村田保

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村田 保
むらた たもつ
Tamotsu Murata 1919.jpg
喜寿の村田保
生年月日 天保13年12月9日[1]、28日[2]または29日[3][4]1843年1月)
出生地 摂津国大坂中之島唐津藩蔵屋敷
没年月日 1925年大正14年)1月7日
死没地 神奈川県鎌倉郡鎌倉町大町[4]
前職 法制官僚
称号 正三位勲一等
配偶者 貞子

在任期間 1885年(明治18年)4月2日 - 1890年(明治23年)10月20日

在任期間 1890年(明治23年)9月29日 - 1914年(大正3年)3月16日
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村田 保(むらた たもつ、天保13年12月9日 - 1925年大正14年)1月7日)は明治時代の法制官僚、政治家。幼名は虎之助[1]元老院議官貴族院勅選議員水産伝習所二代目所長、大日本水産会副総裁、大日本塩業協会初代会長、大日本缶詰業連合会初代会長。

父は肥前唐津藩小笠原氏の家臣の浅原耕司[5]本因坊秀哉は甥(兄の息子)[6]

生涯[編集]

生い立ち[編集]

天保13年12月(1843年1月)、大坂中之島唐津藩蔵屋敷に生まれた[1]。嘉永4年(1851年)頃江戸に出て、幕臣村田氏を継ぎ[2]若山壮吉、林兵部少輔に学んだ[1]。依田市左衛門に弓術、剣道、山岡静山高橋泥舟の兄)に槍術、小林金之丞に馬術を習った[7]

安政4年(1857年)頃本郷大根畠稽古場の貸馬飛雀に乗り、求めに応じて浅草寺を往復して見せたところ、馬が暴れて路傍にいた子供を殺してしまったため、馬を殺し、自らも一端乗馬をやめたという[8]

後、イタリアの曲馬師チャリネに対抗して曲馬術を練習し、1888年(明治21年)6月21日、九段坂の自邸で披露し、後に御馬場で天覧が行われた[9]

新政府での法整備[編集]

明治元年(1868年)昌平学校に出仕し、明治2年(1869年)1月水本成美鶴田皓長野文炳と共に新律取調を命じられた。当初明清律を参照して新律綱領を編纂した[10]

新律綱領の編纂中、箕作麟祥の翻訳したフランス民法典を閲覧して西洋法制の優位性を認め、明治4年(1871年)1月23日から1873年(明治6年)9月27日までイギリスへ留学し、刑法を学んだ[3]。帰国後、木戸孝允伊藤博文に新律改正の必要性を訴え、左院刑法取調局で刑法改正に従事した。また、旧幕時代に投獄されたままの収監者の罪状決定を促して府下罪囚取締仮規則を作らせ、また軍鶏と呼ばれた拷問を廃止させた[11]

1877年(明治10年)ボアソナードを交えて刑法草案が練り直されることとなり、草案審査委員の一員として参加した[12]

1880年(明治13年)5月5日から1881年(明治14年)7月26日までドイツに留学[3]ルドルフ・フォン・グナイスト行政裁判法アルバート・モッセ憲法、アドレーに自治、ベルネに刑法を学んだ[13]

帰国後、法律取調委員会に属して民法商法民事訴訟法等の制定に当たったが、条約改正を急ぐ急進派が民法典、商法典を公布すると、日本社会に適合しないとして強い反対の立場を取り、法案延期を画策した(法典論争[14]

法典論争での延期工作[編集]

1890年(明治23年)5月法案が元老院に上程されると、首相山県有朋に働きかけ、民法、商法の施行延期を取り付けた。「商法施行延期ヲ請フノ意見書」9月帝国議会が開設されると、自身も貴族院議員に勅撰され、民法及商法施行条例施行延期議案を貴族院に提出し、採択された。明治24年1月、小畑美稲と共に「民法及商法の修正の件」を建議、1892年(明治25年)5月「民法商法を修正する為め二十九年十二月三月十一日迄之が施行を延期する法律案」を提出し[15]、5月16日賛成多数で可決された[16]

水産振興[編集]

ドイツ留学時、グナイストと当時ベルリンで開催されていた万国水産博覧会の話に及び、日本の漁獲量その豊富な水産資源に比して少ない点を指摘され、ドイツ水産会ドイツ語版の存在を教えられため、同様の機関設立を山田に諮り、1882年(明治15年)1月大日本水産会が設立され、名誉会員、漁業法律学芸委員に就任した[17]

1888年(明治26年)、深刻化する漁場紛争や乱獲問題に対処するため、漁業権等について定めた漁業法案を提出したが、二度とも成立には至らなかった[18]

1889年(明治22年)水産伝習所長に就任し、1894年(明治27年)日清戦争に際し、かつてドイツでヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ普仏戦争の勝因は缶詰だと聞いたため、缶詰を製造して軍部に送った[19]

1896年(明治29年)3月、日本近海に進出する他国漁船に対抗するため、日本の遠洋漁業に対し補助金を要請する議案を貴族院に提出した結果、1897年(明治30年)遠洋漁業奨励法が公布された[20]。 1897年(明治30年)3月、1891年(明治24年)より再三農林大臣に請願していた水産局復活が時の大隈重信大臣に認められ、6月復活した[21]

