民法典論争
民法典論争(みんぽうてんろんそう)は、1889年(明治22年)から1892年(明治25年)の日本において、旧民法(明治23年法律第28号、第98号)の施行を延期するか断行するかを巡り展開された論争。ドイツの法典論争とどの程度共通するかは学説上争いがある。
本項では、その対象となった旧民法及び民法典編纂の歴史についても扱う(民法 (日本)参照)。
目次
- 1 概要
- 2 旧民法の呼称について
- 3 明治維新前の日本民法の状況
- 4 法典編纂の動機
- 5 仏法導入の動機
- 6 旧民法以前の編纂事業
- 7 大木喬任の旧民法編纂事業
- 8 井上馨の法典編纂・条約改正事業
- 9 山田顕義の法典編纂事業
- 10 法典論争
- 11 商法典論争
- 12 民法典論争の激化
- 13 民法典論争院内戦
- 14 民法典論争最終戦
- 15 民法典論争の主要論点
- 15.1 概要
- 15.2 即時断行、後日修正の是非
- 15.3 自然法、天賦人権論
- 15.4 外国人起草の是非
- 15.5 倫理・慣習との関係
- 15.6 キリスト教と忠孝の関係
- 15.7 親権
- 15.8 扶養の義務
- 15.9 嫡出推定
- 15.10 準正
- 15.11 夫婦間の契約取消訴権
- 15.12 相続法の位置付け
- 15.13 家族法を民法典で規定すべきか
- 15.14 財産法の基本的性格
- 15.15 債権譲渡
- 15.16 非金銭的利益の保護
- 15.17 法人
- 15.18 用益権、使用権・住居権
- 15.19 賃借権の物権化
- 15.20 物権法の不備
- 15.21 先取特権
- 15.22 主物と従物の処分
- 15.23 証拠法
- 15.24 時効
- 15.25 教科書法典の是非
- 15.26 法典の難解さ
- 16 民法典論争の顛末
- 17 民法典論争延長戦
- 18 民法典論争の本質・評価を巡る論争
- 19 脚注
- 20 参考文献
- 21 関連項目
- 22 外部リンク
概要[編集]
この論争と前後して、商法典・刑法典の制定、及びその是非を巡る論争(商法典論争・刑法典論争)も行われて、旧商法の施行延期・一部施行と旧刑法の改正着手が行われた。
商法典論争を含めて「法典論争(ほうてんろんそう)」[1]又は「法典争議」[2]と呼称するが、文脈によっては、もっぱら民法のみを指して法典論争(又は法典争議)と言うこともある[3]。
多くの法学者は、民法典論争における延期派の旧民法批判に立法技術的なもの(法文が繁雑・難解である事)と内容的なもの(倫理・慣習に背く事)の二種があるとした上で、前者については確かに当を得たものであったことを認めつつ、ドイツ民法第一草案を始めとする比較法研究の成果を踏まえて、旧民法(特にその財産法部分)の欠点を克服して成立したのが現行民法典であると解する点で一致している[4](後掲外部リンクも参照)。
後者については、延期派の穂積八束の「民法出デテ忠孝亡フ」のスローガンに象徴される、進歩的な旧民法に対する保守派の反発が民法典論争の本質であり[5]、論争の結果、旧民法中の家族法部分につき、戸主権の強化を中心として半封建的に修正して成立したのが明治民法であったとの理解が講座派マルクス主義法学者平野義太郎や法制史学者星野通らによって主張されており[6]、マルクス主義的歴史観(唯物史観[7]、発展史観[8])の強い影響により、第二次世界大戦前後の日本で一時通説の地位に在った[9]。
これに対しては、家族法部分における旧民法公布案の半封建性が指摘され、旧通説は主観的・イデオロギー的に過ぎ実証性を欠くものとして、法学上は既に少数説に転じている[10]。
何故にフランスやドイツの民法典を範としたかについて一言する。明治のはじめに、わが国に伝承された欧州の法律学は、主として、オランダ及びフランスのそれであった。政治理論においては、イギリスの学説が大いに輸入されたけれども…[11]…ことに、フランスの法律学は、徳川時代の最後に幕府の使者に随行した箕作麟祥たちによって輸入された。……それなら新たに起草委員に任命された梅・穂積・富井の三人が、何故に、ドイツ民法典の第一草案に範をとったかといえば、その草案は、ナポレオン法典施行後の百年の間の民法学の大きな進歩を取り入れ、その編別と体裁において、フランス民法典よりも優れていたからである。
なお、細かな点では、三委員の作った新しい草案が……旧案に比して一層家族制度的なところもないではない。そのことを指摘・強調する学者もいる。しかし、それほど顕著なものとは思われない[12]。
— 我妻栄(現行家族法改正法起草者)
後述するように、平野、星野といえども全面的に明治民法が封建的・反動的であったとの立場を採るものではないが、日本史の教科書や法学の通俗書等においては、旧通説をより徹底した記述を採用するものが少なくないようである。
旧民法の呼称について[編集]
民法典論争でその対象となった明治23年法律第28・98号、いわゆる「旧民法」の内、最も激しく争われた家族法部分(98号)は財産法の起草者ボアソナードの起草ではなく、磯部四郎ら日本人委員の起草である為[13]、全体について「ボアソナード起草「旧民法」[14]」と呼ぶのは誤りであると批判されている[15]。
ただし、人事編(民法総則の一部及び親族法に相当)を始めとする旧民法家族法(身分法)部分についても、法制史学者石井良助の主張によれば、ボアソナードの起草ではないにしてもその査閲を経たと推測される(疑問視する見解もある[17])ことから[18]、旧民法全体がボアソナードの法典編纂事業の一角をなすものとして、このような呼称も全くの誤りとは言えないとも指摘される[19]。
しかし、後述するように、ボアソナードと無関係なところで原案が大修正されて旧民法成案となった事実を無視して、あたかも旧民法全体がボアソナードの意思のままに成立したかのような印象を与えるもので、家族法を含めて「ボアソナード民法」と呼ぶのはミスリーディングであると批判されている[20]。
そこで、「ボアソナード民法典」を意識的にボアソナード起草部分だけに限定して指称する文献もあるが[21]、以下本項では、それ自体に争いのある「ボアソナード民法」の呼称を用いない。
明治維新前の日本民法の状況[編集]
成文法中心時代[編集]
上世法の中核は、8世紀初頭に成立した中国式法典である養老律令であり、民法の規定もその要部を占めていた[22]。
為政者の制定する成文法重視がこの時代の特徴であるが[23]、12世紀末頃に律令法はその効力を失う[24]。
慣習法中心時代[編集]
中世社会で重きをなしたのが自然発生的な武士及び各荘園ごとの不文の慣習法であり、成文法はその基礎の上に、特定の重要事項を明文で定めるのが任務とされた[25]。
特にその代表である鎌倉幕府の御成敗式目(貞永式目)は室町幕府にも継承され、戦国時代の分国法にも大きな影響を与え、法令としての意味は無くなった江戸時代においても、寺子屋の教育を通じて広く一般民衆に浸透した[26]。
近世(江戸時代)においても、地方ごとの慣習法重視は同じであるが、江戸幕府の徳川百箇条などの小法典のほか、永い平和の中での商工業の発達に対応して、単行法の数が非常に多くなっている[27]。
この分野につき、代表的研究者中田薫(後述)の文献群に詳細である[28]。
しかし、規定の大部分は刑事法的な禁令であったから、日本全国に広く通用する民法典は存在しない状況であり[29]、民事裁判の適用は当事者間の話し合い(相対)による解決が付かない場合にのみお上が仲裁に乗り出す名目であった[30]。
もっとも、例えば為替手形、小切手、船荷証券については、外国人研究者により、イタリアと並び世界最古かつ最高峰の慣習法体系を有していたことが明らかにされており、江戸時代の日本法が野蛮な後進的なものだったとは言えないと指摘されている[31]。
この手形慣習は、1869年(明治2年)、金本位制度への貨幣制度改革によって一時廃止された[32]。
ヨーロッパ法との比較[編集]
日本に限らず、一国の統一法典は強力な中央集権体制を前提としており、ヨーロッパ諸国においても、マルティン・ルターの宗教改革に伴う世俗的君主権の強化(絶対主義)の確立以来、法典編纂の構想自体は早くからあったが、啓蒙主義の影響を受けた君主が官僚を利用して法典編纂事業を本格化させるのは18世紀中葉以降である[33]。
封建時代に於ては一郡一村毎に君主のやうなものが有りました。……尤も……オホアタマが無かったといふ国は有りませぬ。フランスにはフランスの国王があり、……また日本にも……其の上に天皇陛下といふものが有ります。ドウして封建が立ったかといふと、蒸気もなく電信もなく鉄道もなく、命令をするものが其の命令を忽ちに下に達するといふことが出来なく、オホアタマの適用する権力もなく、また方法もないから、君主を配る必要が起ったので有ります。……君主権は分かつべからざるものであります。……分ったにしても、互にイクサをしていけませぬから、それで君主権は分かつべからざるものといふことは、其の頃から起こりました。……然れば其れは何人が適当で有るかといふと、幼年といふわけにもいかず、また女といふことでも無く、ここに於いて長子に与へるといふことが、これが封建制の長子権の起る原因で有りませう。併しながら……日本では商業人まで長子権は持って居りますがエウロッパでは平民……にはありませぬ。君主制を維持する必要の部内だけに長子権が有って、……要さないところは、それを要さなかったもので有ります。
……此の封建政体を……エウロッパに於てブチコワスに付ては四百年の星霜を要しました。アナタの国では両三日でおコワシなすったが……エウロッパの大名が非常に強くって、日本のお大名は大変に弱かったからでありました[34]。
— ボアソナード、明治20年明治法律学校第五回性法講義(通訳磯部四郎)
1532年、グーテンベルグの活版印刷術によるローマ法学の普及の成果として[35]、諸侯や都市当局による不当な逮捕・処刑を改善すべく、刑事訴訟法分野につき、イタリアの刑事法学をモデルに編纂された神聖ローマ帝国最初の統一法典『カール5世の刑事裁判令』(カロリーナ法典)が成立[36]。
しかし、皇帝中心の政治改革は諸侯の抵抗にあって失敗し、同法典は各地域の条例・慣習が無い時のみ適用される普通法として補充的に適用されるに過ぎないものとなる[37]。
1671年には、ライプニッツがオーストリアでの統一法典編纂を提案[38]。ライプニッツは帝国法の法典化計画も立てていたが、実現しなかった[39]。
フランスのルイ14世も、絶対王政を背景に1767年と1772年に王令による慣習法の廃止を試みたが、諸地方の抵抗に合い、全国的には適用されなかった[40]。ボアソナードの主張によれば、フランスの封建政体が倒れたのは1789年のフランス革命の時ではなく、「ルイ14世千七百年の時」であるという[41]。
1804年3月、ナポレオンに依り、フランス革命の総決算としてフランス民法典が成立[42]。同5月18日、ナポレオンが即位しフランス第一帝政開始。
ヨーロッパ列強とアジア諸国の動向[編集]
東洋の法で裁かれることを嫌う欧米列強は、不平等条約ことにその治外法権(領事裁判制度)について、現地の国が西洋法的な法典を有しておらず、裁判の予測可能性がたたないことを名目としていたが、これは各国の主権を侵害するものであり、日本を含むアジア諸国において、領事裁判制度撤廃の動きが出てくることになる[43]。
法典編纂の動機[編集]
対内的な国内法の統一と、対外的な不平等条約改正という二つの要素が法典編纂の動機である[44]。
明治初期においては、条約改正より国内法の統一に重きを置いていたと考えられる[45]。
内的要因[編集]
1868年(明治元年)、明治維新がなると、五箇条の御誓文において、「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」ということが新政府の基本方針の一つとなる[46]。
そこではまず、人民の権利を確保して不公平を無くすことと、地方ごとの法制度を全国的に統一し、種々の不便を無くし社会基盤を整備することが意識された[47]。
なお、この年には刑法分野につき、暫定立法として中国法系の『仮刑律』が成立している。
外的要因[編集]
当時、一国の統一的な民法典がないという状況自体はイギリス・ドイツ・スイス・ロシアなどにおいても同様であった[48]。
日本が特に成功を急いだのは、諸外国との不平等条約を改正して一日も早くしたいというのは当時一般社会の熱望する所であったが、治外法権撤去を行うには、民法・刑法をはじめとする泰西(西洋)の主義(ウェスタンプリンシプル)に基づく諸法典を制定するという事が、必要条件の一つとして要求されたからである(穂積陳重『法窓夜話』97話)[49]。
仏法導入の動機[編集]
学者の説明[編集]
明治政府がその法典編纂事業において、まずフランス法に依ろうとしたのは、当時のフランス法、特にその刑法典・民法典が世界的に模範法典とされていたから自然なことであったが[50]、更に進んで、フランス法が中核とする自然法思想が、旧弊を脱し、新しい時代を創ろうとする当時の日本人の思想に合致した為であると説明される[51]。
この点、マルクス主義からは、日本の進歩的な一部のブルジョワ自由主義派により、ヨーロッパの先進資本主義国であるフランスのブルジョワ法制を継受することで、立ち遅れた日本の資本主義の封建的障害を打破しようとしたためであると説明されている(平野義太郎)[52]。
歴史的背景[編集]
明治初期のフランス法の輸入は、江戸幕府の置き土産である[53]。
1862(文久2)年、開国後、西洋法知識の習得の必要を痛感した江戸幕府によってオランダに津田真道(「民法」の訳語の創始者[54])、西周が派遣され、西欧法への関心が高まる[55]。
1866年(慶応2年)、江藤新平、大隈重信、副島種臣ら後の明治政府の要人が長崎で極めて短期間ながらオランダ系アメリカ人フルベッキの教えを受け、西洋思想の影響を受ける[56]。
フランス語については、1848年(嘉永元年)には蘭学者村上英俊によって仏学研究が開始され、以後1861年(文久元年)頃の蕃書調所や、1865年(慶応元年)に横浜に設立された学校での教育により、普及が進む[57]。
フランス法については、1867年2月15日(慶応3年旧暦1月11日)、征夷大将軍徳川慶喜の名代として、フランス(フランス第二帝政)のパリの万国博覧会に派遣されていた徳川昭武の使節団に合流した外国奉行の栗本鋤雲によって、儒教的な聖賢の道に通じるものとして[58]、「ナポレオンコード」(民法以外を含む)の翻訳が計画されていたことが、明治2年の出版物で紹介されている[59]。
使節団の在仏中に大政奉還が成ったため、江戸幕府による法典編纂事業がなされることはなかったが、1869年(明治2年)、維新政府は、徳川昭武と共にフランスへ渡っていた旧幕臣の箕作麟祥にフランス五法典の翻訳を命じた[60]。
旧民法以前の編纂事業[編集]
概要[編集]
ボアソナードらに依る旧民法編纂の前に民法典編纂の中心となったのは、江藤新平と箕作麟祥である[61]。
旧民法制定以前の民法草案としては、
- 明治4年頃の制度局の『民法決議』
- 明治5年司法省明法寮の第一回稿本『皇国民法仮規則』
- 同第二回稿本『改刪未定本民法』
- 明治6年3月司法省『民法仮法則』
- 同年後半左院の『民法各規則草案』
- 明治10年・11年成立の司法省『民法草案』
の六つを数えうるが、前四者が江藤による法典編纂事業の産物である[62]。
この時代の草案は学習的要素が強く、法典よりも単行法を生み出す基礎となった[63]。
当時の研究状況[64]による情報不足から、江藤時代の成果として、『民法仮法則』のみを挙げる文献[65]もあるので注意が必要である[66]。
