柳原義光

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柳原義光
Yoshimitsu Yanagihara 01.jpg
柳原義光(1913年)
生年月日 (1876-09-02) 1876年9月2日
出生地 Flag of Japan (1870-1999).svg 日本東京府
没年月日 (1946-01-25) 1946年1月25日(69歳没)
死没地 日本の旗 日本東京都
出身校 慶應義塾
称号 正五位勲四等伯爵
配偶者 柳原銀子
柳原花子
親族 柳原前光(父)

選挙区 伯爵議員
在任期間 1904年7月10日 - 1922年3月
1925年7月10日 - 1946年1月25日
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柳原 義光(やなぎわら よしみつ[1]、1876年(明治9年)9月2日 - 1946年(昭和21年)1月25日)は、日本華族伯爵)、貴族院議員

叔母の柳原愛子大正天皇の生母であり、大正天皇の従兄にあたる。

生涯[編集]

1876年(明治9年)、柳原前光伯爵の長男として生まれる。母は正室で伊達宗城の次女の初子。慶應義塾に学び、1894年(明治27年)、父の死去により18歳で伯爵家を継ぐ。1896年(明治29年)、明治天皇に拝謁して天盃を賜り正五位宮中御用掛、日露戦争の功により勲等を受ける。1904年(明治37年)7月、貴族院伯爵議員となる。

1921年10月(大正11年)、異母妹の燁子(白蓮)白蓮事件を起こしたことから、翌1922年(大正12年)3月に貴族院議員を引責辞職する。事件発生から辞職まで半年近くを要したのは、義光が議員職に執心して速やかな辞職を促す周囲の説得に頑として応じなかったためであった。宮内官僚らの説得に抵抗する義光は「先帝に畑を提供した」云々の暴言まで吐き、あげく「やめてやるから金をくれ」などと数々の放言をして顰蹙を買い、憤る官僚らに義光は少しくらい黒龍会に脅かされた方がよいと非難されている。義光の話を聞いた叔母の愛子は、それがあまりに不条理なので、義光の義弟にあたる入江為守(妹・信子の夫)を呼んで義光の不心得を説いたという。

議員辞職後は日本教育生命保険・大正生命保険の社長となるが、華族としての信用を利用するために担がれた社長職であり、負債を累積させて逆に運転資金を捻出する羽目になり、昭和の始め頃には麻布桜田町の本邸を売却している。1925年(大正14年)7月から貴族院議員に復帰し、終生伯爵議員を務める。

1933年(昭和8年)9月、男色相手であった新派の元役者の男に手切れ金を脅し取られる事件が発覚する。新聞にすっぱ抜かれたこの醜聞記事は昭和天皇の目に止まり、側近に下問があったという。さらに同年11月に次女・徳子の不良華族事件が新聞沙汰となり、柳原家は醜聞まみれとなる。宮内省宗秩寮で柳原家の処分が検討されるが、義光の男色に関しては証拠不十分として処分はされなかった。

義光は醜聞もあったが国士気質な面もあり、「国家の大事の前に、私事に拘泥すべきではない」という説得を受けて、義絶状態であった妹・燁子と1935年(昭和10年)に和解している。

1946年(昭和21年)1月25日、69歳で死去。

栄典[編集]

外国勲章佩用允許

家族[編集]

最初の妻は池田慶政の五女・銀子、後妻は川村鉄太郎の次女・花子。後妻・花子の姉・艶子は阪本瑞男に嫁ぎ、妹・武子は西竹一にそれぞれ嫁いだ。

男子がなかったことから、長女・福子の婿養子に大原義質(柳原博光)を迎えた。次女・徳子は、歌人で脚本家であった吉井勇伯爵に嫁いだが、不良華族事件によって離縁されている。

脚注[編集]

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  1. ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年、761-762頁。
  2. ^ 『官報』第3404号「叙任及辞令」1894年10月31日。
  3. ^ 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
  4. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
  5. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1938年2月11日。
  6. ^ 『官報』第93号「叙任及辞令」1927年4月23日。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]


日本の爵位
先代:
柳原前光
伯爵
柳原家第2代
1894年 - 1946年
次代:
柳原博光