民法典論争

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民法典論争(みんぽうてんろんそう)は、1889年明治22年)から1892年(明治25年)の日本において、旧民法(明治23年法律第28号、第98号)の施行を延期するか断行するかを巡り展開された論争。

なお、この論争とほぼ同時期に刑法典商法典を巡る論争(刑法典論争商法典論争)も行われて、旧刑法の改正事業着手と旧商法の施行延期が行われた。

商法典論争と民法典論争をまとめて「法典論争(ほうてんろんそう)」と呼称する事がある[1]ドイツ法典論争は別頁にて扱う。

旧民法の編纂[編集]

法典編纂の動機[編集]

近代以前の日本においても、中国式の法典である律令法大宝律令8世紀初頭に成立して、民法の規定もその要部を占めていた[2]。しかし、12世紀末に武家時代になってから、律令法はその効力を失い[3]、これに替わって鎌倉幕府室町幕府による式目や、江戸幕府の徳川百箇条などが民事裁判に活用されたが、必ずしも全国的に普及していなかったり、その規定の大部分は刑事法的な禁令であったから、細目については地方ごとの慣習にゆだねる部分が多く、日本全国に広く通用する裁判規範としての民法典が存在するとは言い難い状況であった[4]

また、封建制の下では一般庶民は平等な権利主体とはされておらず[5]、民事上の問題が生じた場合には当事者間の話し合い(相対)による解決が付かない場合にのみ「お上からの恩恵」として仲裁に乗り出すという名目で民事裁判が行われたものであり、民衆を法的に救済する制度ではなかった[6]

だが、明治維新がなると、1868年(明治元年)の五箇条の御誓文において、「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」ということが新政府の基本方針の1つとなったため、早くも1870年(明治3年)には太政官制度取調局を設置し、長官に就任した江藤新平を中心として、当時の世界最先端であったフランス法を範として、法律制度の整備が推し進められた[7]

そこでは、人民の権利を確保して不公平をなくすことと、地方ごとの法制度を全国的に統一することで、種々の不便をなくし社会基盤を整備することとが意識された[8]

当時、一国の統一的な民法典がないという状況自体はイギリス・ドイツ・スイスロシアなどにおいても同様であったが[9]、日本が特に成功を急いだのは、諸外国との不平等条約改正して一日も早く治外法権を撤去したいというのは、当時一般社会の熱望する所であったが、改正を行うには民法・刑法をはじめとする近代的な諸法典を制定するという事が、条件の1つとなっていたからである[10]

なお、裁判所構成法、及び「刑法」「治罪法」(刑事訴訟法)、「民法」「商法」「訴訟法」を「泰西主義」(英:Western Principle)に基づいて制定し、少なくとも条約批准交換後16か月以内に英訳正文を各国に「通知」(列強の要求はエスカレートし、真にウエスタンプリンシプルであるかについて、列強側の「査定」をも要するとされた)すべきことは、明治20年3月31日第24回条約会議において外相井上馨が一時正式に認めさせられている[11]

江藤新平の法典編纂事業[編集]

1872年(明治5年)7月には司法省明法寮で『民法決議』を経て、『皇国民法仮規則』が成立する[12]。2085条(実質全1185条)で終わる大法典であり、総合的な民法典草案である[13]

財産法はほぼフランス民法典の模倣であるが、家族法ではフランス法の大幅な取捨選択が行われており[14]、農村共同体に配慮して長男単独相続制度が採用されるなど[15]、家族主義的な内容になっている[16]

更に同10月には、既に施行されている戸籍法に代わるべく、ジョルジュ・ブスケも関与して『民法仮規則』が成立する[17]

江藤退任以降の法典編纂事業[編集]

江藤が下野した後も、左院において皇国民法規則が再検討され、1873年(明治6年)後半から1874年にかけて、家族法部分につき『左院民法草案』が成立する[18]

この草案においては、明治の全時期を通じて、どの法案よりも明確に戸主権の支配を規定している点に特徴があり、家族員の権利は明確でなく、したがって旧民法・明治民法にみるような「権利義務」関係ではなく、もっぱら戸主の「権力」によって統率され、国家が干渉することができないという専制的な家父長制が採られていた[19]

さらに、江藤の編纂事業を引き継いだ司法卿大木喬任の下、司法省に民法編纂局を設置して箕作麟祥等に命じて民法を編纂せしめたが(1877年および1878年(明治10年 - 11年)起草、「民法草案」という)[20]、これはほとんどフランス民法の引き写しのようなものであったから[21]、大木はこの草案に飽き足らず、1879年(明治12年)に至り、当時司法省の顧問であったフランス人法学者のボアソナードに命じて民法草案を起稿せしめ(ボアソナード原案[22])、日本各地の慣習調査と、日本人の委員による討議を経て、1886年(明治19年)までには財産編と財産取得編とが脱稿され、Projet de code civil pour l'empire du Japonと題する、フランス語で書かれた財産法原案が成立した[22]

なお、どのような経緯により、何時ボアソナードに対する草案起草の委嘱が行われたのかは資料が少なく、明治十三年説[23]もあるが、当事者(ボアソナード、箕作、磯部)の証言等を基に、十二年説が通説である[24]

1887年(明治20年)には井上馨条約改正に対して反対運動が起き、民法典編纂事業がいったん頓挫する[25]

そこで、大木の後を継いだ司法大臣の山田顕義は、民法典編纂事業を外務省法律取調委員会の手に移して自ら委員長に就任し、改めて民法の編纂に取り掛かり、財産権、財産取得編の主要部分、債権担保編、証拠編をボアソナードに起草させる一方(一部を除き現行民法の財産法部分に相当)、人事編及び財産取得編中の相続・贈与・遺贈・夫婦財産契約に関する部分(ほぼ現行法の家族法部分に相当)は特に日本固有の民族慣習を考慮する必要があるということから、熊野敏三磯部四郎などの日本人委員に起草させた[26]

なお、ボアソナード自身も、憲法親族法については自然法によって規律されるべきではなく、もっぱら各国の事情を基礎とすべきとの立場であった[27]

(ただし、家族法中相続法については、財産法の延長と考えていた節があり、分割相続制度を採る方が経済上も有利であり、農家及び商工業の家産分割の弊害については、会社の活用や、相続人間の賃貸借で経営を維持できると主張しており[28]、財産法案中にも分割相続制を予定する規定を設けたが、後の修正過程において削除された[29]。)

1888年(明治21年)にはボアソナード担当部分の草案(再閲民法草案)が成立し、1889年(明治22年)には元老院の議決を経て翌1890年(明治23年)4月に『民法財産編・財産取得編・債権担保編・証拠編』(明治23年4月21日法律第28号)として公布、残部についても同年10月に『民法財産取得編・人事編』(明治23年10月7日法律第98号)として公布され、双方とも1893年(明治26年)1月1日から実施すべきものと定められた[30]。この法律28号、第98号がいわゆる旧民法である[31]

もっとも、この民法典編纂事業の最中にも多数の単行法令が出されており[32]、また単行成文法がない場合においても慣習により、慣習も無い場合は条理に従って裁判すべきものとされていた(裁判事務心得3条)[22]。これら単行法や条理の解釈においては、イギリス法の影響もあったが、フランス法及び自然法論の影響が特に強かったと考えられている[33]

なお、商法の編纂は、1881年(明治14年)に太政官中に商法編纂委員を置き、同時にドイツ人ヘルマン・ロエスレルに草案の起草を命じた[21]。該草案は2年を経て脱稿し、その後取調委員の組織などに種々の変遷があったが、結局元老院の議決を経て、1890年(明治23年)3月27日に成立、翌1891年(明治24年)1月1日より施行されることとなっていた[21]

旧民法編纂者内部からの旧民法批判[編集]

法律取調委員会のボアソナード財産法批判[編集]

法典論争における延期派の主要な論拠は、

  • 法典の成立を急ぐあまり、十分な審議を尽くさなかったこと
  • 他の法律・規則と抵触する条項のあること
  • 日本の国情に適さず、有害なものがあること
  • 文体が直訳調、体裁も教科書法典で説明的に過ぎしかも前後に一貫せず、全体に晦渋難解であること

である[34]

このような問題点は、旧民法研究者の指摘するところによれば、財産法編纂過程においても、編纂当事者自身によって認識されていた[35]

即ち、大木喬任の推進した民法典編纂事業においては、主に民法編纂局を主体とし、もっぱらボアソナードの財産法案(当時未完成)の忠実な翻訳に焦点が置かれていた[36]