この他、1965年(昭和40年)に手塚豊(後述)によって発掘された『御国民法』があり、太政官制度局時代における『民法決議』の修正版と推測されるが、未確定[67]。
民法制定前の民法[編集]
明治維新から現行民法典施行までの間、私法領域について無法状態であったわけではなく[68]、この間膨大な単行法令が制定・改正されており、民法典やその特別法にも継承されたものが少なくない[69]。
また、1875年(明治8年)太政官布告第103号裁判事務心得3条により、単行成文法がない場合においても慣習により、慣習も無い場合は条理に従って裁判すべきものとされていた[70]。
これら単行法や条理の解釈においては、イギリス法の影響もあったが、フランス法及び自然法論の影響が特に強かったと考えられている[71]。
江藤新平制度局出仕時代[編集]
1870年(明治3年)には、五箇条の御誓文を受けて、太政官に制度取調局を設置[72]。
1月か3月かは争いがあるが後者が通説的である[73]。
制度局においては、箕作の仏民法典翻訳進行と共に、江藤を会長とする民法編纂会議が開催された[74]。
同年、仮刑律に代わる刑事立法として、『新律綱領』が成立。
基本方針[編集]
江藤は民法典編纂の動機につき、
日本と西洋とは慣習も違ふけれど、日本に民法と言ふものがあるがよいか、ない方がよいかと言へば勿論あるに勝さったことはない。されば仏蘭西民法を邦訳し、フランス民法と言ふ文字を日本民法と書き直せばいい。翻訳して直ちに頒布しよう。 — 江藤新平
と言ったと伝わる[75]。
西洋の法律用語に相当する日本語の訳語の存在しない時代であり、箕作は、翻訳の困難に直面したことからフランス留学を申し出たが、政府は、他に適当な翻訳者のいないことからこれを許可せず、仏人法学者ジョルジュ・ブスケを招聘して箕作の援助に当たらせた[76]。
箕作麟祥がフランス法典の翻訳に窮すると、江藤は「誤訳をも妨げず、唯速訳せよ」と言って催促したと伝わる[77]。
この「誤訳をも妨げず、唯速訳せよ」発言については、多くの文献は初出『江藤南白 下』(的野半介著)に基づき[78]、制度取調局(制度局)長官、左院副議長を経て、1872年(明治5年)4月25日に江藤が「司法卿になった後」の言であるとするが[79]、江藤が「中弁」の時(明治2年)であったと記述[80]する法学者もいる。
さう云ふ塩梅に、実に五里霧中で、翻訳をして居る中に、明治新政府は、頻に開明に進み、其翌年、明治三年には、太政官の制度局と云ふ所に其時、江藤新平と云ふ人が中弁をやって居りましたが、民法を、二枚か三枚訳すと、すぐ、それを会議にかけると云ふありさまでありました。これは変は変だが、先づ、日本で、民法編纂会の始まりました元祖でございます、(喝采)其時分「ドロワ、シビル」と云ふ字を、私が民権と訳しました所が、民に権があると云ふのは、何の事だ、と云ふやうな議論がありまして、私が、一生懸命に弁護しましたが、なかなか激しい議論がありました。幸に、会長江藤氏が弁明してくれて、やっと済んだ位でありました[81]。
— 箕作麟祥、明治20年9月15日明治法律学校、始業式演説(『箕作麟祥君傳』所収)
ただし、こんにち仏語の「ドロワ、シビル」(droits civil)の訳語としては、自由民権運動にいうような公法的意味での「民権」ではなく、「私権」が適当である[82]。民に私法上の権利がある事は、最初期の明治政府においても問題なく認められている[83]。
なお、江藤新平が正式に民法編纂事業に関与したのは、箕作の言う明治3年ではなく、制度分局御用掛兼務を命じられた明治4年2月からと解すべきとの主張[84]もある。
批判・評価[編集]
江藤の拙速主義は制度局内部からも批判があり、津田は、
と言ったという[85]。
法典だけ公布しても、それを解釈適用する法官がいなければ無意味だというのが津田の慎重論の論拠である[86]。
先生の遠見は実に敬服の至りである。……国民性の発現なる法律は、一夜のうちに変えることは出来ない。しかしながら、始めに江藤氏の如き進取の気象の横溢した政治家があって突進の端を啓き、鋭意外国法の調査を始めたからこそ、後年の法制改善も着々その歩を進めて行くことが出来たのである。我邦の如く数千年孤立しておった国民が、俄然異種の文化に接触した場合には、種々の突飛な試験をして見て、前の失敗は後の鑑戒となり、後ち始めて順当なる進歩をなすに至るのは、やむを得ぬ事である。現に民法の沿革からいうても、初めは江藤氏の敷写民法で、中ごろ大木伯の模倣民法となり、終に現行の参酌民法となったのである。
— 穂積陳重『法窓夜話』61話
民法編纂会議に参加したと思われる制度局員の内[87]、後の民法典論争においては、加藤弘之[88]、津田は延期派[89]、田中不二麿は法相として断行派に属した[90]。
戸籍法[編集]
当時の諸法律同様、フランス法を参酌して成立したものである[92]。
仏法学教育の開始[編集]
1871年(明治4年)9月、楠田英世の提唱により、江藤や山内容堂、後藤象二郎らの賛同を得て、司法省内に法学研究考査の目的で明法寮設置[93]。
日本初の仏法教育機関である[94]。
江藤新平司法省時代[編集]
1871年(明治4年)29日太政官職制発布、明治18年12月の内閣制まで存続する太政官制度が確立[95]。
江藤の建議により、立法機関として左院設置。江藤は副議長(実質議長)。制度局は同8月に吸収合併された[96]。
江藤時代の左院からは「穢多非人の称を廃し身分職業共、平民同様たるべき御布告の件」「華士族共職業自由之件」等の画期的新法令が出ているが、期間が短すぎ、民法典編纂には目立った成果が確認されない[97]。
1872年(明治5年)4月25日、江藤が司法卿となると、民法編纂事業は司法省において行われることになった[98]。顧問はお雇い外国人ブスケ及びアルベール・シャルル・デュ・ブスケ(ジブスケ、ヂブスケ)[99]。
同7月には『民法決議』を経て、『皇国民法仮規則』が成立[100]。
民法決議[編集]
前者は、80条より成り、フランス民法典7条から101条の「私権の共有剝奪」と「身分証書」に相当する部分の立法化で、細部を除き実質ほぼフランス民法典の翻訳である[101]。
フランス民法典は、ナポレオンの軍事体制を背景として軍人の身分に関し詳細な規定を置いていたが[102]、フランス国外在住の兵士についての規定はさすがに『民法決議』には採用されておらず、また華族についての規定も若干あり、当時においても文字通りそのままフランス民法典を直輸入したのではない[103]。
皇国民法仮規則[編集]
後者は、2085条(欠番あり実質全1185条)で終わる大法典であり、日本初の総合的な民法典草案であると考えられる[104]。
財産法はほぼフランス民法典の模倣であるが[105]、家族法ではフランス法の大幅な取捨選択が行われており、長男単独相続制度が採用されるなど、家族主義的な内容になっている[106]。
もっとも、江藤自身は家父長制に批判的であり[107]、また、長男単独相続制度に対しては、農村においてはやむをえないとしても、都市部においては封建の遺風を捨て、分割相続制度を採用して経済発展を図るのが合理的と主張するブスケからの批判があったが、江藤は、富国強兵の基本政策を推し進めて諸外国に対抗するには資本の集積を行わねばならず、分割相続制を採れば、当時の日本の国力ではそれをなしえないことを理由にこれに反論している[108]。
分割相続制度の問題点[編集]
フランスでも、ナポレオン民法典が徹底していた均等分割相続制度を批判して、遺言者本人の意思を尊重すべきとする遺言自由主義の立場が1860年代に台頭、平等の観点から均分相続制を維持徹底すべきとする立場との論争が起こっていた(ボアソナードは後者の立場[109])。
百姓の家では、先祖伝来の田圃、畑、牛、馬、農具、納屋、そういうものを持って農業生産に従事する。だから百姓の家においては、家は社会の生産単位である。……百姓の財産である田圃、牛、馬、畑などを三つに分けたらどうなるか。分けた兄弟は皆共倒れでしょう。……一緒にしておくから一家族が暮して行けるのだ。このことは、フランスが最も苦い経験を嘗めたところである。フランスの百姓が子供の出来るたびに農地を平等に分けて、零細分割をして、猫の額のような小さい、葡萄を作ることすらできない家産になった。同じような苦い経験は支那でも示されている。……民法で農家の財産は分けるな、サラリーマンの財産は分けろと定めようかとしても、日本の全家族がサラリーマンと百姓の二つに分かれているものならそれでもよいかもしれないが、この二つの両極端の間に幾多の段階がある。……サラリーマン家族との間に中小商工業の家族もある[110]。
— 我妻栄
ただし、明治日本の単独相続制は家産の維持に必要な「家督相続」についてだけであって、家長以外の死亡時における「遺産相続」については均等分割相続であるので、戦前の日本の相続で次男以下の取り分が全然無いというのは事実誤認である[111]。
民法仮法則[編集]
同10月には、既に施行されている戸籍法に代わるべく、ブスケも関与して『民法仮法則』が成立[112]。
ところが、当時大蔵省による壬申戸籍の編纂作業が進行中だった為、江藤の仮法則は施行されずに終わっている[113]。
1873年(明治6年)3月、全国の戸籍につき、壬申戸籍が完成[114]。
戸主が家族の身分変動を届け出るものとされた[115]。
同年、『新律綱領』に代わり『改定律例』が成立。
左院の法典編纂事業[編集]
1873年(明治6年)、4月19日に江藤が参議に転身、主催者を失って民法編纂は中断する[116]。
一方、左院においては、明治六年政変により江藤が下野した後も皇国民法仮規則が再検討され、1873年(明治6年)後半から1874年にかけて、家族法部分につき『左院民法草案』が成立[117]。
この草案においては、新副議長伊地知正治を中心に、日本固有法を基礎にフランス法を斟酌する事を基本方針とした結果、戸主による統率や家督相続制度を始めとして、保守的色彩の強いものになった[118]。
ただし、婚姻や前述の遺産相続など、分野によっては専らフランス法準拠の上[119]、左院に依る二度の憲法草案は西洋法の模倣に過ぎるとして廃棄されたという側面があり、一概に左院が保守的とは限らない[120]。
大木喬任の法典編纂事業[編集]
1873年(明治6年)10月25日、大木喬任が司法卿に就任、大木も法典編纂事業を意図していたが、司法省内部からも、江藤の強引な民法編纂への慎重論が起こり、大木自身もまた江藤と反対の慎重派の性格であったことや、箕作や日本に着いたばかりのボアソナードらが台湾出兵の後始末に追われた事等から、司法省主導の民法編纂事業は約2年停滞[121]。
英仏両派の形成[編集]
1874年(明治7年)、ボアソナードが既存の暫定刑事法典に代わる刑法・治罪法(刑事訴訟法)起草を依頼される[122]。
また、司法省法学校(明法寮の後身、後の東京大学法学部仏法科)において、ボアソナードが自然法の講義を始める[123]。
同年、開成学校(後の東京大学法学部英法科)で英法学の講義が開始[124]。
英法導入の動機[編集]
これは、当時の大英帝国が世界最多の人口を支配しており、東アジアにおいて占める政治上・通商上の地位を無視できなかったためであるが[125]、マルクス主義的歴史観の影響の下、明治政府は、帝国大学で学ぶ未来の官僚群に、英法学(後に独法学)を教えることによって、仏法学のブルジョワ自由主義に対抗できると考えたのだと主張する学者もいる[126]。
立憲主義の形成[編集]
1869年(明治2年)に岩倉具視が『政体論』を著した時、この時点で既に君主の個人的資質に依存する絶対君主制ではなく、制度によって為政者の恣意を制限する政治制度が構想されていた[127]。
江藤の法典構想も同様の意図を持つものと理解されうる[128]。
1875年(明治8年)、明治六年の政変で下野した木戸孝允・板垣退助と、政府側の大久保利通・伊藤博文が大阪で会見した大阪会議を受けて、4月14日、漸次立憲体制へ移行することを宣言する詔勅が出される[129]。
ここでは、元老院及び地方官会議を置き、国会開設の準備をすること、大審院の設置、参議と各省卿の分離によって天皇に対する輔弼責任と行政事務を分離するなど、近代的な三権分立体制確立へ向けての改革という基本方針が決定され、法典整備もその一環として行うことになる[130]。
戸主による家族統制[編集]
12月、当事者の合意に依るものであっても、戸籍に登録しない身分変動は無効となるとされ(太政官第209号達)、届出権を持つ戸主に依る家族統制が強化される[131]。
ただし、この時点における戸主は、絶対的な権力者ではなく、家族団体の為に働く事を要求され、浪費行為等により家の利益を害するときは戸主の地位を追われ(廃戸主)、全財産をも失う弱い存在である[132]。
家父長制にも、家長自身すら団体の法理に拘束される団体主義のゲルマン法型と、家長個人が構成員に対して強大な権限を有する個人主義のローマ法型とが存在することは後述する[133]。
諸法典の編纂[編集]
江藤の編纂事業を引き継いだ司法卿の大木喬任は、司法省に五局二十二課を置き、民法・刑法・治罪法(刑事訴訟法)・商法・訴訟法(民事訴訟法)の編纂に着手[134]。
1876年(明治9年)から翌年7月までの間に、ボアソナードが刑法原案を起草、治罪法についても、同7月から翌年(明治11年)末までの間に起草し、ほぼ完成した[135]。
商法典の編纂は、1876年(明治9年)にオランダ人アダム・ラパール(Adam Rappard)に委嘱したが、イタリア商法典のオランダ語訳を作った程度で、起用は失敗した[136]。
1878年(明治11年)、駐独公使青木周蔵の周旋によって、後に明治憲法成立に貢献し、旧商法起草を担当するドイツ人学者ヘルマン・ロエスレルが外務省の公法顧問として来日[137]。
箕作・牟田口民法草案[編集]
民法については、司法省の機構を再編し、箕作麟祥、牟田口通照に編纂させた[138]。
また、起草を命じたのは明治何年か(古くは明治8年説が多い)、箕作、牟田口以外に起草者がいたか、につき学者間で記述が分かれている[139]。
実際に大木が司法卿になったのは「明治九年」ではなく明治六年であるため、講演の速記録であることから書き間違いであり、「明治九年」は草案開始時期について述べたものとも推測される[141]。
但し、『箕作麟祥君傳』は地の文でも「明治九年、大木喬任、司法卿に任ぜられ、此の時、麟祥君、民法の草案を命ぜられ」た[142]との事実認識に立っている。
明治前期の民法編纂事業についての一次資料には矛盾や不明点が多く、しばしば証言者本人の記憶違いや事実誤認を疑われている事は注意を要する[143](特に磯部談話はその大雑把さで不評である)[144]。
1877年(明治10年)には箕作、牟田口の民法草案の一部が上程され[145]、1878年(明治11年)4月に全部につき完成[146]。
明治11年草案[147]、明治10-11年民法草案[148]、箕作牟田口草案[149]などと呼称され、日本初の全編完成民法典法案である[150]。
しかし、これは日本の国情に合致するようにという大木の期待に反して、誤訳や省略を含むフランス民法の引き写しに過ぎず[151]、箕作自身も認めていたように、実際の施行に耐えない完成度の低いものであった[152]。
なお、一部の論者は、同法案が廃棄されたのは、不出来だったからではなく、近代市民法の影響が強い進歩的草案だった為であると主張[153]している。
1877年(明治10年)には、不平等条約により関税収入を得られず、財政難に苦しむ明治政府が過度の地租負担を農民に課したことを背景として、西南戦争が勃発している[154]。
大木喬任の旧民法編纂事業[編集]
1879年(明治12年)1月、11年草案を修正すべきことが民法会議で決定されたが、結局修正した程度では到底使い物にならないと結論付けられた[155]。
