三条実量
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| 時代 | 室町時代前期 - 後期 |
|---|---|
| 生誕 | 応永22年(1415年) |
| 死没 | 文明15年12月19日(1484年1月17日) |
| 改名 | 実尚→実教→実量→禅空(法名) |
| 別名 | 後三条左大臣、後三条入道左大臣、三条禅左府 |
| 官位 | 従一位、左大臣 |
| 主君 | 後花園天皇→後土御門天皇 |
| 氏族 | 三条家 |
| 父母 | 父:三条公冬、母:水無瀬具景の娘 |
| 兄弟 | 実量、水無瀬季兼、実助 |
| 妻 | 正親町三条実雅養女 |
| 子 | 公敦、大炊御門信量、公顕、公助、宗一、冬子、水無瀬季兼室、赤松義雅室? |
三条 実量(さんじょう さねかず、応永22年〈1415年〉 - 文明15年12月19日〈1484年1月17日〉)は、室町時代前期から後期にかけての公卿。右大臣・三条公冬の子。官位は従一位・左大臣。三条家13代。
経歴
[編集]左近衛中将を経て、永享元年(1429年)従三位に叙せられ、公卿に列する。同年、名を実教から実量に改める。
宝徳2年(1450年)内大臣に任ぜられる。在任中、嘉吉の乱で討たれた赤松満祐の弟・義雅の遺児千代丸をかくまったが[1]、これは赤松氏が姻戚関係にある三条家を頼ることで赤松氏再興を図るためといわれている[2]。
その後、享徳2年(1453年)従一位、長禄元年(1457年)右大臣と昇進。同年、主家再興を図る赤松遺臣らに勧めて、嘉吉3年(1443年)の禁闕の変で後南朝勢力に奪われたままだった神璽を奪還し、神璽が京に持ち帰られた際はその取次を担った(長禄の変)[3]。長禄3年(1459年)左大臣に転じる。
人物
[編集]「有職抜群之臣」と有職故実に精通していた[5]。「永享百首」に和歌が入集しており、『新続古今和歌集』撰集時は和歌所寄人を務めた。
官歴
[編集]注釈のないものは『公卿補任』による
- 応永27年(1420年) 正月5日:正五位下[6]
- 応永33年(1426年) 正月6日:従四位上[7]
- 時期不詳:左近衛中将
- 永享元年(1429年) 正月5日:正四位下[8]。8月30日:従三位(左中将如元、家賞)
- 永享2年(1430年) 正月6日:従二位(越階、左中将如元)
- 永享3年(1431年) 某月某日:越中権守。3月某日:権中納言。7月25日:権大納言(大臣日)
- 永享12年(1440年) 正月6日:正二位
- 文安4年(1447年) 3月24日:右近衛大将
- 宝徳2年(1450年) 6月27日:内大臣(右大将如元)
- 宝徳3年(1451年) 3月某日:辞右大将
- 宝徳4年(1452年) 10月某日:辞内大臣
- 享徳2年(1453年) 正月5日:従一位
- 康正3年(1457年) 6月17日:右大臣(元前内大臣)。某月某日:辞右大臣
- 長禄3年(1460年) 12月8日:左大臣(元前右大臣)
- 長禄4年(1461年) 7月27日:辞左大臣
- 応仁元年(1467年) 10月某日:出家(法名禅空)
- 文明15年(1484年) 12月19日:薨去(享年70)[4]
系譜
[編集]注釈のないものは『尊卑分脈』による。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ↑ 前田家所蔵一本・国立国会図書館支部内閣文庫本では「貞乗院」