これに対し、山田顕義の編纂事業においては、法律取調委員会を主な主体に、ボアソナード法案の「枠内手直し」が行われた[37]

山田によって1887年(明治20年)11月1日内閣に提出された法律取調委員会略則1条前段によれば、「法律取調の目的は民法商法及訴訟法の草案条項中実行し能はざるものあるや否、又他の法律規則に抵触することなきや否やを審査するに在り」、とされている[38]

これが具体的にどのようなことを指すのかは明らかでないが[39]、旧民法の早期成立を推進した山田の認識においてさえ、既存草案中にそのような問題点がありうることは明確に存在していたことになる[40]

しかし一方で、ボアソナード草案からの逸脱は禁止され、「法理得失実施の緩急、文字の当否は之を議論する之を許さ」れず(同後段)、「一日十五条づつを議了することを要す」(会議規則)ことが基本方針とされた[41]

加えて、村田保は、「日課表には民法は二十年十一月四日に始め二十一年十二月十三日に終る会議百六十回・・・と斯の如く予め日数を定めてございました」と貴族院にて証言し、旧民法の審議の性急なことを批判している[42]

箕作に依れば、これらの規則は遵守されなかったようであるが[43]、審議の過程においてボアソナードの財産法案の体裁・文体・内容(特に物権法分野)への不満が続出したにもかかわらず、ボアソナードが帰国を仄めかしてまで自説を貫徹させたために、法典の早期成立の観点から、ボアソナード草案の基本的枠組みはそのまま維持されたのであり(略則同条後段)、このことは法律取調委員会の中に大きな不満を残すこととなった[44]

特に、用益権を物権の中に入れたことや[45]、フランスの少数説を採用して賃借権一般を物権としたこと[46]は深刻な論争を生み出し、法典論争で断行派に属する箕作ですら松岡康毅と共に別個に『別調査民法草案』の起草に取り組み、一時ボアソナード原案の廃棄が検討された程であった[47]

特に同委員の尾崎三良は、ボアソナードの財産法案が晦渋難解であることと、日本の実情に適さないことを指摘し、また委員会による修正も小手先に過ぎないものとして批判し、財産法の根本的修正が必要であるとして、法典論争に先駆けて、伊藤博文大隈重信らへの働きかけを行っていた[48]

また、一時はボアソナード原案を基本路線とする方針の維持を支持した村田保[49]大隈重信の遭難を受けて、法案の早期成立より欠点の修正を重視すべきとの考えに転じる[50]

そこで、個々の条文を挙げて、法文が説明的に過ぎるためにかえって不明瞭となっていることを指摘し、具体的な修正提案をしたものの(この時点で政治的イデオロギーは表れていない[51])、山田による審議の進め方が強引に過ぎた為に、以後法典論争では徹頭徹尾延期派に立つことになるのである[52]

ボアソナード草案の枠組みと内容からの決定的な離脱は、民法典論争決着後、1893年(明治26年)の法典調査会において取り組まれることとなる[53]

元老院の動向[編集]

明治19年(1886年)12月6日、元老院に民法議案が下付され審議が行われたが、この時点で既に条約改正の為の拙速な制定ではないかという不信感が示されており[54]、一貫して元老院は旧民法草案を慎重に討議したい旨希望していたが当時の司法大臣であった山田顕義に容れられず、拙速主義の編纂過程に大きな不満を抱いていた[55]

加えて、前述の手塚、中村の研究によれば、確定案としてそのまま旧民法になるはずだった元老院の議定案は、更に政府によって手を加えられ、改変されて成立したことが明らかにされており、旧民法典編纂に自ら加わったはずの前述の村田・三浦等の元老院議官が、法典論争において延期派に回る一因となったとも推測されている[56]

民法典論争[編集]

経緯[編集]

1890年旧民法・商法は、不平等条約改正を急ぐあまり、帝国議会開設前に編纂を完了し十分な審議が尽くされなかったとして、延期派から様々な批判が展開されるようになった。

公布前の1889年(明治22年)5月、イギリス法系の(旧)東京大学法学部出身者で組織される法学士会は春季総会において『法典編纂ニ関スル意見書』を発表するとともに、拙速な法典編纂を改め、さしあたり緊急に必要のある事項に限って単行法を施行するにとどめ、後日十分な審議を経た上で包括的な法典を完成させるべきことを内閣枢密院に働きかけることを議決した。この意見書ならびに議決の影響で民法や商法の施行をめぐる議論が活発化したことから、この意見書並びに議決が実質的に民法典論争(商法も含む)のきっかけである[57]

これに対し、旧民法の編纂者の磯部四郎は論文『法理精華ヲ読ム』を発表し、施行断行を訴えた。この他にこの時期発表された著名な論文として、施行断行派のものでは、井上操の『法律編纂ノ可否』がある。他方、施行延期派のものは増島六一郎の『法学士会ノ意見ヲ論ズ』、江木衷の『民法草案財産編批評』などがある。

関西法律学校の創設者である井上は、磯部と同じくフランス法系の司法省法学校の出身であり、増島は開成学校の、英吉利法律学校の創設者である江木は(旧)東大法学部の出身でありいずれもイギリス法系の学校である。

1890年11月、第1回帝国議会が開かれ、産業界から商法の施行が早すぎ対応がとれないとの理由で「商法実施延期請願書」が出されると、帝国議会は明治24年1月1日施行予定の商法を民法と同じ1893年1月1日施行に延期することを決定した。

商法の施行延期が決定されたことで論争はさらに勢いを増し、施行延期派からは、旧民法が自然法思想に立脚していたことに対して、法の歴史性・民族性を強調した歴史法学からの批判、憲法税法と矛盾抵触するという批判、旧民法の条文が冗長で、無用の条文が多すぎ首尾一貫しないとの立法技術上の批判、欧米の最先端の理論を研究して民法を制定すべきなのに、最新のドイツ民法草案が全く検討されていないという批判、賃借権債権ではなく物権と構成するのは学理・慣習に反するという批判、日本古来の家族制度を始めとする日本の伝統・習慣にそぐわないという内容に関する批判などがなされた[58]

日本の慣習・風俗に合わないということから特に激しく攻撃されたのは、親族法における非嫡出子準正相続法における限定承認の他、財産法における消滅時効等であった[59](ただし、いずれも大きな修正を受けることなく明治民法に継承されている[60])。

同年、帝国大学憲法学者穂積八束がドイツ留学から帰国すると、論文民法出デテ忠孝亡ブを発表し、「我国ハ祖先教ノ国ナリ。家制ノ郷ナリ。権力ト法トハ家ニ生マレタリ」「家長権ノ神聖ニシテ犯スベカラザルハ祖先ノ霊ノ神聖ニシテ犯スベカラザルヲ以ッテナリ」と説き、婚姻を基調とした家族法を批判した。この論文はそのタイトルのため最も注目を集め、民法典論争の象徴ともいえる論文である。

施行を翌年に控えた1892年(明治25年)、法典論争はピークに達し、論争は法律論にとどまらず資本主義経済の矛盾の問題、国家思想や国体の位置づけなどにも及び、商法典論争と相まって一種の政治対立の様相さえ呈するようになった。

そして、同年5月、第3回帝国議会において民法典論争は政治的な決着がはかられた。貴族院議員村田保によって民法商法施行延期法案が貴族院に出され、断行派議員と延期派議員との間でも激しい論戦が繰り広げられた。第二読会において、延期派の発議により、原案に「但し修正を終りたるものは本文期限内と雖も之を断行することを得」とする但書を加えた上で圧倒的賛成多数で貴族院を通過[61]富井政章の演説が大きく寄与したとも伝えられる(富井政章の項目参照)[62]

若し此の如き講義録体の錯雑した法典を実施すれば世間何処の学校も皆法典の弁別、順序、定義等に括られて仕まつて此法律を解くと云ふことになると思ひます……必ず此弊害が生ずると云ふことは仏蘭西が証拠である、仏蘭西の法律学と云ふものは此数十箇年全く此卑い註釈学問となつて居る……之に反して独逸が近年著しく進歩した訳は諸君の御承知の如く学問を奨励したと云ふ結果であります。 — 富井政章[63]

衆議院では妥協案として断行派から家族法部分のみを施行停止とし、財産法については断行するという修正案が出されたが、原案通りの延期論が賛成多数で可決するに至りここに民法典論争は決着をみた[64]

その後、施行延期派から富井に加え穂積陳重(穂積八束の兄)、施行断行派から梅謙次郎という3人の帝国大学教授が法典調査会の委員に選任され、第一編から第三編の財産法については旧民法の「根本的改修」を基本方針として、ドイツ民法の草案や他にも30か国に及ぶ他の国の民法をも参照して、現行の民法(明治29年(1896年)法律第89号)が起草され、1898年(明治31年)になって施行された[65]