大木は、民法典制定は国家の一大事業であり、外国の立法例及び学説を参酌して、最も整った新法典を制定したいと考え[156]、刑法・治罪法の原案起草を終了したばかりのボアソナードに民法草案の起草を依頼した[157]。
ボアソナードの旧民法編纂開始[編集]
どのような経緯により、何時ボアソナードに対する草案起草の委嘱が行われたのかは資料が少なく、明治13年説[158]もあるが、明治12年説が通説的である[159]。
其れから明治十二年になりまして司法省で民法会議が初りました。其の時にはモウ、ボアソナード先生が来て居られましてボアソナード先生の草案を議することになりました。続いて十三年に政府で民法編纂局と云ふものを置かれました[160]。 — 箕作麟祥、明治20年9月15日明治法律学校、始業式演説
だいたい明治13年から15年の間に財産法第一次案ができ、明治15年から20年にわたって手が加えられ、完成されたと考えられている[161]。
構成[編集]
民法草案の構成は[162]、
- 第一編、人事
- 第二編、諸般の財産
- 第三編、権利を得るの方法
- 第四編、従たる契約
- 第五編、証拠
フランス民法典の編成は[163]、
- 第一篇、人事
- 第二篇、財産及財産所有の種類
- 第三篇、財産所有を得る種々の方法
草案が「証拠」編を設けたのは、証拠はフランス民法では契約の中に入っているが、それは人事にも関係するからという理由であった[164]。
原型であるローマ法大全の初学者用教科書である『法学提要』の編成は[165]、
- 第一編、人事
- 第二編、財産編
- 第三編、訴訟編
フランス民法典が、同じく『法学提要』に基づく構成のプロイセン一般ラント法を参照して確立した法典形式をインスティツティオーネ方式と呼ぶ[166]。
起草体制[編集]
司法省[編集]
明治12年2月、パリ大学法学部を卒業した磯部四郎が帰国[167]。
以降、一貫してボアソナード、箕作と共に旧民法編纂に中心的活躍、後の民法典論争でも断行派の主役を担う[168]。
明治11年の暮から、12年の春にかけて、大木司法卿が、民法編纂と云ふものを起した、其編纂の事に従事して、起草掛と云ふものに命ぜられたのが、箕作先生と僕、それから、起草掛の外に、尚、起草委員と云ふものが出来た、これは、ただ議するのだ、それが、牟田口通照だの、西成度、池田弥一、水本成美、鶴田晧、それに木村正辞、杉山孝敏などで、各々、掌る所は違ったが、先ず、そんな人たちだった。……専ら、法理に関係する所は、「ボアソナード」に起草させて、僕等は其翻訳をやった。12年に、司法省部内でやって居たが、13年の春だったか、参議は、各省の卿をやめて、各省の卿は、卿専務となり、参議は、太政官に行って仕舞ったことがあった、其時司法卿は、田中不二麿で、山田顕義さんと、大木さんが、参議専務になって、法制局主管となった、そこで、又、更に、民法編纂局と云ふものを起した[169]。
— 磯部四郎、明治34年の回想録
1880年(明治13年)4月、民法編纂局を置き、数名の委員をして、ボアソナードの民法草案を討議させる[170]。
この原案は、条文にボアソナードによる注釈を加えたものがProjet de code civil pour l'empire du Japonと題してフランス語のまま出版されており(いわゆる「プロジェ」)、第二版、新版と版を重ね、ボアソナードによる講義でも使用されている[171]。
元老院[編集]
同6月1日には、太政官官制の組織変更に基づき、大木の主導の下、民法編纂局が司法省から元老院(左院の後継)中に移設される[172]。
主な委員は、箕作麟祥、黒川誠一郎、磯部四郎、杉山孝敏、木村正辞等[173]。
第一課から四課まではそれぞれ原案の翻訳、語彙の収集、日仏文法を比較し文字の修正、日本の慣習民法の収集に当たった[174]。
元老院民法編纂局ではなく「司法省蔵版」とされている『民事慣例類集』(明治10年5月刊行)と『全国民事慣例類集』(明治13年7月刊行)の編纂に第四課分任員の生田精が関わっていたか不明であるが、慣例類集を民法編纂局に活かそうとしていたことは伺われる[175]。
1881年(明治14年)8月に生田が死去すると、漢訳仏国民法典を参考に文字の修正を行う事を任務とする帰化清国人鄭永寧(司法省御用掛准奏任取扱)が第四課の後任となり[176]、以後日本の慣習尊重姿勢は減退し、専らボアソナード原案の翻訳に比重が移る[177]。
明治十四年の政変[編集]
ボアソナードは、政府の諮問に応えて、大隈重信が主張するイギリス流の議院内閣制度の即時採用は時期尚早であると主張、政府の方針決定にも影響を与えている[179]。
その後、商法はロエスレルに(明治14年)、民事訴訟法はテッヒョーに(明治17年)、裁判所構成法はオットー・ルドルフ(明治21年)に、いずれもドイツ人に起草が委嘱された[180]。
政変後に、フランスを参考に参事院が設置され、伊藤博文が議長に就任した際、民法編纂総裁が伊藤に代わる可能性があったが、元老院議官の水本成美や津田真道が岩倉具視に働きかけたことにより、依然として大木がその地位に止まることとなった[181]。
大木は、明治前半期の流動的な政治状況の中で、商法や訴訟法の編纂からは手を引くことになったが、民法編纂局の体制は保持し続けたのである[182]。
ロエスレルの旧商法編纂開始[編集]
商法については、1881年(明治14年)に太政官中に商法編纂委員を置き、同時にドイツ人ヘルマン・ロエスレルが草案起草を開始[183]。
既に刑事法典を完成させた実績のあるボアソナードが商法典を起草しなかったのは、経済的・政治的事情によりその成立を急ぐにもかかわらず、民法起草に取り掛かったばかりで手が空いていなかったという事情による[184]。
梅謙次郎(結論的には旧民商法断行派)がフランスの雑誌に寄稿して批判したように、国家学(経済、財政、行政、政治学など)、強いて言えば現在の日本でいう経済学教授に相当するロエスレルがなぜ商法典の起草を担当したかは問題であるが、商法についての学識も或る程度有していたことと、当時既に不平等条約改正を巡る外交交渉の一環として商法典編纂事業が位置付けられつつあったから、外務省の顧問であった彼が前任者ラパールのリリーフとして起用される必然性があったと説明される[185]。
なお、これに先立ち、明治13年には山脇玄、平田東助によって、後に日独の民法典に多大な影響を与えるロマニステン法学者ベルンハルト・ヴィントシャイトの著書の和訳が出版されている[186]。
旧民法一部完成[編集]
翌1882年(明治15年)には「条約改正予備会議」が発足、民法編纂事業にも影響を与えたと推測され、民法編纂事業が性急に過ぎることを危惧したボアソナードの提案により、原案の見直しがされる[187]。
同年、伊藤博文が欧州における憲法調査の旅から帰国[188]。
ボアソナードや箕作麟祥らによって作られた日本民法草案は更にボアソナードの手で修正され、1883年(明治16年)までには再閲民法草案が作成されている[189]。
再閲民法草案は更に修正され、1886年(明治19年)3月31日に、財産編及び相続法を除く財産取得編の両編草案が完成、内閣に提出される[190]。
民法典中の人事編ほか家族法部分については、翌1882年(明治15年)、編纂局中に日本人委員の主任を定めて起草を開始したが、直接に模範とすべき法典を欠いた事から起草は困難を極め、遅々として進まなかったと見られている[191]。
法学、政治状況[編集]
1883年(明治16年)、参事院が刑法修正案を上申[192]。
1884年(明治17年)、司法省学校は文部省の管轄に入って東京法学校と改称(法政大学の前身東京法学校とは別物)、翌年東京大学法学部に合併され、東京大学フランス法学部、のち帝国大学法科大学仏法科となった[193]。
この法学校からは、井上正一、磯部四郎、梅謙次郎、木下廣次、光明寺三郎、栗塚省吾、田部芳、末弘厳石など数多い人材を各方面に輩出しており、特に法曹界、法学会においては支配的ともいえる影響力を誇った[194]。
1885年(明治18年)には、初代第1次伊藤内閣が成立。外相井上馨(辞任後は大隈重信)、法相山田顕義。
家族法起草の継続[編集]
1886年(明治19年)、財産法二編完成を受けて元老院民法編纂局は廃止され、家族法部分は日本人委員により司法省で引き続き起草されることになった[195]。
起草委員[編集]
委員は磯部四郎・高野真遜・熊野敏三、菊池武夫[要曖昧さ回避]・小松濟治・今村信行、南部甕男、井上正一・光明寺三郎[196]。
理由[編集]
民法中人事篇及び財産取得篇中の相続・贈与・遺贈・夫婦財産契約に関する部分をボアソナードが起草しなかったのは、家族法領域は特に日本固有の民族慣習を考慮する必要があるということから、日本人委員に起草させるべきと考えられたからである[197]。
この点、ボアソナード自身も、憲法と親族法分野については万国共通の自然法によって規律されるべきではなく、もっぱら各国の事情を基礎とすべきとの立場であった[198]。
ただし、家族法中相続法については、財産法の延長と考えており、全面的に分割相続制度を採る方が経済上も有利であり、農家及び商工業の家産分割の弊害については、会社の活用や、相続人間の賃貸借で経営を維持できると主張しており[199]、財産法案中にも分割相続制を予定する規定を設けたが、後の修正過程において削除された[200]。
井上馨の法典編纂・条約改正事業[編集]
1886年(明治19年)8月6日、不平等条約改正の為、第1次伊藤内閣外相井上馨の下、外務省の管轄で諸法典を編纂することになり、井上を委員長とする法律取調委員会が設置される[201]。
委員[編集]
委員は、ボアソナード、ロエスレル、モンテーギュ・カークード、オットー・ルドルフ、アルベルト・モッセ、ベルヒマンらお雇い外国人や、西園寺公望、陸奥宗光、箕作麟祥、三好退蔵、今村和郎、栗塚省吾、都築馨六らである[202]。
動機[編集]
この時期においては、前述の法典編纂に依る国内法の統一という動機よりも、外務省主導の下、条約改正の為という事が強く意識された[203]。
既成草案の扱い[編集]
1886年(明治19年)12月6日、元老院に財産法議案が下付され審議が行われたが[204]、審議未定のまま放置されることとなった[205]。
諸法典は各自の起草により矛盾抵触する部分も少なくなかったことから、法律取調委員会は統一整理する必要ありと決議し、翌4月14日井上は民法草案議定中止を稟議し、内閣もこれを認めたことから、元老院内でも猛烈な反発があったが、院内編纂局より提出済みの民法二編を一旦廃棄せざるを得なくなったのである[206]。
条約改正状況[編集]
1887年(明治20年)3月31日第24回条約会議において、列強の従前からの主張に基づき、裁判所構成法、刑法、治罪法(刑事訴訟法)、民法、商法、訴訟法を「泰西主義」(ウェスタンプリンシプル)に基づいて制定し、少なくとも条約批准交換後16か月以内に英訳正文を各国に「通知」すべきことが、正式の外交文書によって認めさせられている(後に撤回)[207]。
列強の要求は更にエスカレートし、真にウェスタンプリンシプルであるかにつき、列強の「査定」をも要するものとされた[208]。
また、条約批准後二年内に諸法典は制定されなければならないとされたことから(批准はされなかった)、一事項に付き結論が出るまで会議を中止せず、委員に食事も出さない兵糧攻めをしてまで井上は法典編纂を猛烈に急がせたという[209]。
しかし、外国人判事の受け入れ等を内容とする井上馨の条約改正に対して、主権の侵害であると批判するボアソナードや谷干城らによる反対運動が起き、外務省主導の法典編纂事業が頓挫する[210]。
この間の民法典編纂の成果は不明であり、ほぼ手つかずであったと推測される[211]。
山田顕義の法典編纂事業[編集]
1887年(明治20年)10月21日、法律取調委員会は外務省から司法省に移管され、司法大臣山田顕義(第1次伊藤内閣)が委員長に就任[212]。
動機[編集]
山田においても、国内法統一の動機よりも、不平等条約改正の為の法典編纂事業である事が強く意識された[213]。
基本方針[編集]
全体の構成は[214]、
- 第一編、人事
- 第二編、財産
- 第三編、財産取得
- 第四編、債権担保
- 第五編、証拠
既に完成済の財産法の残余部分、債権担保編・証拠編を引き続きボアソナードに、商法についてもそのままロエスレルに起草させ[215]、親族法に相当する人事編については主に熊野敏三、財産取得編中の相続、贈与、遺贈、夫婦財産契約は主に磯部四郎に担当させた[216]。
財産法起草のボアソナードの方針は、
- フランス民法典(1804年)を基礎とし、その欠点は判例学説を採用してためらわず修正する。
- イタリア民法典(1865年)にも従う。仏民法典を改良した点が多いからである。
- 仏・伊両民法と異なる規定を置く場合は、理由を明示する。
- ベルギー民法の特別な規定(不動産譲渡登記と1851年抵当法による修正)は利用する。
- ドイツ民法典が完成すれば、参照する。
- 日本の「よき有益な旧慣」を保存する[217]。
ドイツ民法典は、ボアソナードの起草中に完成しなかった[218]。
法学・政治状況[編集]
同年、法科大学(東大)独法科を新たに設置[219]。
1888年1月、ロマニステンの代表的法学者ヴィントシャイトの主導により、ドイツ民法典第一草案が成立[220]。
1888年(明治21年)4月、黒田内閣成立。第一次伊藤内閣の法相山田、外相大隈は留任。
家族法第一草案[編集]
日本人起草の家族法部分の第一草案は、1888年(明治21年)10月頃完成[221]。
10月16日付で同草案が全国の司法官及び地方官に回付され、意見が求められ、翌年半ばまでには意見が出揃ったが、多くは批判的であった[222]。
これは、家族団体の共有する家産を中心とした団体主義的な従前の戸籍法体系が、地券や公正証書等の個人所有を認める個人主義的な明治政府の諸改革と矛盾衝突をきたしていたところへ、個人主義的な同草案が一気呵成に前者を一掃しようとしたためであった[223]。
法典論争の開始[編集]
1889年(明治22年)5月、(旧)東京大学法学部出身者で組織されるイギリス法系の法学士会は、拙速な法典編纂を戒める『法典編纂ニ関スル意見書』を発表、日本の法典論争が開始された[224]。
なお、同時期にドイツでもドイツ民法典第一草案を巡る大論争が起こっており、日本にも影響を与えたと推察される[225]。
旧民商法の完成[編集]
1889年(明治22年)7月、民法草案ボアソナード担当部分が元老院で議定を終わり、天皇に上奏される[226]。
同10月18日、条約改正案が井上案と大同小異だとの非難を受けていた外相大隈重信の暗殺未遂事件が起き[227]、政府内でも拙速な条約改正・法典編纂事業への反省が起こる[228]。
25日、大隈の暗殺未遂事件を受け、黒田首相は条約改正の中止を決定し、総辞職[229]。
家族法案は法律取調委員会で一部修正されて再調査案となり、更に整理の上、1890年(明治23年)4月に内閣に提出された[230]。
内閣はこれを元老院に付し、同年9月元老院は人事編550条の内200条余りを大量削除した上でこれを議定[231]。
家族法部分は同年10月7日に公布され、先の公布諸編と併せて1893年(明治26年)1月1日施行の予定とされた[232](明治23年法律第28号、第98号)。
同10月30日、教育勅語が成立。論者によっては、その後の民法典論争に大きく影響したと主張[233]されている。
1889年(明治22年)12月、黒田内閣に代わり第1次山縣内閣が成立。法相山田は留任。大隈に代わる外相は青木周蔵。
一方、ロエスレルの旧商法草案は2年を経て脱稿し、その後取調委員の組織などに種々の変遷があったが、結局元老院の議決を経て、1890年(明治23年)3月27日に成立、翌1891年(明治24年)1月1日より施行されることとなっていた[234]。
