徳川慶久

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德川慶久
とくがわ よしひさ
Tokugawa Yoshihisa.jpg
背広姿の德川慶久
生年月日 1884年9月2日
出生地 日本の旗 日本 静岡県静岡市
没年月日 (1922-01-22) 1922年1月22日(37歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京府東京市小石川区
(現・東京都文京区小日向)
出身校 東京帝国大学法科大学卒業
(現・東京大学法学部)
所属政党 無所属
称号 正三位
勲三等瑞宝章
正四位
大礼記念章
正五位
配偶者 徳川實枝子
親族 父・徳川慶喜(征夷大将軍・貴族院議員)
兄・徳川厚(貴族院議員)
兄・池田仲博(貴族院議員)
義兄・徳川達孝(貴族院議員)
義兄・蜂須賀正韶(貴族院副議長)
義兄・大河内輝耕(貴族院議員)
義兄・四条隆愛(貴族院議員)
弟・徳川誠(貴族院議員)
義弟・徳川圀順(貴族院議長)
甥・徳川喜翰(貴族院議員)
甥・大木喜福(貴族院議員)
甥・朽木綱博(貴族院議員)

選挙区 公爵議員
在任期間 1910年12月14日 - 1922年1月22日
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德川 慶久(とくがわ よしひさ、1884年明治17年)9月2日 - 1922年大正11年)1月22日)は、日本政治家爵位公爵。周囲の人々からは「けいきゅう様」と呼ばれ親しまれていたという。新字体徳川慶久とも表記される。

貴族院議員第一銀行取締役・華族世襲財産審議会議長などを歴任した。

生涯[編集]

1884年明治17年)9月2日徳川慶喜の七男として静岡市葵区紺屋町の屋敷で生まれる。母は側室新村信。初名は(ひさし)。宮川喜久蔵、次いで黒田幸兵衛のもとに預けられる。1896年(明治29年)8月、妹英子とともに静岡から東京に移り、学習院に入学する。徳川別家の継嗣となるにあたって、1902年(明治35年)6月6日に、父の偏諱をとり慶久と改名した[注釈 1]。1906年(明治39年)7月、学習院高等科を卒業する。

1908年(明治41年)11月8日有栖川宮威仁親王の第二王女・實枝子と結婚。實枝子は有栖川宮最後の王女であり、次女・喜久子が有栖川宮の祭祀を継承した高松宮宣仁親王と結婚したのもそのためである。1910年(明治43年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、父の隠居により同年12月14日に公爵を襲爵し貴族院公爵議員となる[1]

1922年大正11年)1月22日10時35分、東京府東京市小石川区第六天町54番地(現・東京都文京区小日向)の本邸で急死。死因は脳溢血とされたが[2]、一部には自殺説も取り沙汰された。元華族の松平幸子(仮名)の証言によると、「眠られぬまま飲んだカルモチンの量を間違えた過失死だった」という[3]。没後、正三位勲三等瑞宝章を追贈される。

栄典[編集]

位階
勲章等

人物[編集]

1913年撮影
  • 柔道二段、も素人二段、そのほか撞球鉄砲乗馬ゴルフ油絵など何をやっても抜きん出ており、頭脳明晰で性格円満だったという。親友の侯爵細川護立からは、「才気縦横、故慶喜公の好いところを総て受け継いで居た」と評された。ゆくゆくは内閣総理大臣にという声もあがったことがある。
  • 長野県軽井沢町あめりか屋建築の洋館別荘を建てており、慶久の死後は山崎種二の所有となった(現存)。また「旧軽井沢ゴルフクラブ」の創設にも貢献し、その初代会長を務めた。
  • 二枚目でもあり、華族の子女から憧れの目で見られた。孫の慶朝は著書で「映画俳優にしてもおかしくないくらい」と評している[8]
  • 結婚前に仙台出身の侍女と恋愛関係になったが、身分違いから結婚を許されずに破局したため、妹の大河内国子川田順との不倫関係に理解しつつも将来はないことを両者に言い含めた[9]

家族[編集]

  • 妻:徳川實枝子有栖川宮威仁親王第二王女)
    • 長女:慶子
      明治43年(1910年)1月24日 - 同年4月2日
    • 次女:喜久子
      明治44年(1911年)12月26日 - 平成16年(2004年)12月18日
      高松宮宣仁親王
    • 長男:慶光
      大正2年2月6日 - 平成5年2月6日
    • 三女:喜佐子(きさこ)
      大正10年(1921年)10月29日 - 平成25年(2013年)11月26日[10]
      子爵榊原政春夫人、長男は会社経営者で榊原家第17代当主の榊原政信[11][10]
      著書に『徳川慶喜家の子ども部屋』、『殿様と私』[12]などがある。
    • 四女:久美子
      大正11年(1922年)9月23日 - 平成30年(2018年)7月1日[13][14]
      侯爵松平康昌長男松平康愛夫人となるが康愛は戦没。2人の長女智子は松平家の家督を継ぎ久美子とは離れ離れとなり、戦後は井手次郎(医師)夫人。
      『徳川おてんば姫』[15]を刊行。