なお第四編・第五編の親族法・相続法については、外国人に対しては適用が無い為不平等条約の交渉に支障が少ないということで、後日別個に議会に提出して成立するという形を採っている(明治31年法律第9号)[66]が、これは便宜上の問題に過ぎず、民法典が親族編・相続編を含まないものというわけではない[67]

背景・評価[編集]

これらの論争がどういう意義を有するかについては、日本史の教科書や民法の通俗書等を中心に、もっぱらドイツ系の穂積八束とフランス系の梅謙次郎の政治的イデオロギーの対立として記述する書籍も散見される。

しかし、後述するように、そのような単純な二項対立の構造ではなく[68]、純粋な学問的論争の他に、学閥争い、政治的争いの性格を加えた複雑の要素が絡んだものであるとの理解が民法学者の通説的な理解であり[69]、後述するように、その複雑性をいちおう認めた上で、どのような事実認識・歴史観に基づき、どの要素を強調しようとするかの差異が生じている[70]

星野・中村論争[編集]

民法典論争の評価を巡っては、戦後の一時期に激しい議論となったことがある。

戦後のかつての通説は、法典論争において特に激しく攻撃されたのが旧民法人事編ほか家族法(以下便宜上家族法という)であったことから、旧民法は当然にボアソナードの意思のとおりに成立したものであり、かつ、延期論を採用して新たに制定された明治民法は当然に家族法部分において保守的に変容したという事実認識を所与の前提としており[71]、歴史上の全ての闘争は階級闘争であるとするマルクス主義的歴史観史的唯物論進歩史観)の影響の下[72]講座派の代表的論客であるマルクス法学者の平野義太郎や、その流れを汲む法制史学者の星野通らによって、旧民法断行派と延期派の争いは、英仏両派の感情的な学閥争いであるばかりでなく、何よりも梅謙次郎に代表されるブルジョワ民主主義的民権派と、穂積八束に代表される保守的封建的国権派というイデオロギーの争いであると主張されていた[73]

ブルジョア自由民権運動に対立した憲法制定に応じて……民法制定におけるブルジョア自由主義に対抗して、封建的家族制度を再建することが、官僚的民法制定やボアソナード起草「旧民法」の施行を延期せんとする「法典争議」の核心をかたちづくる本質的要素である[74]。……したがって、これによって修正された新民法の「親族編」「相続編」は、封建的家族制度・長子相続制を法制化し、「家」を中心に置き……封建的男性の支配、女子の無権利主義を基本としたものである[75]— 平野義太郎
論争は主として法典人事編の近代家族法的性格をめぐって展開した自然法学・歴史法学派の学説的抗争の感深く、また同時にそれと不可分に結びつく個人主義・自由主義と国家主義・伝統尊重主義のイデオロギー的相克であり、……感情的喧嘩でもある……そして延期派制勝裡にやがて天皇制家族国家の支柱ともいうべき家父長家族制度の明治31年民法典誕生の運びとはなったのである[76]— 星野通

現在でも、マルクス理論を捨象したうえで、このような見解を当然視する説明[77]が断定的に採用されることもある。

これに対して政治学者の中村菊男は、平野・星野説は実証的な根拠を欠いているとして激しく批判し、結論としては不平等条約改正に対する政治的立場の違いによる争いがその本質であると主張した[78]

旧民法と明治民法とでイデオロギー的な大転回があったとすれば、旧民法人事編と明治民法の家族法との内容が大差無いことと矛盾するというのである[79]

筆者はこの論争をもって当時存在していた仏法派対英法学派の、一面感情的にして他面極めて功利的な、学派の対立に由来するものと見るものであるが、それを助長し発展させ、あのような大論争に至らしめた原因は、条約改正に関連する政治的立場の違いであると思う。……それは一方において国権の確立のためには条約の改正がぜひ共必要であり……附帯的条件として法典の編纂が必要であるという政府……の考え方であり、他方において条約改正の手段として法典の編纂を約束することは主権の侵害であり、内治干渉を誘致するものであるとする見解である。前者が断行派に後者が延期派に加担したのであって、単に後者がブルジョア的、後者が封建的であったとはいい得ない。……旧民法・明治民法両者を比較すると旧民法の内容が如何に反動的なものかわかる。……この法典をブルジョア民主主義的として打ち出すことは誤りである[80]— 中村菊男

すなわち、中村によって指摘され、また法制史学者手塚豊の研究によって詳細に明らかにされたところによると、旧民法家族法の第一草案は、磯部ほかフランス法系の学校で学んだ日本人の手によるものであり、一応建前として家督相続制や戸主の文言を残すものの、社会の変換期であることに鑑み、ときに当時のナポレオン民法典の不平等の規定を批判してまで、よりいっそう平等主義・個人主義を押し進めようとする、非常に思い切った個人主義的性格のものであった[81]。その内容は、植木枝盛の思想と合致すると評する学者もいる[82]

これに対し各界から批判が起きたため、再調査案、元老院提出案を経て大がかりな修正・削除が行われ、旧民法成案は第一草案に比してより保守的・日本的・妥協的なものとして、民法典論争の以前に既にその性格を変えていた[83]

断行派の梅謙次郎も、旧民法家族法の特にその人事編を擁護して、延期派の論者が主張するような旧慣習に全く反する極端なものではないことを力説している[84]

人事編には戸主あり家族あり隠居あり養子あり庶子あり、毫も従来の習慣上に存するものを廃せず、唯其規定に至り幾分の時勢に伴ひて更改せしものなきに非ずと雖も、力めて激変を避けんと欲したる立法者の苦心は章々節々に現れたり[85]— 梅謙次郎

また、法学者の伝統的通説によれば、八束らによる激しい批判にもかかわらず、明治民法はこと家族法領域に関する限り、旧民法の抜本的改修を経ることなく継承していると考えられている[86]

親続編調査の方針は先に目録を議する時に略々極まつたことと思ひまするに依って重ねて述べませぬ、一口に申せば一方に於て弊害なき限りは従来の制度慣習を存することにし、又一方に於ては社会の趨勢に伴つて社会交通が開け其他種々の原因よりして社会の状況か少しく変れば直ちに法典を変へねはならぬと云ふやうなことにならないこと……を以て編纂することが必要であらうと考へます、既成法典は此二点から見れば多少修正を加ふべき点はありませうけれども、根本的に改正を加へねはならぬと云ふ程の点はないやうに思ひます[87]— 富井政章
人事編と相続編との二大事項に付きては未だ何等の法按の存せざりしを以て人事編は熊野敏三君をして起草せしめまた相続編は私が起草の命を奉じました、其案は定めて無茶苦茶なもので御座いましたらうが併し現行民法の相続編と大差なかりし様に思ひまして心窃かに光栄として喜んで居ります[88]— 磯部四郎

(なお、実際には熊野・磯部のみではなく、光明寺三郎黒田綱彦高野真遜[89]井上正一[90]の協力者のあったことが指摘されている。)

穂積八束による「民法出デテ忠孝亡ブ」のような、個人の権利義務関係の規律を中核とする近代法典の整備に正面から反対する立場は法典委員会において全くの少数派であり(例外は、我妻栄によれば、八束のような主張を多少法律的に構成して述べた英法派の江木衷)、八束も法典調査会査定委員として参加した民法典編纂の結果に実際に反映された様子はほとんど見られない[91]。むしろ、法典調査会副総裁であった西園寺公望から、旧慣に基づく家制度の全面撤廃論が出され、渋沢栄一や磯部らがこれに同調するなど、家制度廃止論者が攻勢を強める局面すらみられた[92]

一方、起草者らも積極的に家制度を法律的に保全しようとしていたわけではなく、現に社会慣習としての家制度が存在する以上、法律によって強引にその廃止を図ることこそすべきでないものの、他方明治維新後の社会変動によって、旧来の家制度は暫時瓦解することが予想されるから、法律によって永続的に家制度を保全すべきでもなく、近い将来の家族法改正を見越して過渡的な暫定規定を置くべきだという認識で明治民法起草委員三者は一致していた[93]

昔かしの家族制は私は断言します、今日及び今日以後の社会には到底適しない、固より今日法律を以て家族制度を砕くといふことは宜しくありますまい……唯だ無闇に家族制度を強くすると云ふ方に偏傾してはならぬと云ふことに確信しております[94]— 富井政章