法律取調委員会の家族法修正[編集]
熊野、磯部ら日本人委員の起草した家族法原案は、法技術的にフランス民法典に多くを学びつつも、フランスにおける男尊女卑等の差別を不合理なものと批判する立場に立つ、極めて急進的な性格のものであった[235]。
旧民法家族法第一草案の特色は、
- 妻や未成年の子を含む全ての人に完全な権利能力を保証する。
- 戸主・家族は形式上存在するが、法的関係は無く、戸主の家族に対する身分統制権は予定されない。
- 婚姻に対する両親の承諾はナポレオン民法典と異なり、未成年者に対してのみ要する。
- 姦淫に依る法定離婚について、ナポレオン民法典と異なり性差別を設けない。
- 人事編理由書によると、親権は戸主でなく両親が有する。
- 家督相続は存在するが、家督相続以外の普通相続人を認め、実質的に均分相続に近いものとする。
- 家督保有者以外の相続人死亡時の遺産相続は完全に平等。
- 基本的に身分証書の制度を採用し、戸籍は付随的な地位しか認めない[238]。
原案には政府内からも異論が多く、その修正作業は、戸主の死亡に左右されない家族経営の維持存続を可能にすると共に(団体主義)、一般の財産関係(個人主義)との整合性を図ることを目的とするものであったと解される[239]。
旧民法家族法成案(明治23年法律第98号)の特徴は、
- フランス民法典と異なり(外国人を含む[240])全ての人に完全な権利能力を認める。
- 既存の家族経営維持の為に長男子相続制度が確立。
- 廃戸主制が無くなり、戸主に集中された財産は、家の制約を脱し個人財産としての性格が保障された。
- 戸主の家族員に対する権利と義務が強化された。
- 成年の子に対しても父母の同意権が規定された。
- 妻と異なり、夫の姦淫による法定離婚は著しく悪質なものに限定された。
- 戸籍法が民法に不可欠のものとされた[241]。
なお、ナポレオン民法典においても、先鋭的な人事法第一草案はその後の修正によって大きく反動化したことが指摘されている[242]。
妻は姦通によって離婚されるのに、夫は情婦を家に引き込んだ場合に限る(フランス民法旧230条)とされたのはその一例である[243]。刑法上も、不貞行為をした妻が現場で夫に殺害されても、夫は無罪であった[244]。
しかし、フランス民法典及び日本の旧民法がフランス革命の理念をそのまま実現した「男女平等」の進歩的法典であったとの事実認識に立つ民法学者[245]もいる。
法律取調委員会の財産法修正[編集]
ボアソナードが中心となって起草された旧民法は、民法典論争に見るように批判の多い法典であったが、その問題は、財産法編纂過程においても、編纂当事者自身によって認識されていた[246]。
問題点[編集]
大木喬任の推進した民法典編纂事業においては、主に民法編纂局を主体とし、もっぱらボアソナードの仏文の財産法案の忠実な翻訳に焦点が置かれていたが[247]、山田顕義の編纂事業においては、法律取調委員会を主な主体に、原案条文の削除を中心として、原案の「枠内手直し」が行われた[248]。
しかし一方で、法典の早期成立の観点から、ボアソナードの原案からの逸脱は禁止され、「法理得失実施の緩急、文字の当否は之を議論するを許さ」れず(法律取調委員会略則1条後段)、「一日十五条づつを議了することを要す」(会議規則)ことが基本方針とされ、なるべく仏語原案の直訳調の法文にすべきことも要求された[249]。
審議の過程においてボアソナードの財産法案の体裁・文体・内容(特に物権法分野)への不満が続出したにもかかわらず、ボアソナードが帰国を仄めかしてまで自説を貫徹させたために、法典の早期成立の観点から、ボアソナード草案の基本的枠組みは維持され、法律取調委員会の中に大きな不満を残すこととなった[250]。
特に、用益権を物権の中に入れたことや[251]、農業経済上有益であるとの観点から[252]、フランスの少数説を立法論的に採用して賃借権一般を物権としたこと[253]は深刻な論争を生み出し、ボアソナードに依れば、自身の門下生たちでさえ、師の説に批判的であったという[254]。
別調査民法草案[編集]
後に法典論争で施行断行派に属する仏法派の箕作麟祥ですら、松岡康毅と共に、原案の内容的変更を含む『別調査民法草案』の起草に着手し、一時はボアソナード原案の廃棄が検討された程であった[255]。
村田保の旧民法批判[編集]
一旦はボアソナード原案の維持を基本路線とする方針を支持した村田保も[256]、大隈重信の暗殺未遂事件を受けて、法案の早期成立より欠点の修正を重視すべきとの考えに転じる[257]。
そこで、個々の条文を挙げて、具体的な修正提案をしたものの(この時点で政治的イデオロギーは現れていない)、十分に容れられず、強引に審議を進める山田と対立・決裂[258]、以後法典論争では徹頭徹尾延期派に立つことになる[259]。
村田はその後もシーメンス事件で山本権兵衛内閣を瓦解に追い込む等、貴族院における反政府勢力の頭目として奮闘することになる[260]。
尾崎三良の旧民法批判[編集]
同委員の尾崎三良(英法派、延期派[261])は、ボアソナードの財産法案が晦渋難解であることと、日本の実情に適さないこと、委員会による修正も小手先に過ぎないことを批判し、財産法の根本的修正が必要であるとして、法典論争に先駆けて、伊藤博文や大隈重信らへの働きかけを行っていた[262]。
伊藤博文の旧民商法批判[編集]
井上馨の辞任を受け、明治20年10月5日付けで伊藤から山田に送られた書簡においては、ボアソナードの財産法案はelaborate(入念)に過ぎ、ロエスレルの商法案もcomplicate(複雑)に過ぎ、その内容はあたかも学説理論の実験場のようであり、「両人共に学問上の高尚論に流れ、日本の現況に不適当なる新工夫を提出したるの謗」を免れることはできない、としてその出来に不満を示し、お雇い外国人の草案を放棄して、独自に「ナポレオン法を基礎とし、日本に適否を考慮し修正」して日本法を制定すべきではないか、との立場を示している[263]。
山田は時間がかかりすぎることを理由に反対[264]。
元老院の動向[編集]
明治19年(1886年)12月6日、元老院に財産法議案が下付され審議が行われたが、この時点で条約改正の為の拙速な立法ではないかという不信感が示されれており[265]、一貫して元老院は旧民法草案を慎重に討議したい旨希望していたが山田顕義に容れられず、拙速主義の編纂過程に大きな不満を抱いていた[266]。
加えて、学者の研究によれば、確定案のはずだった元老院の議定案は、更に政府によって改変されて成立したことが明らかにされており、旧民法典編纂に自ら加わったはずの村田保、三浦安等の元老院議官が、民法典論争において延期派に回る一因となったと推測されている[267]。
枢密院の動向[編集]
枢密院に関しては、法案の早期完成の観点から、法定された「諮詢」を省略しようとした山田の動きと、これを違法な拙速主義として警戒する伊藤博文などの動きの対立があったことが指摘されている[268]。
伊藤博文の辞任後、枢密院議長に就任していたのは大木喬任であったが、枢密院を無視して法典成立を強行するのは無謀に過ぎた為、枢密院の同意を得て『枢密院議事細則』に「大体議」という制度を追加し、「大体議に止むる」ことによって円滑な審議を進めることとした[269]。
枢密院が民法草案に実質的な修正を加えたかどうかは争いがある[270]。
伊東巳代治は、ロエスレルの旧商法についても枢密院へ廻す様運動して大木と対立し、この決着は長引いて、商法典の公布(4月26日官報号外掲載)が民法より五日遅れる一因となった[271]。
法典論争[編集]
条約改正事業への国民の不信感があるところへ、政府は、帝国議会の審議にかけて時間を費やすことを嫌って、議会の成立する直前に駆け込み的に法典を成立させようとしたため、多くの反発を招き、法典編纂事業それ自体への不信感を誘発するに至った[272]。
法典論争(商法も含む[273])の発端は、公布前の1889年(明治22年)5月、法学士会から意見書を総理大臣ならびに枢密院議長に提出したことに始まる[274]。
英法系の開成学校の後身東京大学、及びその後身たる帝国大学法科大学出身者より成る同会では、法典完成の近いことを、同会春季の総会において、全会一致を以って延期の決議をした[275]。
その主旨は、拙速な法典編纂を戒め、緊急に必要なものに限り単行法を規定するに止め、法典全部の完成は、民情風俗の定まるを待ち、予め草案を発表して広く批評を受け、十分な審議を経た上で完成すべし、というものであった[276]。
仏法派と英法派の対立[編集]
民商両法典の争議に関し、英法派の法律家はほとんど延期派に属し、仏法派は概ね断行派に属していたから、論争は仏法派と英法派の争いという一面を有していた[277]。
当時我邦における法学教育の有様はどうであったかと言うと、明治五年に始めて司法省の明法寮に法学生徒を募集してフランス法を教授したのが初めであるが、これに次いで帝国大学の前身たる東京開成学校では、明治七年からイギリス法の教授を始めることとなった。これがそもそも我邦の法学者が二派に分れる端緒である。その後ち司法省の学校は、明治十七年に文部省の管轄となって一時東京法学校と称したが、翌年に東京大学の法学部に合併されてフランス法学部となった。明治十九年に帝国大学令が発布せられ、翌年法科大学にドイツ法科も設けられた。故に前に挙げた法典の発布された時分には、司法省の学校を卒業したフランス法学者と、大学を卒業したイギリス法学者とが多数あったが、民間にもまた一方にはイギリス法律を主とする東京法学院(今の中央大学の前身)、東京専門学校(今の早稲田大学の前身)等があり、また一方にはフランス法を教授する明治法律学校(今の明治大学の前身)、和仏法律学校(今の法政大学の前身)等があって、互に対峙(たいじ)して各多数の卒業生を出しておった。
当時の法学教育はかくの如き有様であって、帝国大学の法科大学には英、仏、独の三科があり、……ドイツ法律家はまだ極めて少数であったから、あたかも延期問題の生じた時分には、我邦の法律家は英仏の二大派に分れておったのである[278]。
かくの如き有様のところへフランス人の編纂した民法とドイツ人の編纂した商法とが発布せられ、しかも商法の如きは千有余条の大法典でありながら、公布後僅に八箇月にして、法律に慣れざる我商業者に対してこれを実施しようとしたのであるから、これについて一騒動の起るのは固(もと)より当然の事であった。
— 穂積陳重『法窓夜話』97話「法典実施延期戦」
ただし、延期派・英法派の岡村輝彦、山田喜之助は仏法系の明治法律学校や和仏法律学校でも教鞭を取り、断行派・仏法派の磯部、梅謙次郎、本野一郎は英法派の東京専門学校でも講義を行っていたという側面がある[279]。
上の私学四校に、専修学校、又は後にできた日本法律学校(日本大学の前身)を加えて、五大法律学校と称されている[280]。
英仏両派共に、法律雑誌のみならず一般の新聞紙でも論争を展開し、また演説会も行われた[281]。
仏法派の動向[編集]
私学[編集]
明治24年3月、明治法律学校(明治大学の前身)を中心に結成された法曹団体として、「法治協會」があり、機関誌として「法治協會雑誌」を発行し、法典即時断行・法治国家実現をスローガンとした[282]。
会長に大木喬任、副会長に名村泰蔵、評議員に磯部四郎、井上正一、栗塚省吾、今村信行、龜山貞義、岸本辰雄、箕作麟祥ら断行派の主要メンバーが名を連ねるほか、大井憲太郎などの自由党員、改進党員も加わっていた[283]。
また法律経済研究を目的として飯田宏作、富井政章、梅謙次郎、栗塚省吾、黒川誠一郎、熊野敏三らにより結成された団体として「明法會」があり、封建慣習打破、法律改正をスローガンとし、機関誌「明法志叢」を通じ、和仏法律学校(法政大学の前身)を本拠に断行論を展開した[284]。
ただし、仏法学者富井、木下廣次は、独自の立場から延期派に属した[285]。木下の延期論については、感情論に陥りがちな民法典論争にあって、富井・加藤弘之と同じく純理的議論であるとみる(星野通[286])か、単なる「保守派」の言いがかりとみる[287]かは論者により評価が分かれる。
「法政誌叢」、「法律雑誌」(時習社)も論争に盛んに利用された[288]。
其の断行派の本拠が和佛法律学校でなしに、明治法律学校であったと云ふのには、特別な理由があると思ひます[289]。 — 平野義太郎「仁井田博士に民法典編纂事情を聴く座談会」
ただし、断行派の有力な論文の一つ「法典実施断行意見」は、和仏法律学校校友会名義で出ている[291]。
なお、ここに言う「東京法学校」とは、和仏法律学校(法政大学)の前身のことであり、司法省学校の後身の官立学校(東京大学法学部の前身)とは別である[294]。
官学[編集]
官立東京法学校の後身たる帝国大学法科大学仏法科(後の東京大学法学部仏法科)においても、若槻禮次郎、安達峰一郎、荒井賢太郎、入江良之、織田萬、岡村司等の学生が、東京府下の代言人有志百余名と共に断行派に合流し、断行意見書を発表している[295]。
フランス法学の理論状況[編集]
近世自然法論[編集]
1625年、オランダで長引く宗教戦争を背景に、グロティウスの主著『戦争と平和の法』において、古代以来キリスト教神学と密接な関わりを持っていた自然法の世俗化が主張される[296]。
1748年、フランスのモンテスキューが『法の精神』を著し、各地の自然文化風俗などに応じた法形態があることを指摘し、個々の国での自然法の具体的適用が理論化される[297]。
自然法学の受容[編集]
フランス民法典が基礎とした自然法思想は、日本でも、儒教を媒介して理解されることによって、キリスト教特有のイデオロギーではなく、普遍的な性格を持つものとして受容されていた[298]。
オランダから帰国した西周、津田真道らが、自然法と言わずあえて「性法」と訳出したのはその現れである[299]。
この儒教的自然法論は、民法典論争で批判の対象になったことは後述する。
ボアソナードの法思想も、フランス革命期の政教分離的・啓蒙的自然法ではなく、聖トマスのスコラ神学を基盤とする宗教的自然法思想ではあったが、それに止まらず、離婚の認容や死刑廃止論等、伝統カトリックと異なる面を持っていた[301]。
こうした自然法(性法)思想の支配的傾向は、明治20年頃まで続く[302]。
自然法学の斜陽[編集]
しかし、かつて世界の最先端の法典として各国の法典に影響を与えたフランスのナポレオン民法典であったが、百年近い年月を経て次第に欠点が明らかとなり、素朴な法文が、社会の急速な進歩に対応しきれなくなっているという欠点があった[303]。
例えば、平等の観点から徹底していた均等分割相続制は、農地の細分化を招いて農家を困窮させていた[304]。
また、私法の大原則であった契約自由の原則も、貧富の差を招いて経済的弱者を圧迫する強者の自由に外ならなくなり、所有権絶対の原則も公共の福祉の観点から様々な制約を受けざるをえないものとなる[305]。
ナポレオン民法典における男尊女卑等の不平等の規定の数々も、不合理に過ぎるものとして批判されるようになる[306]。
このように、フランス民法典が当のフランスにおいてさえそのままでは通用しなくなったことで、自然法説も説得力を減じ、影響力を失うこととなった[307]。
また、その解釈・運用方法についても、過去の立法者の意思のみに囚われるフランス註釈学派の方法論は既に限界を迎え、判例研究による新しい方法論(自由法論、科学学派)が勃興しようとする前夜であったから、そのような状況でフランス民法典を模範とすることは、もはや新興日本の採るべき道ではなくなりつつあった[308]。
英法派の動向[編集]
私学[編集]
その当時英吉利法律学校――法窓夜話には東京法学院とありますが、あれはその前身と云ふ意味で書かれたものと思ふ――が延期派の本拠であり、それに対して明治法律学校が断行派の本拠であった。そして盛んに論争をした[309]。 — 仁井田益太郎
