟弱、胸狭く膽小、深く看みるに為すあるに足らざる者。然れども自棄して以って為すに足らずとなして敢て為さざるは、即ち為すあるに足らざらんと意(おも)ふなり。
  • 頃者(このごろ)、士大夫の挙止を観じ、大いに唾し、而してこれを罵れり。然れども我もまた因循に安んぜば、即ち他人より之れを観ば均しくこれのみ、亦すこぶる愧づべき也。
  • 再延年、剣を按じて、霍光、功を遂げたり。張(張良椎秤を華にし、晋氏、志を決す。我敢為に乏しく、常にその按劍椎秤の無きものを恨むのみ。

巳未五月、暮、匇々として書す。

御楯武士[編集]

文久2年(1862年)3月 久坂玄瑞が尊王の思いを綴った数え歌

一つとや、卑き身なれど武士は、皇御軍の楯じゃな、これ御楯じゃな。
二つとや、富士の御山は崩るとも、心岩金砕けやせぬ、これ、砕けやせぬ。
三つとや、御馬の口を取直し、錦の御旗ひらめかせ、これ、ひらめかせ。
四つとや、世のよし悪しはともかくも、誠の道を踏むがよい、踏むがよい。
五つとや、生くも死ぬるも大君の、勅のままに随はん、なに、そむくべき。
六つとや、無理なことではないかいな、生きて死ぬるを嫌ふとは、これ、嫌ふとは。
七つとや、なんでも死ぬる程なれば、たぶれ奴ばら打倒せ、これ、打倒せ。
八つとや、八咫の烏も皇の、御軍の先をするじゃもの、なに、をとるべき。
九つとや、今夜も今も知れぬ身ぞ、早く功をたてよかし、これ、おくれるな。
十とや、遠つ神代の國ぶりに、取つて返せよ御楯武士、これ、御楯武士。

人物評[編集]

吉田松陰による評[編集]

久坂玄瑞は防長に於ける年少第一流の人物で、無論また天下の英才だ。

安政4年(1857年)12月5日
「文妹の久坂氏へ嫁ぐに贈る言」

久坂玄瑞は年こそ若いが、志はさかんで気魄も鋭い。しかも、その志気を才で運用する人物である。僕はかねてから、長州藩の若手中では、君を第一流の人物であると、つねに、推奨してきた。今、京都をすぎて江戸にゆこうとしている。すでに、世の中は大変革する兆候があらわれている。君は僕たち仲間の中心人物である。僕は、君の出発にあたって、君に非常の言葉を贈りたい。京都や江戸には、この大変革ととりくむ英雄豪傑が大勢いる。ゆえに、君は、彼らと大いに論じて、何をし、何をすべきかをはっきり見定めて、日本のゆくべき道をあきらかにしてほしい。それができないで、僕が第一流の人物と推奨してきた言葉を単なる私見におわらせるようなことがあれば、君は、天下の有志に対して、大いに恥ずべきである。

安政5年(1858年)2月
「久坂玄瑞の壮行を祝して」[31]

僕はかつて同志の中の年少では、久坂玄瑞の才を第一としていた。その後、高杉晋作を同志として得た。晋作は識見はあるが、学問はまだ十分に進んでいない。しかし、自由奔放にものを考え、行動することができた。そこで、僕は玄瑞の才と学を推奨して、晋作を抑えるようにした。そのとき、晋作の心ははなはだ不満のようであったが、まもなく、晋作の学業は大いに進み、議論もいよいよすぐれ、皆もそれを認めるようになった。玄瑞もそのころから、晋作の識見にはとうてい及ばないといって、晋作を推すようになった。晋作も率直に玄瑞の才は当世に比べるものがないと言い始め、二人はお互いに学びあうようになった。僕はこの二人の関係をみて、玄瑞の才は気に基づいたものであり、晋作の識は気から発したものである。二人がお互いに学びあうようになれば、僕はもう何も心配することはないと思ったが、今後、晋作の識見を以て、玄瑞の才を行っていくならば、できないことはない。晋作よ、世に才のある人は多い。しかし、玄瑞の才だけはどんなことがあっても失ってはならない。

安政5年(1858年)7月
「高杉晋作の上京にあたっての壮行の辞」[31]

木戸孝允による評[編集]