下の2女に関しては、實枝子が里から連れてきたお側女中と慶久との間の子という説がある。また、これに立腹した實枝子も歌舞伎役者との間に子がいたともいう[注釈 2][注釈 3]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 慶喜の「慶」の字は、もともとは江戸幕府第12代将軍徳川家慶から賜ったものである。以降、「慶」の字は子の慶光・孫の慶朝にも付けられている。
  2. ^ 遠藤幸威『女聞き書き 徳川慶喜残照』「慶久さまがお妾にお生ませになった二人のお嬢さまは無事育ってお嫁にいらっしゃいましたけれど、實枝子さまの方は存じません」。ただし、この説の証言者は自称元華族の「松平幸子」という偽名の女性であり、誰なのかはいまだ明らかになっていない。著者である遠藤幸威の死後は、その正体を探る手立てがなくなったため、歴史学的には証言の資料的価値は限りなく低いとみなされている。
  3. ^ 枢密院議長倉富勇三郎の日記より、大正10年12月8日、宮内官僚松平慶民子爵の言葉「今朝徳川慶久来り貴官に面会せんと欲したるも、不在なりしをもって自分に話したり。」「徳川は「今年末よりカリフォルニアあたりに行かんと欲す」」倉富と宮内大臣牧野伸顕伯爵の会話。牧野「徳川の家庭に関することを聞き居るや。」 倉富「何も聞くところなし。」「ただし徳川より庶子出生届を出したるは妙なことなりと思い居るのみ。」牧野「徳川が赤十字の用務を帯び洋行して帰りたる頃よりのことなりとかいうことなり。」「夫婦のあいだ調和を欠き、慶久はそのため極度の神経衰弱を病み居るとのことなり。」「徳川の不在中 夫人が待合に入りたることあり。また芝居観に行きたることありとかいうことなり。」「名家の家庭にこの如き風聞あるは実に困りたることなり。」

出典[編集]

  1. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、18頁。
  2. ^ 『大正過去帳 - 物故人名辞典』
  3. ^ 遠藤幸威『女聞き書き 徳川慶喜残照』p.280(朝日文庫1985年
  4. ^ 『官報』第7581号「叙任及辞令」1908年10月1日。
  5. ^ 『官報』第1301号「叙任及辞令」1916年12月2日。
  6. ^ a b 『官報』第2841号「叙任及辞令」1922年1月24日。
  7. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  8. ^ 『徳川慶喜家にようこそ―わが家に伝わる愛すべき「最後の将軍」の横顔』
  9. ^ 『葵の女―川田順自叙伝』川田順、講談社 (1959/1/1)p79
  10. ^ a b 徳川慶喜の孫、榊原喜佐子さん死去” (日本語). 読売新聞 (2013年11月28日). 2013年11月28日閲覧。
  11. ^ 徳川家康公顕彰四百年記念座談会岡崎市長・内田康宏オフィシャルブログ、2015年6月17日
  12. ^ 各草思社(前者は文庫再刊)
  13. ^ 徳川慶喜の95歳孫娘が作家デビュー 井手久美子氏の自叙伝「徳川おてんば姫」(デイリースポーツ・2018年6月13日)
  14. ^ 徳川家の末裔「95歳」で作家になった女の一生 「徳川おてんば姫」の息子が語る母の姿 (東洋経済オンライン・2018年12月13日)
  15. ^ 東京キララ社出版 ISBN 4903883299

参考文献[編集]

  • 徳川慶朝『徳川慶喜家にようこそ―わが家に伝わる愛すべき「最後の将軍」の横顔』文藝春秋文春文庫〉、2003年。
  • 稲村徹元編『大正過去帳 - 物故人名辞典』東京美術、1973年。

外部リンク[編集]


公職
先代
(新設)
日本の旗 華族世襲財産審議会議長
1916年 - 1922年
次代
一条実輝
その他の役職
先代
渋沢栄一
日華学会会長
1920年 - 1922年
次代
細川護立
日本の爵位
先代
徳川慶喜
公爵
徳川別家第2代
1910年 - 1922年
次代
徳川慶光