英吉利法律学校は明治22年1月機関雑誌『法理精華』を発行、以来関係者は一貫して延期論を唱えたが、政府当局(第1次山縣内閣)によって弾圧され、翌23年7月第38号をもって発行禁止とされた[310]。
1889年(明治22年)10月、英吉利法律学校が東京法学院に改称し、英法の教授から日本法の教授に方向転換[311]。
1891年(明治24年)4月、東京法学院が『法學新報』を発行[312]。後に穂積八束の有名な論文が掲載されたのはこの雑誌である[313]。
一方、東京専門学校及び専修学校は、法律学校としては当時あまり振るわなかったから、法典論争では目立った動きは無いと言われるが[314]、論者によっては、東京専門学校も延期派の本拠の一つとして位置付けられる[315]。
なお、東京専門学校創設者の一人、小野梓は断行派であった[316]。
官学[編集]
帝国大学法科大学においては、英法科(官立東京法学校の後身、東京大学法学部英法科の前身)の学生が延期派に属したとみられている[317]。
延期派の具体的主張[編集]
増島六一郎は、明治22年(1889年)、英吉利法律学校の『法理精華』に「法学士会の意見を論ず」という講演内容を発表。法律学の普及発展、人材育成こそ急務であると主張し、民法典編纂公布の時期尚早を論じた[318]。
山田喜之助は、同7月、『法理精華』に「立法の基礎を論ず」とする講演内容を発表。西洋諸国の多様性を指摘しつつ、歴史法学派の立場から、立法の基礎は外国法の模倣ではなく、当該国の人情慣習に依るべきものとする[319]。
江木衷は、同10月から12月にかけて、『法理精華』に「民法草案財産編批評」を発表。物権と人権(債権)の定義・区別が不明瞭であること、総則にも古風な定義が多く、財産編修正は必至であると批判[320]。
財産法案中の「無形人」を改めて「法人」とすべきというように、江木の主張の内には旧民法公布案や現行民法が採用したものもあり、内容的には説得的なものを含む反面、その挑発的文体は論争の混迷を招いた[321]。
江木は明治23年に『法理精華』に「新法典概評」を発表、新民法が共和主義のフランス法典を日本に移植した点を批判[322]。
ただし、これは共和主義そのものへの批判ではなく、寧ろそのまま継受したならまだしも、中途半端な改変を加えて模倣した為に、かえって適用上の困難を生じていることを攻撃したものである[323]。
花井卓蔵は、1889年(明治22年)10月『法理精華』に「嗚呼民法証拠編」を発表。主法(実体法)である民法の中に助法(手続法)である手続法を置いているのは立法の主義を誤ったもので、民法と起草者を同じくする既存の刑法と治罪法(刑事訴訟法)における設計思想とも矛盾すると批判する[324]。
また花井には、1892年(明治25年)に発表した論文「法典と条約改正」があり、法典編纂と不平等条約改正は外交の一政略に過ぎず、法典が実施されれば必ず条約改正が成るわけではないと主張している[325]。
花井は大正の家族法改正事業でも一方の論陣を張っており、穂積八束の系譜に連なる保守派の典型と見る[326]か、英法の影響を受けた人権擁護論者としての側面を強調する[327]かは論者により評価が異なる。
穂積陳重は、1890年(明治23年)に『法典論』を刊行し、更に一橋大学講堂で「法典編纂論」なる講演を行い、ヨーロッパ各国の法典編纂の歴史、方法を網羅し、法典の拙速主義を批判、断行論者をして反省足らしめるに足るものがあったと言われ[328]、その『法典論』は後の現行民法典制定における理論的基盤となるに至っている[329]。
土方寧は、1891年(明治24年)7月の国家学会月次会演説にて、英法学者としての見地から、大部の法典を一度に編成するのではなく、必要に従って漸次単行法を出す方法が最良であると主張している[330]。
これらの論者は皆英法派である[331]。
イギリス法学の理論状況[編集]
1236年、イングランド議会は、ヨーロッパ大陸に波及したローマ法の継受を拒否し、コモン・ローの伝統を固持することを決定、しかしローマ法及び大陸法の影響は間接的ながらも受け続けることになる[332]。
近代英法学の二大潮流が、オースティンの分析法学と、ヘンリー・メインのイギリス歴史法学である[333]。
日本においては、分析法学が優勢であった[334]。
オースティンはドイツ留学者であり、歴史法学のサヴィニーや自然法学のティボーとも交流してローマ法及びドイツ普通法学の影響を受けていたが[335]、結論としては古い自然法学説に対して、法典編纂論のベンサムと異なり現行法主義(法実証主義)を主張するものであり、フランス法を輸入せずとも日本には日本の慣習法があるという一種の国粋論と結びついたとの主張[336]がある。
明治民法の起草者たる穂積陳重(延期派)は、イギリスでオースティンの中にドイツ法学の影響を認め、これがドイツ転学の理由の一つとなったし、また、分析法学の法実証主義の考え方は、仏法派の富井政章にも一定の影響を与えていることが指摘されている[337]。
アメリカにおいても分析法学が有力であり、特に東京大学法学部の教授(担当:英法)であったアメリカ人弁護士ヘンリー・テイラー・テリーは、1878年(明治11年)、社会主義の観念すら浸透していない当時の日本の状況において、自然法は共産主義の根源ともいうべき危険思想であるとの言を残すなど、強烈な反自然法論者であった[338]。
このような強烈な反自然法思想に育てられた英法派が、自然法を基礎とする仏法派に批判的になることは自然であった[340]。
なお、慶應義塾大学法律学科の礎を築いたジョン・H・ウィグモアも歴史法学的要素に加えて分析法学を重視しており、自然法に批判的であった[341]。
一方、穂積陳重が最も大きな影響を受けたのが、オースティンに批判的な、ヘンリー・メインによるイギリス歴史法学である[342]。
法は主権者の命令によって作られるものではなく、歴史的に生成する、というのがその基本的立場である[343]。
このイギリス歴史法学は英国において全く独立に成立したものではなく、その歴史的な方法は、やはりドイツのサヴィニーに遡る。これも穂積がドイツに転学した理由の一つである[344]。
独法派の動向[編集]
法典論争の時点では、明治20年に設立された帝国大学法科大学独法科(東京大学法学部独法科の前身)の他、私立の独逸協会学校(獨協大学の前身)があって平田東助などが独法の講義をしていたが、独法派の法律家は極めて少数であったので、法典論争においては独立一体の活動をしていない[345]。
「独逸法学が我国に入ったのは日が浅かった為独逸法学派と云ふが如きものは特に存在しなかった[346]」とまで断ずるのは、現行民法典起草補助委員仁井田益太郎である(帝大独法科卒)。
みな民法ぢゃないのですね。 — 平野義太郎
前に述べた人々は民法に就てドイツ法の思想を鼓吹するとか云ふ方には努めても居らないし、又ドイツ法の思想が是等の人から伝はったと云ふ程ではないのです[348]。 — 仁井田益太郎
後年独法派に分類される法典調査会委員の内、横田国臣、本尾敬三郎、木下周一は旧民法断行派であり、延期派としては、穂積八束、岡野敬次郎がいる[349]。
田部芳は独法派ではなく仏法派に分類され、法典論争の立場は不明[350]。
独法学者平田東助は、仏法系議員と共に商法典論争では断行派に属した[351]。
ロエスレルの意見書[編集]
1887年頃、伊藤博文に提出されたものとみられるロエスレルの意見書においては、旧民法が範とするフランス民法は個人主義・民主主義に傾き過ぎた為に、アナキズムに陥って社会が混乱したが、農村社会を基盤として成立したゲルマン法は親族関係を厚く保護するなど保守的性格を持ち、立憲君主制と親和的であるから、当時の日本により適合すると主張されていた[352]。
しかし、後に成立したドイツ民法典(1900年施行)のゲルマン法からの離脱は、親族法において最も顕著である[353]。
ドイツ法学の理論状況[編集]
神聖ローマ帝国の分裂[編集]
1648年のヴェストファーレン条約以後、ドイツでの法典編纂事業は、独立の国家主権を認められた各領邦を中心に行われるようになる(領邦絶対主義)[354]。
1692年、ハレ大学のシュトリックにより『パンデクテンの現代的慣用』が著され、ローマ法の条文を絶対視するのではなく抽象化して、「現代」に相応しく適用するパンデクテン法学の手法が確立[355]。
1751年にはバイエルン王国で刑法典、1753年に訴訟法典、1756年には民法典が成立[356]。
プロイセン一般ラント法[編集]
旧民法は説明的な法文の啓蒙教科書法典であり、その為に批判を受けたが[357]、1794年の巨大法典プロイセン一般ラント法(プロイセン国法)は、後期自然法の影響を受けた啓蒙教科書法典の最たるものであった[358]。
例えば、「従物は主物の処分に従う」(日本民法87条2項)ことについて、現行日本民法は、「従物」とは「物の所有者が、その物の常用に供するため、自己の所有に属する他の物をこれに付属せしめたときは、その付属させた物」であると抽象的に示すのみであるのに対し(1項)、
プロイセン法は何が「従物」かにつきほぼ70条にわたり例示し、
通常の鶏、ガチョウ、鴨、鳩および七面鳥は、農地の従物に組み入れられる。 — プロイセン一般ラント法第1部第2章58条
というが如きものであるが、それ以外の有益な鳥類は「従物」に含まれないのかという疑問を直ちに生じる事は明らかである[359]。
その他にも、母親には授乳の義務があることを法文でわざわざ明記するといったような、滑稽と言える程カズイスティック(個別具体的)な規定を置いていた[360]。
これは、君主が法の定立を独占するという絶対主義、及び啓蒙主義の観点から、特別法や学問による法典の補充を否定して、法典が判例・学説・教科書の役割の役割を全部担おうとしたものであるが、その結果条文が極度に肥大化し、一般人にも法律専門家にも使いにくいものとなって破綻し、根本的改修を余儀なくされたのである[361]。
ドイツ法典論争[編集]
1806年、ナポレオン戦争によりベルリンが陥落して神聖ローマ帝国が名実ともに消滅、ドイツのフランス軍占領地域では、フランス法の適用を受ける[362]。
ナポレオン体制崩壊後のドイツでは、どのような国家体制を確立させるか問題となる[363]。
ここで、日本の民法典論争とも比較されるドイツの法典論争が起きる[364]。
1814年、ハイデルベルグ大学教授のティボーが『ドイツ一般市民法の必要性』を著し、啓蒙期自然法学の立場に立ちつつ、「一帝国一法律」のスローガンを掲げて、速やかにドイツ統一法典を制定し、全国ばらばらの錯綜した法制度を廃止すべきことを主張した[365]。
この主張は、ナポレオン法典と自然法の影響により、大きく世論に訴えるところがあったが、同年ベルリン大学のサヴィニーは『立法と法学に対するわれわれの時代の使命について』という小論を発表し、法学の充実こそ先決であるとして時期尚早論を唱えた[366]。
時代と国境を越えた普遍的な法があるとする自然法学の立場に対し、法は立法者の意思のみによって人為的に作られるものではなく、まず習俗及び民族の確信によって、次に法学によって生み出されるものであるとする法学上の立場を、サヴィニー自ら名付けて歴史法学という[367]。
この論争の結果、統一法典編纂は見送られることとなったが、両者はローマ法を基本にドイツの統一法典を編纂すること自体は一致しており、ただサヴィニーが時期尚早論を唱えて拙速な法典編纂に反対したに過ぎず、方法論の違いに過ぎない[368]。
しかし、ランヅフート大学のゲンナーや[369]、ハノーヴァの大臣であったアウグスト・ヴィルヘルム・レーベルグのように、近代的な統一民法典編纂それ自体に反対した論者も存在したことが指摘されている[370]。
1863年、ローマ法大全の既習者用教科書『学説彙纂』を基にしたパンデクテン方式を採用し、後の日独民法典にも体裁・内容共に多大な影響を与えるザクセン(サキソン)民法典が成立[371]。
ドイツ民法典の設計思想[編集]
1874年、ドイツ帝国民法編纂委員会が発足、「民法は成るべく原則、副則、変則等に止め、細目に渉らざるを以てその主義」とする基本方針が決定される[372]。
当時既にプロイセンの絶対主義理念は崩壊しており、法典による啓蒙も楽観的に過ぎる事が認識されていたから、ドイツ民法典においてプロイセン流の設計思想は否定されており[373]、民法典自体はパンデクテン法学の成果でありながら、それを土台とするに止め、法学の発展を阻害しないよう、特定の学問的立場を表明する事を意識的に避けようとしたのである[374]。
このドイツ民法の概括主義を社会の変遷に速やかに対応しうるものとして主著『法典論』(1890年(明治23年))で高く評価し、後の日本民法に反映・徹底させたのが現行民法典の法理学的指導者穂積陳重である[375]。
1888年(日本では明治21年)1月、ロマニステンの代表的法学者ヴィントシャイトの主導により、ドイツ民法典第一草案が成立[376]。
ドイツ民法典の性質[編集]
第一草案、そして成案は、ローマ法のパンデクテン法学の影響の非常に強いものであり、19世紀の自由主義を基礎とする[377]リベラルの法であった[378]。
しかし、フランス民法典と同様、それは全ての人の自由平等ではなく、自己の利益を最大化するためにフランス革命やドイツ統一に寄与した有産市民階級の、それも成人男性のみを念頭に置いたものと理解されており、その政治的中立性の故に、都市化や独占、公害など、産業資本主義の進展によって新たに起きる社会問題に無策であった[379]。
ドイツ民法典論争[編集]
1889年、ローマ法の個人主義に対して団体主義法理を基礎とするゲルマニステンのオットー・フォン・ギールケにより、第一草案があまりにローマ法的・個人主義的・古典的自由主義に過ぎ、農村由来の伝統的なゲルマン法を無視しており、またその文体が抽象的・学術的に過ぎ、民衆的でないとする激しい批判がなされる[380]。
家長権と所有権に対する個人主義のローマ法と団体主義のゲルマン法の基本的考え方の違いが根底にある[381]。
翌1890年には、社会主義者アントン・メンガーにより、第一草案は近代社会主義を知らないローマ法を基礎にしており、形式的平等主義が無産階級に不利益をもたらすとの批判もなされる[382]。
ローマ法的個人主義を弱肉強食の法と批判し、「個人」ではなく家族団体即ち家を「法人」として社会の基礎単位とせよというのが、日本の民法典論争における穂積八束らの主張でもあった[383]。
ドイツ民法典論争の顛末[編集]
1895年10月、ドイツ民法第一草案に対するギールケらの批判を多少加味し、「一滴の社会主義の油」(ギールケ)[384]を加えた第二草案が完成、しかし本質的変更には至らず、第一草案の基本的枠組みは維持された[385]。この第二草案も途中から現行日本民法典起草に参照されている[386]。
後に成立したドイツ民法典は、妻を行為能力者とするローマ法の個人主義を採るべきでないというギールケ一派の批判を退け、ナポレオン民法典と異なり妻の行為能力、訴訟能力を認めるなど、カトリック旧勢力の抵抗に遭った為に不徹底ではあったが、妻の地位を大幅に向上させ、男女平等に大きく踏み出す当時としては極めて画期的な進歩的民法典であった[387]。
ゲルマン法の性質をどう解するかはそれ自体大きな問題であり、ナチスによって戦争体制に利用された側面はあるが[388]、ドイツ民法典が基本的に排斥したゲルマン法は民衆法であり弱者の法であるとして高く評価し、近代民法典の基礎であるローマ法はむしろ君主の法であり、かつ近代資本主義の基礎となった弱肉強食の法であると批判するのは共産主義者カール・マルクスと平野義太郎である[389]。
ドイツ民法典はそのローマ法的性格のゆえに、後にナチスからも激しく批判され、一時廃止寸前にまで追い込まれることになる[390]。