時の急務を知ることは俊傑の天に負う責であり、大義を堅持することは剛者にして初めて可能である。そして、世にこの種の人はまことに稀だ。亡友久坂玄瑞は、幼少より学を好み、剛勇な気性際立って優れ、如何なる場合も俗見に随わず、慨然として天下の志を有していた。しばしば常武・京摂の間を往来して数多の志士に交わったが、それはみな当世の魁傑、ともに時事を討論し、献替して憚るところがなかった。わが長州藩で早くから気骨を高めたのは吉田松陰の徒を第一とするが、実際運動に身を挺せること久坂玄瑞に如く者は一人もいない。ゆえに吉田松陰没して後、玄瑞の風を聞いて意気を奮い起す者すこぶる多かった。時の急務を知る者にあらざれば、いかでかくの如くあり得よう。元治甲子京都の変の時、玄瑞は鷹司卿に謁見し、ある事を請うた。たまたま敵軍大いに迫ったけれども、玄瑞は少しもたじろがず、諄々として大義を説いて止まなかった。ついに用いられぬと知って初めて去り、衆とともに敵を衝いて快戦したが、身に重傷を負ってやむなく退き、自刃した。まさに死なんとして、衆を顧みながら、「僕はこれまでだ、諸君は大いに勉めてくれよ」と云い、あたかも窮迫の様子がなかった。大義を持する者にあらざればかくの如くにありえまい。世に文筆学問の徒は少しとしない。けれども徒に概念の詮索に没頭し、世務の何ものなるかを知らなかったり、名利に汲々として図書の間に老うる者ばかり多い。義勇の士もまた決して少なしとしないが、或るものは暴虎馮河して快とし、或るものは血気にはやって敢えて危険を冒す。玄瑞の如きはこれ等と相去ること大いに遠かった。これを俊傑といい剛者と称するに間違いはなかろう。玄瑞は死んだとき二十五歳であった。惜しいかな。彼をなお世にあらしめ、ますますその志すところを尽くさしめたら、成就するところ現在の如きにとどまらなかったであろうが。この頃、楫取素彦が久坂の遺稿を上梓しようとして、余に序を求めた。引き受けて遺稿を読んで見れば、正気紙面に満ち、光焔凛然、その人なお在るが如くに覚え、巻に対して忸怩たること久しうした。

「久坂實甫遺稿」[32]

西郷隆盛による評[編集]

お国の久坂先生が今も生きて居られたら、お互いに参議だなどと云って威張っては居られませんがなア。

明治維新後、木戸孝允に対して」[32]

坂本龍馬に託した書状[編集]

平成22年(2010年4月12日NHK大河ドラマ龍馬伝』の放送で坂本龍馬はじめ維新志士らへの関心が高まっている中、土佐山内家宝物資料館が、久坂玄瑞が文久2年(1862年)、を訪れた龍馬に託した武市半平太宛ての書状を、報道陣に公開した。

その書状の内容はおおよそ以下の通り。玄瑞の「諸候たのむに足らず、公卿たのむに足らず、草莽志士糾合義挙のほかにはとても策これ無き事」「尊藩(土佐藩)も弊藩(長州藩)も滅亡しても大義なれば苦しからず」という考えが、龍馬の脱藩に影響したと言われている[33] [34]坂本龍馬は2月末に土佐に戻り3月24日に脱藩した)。

草莽志士糾合義挙のほかにはとても策これ無き」とは吉田松陰の唱えた「草莽崛起論」が基になっている。

その後はいかがなせられます候や、こないだは山本、大石君ご来訪下せられ、何ら風景もこれ無く、お気の毒千萬存じ奉り候。最早、ご帰国ならんと御察しつかまつり候。この度、坂本君お出むきあらせられ、腹蔵無くご談合つかまつり候頃、くわしくはお聞取り願い奉り候。結局、諸候たのむに足らず、公卿たのむに足らず、草莽志士糾合義挙のほかにはとても策これ無き事と、私ども同志うち申し合いおり候事に御座候。失敬ながら、尊藩(土佐藩)も弊藩(長州藩)も滅亡しても大義なれば苦しからず。両藩共存し候とも、恐れ多くも皇統綿々、萬乗の君のご叡慮相貫き申さずしては、神州に衣食する甲斐はこれ無きかと、友人共申し居り候事に御座候。ついては坂本君に御申談つかまつり候事ども、あつく御熟考下さるべく候。もっとも沈察を尊ぶは申すまでもこれ無く候。樺山三円よりは此内書状来る、彼藩も大に振い申し候よし。友人を一両のうちにつかわすつもりに御座候。様子次第、尊藩へも差出し申すべくと存じ申し候。何も坂本様より御承知ならんと草々乱筆推読、これ祈り敬白。

子孫[編集]

久坂玄瑞と妻のとの間に子はいない。そのため、小田村伊之助と先妻の寿(文の姉)との間の次男・粂次郎を養子とし、玄瑞の死後は粂次郎が久坂家を継いだ。しかし、玄瑞は京都で芸妓との間に子をもうけており、玄瑞の死後に生まれていた。明治維新後に申し出があって認知され、この遺児・秀次郎が久坂家を継いだ。大倉組の台湾基隆支社で勤務していた。なお、今日よく知られる玄瑞の肖像画は、秀次郎をモデルに描かれている。粂次郎は実父の小田村伊之助改め楫取素彦のもとに戻り、楫取道明を名乗って楫取家を継いだ。のちに道明は台湾で芝山巌事件に遭って殺害され、「六氏先生」の一人として祀られている。なお、道明の生母・寿の死後に素彦は文と再婚している。

