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三条実量

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
三条 実量
時代 室町時代前期 - 後期
生誕 応永22年(1415年
死没 文明15年12月19日1484年1月17日
改名 実尚→実教→実量→禅空(法名)
別名 後三条左大臣、後三条入道左大臣、三条禅左府
官位 従一位左大臣
主君 後花園天皇後土御門天皇
氏族 三条家
父母 父:三条公冬、母:水無瀬具景の娘
兄弟 実量水無瀬季兼、実助
正親町三条実雅養女
公敦大炊御門信量、公顕、公助、宗一、冬子水無瀬季兼室、赤松義雅室?
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三条 実量(さんじょう さねかず、応永22年〈1415年〉 - 文明15年12月19日1484年1月17日〉)は、室町時代前期から後期にかけての公卿右大臣三条公冬の子。官位従一位左大臣三条家13代。

経歴

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左近衛中将を経て、永享元年(1429年従三位に叙せられ、公卿に列する。同年、名を実教から実量に改める。

宝徳2年(1450年内大臣に任ぜられる。在任中、嘉吉の乱で討たれた赤松満祐の弟・義雅の遺児千代丸をかくまったが[1]、これは赤松氏が姻戚関係にある三条家を頼ることで赤松氏再興を図るためといわれている[2]

その後、享徳2年(1453年従一位長禄元年(1457年右大臣と昇進。同年、主家再興を図る赤松遺臣らに勧めて、嘉吉3年(1443年)の禁闕の変後南朝勢力に奪われたままだった神璽を奪還し、神璽が京に持ち帰られた際はその取次を担った(長禄の変[3]。長禄3年(1459年左大臣に転じる。

応仁元年(1467年出家し、禅空と改名する。文明15年(1484年)薨去、享年70[4]

人物

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「有職抜群之臣」有職故実に精通していた[5]。「永享百首」に和歌が入集しており、『新続古今和歌集』撰集時は和歌所寄人を務めた。

官歴

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注釈のないものは『公卿補任』による

系譜

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注釈のないものは『尊卑分脈』による。

脚注

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注釈

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  1. 前田家所蔵一本・国立国会図書館支部内閣文庫本では「貞乗院」

出典

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  1. 1 2 古典遺産の会 1985, p. 67.
  2. 加古川市 1994, p. 56.
  3. 赤松記
  4. 1 2 実隆公記』文明15年12月19日条
  5. 十輪院内府記』文明11年7月6日条
  6. 薩戒記』応永27年正月5日条
  7. 薩戒記』応永33年正月6日条
  8. 薩戒記』永享元年1月5日条

参考文献

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  • 加古川市史編さん専門委員 編『加古川市史 第2巻、加古川市、1994年。doi:10.11501/9576744全国書誌番号:95000266https://dl.ndl.go.jp/pid/9576744 
  • 古典遺産の会 編『室町軍記総覧明治書院、1985年。doi:10.11501/12454982全国書誌番号:86019871https://dl.ndl.go.jp/pid/12454982