ゲルマン法(フランク・ゲルマン法)は、むしろフランス北部慣習法を介在してフランス民法典への影響が顕著である[391]。
男女平等論を巡る理論状況[編集]
フランス民法が個人主義・平等主義を徹底した法典である(ドイツや日本の民法はそうではなかった)とする見方に対しても、民法典論争における穂積八束以来の誤解であり[392]、フランスが革命の国であったというイメージによるステレオタイプに過ぎないと批判されている[393]。
キリスト教の家族観[編集]
家庭を福音伝道及び信仰生活の単位として重視したイエス・キリストにおいては、婚姻関係は親子関係から独立して、社会における一個の新しい基本単位を為すものとされた[394]。
しかし、ローマ・カトリック教会においては、寧ろ基礎となったのは使徒パウロの家族観であった[396]。
男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。 — コリントの信徒への手紙一11章9節[397]、新共同訳
妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。 — エフェソの信徒への手紙5章22節[398]、新共同訳
すなわち、男を惑わせ道を誤らせる「女は罪深きもの」(創世記参照)、婚姻は「必要なる悪」であるから、肉体と不純を浄化する為に、教会が独占する「秘蹟」に依らなければならないと考えられ、世俗的な事実婚を否定して、法定の手続を婚姻の成立要件とする方式主義(要式主義)が確立され、教会による独占を捨象したうえで近代民法にも継承されたのである[399]。
このように、伝統的なキリスト教の婚姻観は、男女平等に結び付くものではなかったので、ヨーロッパ法系においては、女性の権利は何らかの形で制限されていた[400]。
夫婦は一体となる、婦が消えて夫だけとなる[401]。 — イギリス普通法の法諺
ナポレオン民法典の男尊女卑[編集]
特にナポレオン民法典人事法の場合、一部の過激派によって兄弟姉妹間の近親相姦の自由すら主張された革命の熱狂期に対するカトリック的反動と、ナポレオンの軍事的体制の故に、男権優越・家長制度を当然の前提としており[402]、旧時代の価値観に立脚した規定も少なくなく、1970年代に根本的に修正されるまで、近代史上稀にみる程の不平等の性格を持ち合わせたものであったことが多くの学者により指摘されている[403]。
妻に自由を与へることはフランスの国風に反する。夫は妻の行為を監視し、外出すべからず、劇場へ赴くべからず、この人かの人と交際するべからず、と命じることができなければならない[404]。 — ナポレオン・ボナパルト
そのナポレオン民法典ですら急進的に過ぎると捉えられた為に、カトリック的反動によって協議離婚制度は早くも1816年に一時廃止された[405]。
イギリス・アメリカの男女平等論[編集]
男女平等論が主張されていたのは主に近代イギリス・アメリカにおいてであった[406]。
宗教改革後においても、ルターが妻の姦淫による法定離婚を認め、カルヴァンが夫にも貞操義務を認めたに止まり、依然として夫優位の思想であったが[407]、イギリスの清教徒たちは伝統キリスト教と異なり、婚姻を罪とは見ず、寧ろ人間の完成の為に必要な制度と考えた[408]。
英米の男女平等論は明治初期の日本にも影響を与え、男女平等を徹底すべきとの論が力強く主張され、一時一世を風靡していた[409]。
特にスペンサーの論は日本の植木枝盛にも強い影響を与え、植木はナポレオン民法典を男尊女卑の法典として批判していた[410]。
これに対して、ベンサムは、不合理な男女不平等についてはこれを批判すると共に、一方で形式的に男女平等を徹底することはかえって弊害が大きいと批判し、親子や後見人被後見人の関係と同じく、一定の限度でのみ上下の関係を設ける方が合理的であると論じ、小野梓(旧民法断行派[411])などの日本の英法派の学者に影響を与えていた[412]。
仏法派の男女平等論[編集]
日本の仏法派が男尊女卑だったかというとそうではなく、旧民法人事編の起草者熊野敏三はナポレオン民法典及びフランス社会の男尊女卑に対して批判的であったし[413]、ボアソナードも、ナポレオン民法典における妻の無能力制度に批判的であった[414]。
旧民法断行派の岸本辰雄らも、完全夫婦平等論を説く森有礼の思想的系譜にあったと考えられる[415]。
このように、明治初期の日本においては、かつての開国派かつ佐幕派の旧士族達を中心に、キリスト教の一夫一婦制イデオロギーがカトリック的男尊女卑を捨象した上で受容され、民法典論争においては、開明的観点からの断行論を唱える一派に影響を与えたと指摘されている[416]。
日本の思想状況[編集]
1889年(明治22年)、ジャーナリズム運動から新思潮が生み出される[417]。
素朴な復古主義や排外的な攘夷論ではなく、近代化の必要性は認めつつも、鹿鳴館に象徴される政府の極端な欧米化政策に疑問を呈し、日本の在り方を見つめなおそうというものであり、国民主義を唱えた陸羯南や、平民主義を唱えた徳富蘇峰らが代表的論者である[418]。
このような思想的背景から、自然法思想に疑問を投げかけ[419]、ヨーロッパ法系の旧民法や旧商法について、日本の国情を慎重に考慮すべきという議論が起きてきたものと考えられる[420]。
もっとも、これらの論者が直ちに延期論に立ったわけではなく[421]、特に徳富蘇峰は、植木枝盛の革新思想の系譜を受け継ぎ、断行論に立ったとも指摘されている[422]。
また、陸羯南はフランス法系の司法省法学校で教育を受けた経験を持ち、感情的なナショナリズムとは一線を画した延期論を展開している[423]。
商法典論争[編集]
旧民法が施行延期に至った経緯に絞るとしても、先ず、旧民法の施行延期と密接な関係があった旧商法の施行延期について述べるべきである[424]。
旧商法の問題点[編集]
1890年(明治23年)に公布された商法施行期日は、民法に先立つ明治24年1月1日とされていた[426]。
しかし、ドイツ人ロエスレル起草の旧商法は、日本の商慣習、従来の商業用語を無視し、法典全体としても統一を欠く等、様々な欠点を持っていた上[427]、千余条に及ぶ大法典が公布後僅か8ヵ月で公布されることになった為、実業界、法学会に猛烈な反対運動が起こる[428]。
また、ロエスレルの起草した商法典は、民法に歩調を合わせて仏法系の編成を基本とし、比較法の産物[429]ではあったが、各国法の調査は十分とはいえず、編別は仏法系であっても内容的には大半独法系であり[430]、それが一因となって仏法系の旧民法との矛盾抵触が問題となったと言われている[431]。
商法なるものは七分は独逸の商法に依ったものであらうと思ひます、多分其理由から起ったことでありませうが、民法と矛盾して居る点がいくつもあります、……仮令ば時効と云ふもの・・・商法に於て権利消滅です。然るに民法に於ては……唯一の推定証拠である、其結は随分著しく違ふものであります[432] — 富井政章、第三回帝国議会貴族院演説
英仏両派の動向[編集]
英法派は商工会等の実業団体と連携を取りつつ、明治22年に英吉利法律学校を改称した東京法学院を本拠に延期運動を開始、一方仏法派は明治法律学校を本拠とし、商の普遍性世界性を強調して断行論の論陣を張った[433]。
両派はあらゆる手段を尽くして多数派工作に及び、中には議員に対して脅迫がましい書状を送った者さえいたという[434]。
元老院の動向[編集]
1890年(明治23年)、法律取調委員の一員でもあった元老院議官村田保は、商法施行期日を民法と一致させ、明治26年1月1日まで延期する事を求める意見書を起草、賛成者53名の連署を集め、明治23年6月25日、元老院議長宛てに提出、岡内重俊議官の反対もあったが、6月28日に議決され、首相山縣有朋に提出された[435]。
同7月10日、山縣内閣は、司法相山田の意見を十分考慮した上、元老院の意見書不採用を閣議決定、21日上奏、裁可を得ている[436]。
商法典論争院内論戦[編集]
1890年(明治23年)11月、大日本帝国憲法施行。これに伴い、第1次山縣内閣の下で第1回帝国議会が開かれる。
凶作・米価高騰による恐慌が日本を覆う中で、衆議院は反政府派が多数を占める状況であった[437]。
12月10日、衆議院において、永井松右衛門により、本来は、商法の内容的修正を必要と考えるが、施行期限が迫っていることから、さしあたり民法典施行日まで商法施行延期を求めるとの理由により、「商法及商法施行条例施行期限法律案」が提出され、15日の審議に付された[438]。
衆議院では、延期派議員元田肇、岡山兼吉らと、断行派・仏法派の井上正一、宮城浩蔵、末松三郎らの激論の末、189対67の大差でこれを可決[439]。
貴族院では、20日に審議開始。傍聴した前述の松岡康毅によれば、議長伊藤博文は公然延期説をリードしたという[440]。
延期派の加藤弘之、穂積陳重の演説が功を奏したこともあり、104対62の大差で可決された[441]。
明治23年4月法律第32号商法及同年8月法律第59号商法施行条例は明治26年1月1日より施行す[442] — 商法及商法施行条例施行期限法律案
同日、伊藤より裁可を奏請された山縣内閣では、翌23日に閣議を開き、司法大臣山田顕義、海軍大臣西郷従道の署名拒否に依る強硬な反対もあったが、裁可上奏することを決定[443]。
25日には山田が辞任、急遽臨時に大木喬任が司法大臣に就任して稟議書に署名[444]。
26日裁可され、「商法及商法施行条例施行期限法律案」(法律第108号)、関連法律についての施行延期法律(法律第109号)が成立[445]。
政治状況[編集]
1891年(明治24年)1月、旧刑法の起草者ボアソナード自身による改正案を基に作成された「明治23年刑法改正案」が帝国議会に提出されるが、審議未了となった[446]。
2月15日、第2回衆議院議員総選挙が行われ、松方内閣の内相品川弥二郎らによる暴力による選挙干渉が行われ、強硬派の薩摩閥及び長州閥の山縣系と、柔軟路線の長州閥の伊藤系の対立が鮮明になる[447]。
商法典の施行延期を受け、1891年(明治24年)2月10日、小畑美稲により、民情慣習に背き、難解不明瞭の旧商法・旧民法は一時延期に止まらず、その修正をも受けるべきであり、政府は委員に実業家を加えた修正員会を組織すべきであるとする「民法及商法を審査する為委員を構成する建議」が出され、同13日、貴族院において議決[448]。
明治憲法第40条の規定「兩議院は法律又は其の他の事件に付各々其の意見を政府に建議することを得」に基づき、首相山縣に提出された[449]。
山縣内閣は、時間が無い、両法典に問題は無いとの理由でこれを不採用とした[450]。
同意見書で実業家を委員に加えるべきことの提案については、法典論争決着後の法典調査会の委員構成などに影響を与えたとも考えられる[451]。
産業界の動向[編集]
関税自主権の回復を強く要望していた経済界の有力者によって組織されていた大阪や神戸の商法会議所は断行論を唱え、一方東京商工会や京都・名古屋・大垣・長崎などの商法会議所はいずれも延期論を主張していた[452]。
ところが、東京商工会に代わって設立された東京商業会議所は、1892年(明治25年)6月発布の民法商法施行条例修正案を発表し、従前の延期論から、商法を一部修正しての断行論に転向する[453]。
旧商法の一部施行[編集]
そこで、このような経済界の動きを背景として、翌年7月の商法及商法施行条例中改正並に施行法律の施行によって、旧商法の一部、第1編第6章の商事会社及び共算商業組合、第12章手形及び小切手と第3編破産の部分が暫定的に施行されることになった[454]。
こうして、間もなく、民法の施行と商法の全部施行が具体的日程に上ってくるのである[455]。
民法典論争の激化[編集]
既成法典の施行延期戦は商法に付ては延期軍の勝利に帰したが、同法は民法施行期と同日まで延期されたのであるから、断行派が二年の後を俟(ま)ち、捲土重来して会稽の恥を雪がうとしたのは、尤も至極の事である。又延期派に於ては、既に其第一戦に於て勝利を占めたことであるから、此勢に乗じて民法の施行をも延期し、悉く既成法典を廃して、新たに民法及び商法を編纂せんことを企てた。故に其後は何と無く英仏両派の間に殺気立って、山雨来らんと欲して風楼に満つの観があった[456]。 — 穂積陳重『法窓夜話』97話「法典実施延期戦」
民法出デテ忠孝亡ブ[編集]
「民法出デテ忠孝亡ブ」のセンセーショナルな題の論文で世の耳目を集めたとされるのが、公法学者の穂積八束である[457]。
この論文は、明治24年(1891年)8月25日の「法学新報」に掲載された。
比較的短い論文で、民法法文上の理論的検討を加えたものではなく、個人本位の民法を批判したもので、一般的には復古的主張であると理解されている[458]。
古代ギリシャ・ローマが祖先教及び家父長制度を基盤とする社会であり、それが祖先崇拝を偶像として排斥するキリスト教によって破壊されたとの八束の主張は、論文「耶蘇教以前の殴洲家制」で引用されるフランス人歴史学者フュステル・ド・クーランジュ『古代都市』の説くところに基づく[460]。
しかし、ナポレオン民法典は夫の妻に対する強力な優越を基本とする家父長制を採っていたという理解を前提とし、八束が旧民法・仏民法は自由平等の法典だと理解し批判したと解すると、議論が嚙み合わないことになる[461]。
もっとも、彼にはこれに先駆けて発表した論文「国家的民法」もあり、ここにおいては、家族法についての議論は一切無く、古典的自由主義の限界を指摘していることが注目される[462]。
従来、八束の主張は多数派工作の為の政治的プロパガンダに過ぎず[464]、学理的には全くの的外れ[465]であると評されてきた。
しかし、長尾龍一以来穂積八束の実証的研究が進んでおり、単なる保守的・封建的イデオロギーにつきるものではなく、旧民法・現行民法が採用した古典的自由主義の限界を見据えた上での、財産法にも一体となって及ぶ弱者保護の観点からの立論であり、ドイツ民法第一草案に対するギールケや、社会主義者のメンガーらの批判と同一の性質をもったものとして再評価する動きもある[466]。八束は、「社会党」に共感を示してさえいたのである[467]。
憲法・行政法を専門とする彼が何故民法典論争に参戦したかについては、八束個人の考えがあったことと、英吉利法律学校関係者との関係もあったのであろうと推測されている[468]。
教育界の動向[編集]
教育界も民法典論争には関心を寄せ、大日本教育会は、「新法典と倫理」との関係について委員を集め調査報告させたが[469]、二派の主張に分かれた(明法誌叢1巻7号、明治25年)[470]。
能勢栄は、細目に渉る法律によって親族間の関係を規律することはかえって倫理の荒廃を招くから、大綱を掲げるに止めて、細部は道徳に委ねるべきとし、結論的には延期論を採る[471]。
一方、元良優次郎は、旧民法はキリスト教の風俗の移植であるとか、個人主義に過ぎるとの延期派の主張を的外れなものとして非難する[472]。
最終的に能勢派の見解に修正が加えられて同会の意見とされたが、大正・昭和の改正事業において一方の主役を張ったのに比べると、その姿勢も影響力も弱いものであったと見られている[473]。
また、慶應義塾の設立者福沢諭吉はボアソナード起草の旧刑法については高く評価しつつも[474]、民法商法については条約改正事業と切り離して慎重に制定すべきとして、延期論であった[475]。
大審院の動向[編集]
大審院長児島惟謙ほか大審院判事主流派29名は断行派として法典実施建議書を提出したが、西川鉄次郎は延期論に賛成して署名を拒否した[476]。
第三回帝国議会における院内論争直前、児島や岸本辰雄、栗塚省吾、亀山貞義、高木豊三、磯部四郎ら法典断行派・仏法派の大審院判検事らが花札賭博をした醜聞「弄花事件」は、断行派の信用を失墜させた[477]。