関連作品[編集]

テレビドラマ

脚注[編集]

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  1. ^ 『花冠の志士-久坂玄瑞伝-』古川薫著 文芸春秋刊 1979年 p.5
  2. ^ 『久坂玄瑞』武田勘治著 マツノ書店刊 p.14
  3. ^ 『久坂玄瑞』武田勘治著 マツノ書店刊 p.17
  4. ^ 『花冠の志士-久坂玄瑞伝-』古川薫著 文芸春秋刊 1979年 p.16
  5. ^ 『久坂玄瑞』立石優著 PHP文庫刊 2015年 p.44
  6. ^ 『久坂玄瑞』立石優著 PHP文庫刊 2015年 p.46
  7. ^ 『久坂玄瑞』武田勘治著 マツノ書店刊 p.30
  8. ^ 『久坂玄瑞』武田勘治著 マツノ書店刊 p.32
  9. ^ 『久坂玄瑞』武田勘治著 マツノ書店刊 pp.33-35
  10. ^ 『久坂玄瑞』武田勘治著 マツノ書店刊 p.35
  11. ^ 『久坂玄瑞』武田勘治著 マツノ書店刊 pp.37-38
  12. ^ 『花冠の志士-久坂玄瑞伝-』古川薫著 文芸春秋刊 1979年 pp.36-37
  13. ^ 『久坂玄瑞』立石優著 PHP文庫刊 2015年 pp.76-77
  14. ^ 『久坂玄瑞』武田勘治著 マツノ書店刊 pp.46-47
  15. ^ 『久坂玄瑞』武田勘治著 マツノ書店刊 pp.163-175
  16. ^ 『久坂玄瑞』武田勘治著 マツノ書店刊 pp.196-199
  17. ^ 『思想からみた明治維新―「明治維新」の哲学』市井三郎著 講談社学術文庫刊 p.165
  18. ^ 『日本の思想家50 高杉晋作 久坂玄瑞』林田愼之助, 亀田一邦著 明徳出版社刊 pp.237-244
  19. ^ 『思想からみた明治維新―「明治維新」の哲学』市井三郎著 講談社学術文庫刊 pp.165-171
  20. ^ 『花冠の志士-久坂玄瑞伝-』古川薫著 文芸春秋刊 1979年 pp.168-169
  21. ^ 『思想からみた明治維新―「明治維新」の哲学』市井三郎著 講談社学術文庫刊 p.170
  22. ^ 『奇兵隊』長文連著 三一新書刊 p.56
  23. ^ 『奇兵隊』長文連著 三一新書刊 pp.15-16
  24. ^ 『奇兵隊』長文連著 三一新書刊 pp.83-84
  25. ^ 『奇兵隊』長文連著 三一新書刊 p.110
  26. ^ 『奇兵隊』長文連著 三一新書刊 p.91
  27. ^ 『奇兵隊』長文連著 三一新書刊 pp.85-88,102-104
  28. ^ 『思想からみた明治維新―「明治維新」の哲学』市井三郎著 講談社学術文庫刊 p.175
  29. ^ 『久坂玄瑞』武田勘治著 マツノ書店刊 p.328
  30. ^ 『思想からみた明治維新―「明治維新」の哲学』市井三郎著 講談社学術文庫刊 p.176
  31. ^ a b 『高杉晋作と久坂玄瑞』池田論著 大和書房
  32. ^ a b 『久坂玄瑞』武田勘治著 マツノ書店
  33. ^ 飛鳥井雅道『坂本龍馬』講談社〈講談社学術文庫〉、2002年5月10日発行(140-141ページ,147-148ページ)
  34. ^ 『幕末・維新』新星出版社2009年11月15日発行(105ページ)

参考文献[編集]

  • 高杉晋作と久坂玄瑞―変革期の青年像 (1972年)
  • 久坂玄瑞全集 (1978年)
  • 高杉晋作と久坂玄瑞―変革期の青年像 (1966年)
  • 高杉晋作と久坂玄瑞
  • 花冠の志士―小説久坂玄瑞
  • 久坂玄瑞文書 (1983年)
  • 久坂玄瑞の精神 (1943年)
  • 花冠の志士―久坂玄瑞伝 (1979年)
  • 奇兵隊 死士・久坂玄瑞 (1965年)
  • 日本の思想家50 高杉晋作 久坂玄瑞 (2012年)
  • 久坂玄瑞の妻 (2014年)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]