起草者三名の共通認識及びその法理学的支柱をなすのは、近い将来の家族制度の解体を予想しつつ、社会の発展に法律の発展の足並みを合わせようという漸進的社会改革論である穂積陳重の法律進化論であるといわれている[95]

民族の解体と国家の中央権力の成長によって家族あるいは『家』は前面に出て国家の単位をなすようになる。かくて、各社会の構成要素は次第次第に小さくなり、ついにはそれは原子あるいは個人にまで分割される[96]— 穂積陳重

そこで、むしろ1890年10月に公布された旧民法家族法は、民法典論争を経て成立した明治民法と「大同小異」であったとする手塚[97]説は、「確定したといってよいと思われる」と評されるまでに学会の支持を得ている[98]

なお親権をはじめとして、明治民法の方が旧民法より個人主義的な部分もあることが指摘されているが[99]、旧民法と明治民法のどちらが封建的・反動的であったかは激しく争われている[100]

戦後の民法・家族法大改正の起草委員を務めた民法学者の我妻栄も、法典論争がイデオロギー的性格を有することを認めつつも、論争の結果、明治民法は当然に民主主義・個人主義に立脚する旧民法を駆逐して半封建的家族制度の復活を実現したと主張する説に対しては、八束らの主張を充分に容れない修正案が議会を通過したことの説明がつかないと批判している[101]

なるほど、戸主権の実質的内容をやや強大にし、法定推定家督相続人の去家禁止の規定を設けたこと等は、重大な点ではあろう。然し、延期論者が非難した親権、準正、扶養等の個々的制度は何れもそのままに踏襲された。……「家」の維持ということも、観念的な主張の範囲を出でず……「民法出でて忠孝亡ぶ」とまで非難された旧民法の修正としては、意外の感を抱かしめる。もっとも、一派の委員は、自分の抱懐する「家族制度」的規定を提案しても到底受理されない雰囲気を察知して、不満を抱きつつ原案の技術的検討に従事した場合が多かったようである。……「立法は妥協なり」の原理を如実に示すものである。……一部の学者は旧民法の改正につき……旧民法は「資本主義的単一家族制度」を原則とせんとしたのに対して、現行法(引用者註――ここでは明治民法のこと)は「家父長的大家族制度」の復活と維持とを主張する、といっている。然し私は、審議の全過程を検討して、この説を肯定する根拠は遂にこれを発見しえない。……法典論争をもって「民主主義・個人主義に対する半封建的家族制度の固守」の争いとなすことは或いは承認しうるとしても、現行法が旧民法に比して半封建的家族制度の復活を実現したと判断することに対しては、賛成を躊躇せざるをえない。然らば、何故に延期派の主張を充分に容れない修正案が議会を通過したか、という問題になるであろうが、それはその争いが既に純学理的なものではなく、学閥、政争の色彩を有し、それが鎮静したことと、条約改正の必要という外的要素の強圧が加わったことがその原因であった、と私は考える[102]— 我妻榮

1952年(昭和27年)に始まったこの星野・中村論争は、両者が自説を撤回することなく終息したが、星野も、中村が提起した旧民法家族法における草案の変質という問題提起を肯定せざるを得なくなった[103]

国民主義・平民主義の台頭[編集]

1889年、ジャーナリズム運動から新思潮が生み出される。素朴な復古主義や排外的な攘夷論ではなく、近代化の必要性は認めつつも、鹿鳴館に象徴される政府の極端な欧米化政策に疑問を呈し、日本の在り方を見つめなおそうというものであり、国民主義を唱えた陸羯南や、平民主義を唱えた徳富蘇峰らが代表的論者である[104]。このような思想的背景から、自然法思想に疑問を投げかけ[105]、ヨーロッパ法系の旧民法や旧商法について、日本の国情を慎重に考慮すべきという議論が起きてきたものと考えられる[106]

なお、延期派の谷干城と同様の保守主義的グループの一員でありながら、貴族院では断行論を支持した者として、鳥尾小弥太がいる[107]

歴史認識を巡る対立[編集]

国民主義・平民主義をどのように評価するかは論者によって異なり、マルクス主義的歴史観に立ち、民法典論争の性格をもっぱら保守対進歩のイデオロギーの闘いとみるときは、 国民主義・平民主義は進歩的な自由民権運動の思想とはまったく矛盾する保守的・封建的反動に過ぎないものとして捉えられる[108]

そうなると、法典論争当時帝国議会で多数派を占めた民党側議員や、福沢諭吉のような自由民権論の理論的中心人物が商法・民法共に延期派に属したことは矛盾するかに思えるが、これらの論者によれば、不徹底なブルジョワ革命思想がその馬脚を現したために、天皇絶対主義という新たなプロレタリアート搾取の支配体制の確立に加担することとなったと主張されている[109]

また、断行派が自由主義・個人主義という自由民権法学の論理を貫徹しなかったのは、支配体制側に立つブルジョワ官僚法学としての限界であるとも主張されている[110]

このような立場に対しては、自由民権運動を暴力で弾圧した超反動的な松方内閣が断行派であった事実を説明できないとか[111]、アメリカ公使ジョン・アーマー・ビンガムの指摘したように、明治政府が重い負担を農民に課し、その負担の下で資本主義を発展させざるを得なかったのは、不平等条約により正当に得られるべき関税収入を得られなかった為にその負担を農民に課さざるを得なかったことが主因であり、マルクス主義法学は日本社会内部の特殊性を強調するあまり外国からの圧力という面を見逃している[112]天皇制国家が絶対主義であったという歴史観自体見直されつつある中、そのまま受け入れることはできない等の批判がなされている[113]

不平等条約の改正事業と帝国議会の創設[編集]

民法典論争は、条約改正の交渉の為に何よりも法典の早期成立を目指すべきだとする即時断行派の立場と、単なる条約改正の道具としてではなく、法典編纂もそれ自体重要な国家事業であるから慎重に検討すべきであるとする延期派の対立でもある。

不平等条約の改正は明治政府にとっても急務であった。東洋の法で裁かれることを嫌う欧米列強は、不平等条約ことにその治外法権について、現地の国が西洋法的な法典を有しておらず、裁判の予測可能性がたたないことを名目としていた。そこで、井上馨を中心とした政府間の交渉によって、西洋人を裁判官として採用する混合裁判所を採用することを条約改正の条件とする合意に達したが、むしろ安政の不平等条約よりも劣悪であるとして日本国内の反発を招き、ボアソナードらにも反対されて、変更を余儀なくされていた。

このように、条約改正事業への国民の不信感があるところへ、帝国議会の審議にかけて時間を費やすことを嫌って、議会の成立する直前に駆け込み的に法典を成立させて公布したため、そのような政府の手法は国民の多くの反発を招き、法典編纂事業それ自体への不信感を誘発するに至った。それが延期派が最終的に多数派を形成するにいたった社会背景の一つであると考えることができる[114]

フランス法派とイギリス法派の対立[編集]

明治維新後の日本がまず最初に取り入れようとしたのはフランス法であった。1872年に始めて司法省の明法寮に法学生徒を募集してフランス法を教授したのが初めである[115]

当時の日本がまずフランス法に依ろうとしたのは、自然法思想が、旧弊を脱し、新しい時代を創ろうとする当時の日本人の思想に合致したためであるといわれている[116]

しかし一方で、帝国大学の前身である東京開成学校では、1874年からイギリス法の教授を始めることとなった。このことが法典論争の遠因となっている[117]

民間にもイギリス法律を主とする東京法学院中央大学の前身)、東京専門学校早稲田大学の前身)等があり、またフランス法を教授する明治法律学校明治大学の前身)、和仏法律学校法政大学の前身)等があって、それぞれ多数の卒業生を出していたから、法典論争の生じた時点では、日本の法律家は英仏の二大派閥に分れていたのである[118]

なお、1887年、帝国大学法科大学にドイツ法科も設けられたが、法典論争の時点では卒業生を輩出していなかったため、ドイツ系の法律家はまだ極めて少数であった[119]

民商両法典の争議に関し、英法派の法律家はほとんどみな延期派に属し、仏法派は概ねみな断行派に属していたから、論争は仏法派閥と英法派の争いという一面を有していた[120]

ただし、仏法系の出自でありながら独自の立場から延期派に属した例外的人物として富井政章、木下廣次がいる[121]

また、断行派の論者の内、旧民法の財産法部分につき、内容それ自体には批判的であった人物として、梅謙次郎がいる。梅の断行論は、法典施行がひとたび延期されると成立がいたずらに長引くおそれがあるところから、不完全であっても施行し、欠点は後から修正すればよいという拙速論であり、旧民法そのものの全面的な擁護論ではない[122]