院外論戦最終局面[編集]
この頃法典論争はピークに達し、学問的な法論理の巧拙よりも、世論を動かして多数派を形成することに比重が置かれるようになる[478]。
法典実施延期意見[編集]
1892年(明治25年)5月、『法学新報』の社説に「法典実施延期意見」が発表される[479]。
延期派中の江木衷、高橋健三、穂積八束、松野貞一郎、土方寧、伊藤悌治、朝倉外茂鉄、中橋徳五郎、奥田義人、岡村輝彦、山田喜之助の十一名が連名したもので、激烈な論調で七か条より成る長文の法典反対理由を挙げ、法典の大修正の為の実施延期を強調したものであり、延期派の最も代表的な論説である[480]。
- (一)新法典は倫常を壊乱す
- (二)新法典は憲法上の命令権を減縮す
- (三)新法典は予算の原理に違う
- (四)新法典は国家思想を欠く
- (五)新法典は社会の経済を攪乱す
- (六)新法典は税法の根拠を変動す
- (七)新法典は威力を以て学理を強行す
一は、主にその人事編がキリスト教的個人主義に過ぎるとするもの、
二は、旧民法が公法的規定を置くこと、
三は、第31条の動産公用徴収の規定が憲法の予算規定と矛盾するというもの、
四は、旧民法がルソーの天賦人権論に基づく共和主義法典であるというもの、
五は、ローマ法的自由主義が弱肉強食の経済社会を招くとするもの、
六は、所有権者ではなく用益権者を直接の納税者としたため、常に小作人が納税の負担を負うことになること、
七は、学問的な定義の多用が法典の錯雑を招くと共に、特定の学問上の立場を強制すること、である[481]。
欧州中世の封建制度破れて商工業の自由興り優勝劣敗の盛伏を呈するや器械製造の業大に起り、大工大売の跋扈至らざる所なきに反して小資本家は漸く其業を浸奪せられ、個人主義の法律に依りて自由を得るも同時に其食を奪はるるの惨域に陥れり。是に於て……中等以下の人民にして封建制度の復古を絶叫せしむるに至れり。吾人は固より世の風潮に逆て封建政略を復活せしめ以て貧富知愚を均一せんと欲するものに非ずと雖も欧州今日の患難を鑑みて我国社会の情勢を抑圧観察するときは宜しく……策を講じ制法の際大に斟酌を加ふべきを知るなり。我立法者の模範とせる羅馬法は古羅馬の小市府に於けるの法律なり。個人の外、団体組織の広く行はれざりし社会に適せざる法律なり。抑も我国の社会は大に之に反し、古来農を以て建国の基本とせり。実に土地の耕作は衣食の原質なり。……市府の法を以て地方村落に適用せんとするは素より其当を得べからず[482]。
— (五)新法典は社会の経済を攪乱す
主に江木の手に成ったと言われ[483]、論理の是非はともかく、世論を延期派に傾けることに大の効果があったとも言われる[484]。
江木は、当時内務大臣の秘書官の地位にありながら、反政府運動の急先鋒として活動したのであり[485]、「法典実施意見」の公表に当たっては、井上馨に充てて「此意見書に依り免職せらるるとも刑に処せられるるとも小生共之本望に有之」との強い決意を表明している[486](明治26年、実際に失職した[487])。
なお、この時期の法典論争は、商法典論争で施行期限をいったん旧民法と同日に延期された旧商法を、旧民法と共に修正の為更に延期させようという戦いであるので、同論文には旧商法についての批判も含まれている(商業帳簿、破産法等)[488]。
法典実施断行ノ意見[編集]
これに対して、岸本辰雄、熊野敏三、磯部四郎、本野一郎、宮城浩蔵、杉村虎一、城数馬など[489]、法治協会の断行派が直ちに「法律雑誌」(第883号)に発表した「法典実施断行ノ意見」は、一層激烈であった[490]。
- (一)法典の実施を延期するは国家の秩序を紊乱するものなり
- (二)法典の実施を延期するは倫理の壊乱を来たすものなり
- (三)法典の実施を延期するは国家の主権を害し独立国の実を失はしむるものなり
- (四)法典の実施を延期するは憲法の実施を害するものなり
- (五)法典の実施を延期するは立法権を放棄し之を裁判官に委するものなり
- (六)法典の実施を延期するは訴訟粉乱をして叢起せしむるものなり
- (七)法典の実施を延期するは各人をして安心立命の途を失はしむるものなり
- (八)法典の実施を延期するは国家の経済を攪乱するものなり
これは、内容的には国家社会の秩序維持のためには法典の完成の不可欠なことを強調し、或いは退廃の危機に瀕する人倫道義を救うには、道義維持者たる民法典を完備することが必要であると説く自然法学的法典実施論であるが、同時に延期論者を痴人狂人と罵る非理性的感情的なものであった[491]。
当時我輩も、法理上から民法の重なる欠点を簡単に論じたものを延期派の事務所に送って、意見書中の一節とせられんことを請うたが、事務所から「至極尤もではあるが、この際利目が薄いから御気の毒ながら」と言うて戻して来た。なるほど前に挙げた意見書でも分るような激烈な論争駁撃の場合に、法典の法理上の欠点を指摘するなどは、白刃既に交わるの時において孫呉を講ずるようなもので、我ながら迂闊千万であったと思う。要は議員を動かして来るべき議会の論戦において多数を得ることであった。その目的のために大なる利目のあったのは、延期派の穂積八束氏が「法学新報」第5号に掲げた「民法出デテ忠孝亡ブ」と題した論文であったが、聞けばこの題目は江木衷博士の意匠に出たものであるとのことである。双方から出た仰山な脅し文句は沢山あったが、右の如く覚えやすくて口調の良い警句は、群集心理を支配するに偉大なる効力があるものである。 — 穂積陳重『法窓夜話』97話
なお同時期に、和仏法律学校校友会から『法典実施意見』(「法律雑誌」884・885号)が出ているが、断行論に具体的根拠を挙げて逐一反論したものである[492]。
ボアソナードの断行論[編集]
延期派の「法典実施延期意見」に対して、当時箱根にいたボアソナードは、「日本新法典、法律家の意見書及び帝国議会における異見に対する答弁」なる長文の答弁書を発表し[493]、旧民法延期派が旧民法の特にその家族法(日本人起草)を攻撃して「倫常ヲ壊乱ス」云々といった非難に対しては、
民法は忠実に日本古来の家族制度、相続権に関する長子の優越権等を尊重し、只例外として之に些少の変更を加へたるに過ぎないのである[494]。 — ボアソナード
と述べて、延期派の批判が的外れであると反駁している[495]。
また一方で、財産法については、時代・場所の如何にかかわらず普遍的に妥当すべき法理(自然法)のある事を論じた[496]。
フランス民法典が共和制の民法であるという非難に対しては、フランス民法典が行われた90年間中63年は帝政であり、共和制は27年間に過ぎない上、民法は私法の基本法であり、公法及び政治法とは無関係である、と反論している[497]。
その他、ボアソナードが、旧民法の註釈に着手した本野一郎、城数馬、森順正らに送った書簡が、明治23年6月5日『交詢雑誌』第368・369号に掲載されている[498]。
特に日本が外国人に対する法権及び裁判権に関して其独立を全ふせんと力むる時に当り明確適理、就中公正の法律を携へて条約改正の場に臨むは日本の為め実に必要なるに非ずや。此れに察せず漫然期日を立てず法典編纂の延期を望むは是れ恰も国家が永久に恥辱の境遇……を希ふものと異ならざるべし……故に真正なる愛国の士は斯の如き非難を排斥するを力めずして可ならんや[499]。 — ボアソナード
条約改正事業における法典編纂の重要性を述べたもので、断行派、特に政府当事者の意見と相通じるものがあり、断行派の雄梅謙次郎の最も強調する点である[500]。
梅謙次郎の断行論[編集]
断行派の論者の内、旧民法(特に財産法)につき、内容それ自体には批判的であった人物として、明治民商法の起草者梅謙次郎がいる[501]。
梅の断行論は、法典施行がひとたび延期されると成立がいたずらに長引くおそれがあるところから、不完全であっても施行し、欠点は後から修正すればよいという拙速論であり、旧民法そのものの全面的擁護論ではない[502]。
当時の法典が完全とは思はざりしも、当時法律家中に大に学派分れ、英独仏の各派に加へて、又守旧派などもあり、もし一度之を延期すれば、更に法典の施行を見るは難からんかと思はれたり。しかるに当時の時勢は、吾人の宿望たる条約改正将に行はれんとし、而して法典之は行はれず。又内国にても、裁判を為すに当り成文は極少、極悪にして、且つ慣習も不明にて、旧民法と雖も、此状態に比すれば勝れり。即ち無きには勝ると考へて、速に実行せんことを主張せしなり[503]。 — 梅謙次郎、明治40年3月6日東京帝国大学民法講義
なお、法典制定以前の単行法が実際に「極少、極悪にして、且つ慣習も不明」であったかは疑問視されており[504]、膨大な単行法が民事法の全領域に存在していたことが指摘されている[505]。
また、法規の無い場合でも、明治8年(1896年)太政官布告第103号「裁判事務心得」に基づき、条理に従った裁判も、当時の人々の懸命な努力によって相応に機能していたから、決して無法状態の暗黒時代ではなかったことが指摘されている[506]。
民法典論争院内戦[編集]
1891年(明治24年)5月6日、第1次松方内閣成立。
外務大臣は青木周蔵が留任。民法典論争院内論戦時は榎本武揚。法相は当初山田であったが、大津事件の責任を取り辞任し、民法典論争院内論戦時は田中不二麿[507]。
大木喬任は、民法典論争院内論戦時は文部大臣の地位にあった[508]。
政府・議会の状況[編集]
前首相山縣有朋[509]ら政府主流派は断行論であったが、政界は政府系議員、民党系議員共に各々の立場から延期派・断行派に分裂しており、民法典論争をして単なる保守対革新の対立とみることは実態に合わないと指摘されている[510]。
政府の財政基盤は脆弱であり、地租改正の重い負担によって農村は疲弊していた[511]。
明治政府が重い負担を農民に課し、その負担の下で資本主義を発展させざるを得なかったのは、アメリカ公使ジョン・アーマー・ビンガムらの指摘によれば、不平等条約により正当に得られるべき関税収入を得られなかった為にその負担を農民に課さざるを得なかったことが主因である[512]。
例として、1891年(明治23年)における日本の内国税収入と海関税の比率は100:6.43であるのに対し、アメリカ合衆国は100:169.03[514]。
歳入の内、地租の占める割合は、イギリスの1.27%に対し、日本は58.07%にも及んでいた[515]。
政府・民党共にこの問題は認識されており、帝国議会において、積極財政主義による救済をすべきか、緊縮財政主義によって民力休養・政費節減を図るべきかで激しく対立していた[516]。
政府側の非主流派であった井上毅は、パリ留学中に来日前のボアソナードに師事して以来、私的にはボアソナードと極めて深い絆で結ばれていたが[517]、地租維持はやむを得ないまでも、農村の安定化を図って市場経済に対応させるべきであり、そのためには戸主の権限を強化して家制度を確立し、農家の解体を防ぐことが合理的であるとの構想に至り、政府の方針に反して旧民法延期論に回った[518]。
また、伊藤博文はナポレオン法典自体は高く評価していたが、旧民商法の出来に不満を示しており[519]、公然延期論をリードした旧商法[520]のみならず、民法についても延期論であったと推測される[521]。
議会の多数を占める民党側でも、農村保護・家族経営の安定化の観点自体は一致していたことから、旧民法は弱者保護の観点が(特に財産法において)不十分であるとして延期論を支持する勢力が出現した[522]。
自由党首板垣退助は断行派であったが、党員内にも延期論者が少なくないことから、党として断行論を採ることには否定的であった[523]。
貴族院[編集]
民法典論争最大の山場となったのは、第3回帝国議会貴族院であった[524]。
1892年(明治24年)5月26日、貴族院において、「民法商法施行延期法律案」を提出した村田保は、延期論を要約して次のように述べた[525]。
- (一)倫常を紊(みだ)ること
- (二)慣習に悖(もと)る事
- (三)法律の体裁を失すること
- (四)法理の貫徹せざること
- (五)他の法律と矛盾すること
その提案理由が広い範囲にわたり説明された[526]。
「時事新報」の報道によれば、政府においては、同案が成立すると条約改正事業に容易ならない影響を及ぼすであろう事を大いに憂慮し、高島鞆之助陸軍大臣を除き松方内閣閣僚は皆出席[527]。
初日の段階では、田中・大木・榎本の三大臣の反対演説があって、延期論がやや色を失った感もあったが、翌27日には延期派が盛り返す様子を見せた[528]。
天賦人権論論争[編集]
貴族院論争初日、冒頭の村田演説に続き、法相田中、渡辺元が断行論を述べた後、帝国大学総長加藤弘之が演説[529]。
帝大総長の演説とあって、議場はあたかも学校のような雰囲気に包まれたという(国民新聞)[530]。
加藤は、自身は専門の法学者ではなく素人考えである事を断りつつも、(旧)民法の精神は自然法を大本とし、そこから天賦の人権が人民に付与されると理由書に書いてあると指摘、一方憲法(明治憲法)の精神は、公権・私権の区別無く全て国家の主権から生じるものと解されるから、民法は憲法と矛盾抵触している、と主張[531]。
更に、天賦人権説がヨーロッパでも既に時代遅れの説として衰退しつつあることを指摘した[532]。
これに対して、保守党中正派を率いる退役陸軍中将、鳥尾小弥太(断行派)が演説、加藤の国家主義を批判して、人民相互の権利(私権)はいちいち国家の承認に基づくものではなく、人が人たるの所以から生じるものである、西洋の天賦人権論はこの際無関係であると主張[533]。
鳥尾に続いて大木文相が登場、村田の延期論に各論的に反論しつつ、更に加藤にも反論、
又先刻加藤君が申されましたことも……鳥尾君が其方は余程弁駁になりましたから本官は申上げませぬが、国家の主権のために人民の権利を動かし得らるると云ふことがござりませうか。独逸にさう云うことがござりませうか。……人民は各個各個の権利で決して財産身体の保護上に於きましては則ち天然の道理に拠たざるを得ない、それから人民天然の道理を規定したもので、是が普通の道理であります。それ故に外国に対しても交通が出来るのでござります。然るを国家のために権利を折らるると云ふやうなことであれば、人民が国家の奴隷と云ふものであるが、なんぼ独逸でも日本でも左様なものではない。それ故に裁判が左様なことになれば畠山重忠板倉周防守か・・・それは加藤君一人で悉くあると云ふ訳には行かない。併ながら独逸国に左様なことがあると云ふやうな御感触では甚だ驚入ったことであります[534]。
— 大木喬任、第三回帝国議会貴族院演説
普段は口下手な大木が、この日に限っては堂々の演説をしたことは、驚きをもって報じられ、各新聞社においても好意的に報道された[535]。
翌27日、谷干城(延期派)は、大木喬任の天賦人権論は儒教を介在した日本独自のもので、ヨーロッパのそれと異なることを指摘している[536]。
天賦人権云々の議論がありましたが、是れはどうも大木さんが間違っちょらうと思ふ。……大木君も鳥尾君も……漢学主義の人であって、中庸にある……天命に則り性法率ふと云ふ、斯う云ふ所から来た人道論で決して西洋で謂う人権論から来たのでは無かろうと思ひます。是れは其方の・・・人間の本分と云ふ所であろうと思ふ。是は人権論の誤解ぢゃらうと思ふ。それで大木さんの御論は一向何であったか我々にはわからなかった[537]。 — 谷干城、第三回帝国議会貴族院演説
翌28日、谷から財政支援を受ける陸羯南の『日本』は、「天賦人権、大木伯」と題する社説で、私法についてのみ天賦人権説を主張する大木のみならず加藤をも批判して、大木のご都合主義と加藤の極端とを批判している[538]。
