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三条実親

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
三条 実親
天子摂関御影』実親公
時代 鎌倉時代初期 - 中期
生誕 建久6年(1195年
死没 弘長3年10月4日1263年11月6日
改名 実親→静円(法名)
別名 白河入道右大臣、三条浄土寺
(号)後三条、浄土寺
官位 従一位右大臣
主君 後鳥羽天皇土御門天皇順徳天皇仲恭天皇後堀河天皇四条天皇後嵯峨天皇後深草天皇亀山天皇
氏族 三条家
父母 父:三条公房、母:中山忠親の長女
兄弟 実親実平有子、実雲、実誉、教深、御匣殿、九条忠家正室、今小路禅尼
西園寺公経の次女
公親公泰公隆公緒公朝、公尊、実円、定敒、奝助、深助、教助、公禅、円禅、公愉、女子
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三条 実親(さんじょう さねちか、建久6年〈1195年〉- 弘長3年〈1263年〉)は、鎌倉時代初期から中期にかけての公卿歌人太政大臣三条公房の長男。官位従一位右大臣三条家5代。白河に邸宅を構えていたため[1]白河入道右大臣(しらかわのにゅうどううだいじん)などと呼ばれた。

経歴

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建久10年(1199年従五位下叙爵建仁2年(1202年従五位上、建仁3年(1203年侍従に任ぜられ、建仁4年(1204年正五位下に叙せられる。

元久2年(1205年右近衛少将に任ぜられる。元久3年(1206年従四位下信濃権介に叙任され、建永2年(1207年)従四位上に昇叙。承元2年12月(1209年1月)には右近衛中将に転じ、承元3年(1209年正四位下、承元5年(1211年従三位に叙せられ公卿に列した。建暦2年(1212年越前権守を兼ね、建保2年(1214年正三位に進む。

建保5年(1217年土佐権守を兼任。建保7年(1219年権中納言に任ぜられ、中宮権大夫を兼帯、承久2年(1220年従二位に叙せられる。承久4年(1222年正二位に昇叙。元仁元年12月(1225年2月)には中納言に転じ、元仁2年12月(1226年1月)さらに大納言に任ぜられた。しかし、貞永元年(1232年)10月より籠居している[2]

嘉禎4年(1238年)右大臣に任命される。仁治元年(1240年)従一位に叙せられるが、翌日上表して辞退した。仁治3年(1242年)正月4日、勘解由小路経光が叙位議にて執筆を務めることになった際、経光は実親の許に参って作法を習う[3]など、経光は数々実親を訪ねており、親交があった。建長5年(1253年)出家、弘長3年(1263年)薨去、享年69。

人物

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続後拾遺和歌集』に和歌1首が入集する[4]

官歴

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公卿補任』による

系譜

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作品

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勅撰集

歌集名 作者名表記 歌数 歌集名 作者名表記 歌数 歌集名 作者名表記 歌数
続後拾遺和歌集 三条右大臣 1 風雅和歌集 新千載和歌集

参考文献

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  • 市古貞次堤精二大曽根章介 ほか 編『国書人名辞典 第2巻、岩波書店、1995年。doi:10.11501/13231583ISBN 4-00-080082-5全国書誌番号:95066871https://dl.ndl.go.jp/pid/13231583 
  • 杉山信三院家建築の研究吉川弘文館、1981年。doi:10.11501/12422335全国書誌番号:81044188https://dl.ndl.go.jp/pid/12422335 
  • 山岸徳平 編『八代集全註 第3巻、有精堂出版、1960年。doi:10.11501/1345688全国書誌番号:60009796https://dl.ndl.go.jp/pid/1345688 

脚注

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  1. 杉山 1981, p. 187.
  2. 序列と年齢が下であった大炊御門家嗣右近衛大将に任ぜられたためと考えられる。実親はついに近衛大将に任ぜられなかったのである。なお、同時期に九条基家徳大寺実基も籠居している。西園寺家台頭、五摂家分立の時期にあって、官位昇進の順序をめぐって不満が生じていたと考えられる。
  3. 民経記仁治3年正月5日条
  4. 山岸 1960, p. 80.
  5. 1 2 尊卑分脈
  6. 国書人名辞典 1995, p. 234.