延期論者であった穂積陳重からは、感情論や英仏両派の学閥の争いであったという面は認めつつも、ドイツと日本の2つの法典論争の共通性を重視し、巨視的に見れば自然法学歴史法学の対立にほかならないとしてその学問的性格を強調する見解も主張されており[123]、後世においても一定の支持を得ている[124]

延期戦は単に英仏両派の競争より生じたる学派争いの如く観えるかも知れぬが、この争議の原因は、素もと両学派の執るところの根本学説の差違に存するのであって、その実自然法派と歴史派との争論に外ならぬのである。由来フランス法派は、自然法学説を信じ、法の原則は時と所とを超越するものなりとし、いずれの国、いずれの時においても、同一の根本原理に拠りて法典を編纂し得べきものとし、歴史派は、国民性、時代などに重きを置くをもって、自然法学説を基礎としたるボアソナード案の法典に反対するようになったのは当然の事である。故にこの争議は、同世紀の初においてドイツに生じたる、ザヴィニー、ティボーの法典争議とその性質において毫も異なる所はないのである。延期断行の論争は頗る激烈であって、今よりこれを観れば、随分大人気ない事もあったけれども、その争議の根本は所信学説の相違より来た堂々たる君子の争であったのであるから、この争議の一たび決するや、両派は毫も互に挟さしはさむ所なく、手を携えて法典の編纂に従事し、同心協力して我同胞に良法典を与えんことを努めたるが如き、もってその心事の光風霽月に比すべきものあるを見るべきである[125]— 穂積陳重

一方、そのような学問的性格を否定し、もっぱら職業的利害関係から来る感情的な争いであるとの評価もある(仁井田益太郎[126]

イギリス法学派の理論状況[編集]

英法派において主流であったのが、オースティン分析法学派学説である[127]

オースティンはドイツ留学者であり、歴史法学のサヴィニーや自然法学のティボーとも交流してローマ法及びドイツ普通法学の影響を受けていたが[128]、結論としては古い自然法学説に対して、現行法主義(法実証主義)を主張するものであり、フランス法を輸入せずとも日本には日本の慣習法があるという一種の国粋論と結びついたと考えられる[129]

明治民法の起草者たる穂積陳重は、イギリスでオースティンの中にドイツ法学の影響を認め、これがドイツ転学の理由の一つとなったし、また、その法実証主義の考え方は、仏法派の富井政章にも影響を与えていることが指摘されている[130]

もっとも、穂積陳重が最も大きな影響を受けたのは、オースティンに批判的な立場を採るヘンリー・メインによるイギリス歴史法学であった[131]

ドイツ法学派の動向[編集]

ドイツ法学派で断行派に属した後の法典調査会委員として横田国臣本尾敬三郎木下周一がおり、延期派としては、穂積八束、岡野敬次郎がいる[132]

法典論と非法典論の対立[編集]

英法派は旧民法のみならず、旧商法にも反対しており、一方仏法系の多くが属する旧民法の断行派は旧商法についても断行派であった[133]

つまり、梅謙次郎が強調したように、仏法派と英法派、断行派と延期派の対立は、そもそも一国の統一的な法典を早急に制定すべきか、それともかつてサヴィニーが主張したように、必要に応じて単行法の制定のみにとどめて判例法・慣習法の発展によって暫時補いつつ、学問の発展を待つべきかというという法典非法典論(正確には法典編纂慎重論)の対立でもあり、日本における法典論争の当時激しく議論されていたものであった[134]

ただし、これらの延期論者が統一的な法典の必要性までを否定したわけではなく、例えば穂積陳重は英法派の出自ながらドイツ留学によってドイツ法学の影響を受け、明治23年に著された『法典論』において独自の法典論を採っており、後の法典編纂事業における理論的支柱となっている[135]

また、延期派中の多くの論者が、民法典論争決着後、法典の修正に向けて直ちに動き始めていたことも明らかにされている[136]

フランス民法典の老朽化とドイツ民法草案の登場[編集]

マルクス主義と無関係な立場からの説明によると、法典論争を経て日本がフランス法の導入からドイツ法へ舵を切ったのは、当時ドイツの文物の輸入が盛んになったこともさることながら[137]、何よりもナポレオン法典が古過ぎ、一方ドイツ法(プロイセン法ではない)の設計思想が新しい時代に適合していたからである[138]

かつて世界の最先端の法典として各国の法典に影響を与えたフランスのナポレオン民法典であったが、100年間の年月を経て次第に欠点が明らかとなり、その素朴で説明的な法文と、激動する社会の実際が乖離して時代に合わなくなりつつあったから、各国においてフランス法をそのまま採用することはできず、その克服が課題となっていた[139]

また、その解釈・運用方法についても、過去の立法者の意思のみに囚われるフランス註釈学派の方法論は既に限界を迎え、判例研究による新しい方法論(自由法論、科学学派)が勃興しようとする前夜であったから、そのような状況でフランス法を基礎とすることは、もはや新興日本の採るべき道ではなくなっていた[140]

一方ドイツ民法典は、フランス民法と同じく近代精神を採り入れた成文法であり、その成立が日本民法とほぼ同時期であり、かつドイツ法学の精緻な論理分析方法による解釈理論(概念法学)は、日本民法学黎明期における法典それ自体の忠実な註釈に専念を要する時代の要求を充たすのに即座に利用されえるという特長を有していた[141]

日本の民法典論争の時点では、当時の世界最先端のドイツ民法草案が世に出ていたから、それをほとんど参照することなく、もっぱらフランス民法典をベースに作成された旧民法は、陳腐で日本社会の実情に適合しないものと受け止められた[142]

タイ民商法典の起草者も、日本の民法典論争を評するにあたってこの観点を強調している[143]

フランス・ドイツ・旧民法の評価の問題[編集]

ローマ法、及びそれを祖とするフランス・ドイツ・旧民法への評価の違いがあることが、民法典論争の性質を理解することを困難にしている原因の一つである[144]

ドイツ民法に限らず、フランス民法典をはじめとする典型的な近代市民法は、夫を家長とする近代家父長制を基礎とするところから出発しており[145]、妻に対する優越的な夫権を定める点で家族主義的でありながら(特にナポレオン民法典において夫権優位と家庭内の男女不平等、婚外子の差別的取り扱いが徹底されていた[146])、しかし一方で先祖の祭祀を代々継承する大家族的な「家」ではなく、もっぱら婚姻を中心とした同居の世帯をその対象として想定し、家長の財産を家ではなく個人財産とする点で個人主義的であり、旧民法も例外ではなかった。この個人主義的部分を穂積八束は批判したのである[147]

また、1887年頃、伊藤博文に提出されたものとみられるロエスレルの意見書においては、フランス民法は個人主義・民主主義に傾きすぎ、革命相次ぎ政情不安に晒されたが、一方、農村社会を基盤として成立したゲルマン・ドイツ民法の方が親族関係を厚く保護するなど保守的性格を持ち立憲君主制と親和的であるから、当時の日本により適合すると主張されていた[148]

ところが、1888年に公表されたドイツ民法第一草案は、ゲルマン法を立法化したものではなく、19世紀の法思想たる個人主義・自由主義と、パンデクテン法学の成果に基づきローマ法を抽象化して再構成したもので、フランス民法典における以上にローマ法的であり、その自由主義の故に社会主義者から批判され、その個人主義と非ドイツ性の故に、ゲルマニストや後世のナチスから批判されたものであった[149]

同草案は、個人主義という意味においては、フランス民法典をさらに論理化したものに過ぎないとさえ言われている[150]

なお、前述の平野義太郎も、元々はその著書『民法に於けるローマ法とゲルマン思想』において、ドイツの第一草案およびそれを継承した明治民法が個人主義の法典であることを正面から認める立場であった[151]

そこで、穂積陳重や富井政章らにおいては、農村由来の団体主義を基礎とするゲルマン・ドイツ民法ではなく、民法典論争の時点で世に出ていたザクソン民法典やドイツ民法第一草案を念頭に、家族制度が衰退し始め、個人間の取引が活発になってきている日本の社会状況においては、取引法たるドイツ民法の主義を採用すべきであると主張され、ひるがえってフランス民法・旧民法は身分法を規律する人事編を主部に置くことで、強固な家族制度を基礎とする身分による権利義務の変動を中心とする体系を採っており、ローマ法以来の封建時代の残滓を受け継いでいる点で不当であるとして、八束らとは逆に、個人主義的観点から旧民法を批判していた[152]