1896年(明治29年)、水産調査会で水産博覧会開催が決定されると、これを議会に諮って可決され、1897年(明治30年)9月から11月まで神戸市で第二回水産博覧会が開催された[22]。1897年(明治30年)、規模拡大により財政維持が困難となっていた水産伝習所の官設化を議会に働きかけ、3月官設水産講習所が設置された[21]。1898年(明治31年)1月、大日本水産会において小松宮彰仁親王に水産翁の称号を賜った[23]

塩業・缶詰業[編集]

十州塩田同盟大日本塩業協会を組織すると、その会長に選ばれた。1898年(明治31年)議会に塩業調査所設置を建議して可決され、塩業調査会が発足し、会長に任命された[24]

1905年(明治38年)11月、全国缶詰業連合会が発足、会長に就任、1906年(明治39年)大日本缶詰業連合会と改称した。1908年(明治41年)輸入練乳に対抗するため、国産品の原料戻し税導入を訴え、練乳原料砂糖戻税法が発布された[25]

シーメンス事件弾劾演説[編集]

1914年(大正3年)第1次山本内閣シーメンス事件が起こすと、これに酷く憤慨し、3月1日山本権兵衛に辞職を強く求め、壇上で「閣下の面貌は監獄へ行けば類似のものは沢山あると言って居ります」「今日小学校の児童なりと雖も、閣下を土芥糞汁の如く悪口を致して居る」「不徳義千万なる卑劣漢」などと強く非難、議長徳川家達議院法92条[26]違反との注意を受け[27]、議員を辞職し、鎌倉郡腰越に退隠した。

鎌倉安養院の祇園山を借りて別荘とし、山一面に人形を配置し、村田山、人形山とも呼ばれた[28]

1925年(大正14年)、腎炎のため死去[29]

官歴[編集]

著書[編集]

  • 『英国刑律摭要』
  • 『英国議院章程』
  • 『英国法家必携』
  • 『律例権衡便覧』
  • 山脇玄共編『独逸法律書』
  • 『刑法註釈』
  • 『治罪法註釈』
  • 『民法註釈』
  • 『村田大日本水産会幹事長談話筆記』
  • 『政治道徳論』公民同盟
  • 『老人より青年へ』

親族[編集]

  • 父:浅原耕司[1]
  • 父:村田鎌六[2]
  • 母:福田氏[1]
  • 妻:村田貞子 - 斎藤桃太郎[1]
  • 長男:村田詮太郎 - 1869年(明治2年)12月生[2]
  • 次男:浅原慎次郎 - 医学博士[1]
  • 三男:村田乙三郎 - 1880年(明治13年)10月生、京橋区新富町6番地ノ1に分家[2]
  • 養子:村田末吉 - 1901年(明治34年)11月生、実母は田中よね[2]
  • 次女:敏 - 1905年(明治38年)10月生[2]
  • 三女:経子 - 1907年(明治40年)10月生[2]
  • 養女:福子 - 1906年(明治39年)5月生、実母は田中よね[2]
  • 甥(兄:田村保永の息子):本因坊秀哉[38]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h 大水(1919) p.9-10
  2. ^ a b c d e f g h i 内尾(1911) p.む32
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk bl bm bn bo bp bq br bs 大水(1919) p.11-18
  4. ^ a b c d e f g h i 村田保特旨叙位ノ件』 アジア歴史資料センター Ref.A11113446700 
  5. ^ 『本因坊自伝』
  6. ^ 『本因坊自伝』
  7. ^ 大水(1919) p.38
  8. ^ 大水(1919) p.38-39
  9. ^ 大水(1919) p.39-41
  10. ^ 大水(1919) p.20-22
  11. ^ 大水(1919) p.22-23
  12. ^ 大水(1919) p.23-25
  13. ^ 大水(1919) p.25-26
  14. ^ 大水(1919) p.26-28
  15. ^ 大水(1919) p.28-30
  16. ^ 大水(1919) p.31-33
  17. ^ 大水(1919) p.44-46
  18. ^ 大水(1919) p.60-72
  19. ^ 村田(1924)
  20. ^ p.73-79
  21. ^ a b 大水(1919) p.79-80
  22. ^ 大水(1919) p.81-83
  23. ^ 大水(1919) p.83-88
  24. ^ 大水(1919) p.90-96
  25. ^ 大水(1919) p.97-98
  26. ^ 「各議院ニ於テ無礼ノ語ヲ用ヰルコトヲ得ス及他人ノ身上ニ渉リ言論スルコトヲ得ス」
  27. ^ 第三十一回帝国議会貴族院議事速記録第十四号」 p.231-234
  28. ^ 安田(1976)p.138
  29. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)28頁
  30. ^ 『官報』第578号「賞勲叙任」1885年6月6日。
  31. ^ 『官報』第1172号「叙任及辞令」1887年5月28日。
  32. ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
  33. ^ 『官報』第2182号、明治23年10月6日。
  34. ^ 『官報』第5964号「叙任及辞令」1903年5月22日。
  35. ^ 『官報』第6138号「叙任及辞令」1903年12月16日。
  36. ^ 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
  37. ^ 『官報』第488号、大正3年3月17日。
  38. ^ 『本因坊自伝』

参考文献[編集]