このように延期派も呉越同舟であったが、結論的には旧民法を廃してドイツ民法へ接近すべきという点では一致しており、明治10年代後半から20年にかけての文化・経済・政治的なドイツへの接近、特に明治憲法体制という背景が、ドイツ式のパンデクテン方式を採用すべきという穂積陳重・富井らの主張が結果的に受け入れられやすい背景となったのではないかとの主張がある[153]

もっとも、ドイツ法を全面的に採用すべきという主義に伊藤が立ったわけではなく、旧民法施行延期が決まったのちには、一国の法に固執することなく、参照できるものはできるだけ広く参照して修正案を制定すべきと主張している[154]

また、井上馨の辞任を受け、明治20年10月5日付けで伊藤から山田に送られた書簡においては、ボアソナードの財産法及びロエスレルの旧商法が複雑に過ぎ、その内容も新奇の学説の実験場のようで日本社会の実態に合致しないとしてその出来に不満を示し、お雇い外国人の草案を放棄して、独自に「ナポレオン法を基礎とし、日本に適否を考慮し修正・・・以て日本の法律を造り出す」べきではないか、との立場を示している[155](山田は時間がかかりすぎることを理由に反対[156])。

伊藤は、民法典論争の後、松方内閣の後を受けて再び首相に就任したことから、条約改正のため、改めて民法典早期成立を推進し、延期派・断行派両派に配慮して議事の進行を取りまとめ、穂積陳重と共に両派の激しい対立の止揚を主導した。それによって、梅が事前に危惧し、旧民法断行論を採る理由の一つとなった、英仏両者の激烈な対立により民法典成立がいたずらに長引くといった事態に陥ることなく、個々の委員は具体的により良い法典を作成すべく一致団結してまい進し、とうとう母法であるドイツ法よりも先に成立させるまでに至った[157]

憲法・行政法・訴訟法等においてはともかく、明治政府が政治的にプロイセンを模範としたことと、明治民法がドイツ法およびドイツ法学の影響を受けて成立・発展したこととの因果関係は必ずしも明らかでない[158]。法典論争の本質を保守対革新の争いと見る論者においても[159]、憲法以外については、単にドイツ法学の優秀性が高く評価されていただけであるとも論じられている[160]

家制度の歴史的必然性とその限界[編集]

先祖伝来の有限の家産の上に成り立ち、多数人の緊密な協力を有する産業、特に農業を決定的な中核とする社会においては、個々の構成員の共同体からの自由な離脱や所有物の処分、均等平等相続制を採用して家産の細分化を許すときは、家業がたちゆかなくなって共同体全員が共倒れになるから(中国中華民国)やフランスで実例がある[161])、個人主義・自由主義・平等主義はその経済的基盤を欠いており、それとは逆に、家長による統率と、家産の同一性を維持するための単独相続制が導かれることは、ほとんど全ての民族が経験したことである[162]

旧民法・明治民法が採用した長男「単独」相続制は、二、三男をプロレタリアとして農地から投げ出すことを強制するものであるという批判がマルクス主義の見地からなされてきたが、日本の狭少な耕地と低い生産力、地租の重圧という諸条件の下で仮に法律上均等分割相続を規定したとしても、農民のプロレタリア化は免れないので、当を得ないとの批判もなされている[163]

この点、封建制度を打破して所有権絶対や自由平等の思想を確立したフランス革命は、農村においてその弊害を直ちに現し、平等思想に基づく均等分割相続によって農耕地が極度に細分化され、農業が一時深刻な危機に瀕することとなったが、機械工業と大工場組織が次第に発達して、家産を捨てた労働者たちを吸収した[164]。ここにおいて、社会の多くを占める賃金労働者は、長子相続制を採用してまで継承すべき家産を持たず、異なる世帯の戸主によって統率されるべき経済的基盤を失っていたのである[165]

一方、当時の日本は未だ資本主義経済の勃興期に過ぎず、その中核をなすのは未だ農業であるとともに、農村は危機に瀕しつつあったから、その対処が問題となっていた[166]

農村の疲弊と救貧策をめぐる対立[編集]

政府主流派は断行論であったが、政界は政府系議員、民党系議員共に各々の立場から延期派・断行派に分裂しており、民法典論争をして単なる保守対革新の対立とみることは実態に合わないと指摘されている[167]

明治政府の財政基盤は当初脆弱であり、地租改正の重い負担によって農村は疲弊していた。政府・民党共にこの問題は認識されており、帝国議会において、積極財政主義による救済をすべきか、緊縮財政主義によって民力休養・政費節減を図るべきかで激しく対立していた。政府側の非主流派であった井上毅は、地租維持はやむを得ないまでも、農村の安定化を図って市場経済に対応させるべきであり、そのためには戸主の権限を強化して家制度を確立し、農家の解体を防ぐことが合理的であるとの構想に至り、政府の方針に反して旧民法延期論に回った[168]

また、議会の多数を占める民党側でも、農村保護・家族経営の安定化の観点自体は一致していたことから、旧民法は弱者保護の観点が(特に財産法において)不十分であるとして延期論を支持する勢力が出現した[169]

これに対して、明治民法典の起草者の理論的指導者であった穂積陳重が採ったのは、イギリス流の社会ダーウィニズムの影響を受けた法律進化論であり、そこから導き出されるのは家族生活の段階的解体のみならず[170]、自由競争の促進による適者生存の原理であったと解しうる[171]

つまり、穂積八束による旧民法・明治民法に対する批判も、単なる保守的・封建的イデオロギーにつきるものではなく、財産法にも一体となって及ぶ弱者保護の観点からの立論であり、ドイツ民法第一草案に対するギールケらの批判と同一の性質をもったものと理解すべきであるとの主張がある[172]

(ただし、穂積陳重の法律進化論は、「法律」も進化する、というだけであって、その方法は単純な生物学上の進化論の応用ではなく、あくまでも比較法学であり、弱肉強食の生存競争、適者生存、自然淘汰のダーウィン理論を「社会」一般にそのまま当てはめようとした(社会進化論)わけではないことも指摘されている[173]。)

民法典論争の顛末[編集]

新時代への対応[編集]

穂積陳重の延期論は、近代的民法典を作るにはその編成を古いフランス民法式によらず、ドイツ民法式によるべきとするものである[174]

そこでパンデクテン方式法律行為理論を採用し、旧民法に多数あった定義、民法の大原則、分類などの規定をほとんど削除して条文数を大幅に圧縮し、解釈の弾力性を高めて、激動する社会の変化に備えた[175]

また、ナポレオン法典は法人を個人と国家の間に位置し、個人を圧迫し、国家を阻害する中間団体と見て敵対的姿勢を採っていたが、法人設立許可主義の原則を特別法で緩和しようという構えを見せた旧商法の立場から一歩進めて明治民法は準則主義へ転換し[176]、ドイツ民法を参考にして、来たるべき資本主義社会の到来に備えて法人の規定を拡充させたのも重要である[177]

一方で、民法が古典的自由主義に傾きすぎ、弱肉強食の過当競争を招くとの批判に対しては基本的にこれを退け、社会政策的な規定は、私法の基本法たる民法典に盛り込むべきでなく、別個の特別法の制定によって弱者救済を図るべきとしている[178](例外は後述)。

慣習・倫理の考慮[編集]

旧民法が慣習・倫理に反するとの批判への対応として、明治民法は個別の制度についても修正を加えた。

例として、

  • 慣習法が成文法に優先すべき場合のあることを個別・例外的にのみ認めるのではなく、一般原則として認める(現92条)[179]
  • 金銭に見積もりえないものについても債権の目的となることを認める(現399条)[180]
  • 精神的損害等の無形的損害についても、不法行為による損害賠償の対象に含める(現710条)[181]

なお、成文法が日本の慣習法の集大成ではなく、外国法の再構成であることから、日本の慣習をどの程度成文法に優先すべきかは、起草者以来の難問となっている[182]

旧民法の債権譲渡自由が古典的自由主義・個人主義に過ぎ、弱肉強食の経済社会を招くとの批判に対しては、

  • 譲渡自由を原則としつつも、「性質上」できないものがあることを明示し、また当事者の「特約」によって予めこれを禁止できる(現466条)ものとした[183]

前述のように旧民法編纂過程で大きな批判を浴びた物権法分野についても、ボアソナードの土地法構想は大きく変換されるに至っている[184]

  • 日本の慣習に反すると批判された旧民法の用益権・賃借権[185]・使用権などを廃止して所有権を拡充し[186]
  • 賃借権を原則債権と構成して、借地関係については債権たる借地権と、物権たる地上権の二元主義にした[187]

これは、物権と債権を明確に区別するパンデクテン方式の帰結の一つである[188]

なお、現行法が賃借権を債権と構成したのは、賃借人の保護を弱め[189]、明治政府の権力基盤であったブルジョワ寄生地主階級を保護する政策的意図に出たものと批判する説[190]、それは結果論であって、起草者の主観的意図においては、物権として別個に制定した地上権が建物所有を目的とする土地賃貸借の原則形態として利用されるはずと考えていたとの説がある[191]

また、かつて石造建築が主であった西洋諸国と異なり、木造建築が多く、土地と建物を一体と見ない日本独自の制度として[192]法定地上権(現388条)を新設する。

小作については、普通の土地賃貸借契約によるものと(債権)、物権として事実上所有者と大差無い保護を受ける永小作権とに区別する形を採っている[193][194]

旧民法は農村に不適合で、その現れとして入会権について全く規定していないとの批判に対しては、膨大な慣習調査の結果を咀嚼する時間の無いことから、やむをえず妥協的立法で済ませている(263・294条)[195]

相続法については、旧民法でフランス法流の技術的規定と日本固有の家督相続制が矛盾衝突し、法技術的に未熟であったため[196]、ドイツ民法草案を介してローマ法の遺言相続主義の法理を採り入れ、学理的整備を行っているが[197]、通説は根本的修正には至っていないと解している[198]

重要な修正点としては、法定推定家督相続人の去家禁止の規定を設け、家制度の強化を図ったこと[199]、一方で戸主以外の家族員にも配慮して、戸主以外の死亡時における「遺産相続」においては、家督相続のような単独相続制を採らず、同順位の相続人が複数いるときは平等主義で分割されるものとしたことが挙げられる[200]

延期派による明治民法の評価[編集]

元老院・法律取調委員として旧民法の編纂に携わりその欠点を熟知し、貴族院議員として法典論争の延期派をリードした村田保は、第九帝国議会(明治29年)においては、

  • 冗長な教科書法典であったのがスリム化されたこと
  • 用益権、使用権、住居権、賃借権といった日本の慣習に反する規定が除去されたこと
  • 外国人起草によらず日本人自身の起草に成ること

を挙げて明治民法財産法成案に満足である旨述べている[201]

一方、延期派の穂積八束は、法典調査会査定員として、明治民法の審議を通じて、民法典論争以来の主張を繰り返したが、その姿勢も弱く、積極的な支持者も無く、多くの重要局面で家の論理の貫徹を阻止されたから、八束には到底受け入れがたいものであった[202]。明治民法によって「忠孝」を全うすることは不可能となったのである[203]

施行間近となった明治民法に対して、八束は次の様に述べて切歯扼腕している[204]

欧州の範型に鋳造されたる新法典は将に其成るを告げんとす。今にして日本固有法を説くは死児の齢を数ふるに似たり。然れども予は好で法の過去を論ず。死児は蘇すべからず。我数千年の民族固有法は他日天定め人に勝つの時なきを絶望せざればなり。家といふ観念の如き蓋其一なり[205]— 穂積八束

なお、穂積八束は穂積陳重が中心となって成立した明治民法にはほとんど反対していなかったとの事実認識に立つ論者[206]もある。

民法典論争延長戦[編集]

起草者の梅謙次郎もまた明治民法に満足したのではなく、家族制度は封建の遺風なりと断じ、これを保守しようとする明治民法は必ず改正の必要に迫られると批判している[207]

つまり、「民法出でて忠孝亡ぶ」の論争は、明治民法の成立を以って決着せず、民法施行後に持ち越されることになったのである[208]

法典調査会でもほとんど支持者のなかった穂積八束の学説は、時代錯誤的なものとして法学界ではほとんど孤立無援であったが[209]、帝国大学の教授という立場から、教育界には強い影響力を有していた[210]

そこで、八束の影響を受けた教育界を中心として、明治民法は非道徳的・個人主義的に過ぎるから、忠孝の道徳と法律の実際を一致させるべきとして、旧民法と同様に改めて批判と改正論が浴びせられることとなる[211]

例えば、かつて延期派に属し、第1次山本内閣文部大臣として入閣した奥田義人により、個人主義の国であるスイス民法で認められている程度の家長権や家産制度すら明治民法は認めていないと指摘され、江木千之は、貴族院において明治民法は「個人主義の極端」であり、「是ほど家族制度を破って居る国は恐らくあるまい」と嘆いて、民法改正を提案したほどであった[212]

しかし、明治民法が基礎に据えた自由主義の下[213]、資本主義が発展し、都市を中心に賃金労働者が増加し、農業従事者もまたその多くが没落して小作農化すると、前述のように長子相続制度を採ってまで継承・維持すべき家産はほとんど先祖の祭器・墳墓のみとなり、また兄弟姉妹が独立別個の世帯を持って別々に暮らすのが常態化するから、国家の強制力をもってしてまで、戸主の統率によって居住・移転・婚姻の自由を制限すべき必要性は無くなる[214]

むしろ、立法者が危惧していたように、戸主権の弊害が法律問題として顕在化しており、また前述のように、日本においても資本主義の発達に伴い農村共同社会が解体され、都市に人口が流入して家族生活が変化して戸主権を必要とする社会的実態を失っていたから、法曹界においてはむしろ戸主権の制限を加え、また女子の地位向上・男女平等を実現しようとする改正論が主流であった[215]石坂音四郎穂積重遠のように家制度の再評価を主張する少数の民法学者もいたが、厳格な分割相続制度の貫徹を放棄した英米仏瑞等の相続制度を比較研究した上で、共同体生活の保護を主眼としたものであって、既にそれは復古的保守主義とはかけ離れたものであった[216]

また、長男単独相続制の問題点は、「単独」相続であることではなく、法律で「長男」単独相続制を規定したことであった[217]。明治以前の庶民、特に農民においては、必ずしも長男相続に固定されず、具体的事情に応じて様々な相続形態が選択されていたからである[218]

そこで、明治民法の起草者中早世していた梅を除き、穂積陳重や富井政章ら、更に陳重の息子穂積重遠が中心となって社会の実態に合わせた改正事業に取り組み、1925年(大正14年)の「親族法改正要綱」「相続法改正要綱」への結実を経て、戸主権による住居指定に従わなかったとき「裁判所の許可」のあるときに限って離籍措置を採る事ができるとして戸主権の制限を図った改正案が成立するなどの成果を見ながら[219]、1944年(昭和19年)の中断を挟みつつ[220]日本国憲法制定を受けて我妻栄らによる戦後の家族法の全面改正に至るのである[221]

なお、大正の要綱は「進歩的」に過ぎるので「もちろんこれは政府の採用するところにならなかった」[222]との事実認識に立つ学者もいる。

よくある誤解について[編集]

「民法出デテ忠孝ブ」と書かれることがあるが、原文では「フ」である。

この穂積八束論文が有名なため、しばしば民法典論争は八束が起こしたものと誤解されることがあるが、実際には明治22年5月の法学士会意見書に始まるものである[223]

八束が「ボアソナード案」や「ボアソナードの民法」を批判したとする書籍[224]がある。

しかし、前述のように八束が主に批判したのは日本人委員の起草になる旧民法人事編及び財産取得法中の相続に関する部分(明治23年10月法律98号)であると一般にはみられており、司法省時代のボアソナードの仏文の原案ではない[225]。ボアソナードの原案と旧民法家族法成案が異なる性質のものと指摘されていることは既述のとおりであるが、財産法についても、原案と成案は全く同一のものというわけではない[226]

また、旧民法の家族法部分はボアソナードの起草ではないため、「ボアソナード民法」は俗称に過ぎない[227]

ただし、この身分法(家族法)部分についても、その第一草案はボアソナードの査閲を経て成案となった(と推測される)ことから[228]、明治民法全体がボアソナードの法典編纂事業の一角をなすものとして、このような呼称もまったくの誤りとは言えないとも指摘される[229]

しかし、前述の中村菊男によれば、これは原案第一草案がボアソナードと無関係なところで大幅に修正された事実を無視して、あたかも旧民法成案全体がボアソナードの意思のままに成立したかのような印象を与えるもので、旧民法全体を「ボアソナード民法」と呼ぶのはミスリーディングであるとも批判されている[230]

フランスが革命の国であるために、その家族法も平等主義を徹底したものであったというのは通俗的な誤解である[231]

確かにナポレオン民法典は近代的精神を確立した画期的なものではあったが、ほとんどの全ての立法がそうであるように妥協的性格をも有しており、旧時代の価値観に立脚した規定も少なくなく、外国人人権を制限し、夫が家族の長であることを明文化して強力な家父長制度を採り、ローマ法や封建時代にさえ例をみないほど家庭内における妻の無権利能力制度を徹底し、ドイツや明治民法に比べても女性や非嫡出子の立場が弱いなど、不平等の性格をも持ち合わせたものであったと指摘されていることは既述の通りである(家族法は1970年代に根本的に改正された)[232]

商法典論争との関係[編集]

既に刑事法典を完成させた実績のあるボアソナードが商法典を起草しなかったのは、経済的・政治的事情によりその成立を急ぐにもかかわらず、民法起草に取り掛かったばかりで手が空いていなかったという事情による[233]

商法典の起草ははじめからドイツ人ロエスエルに依頼したわけではなく、1876年(明治9年)にオランダ人アダム・ラパール(Adam Rappard)に委嘱したのが最初であるが、イタリア商法典のオランダ語訳を作った程度で、ラパールの起用は失敗した[234]

一般に、ロエスエルの旧商法はドイツ法系であり[235]、その為に仏法系の旧民法との矛盾抵触が問題となったと言われているが、ロエスレルの起草した商法典は、ドイツ法よりもむしろフランス法の編成を基本とし、西洋諸国法を満遍なく参照した比較法の産物であり、ドイツ人がドイツ語で書いた草案だから当然にドイツ法系だというのは通俗的な誤解に過ぎないと主張する学者もいる[236]

もっとも、民法が未完成であったことから、単独でも施行できるように、旧商法は民法と重複する規定を多数置いていたため、いずれにせよ民法との重複・矛盾が問題となり[237]、また日本の商慣習を全く排除する極端な主義を採っていたことから、商法典論争で批判されるに至った[238]

梅謙次郎の承認するところによれば、法典論争において延期派が勝利した主因は、新法典が日本の慣習に反する事項を多く含んでいたからであり、そしてその慣習違反は主として旧民法人事編にあったことからして、世に「人事編民法を延期せしめ、民法商法を延期せしむ」と風評されたと伝えられている[239]

一方、民法典論争のイデオロギー的闘争の巻き添えを受けて商法典までもが延期された、とする従前の理解に反対し、「民法出て忠孝亡ぶ」のキャッチフレーズが後世に与えたインパクトが強すぎるあまり[240]、商法典論争は1891年の穂積八束論文よりも前に、1890年の第1回帝国議会を舞台に争われたものであるという事実が見過ごされており[241]、もっぱら技術的・実際的な議論に終始した商法典論争においては、「民法出て忠孝亡ぶ」に象徴される極度のイデオロギー的闘争は商法典論争と全然無関係であるばかりでなく[242]、商法典論争をして法典論争の「関ヶ原」、民法典論争をして「大阪の陣」と穂積陳重によって評されたように、むしろ商法典論争こそ法典論争の「主戦場」であり、その時点で大勢は既に決し、後の民法典論争は延期派の「追討戦」に過ぎなかったと理解すべきである、との商法学者の主張もある[243]

刑法典論争との関係[編集]

ボアソナードの起草になる旧刑法は、旧民法に先駆けて1882年(明治15年)1月1日から実施されていたが、早くも1884年(明治17年)には刑法改正事業が着手され、明治40年4月24日法律第45号をもって結実した(現行刑法典)[244]

現行刑法自体は、明治末期の時点における刑法学の理論状況や社会状況を反映したものであるが[245]、旧刑法実施後すぐに改正事業に着手されたことや、民法典論争との関係は明らかでない[246]。旧刑法改正事業の中身を検討する限り、とりわけ旧刑法実施直後の刑法改正事業は、単に法典としての形式を更に整頓するに過ぎなかったとも論じられている[247]

明治維新は絶対主義革命であったとする前述の平野らの講座派マルクス主義的歴史観を正面から肯定する論者からも、現行刑法典は主としてドイツ刑法を参考としつつ実務の経験に基づいてボアソナードの旧刑法を改善したものであり、出版条例などの治安立法(刑法典の特別法)と異なり、絶対主義とは無関係であると論じられている[248]

脚注[編集]

  1. ^ 穂積陳重『法窓夜話』97話
  2. ^ 穂積重遠(1948)7頁、富井(1922)62頁、谷口・石田(2002)9頁
  3. ^ 穂積重遠(1948)7頁
  4. ^ 穂積重遠(1948)7頁、富井(1922)63頁、谷口・石田(2002)9頁
  5. ^ 富井(1922)63頁
  6. ^ 衣笠保喜「公事」(『社会科学大事典 5』(鹿島研究所出版会、1968年) ISBN 978-4-306-09156-6) P190
  7. ^ 松波ほか(1896)12頁、富井(1922)64頁
  8. ^ 松波ほか(1896)11頁、富井(1922)63頁
  9. ^ 穂積重遠(1948)4-7頁
  10. ^ 松波ほか(1896)11頁、富井(1922)64頁、穂積陳重「法窓夜話」97話
  11. ^ 大久保・高橋(1999)125、126頁
  12. ^ 鵜飼ほか5(1958)7頁
  13. ^ 鵜飼ほか5(1958)7頁
  14. ^ 鵜飼ほか5(1958)9頁
  15. ^ 鵜飼ほか5(1958)16頁
  16. ^ 鵜飼ほか5(1958)9、16頁
  17. ^ 鵜飼ほか5(1958)10頁
  18. ^ 鵜飼ほか5(1958)13頁
  19. ^ 鵜飼ほか5(1958)10頁
  20. ^ 谷口・石田(2002)10頁
  21. ^ a b c 穂積陳重・法窓夜話97話
  22. ^ a b c 谷口・石田(2002)11頁
  23. ^ 石井良助『民法典の編纂』(1979年)218頁
  24. ^ 大久保・高橋(1999)22-25、91、93頁
  25. ^ 富井(1922)65頁
  26. ^ 富井(1922)66頁、岩田(1943)10頁
  27. ^ 鵜飼ほか(1958)30頁
  28. ^ 鵜飼ほか5(1958)30頁
  29. ^ 鵜飼ほか(1958)31頁
  30. ^ 富井(1922)66頁、谷口・石田(2002)11頁
  31. ^ 富井(1922)67頁
  32. ^ 浅古ほか(2010)294頁
  33. ^ 谷口・石田(2002)13-14頁
  34. ^ 大久保・高橋(1999)9、14、173-176頁
  35. ^ 大久保・高橋(1999)9、11、14頁
  36. ^ 大久保・高橋(1999)7頁
  37. ^ 大久保・高橋(1999)9頁
  38. ^ 大久保・高橋(1999)9、10、151頁
  39. ^ 大久保・高橋(1999)151頁
  40. ^ 大久保・高橋(1999)9頁
  41. ^ 大久保・高橋(1999)9頁
  42. ^ 大久保・高橋(1999)10頁
  43. ^ 大久保・高橋(1999)10頁
  44. ^ 大久保・高橋(1999)11、235頁、浅古ほか(2010)309頁
  45. ^ 大久保・高橋(1999)281頁
  46. ^ 浅古ほか(2010)309頁
  47. ^ 大久保・高橋(1999)174-181頁
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参考文献[編集]

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  • 宇野文重『法政研究』「明治民法起草委員の「家」と戸主権理解 : 富井と梅の「親族編」の議論から」(九州大学、2007年)
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  • 谷口知平・石田喜久男編『新版 注釈民法(1)総則(1)改訂版』(有斐閣、2002年)
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  • 平野義太郎『日本資本主義の機構と法律』(明善書房、1948年)
  • 星野通編著『復刻増補版 民法典論争資料集』(日本評論社、2013年、初版1969年)
  • 穂積重遠『新民法讀本』(日本評論社、1948年)
  • 穂積重遠『百萬人の法律学』(思索社、1950年)
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  • 牧野英一『刑法に於ける重点の変遷 再版』(有斐閣、1935年)
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  • 蓑輪明子「旧民法延期論の台頭とその背景」(「日韓相互認識」研究会、2009年)
  • 宮川澄「旧民法と明治民法」『立教経済学研究 15巻4号』(立教大学、1962年)
  • 我妻榮『民法研究VII 親族・相続』(有斐閣、1969年)
  • 我妻栄(遠藤浩・川井健補訂)『民法案内1私法の道しるべ』(勁草書房、2005年)
  • 渡辺洋三・利谷信義編著『現代日本の法思想』(日本評論社、1972年)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]