国家の主権に歴史上の重きを置くは独逸主義に於て之あるも、国家ありて而後に権利ありと云ふ説は、恐らくは独逸法理の是認する所にあらじ。一切の法律(原注、憲法も)宇宙自然の道理に近か寄らしむるは仏国主義に於て之れあるも夫の大木伯の説の如く、独り私法のみ天然の道理に拠りて規定すとは、是れ又た仏国の法理にあらじ。[539]。
— 陸羯南「天賦人権、大木伯」『日本』(1892年5月28日)
院内論争においては、大木の議論はフランス法理の誤解として批判されるにとどまったが、教育界の一部においては、文部大臣が危険思想を唱道したものと受け止められ、反発を受けることになった[540]。
富井政章の延期法案賛成演説[編集]
最終的に、感情論に奔らず、純理的観点から延期論を述べた、貴族院における富井の貴族院演説が延期派勝利に大きく寄与したとも伝えられる[541]。
民法に最も反対であります……学問の進歩……を参考にして居ることが実に少い、殊に独逸民法草案であるとか白耳義民法草案とか云ふものは全く参考していない……是は寧ろ前置であります……新民法は条文が頗る繁多にして分り悪い、其中立法者の言ふべからざることをいって居る……此民法は殆ど起草者の著書と云ふ如き体裁を以て居ると思ふ、臣民の権利義務を定むると云ふ法文の体裁は全く失って居ると思ひます。其定義とか区別と言ふものが間違って居らねばまだしもであるが、実に非難すべきものが多い……例へば此財産篇の第一條……今日に於ては殆ど間違ひであると云ふことに学説の定まったことであります、……決して一つの物の上に行はるる権利一つの人に対向する権利と云ふものでは決してない、……それから権利を物権人権の二つに区別し置きながら債権の所有権と云ふものを認めて居る、是は財産編取得編の第二十四條及び第六十八條を見れば一目瞭然であります……財産篇の二百九十六條に契約と云ふものは物権を移す合意ではない、人権と義務を造る合意を言ふと云ひながら、取得篇の第二十四條に至って売買の定義を下すに当って物権の所有権を移転する契約と云ふ様なことを云って居る、契約と云う如き言葉さへも其意義が一定して居らぬ、
……自然義務と云ふものを義務の定義の中に掲げて法律に鄭重に規定したと云ふことは古今何れの国の法律に於ても其例を見ざる所であります、昨日自然法の義務の説明を承りました、併し私が今日まで解する所の自然法の思想とは全く違って居ると思ひます、自然義務とは全く違って居る、……形式主義の制度が行れて……外形の手続を欠いた時は何程意思が明瞭であっても其為したる所の契約は無効である是が羅馬法の主義であった。然るにそれでは不公平であると云ふことからして、此自然義務と云ふものを認めてさうして実際の弊害を矯めたのである、今日の法律に於ては全く謂れのないものである、今日の法律に所謂自然義務と称するものをば一種法律上の義務として規定したならばまだそれで論理は立つが自然義務として規定したと云ふことは全く了解することの出来ぬことである。
……一般学校の教師が生徒に向かって云ふことを立法者が一つ一つ規定して居る、是は実際の弊害のない様なことである……と云ふ人が定めてあらうと思ひます、……けれども……若し此の如き講義録体の錯雑とした法典を実施すれば世間何処の学校も皆此法典の弁別、順序、定義等に括られて仕まって此法律を解くと云ふことになると思ひます……沿革的の法学……又我国に此学問のために最も必要である所の比較的研究と云ふことも衰へてしまう、以上申しましたことは誠に迂遠の議論の様でありますけれども、私が始から此民法に反対した所の最重大の理由であります、……此点が直らぬ限はどこまでも私は反対である。
……それから人事編……は最も攻撃を受くる部分であります、元来此人事のことと云ふものは律令を以て細かに規定すべき性質のものではないと思ふ、特に我国の如き昔の家族制度が段々と変って来る時代であります……然るに此画一の制度を設けて親族の人事の関係を定めてしまうと云ふことは甚だ危険なことであらうと思ひます、……今日斯く迄攻撃の烈しい法典をばどうしても実施しやうと云ふ必要は何くにあるんでありませうか。
昨日から出ました、人民を試験の道具にすると云ふが如きことをせずして、三年や四年後れても……十分の修正を加へらるるが当然のことであらうと思ひます、
それから条約改正と云ふことであります、昨日外務大臣の演説を承はりました、併し……第一今より修正に著手すれば果して条約改正の望がなくなるか、……第二は此法典さえあれば必ずしも条約改正は出来るか、……条約改正は出来るとした所で……如何にも法権回復と云ふことは私共の深く希望する所である、併し……少くとも内地雑居を許さなあるまじ、之に伴ひて商工業の競争と云ふものが起る、其条約改正をした経済上の結果はどうであらう……仮令に……日本に十分の利益があるとしても……法典を拵えると云ふことは決して条約改正のためでない、日本国の法典を作るんであります。
……私は此法典をば殊に民法をば十分に修正するには四年位は掛らうと思ひます、併し法典のある部分殊に会社法破産法と云ふ部分は速に修正を加へ一日も早く実行になることを望む者である、それ故に此四年とあっても修正の出来た部分は議会の協賛を経て直ちに実施すると云ふ……修正案が出れば私は直ちに賛成を表する積であります、
……民法商法を行ふことは……日本国の歴史の上に於て実に特筆大書すべき大変革であらうと思ひます、それ故に此民法商法は十分の修正を加へられて……又議会も大多数を以て通過……後に実施することを切に希望するものであります[542]。
— 富井政章
この富井演説は、富井と異なり旧民法を高く評価する仏法系の民法学者(杉山直治郎など)からも、相応の説得力を持つものとして高く評価されている[543]。
貴族院論戦の決着[編集]
論争が進むにつれて、延期派の中心村田保は院外断行派から激しく敵視され、襲撃に備えて警官の警護を要した程であった[544]。
普段は閑散としている傍聴席は700人を超え、議場は採決が近づくにつれて騒然とし、議長蜂須賀茂韶は非常鈴を鳴らして事態の収集に努めなければならず、貴族院未曾有の事態であった[545]。
貴族院第二読会において、延期派の発議により、原案に「但し修正を終りたるものは本文期限内と雖も之を断行することを得」とする但書を加えた上で、123対61の賛成多数で貴族院を通過[546]。
衆議院[編集]
衆議院では妥協案として断行派から家族法部分のみを施行停止とし、財産法については断行するという一部断行論が島田三郎、河野広中らによって主張されたが、原案通りの全編延期が賛成多数で可決した[547]。
民法典論争最終戦[編集]
延期派が議会で勝利した後も、なお政府松方内閣は上奏して修正の為の延期を乞うか、修正するとしても家族法部分のみ修正するか決めかねており、ボアソナード、田中不二麿の主張により、延期法案を握りつぶして旧民法全部を断行することさえ検討された[548]。
1892年(明治25年)8月8日、第2次伊藤内閣成立[549]。
同年10月、ようやく首相伊藤博文は西園寺公望(断行派)を委員長とする「法典施行取調委員会」を設置、断行派・延期派両方に配慮して、断行派の横田國臣・岸本辰雄・長谷川喬・熊野敏三・梅謙次郎らと、延期派の木下廣次・富井政章・松野貞一郎・穂積八束・小畑美稲・村田保ら両派同数の委員をして、両院通過の延期法律案上奏可否につき討議させた[550]。
ここでは、延期派の富井政章と断行派の梅謙次郎との間で激論が戦わされた[551]。
- (一)旧民法が模範とするフランス民法典が古過ぎる
- フランス民法典施行後の判例・学説の進歩をも取り込んでおりさほど古くない
- (二)最新のドイツ、ベルギー民法草案が参考されていない
- ドイツ民法草案公布後1年しか経っていないのでやむをえない
- (三)法律の進歩を妨げる恐れあり
- 一概には言えない
- (六)自然法説は前世紀の遺物である
- 反自然法説は定説ではない
- (十五)法典さえあれば条約改正が必ず成るわけではない
- 法典が無ければ条約改正は必ず成らない
- (十六)安易な条約改正は望ましくない(現行条約励行論)
- 条約改正は国家の悲願である
- (十七)条約改正の為でなく国内の需要に応じて実施すべき
- 条約改正も内地の需要によるものである
- (十八)延期法案は修正事業を誰に委ねるか明言しておらず無責任とは言えない
- 政府に修正事業を丸投げしており無責任である
結局、同委員会は上奏御裁可を乞うべき旨を決議したので政府もこれを上奏、同年11月24日には天皇の裁可があって、法律案はここで初めて正式に法律として確定、民法は明治29年12月31日まで全編修正の為の施行延期に決定し、四年に及んだ法典論争に終止符が打たれた[552]。
民法典論争の主要論点[編集]
概要[編集]
当時の延期説の理由として、最も純粋な学問的立場に立脚したのは富井政章であった[553]。
富井は、旧民法の欠点につき、七項目を挙げて延期説を根拠付けている[554]。
- 民俗・慣習違反の規定が多い
- フランス・イタリア民法を模範とするに止まり、最新の立法学説が参照されていない
- 商法との重複・矛盾抵触
- 包括的規定を置かず、条文が繁雑
- 民法で規定すべきでない訴訟法的規定や公法的規定を多く含む
- 定義、説明、引例など、有害無益の教科書的規定が多い
- 法文全体が翻訳調で不明瞭
断行派の論者も、旧民法が立法技術的・法理的難点を有していたことは或る程度認めていたから、問題はそれが施行延期に値するかどうかであった[555]。
即時断行、後日修正の是非[編集]
法典の不完全であることを認め……人民の困難を知りつつ矢張り断行すると言ふことは此立法府の責務を甚だつくして居らぬと存じます。又新法典の……中には条章について言ひましたならば今実施されても差支えないものもあるかと存じまする。それでもただ是が法典となって居ります以上は一部を修正しましても必ず修正と言ふものは他の部分にも及ぶことは当然のことでありますから、依て全部の延期と言ふことに同意を表した所以であります[564]。 — 木下廣次、第三回帝国議会貴族院演説
自然法、天賦人権論[編集]
基礎となって居る……自然法……天賦人権と云ふ考……は今日の学問の上から見れば全く歴史上……の遺物である、既に十八世紀の夢と消えた考である、例へば財産篇の第三十條を読むに所有権と云ふものは自然法に依りて我々が所有する権利であると云うことは明に分る、第三十條の第二項に所有権と云ふものは法律を以てするにあらざれば制限するを得ずとある……既に法律よりも前に我々の持って居る権利であると云ふようなことを云って居る、此三十條の第一項の草案を見まするに草案には正直に自然の権利なりと書いてある、夫故に第二項とよく調和して居る、所が第一項の自然の権利なりと云ふ字を削って仕まった、併し第二項に其精神は依然として残って居る、それから二百九十三條に義務の定義が掲てある義務の定義にも自然法の覊絆なりと自然法を認めて居る[571]。
— 富井政章、第三回帝国議会貴族院演説
外国人起草の是非[編集]
欧米の例を挙げて、法典の外国人起草の危険性を指摘したのは延期派の穂積陳重であった(民商法共通の論点)[572]。
近世法典編纂論の始祖、イギリスのベンサムは、自国内で法典編纂を主張したにとどまらず、欧米諸国に対しても外国人起草の利を説き、自らをして法典編纂事業に当たらせよと提案したが、ベンサムの声望とその執拗な主張にもかかわらず、アメリカ・ロシア等欧米諸国において遂に受け容れられなかったのである[573]。
外国人立案の法典は公平なり、何となれば内国人の如く党派もしくは種族などに関する偏見なければなり。外国人立案の法典は精完なり。何となれば衆目の検鑿甚だ厳なればなり。ただ外国人はその国情に明らかならず、その民俗に通ぜざるの弊ありといえども、法典の組織は各国大抵その基礎を同じうするものなるをもって、敢てこれをもって欠点となすに足らず[574] — ジェレミー・ベンサム『改進主義を抱持する総べての国民に対する法典編纂の提議』
彼の著書は既に各国語に翻訳せられ、彼の学説は既に一世を風靡し、雷名轟々、天下何人といえども彼の名を知らぬ者はなかったのである。しかも、この碩学にしてその素志の天下に容れられなかったのは何故であるか。これ他なし。法典の編纂は一国立法上の大事業なるが故に、これを外国人に委託するは、その国法律家の大いに隗ずるところであって、且つ国民的自重心を傷つくること甚だ大であるからである。明治23年の第一回帝国議会において、商法実施延期問題が貴族院の議に上ったとき、我輩は同院で延期改修論を主張したが、上に述べた如き例を引いて、国民行為の典範たる諸法典を外国人に作ってもらうのは国の恥であると述べたのは、幾分か議員を動かしたように見えた。
— 穂積陳重『法窓夜話』72話「ベンサムの法典編纂提議」
倫理・慣習との関係[編集]
- 旧民法はキリスト教的個人主義に過ぎる(穂積八束、江木ほか)[575]
民法の所謂家なる者は耶蘇教俗の家なり。数千年来吾人の認了せる一法人にあらずして夫婦同居せる一族の総称たるに過ぎざれば民法は飽迄個人を以て権利の主体とせり。試に人事編の規定を見よ、父死亡するときは母をして当然後見人たるの権利を有せしめたり。故に一家の財産は悉く未亡人の意思を以て自由に之を処分することを得是れ家を重んじ家を以て一法人とする家制に適するものと謂ふべきか。華族に在ては其家憲、豪族旧家に在ても家法たるものありて厳然適任の後見人を選定し、専ら未亡人の左右すること能はざるもの比々少なからず[582]。 — 江木衷ほか「法典実施延期意見」(一)新法典は倫常を壊乱す
人事編には戸主あり家族あり隠居あり養子あり庶子あり、毫も従来の習慣上に存するものを廃せず、唯其規定に至り幾分の時勢に伴ひて更改せしものなきに非ずと雖も、力めて激変を避けんと欲したる立法者の苦心は章々節々に現れたり[584]。 — 梅謙次郎「法典実施意見」(明法志叢第3号、明治25年5月21日)
キリスト教と忠孝の関係[編集]
- キリスト教(旧約聖書)は自分以外に敬愛の対象を認めない神「独尊の上帝」を崇拝の対象とするが故に、ギリシャ・ローマの祖先教は滅ぼされるに至った(穂積八束)[585]
全部または一部の旧民法延期論の本質を、キリスト教排撃論に求める神学者[588]や民法学者[589]の見解もある。
親権[編集]
扶養の義務[編集]
- 親子間で血が繋がっていても、片方が家を出た場合、両者はもはや他人同士のはずなのに、ローマ法の主義を採って相互に扶養の義務を強制するのは不合理である(江木ほか)[592]。
- 扶養は道徳に委ねるべきであり、法律で強制すべきでない(江木ほか)[595]
嫡出推定[編集]
- 婚姻して6ヶ月後に子が生まれると、どんなに疑わしくても実子としなければならないのは不当である(村田)[598]
準正[編集]
- 準正はローマ皇帝が当時の風俗の荒廃に対処し、正式の婚姻促進と私生児救済を狙った政策的規定に過ぎず、家督相続を主とする日本に適しない(江木ほか)[599]
- 婚姻に依らない私通を奨励するもので不当である(能勢)[600]
夫婦間の契約取消訴権[編集]
- 夫婦間で売買契約をしたり、金銭貸借のときに代物で返済をした場合、民事上違法となり錯除の訴権がもう一方の配偶者に発生するが(財産取得35、36条)、配偶者が死亡時はその「相続人又は承継人に属す」るため(同36条)、親子間で訴訟が発生してしまう(村田)[601]
相続法の位置付け[編集]
旧民法の体系上相続法が財産取得編に組みこまれていることは、延期派の激しい批判を受けた[607]。
相続の性質に関しては、純然たる権利の承継か、それとも地位人格の継承かという、ローマ・ゲルマン法両体系にまで遡ることのできる一大論点がある[608]。
相続を遺産に対する単純な財産相続と解するのはゲルマン法であるのに対し、ローマ法は『法学提要』では体系上は財産取得方法として扱っているが、実際には祭祀等も継承の対象としている為、実は一貫しない[609]。
旧民法はフランス民法典と同様、ローマ法の『法学提要』のインスティトゥティオーネン式編別を採り、相続をして体系上財産取得方法としたが、家督相続のような明らかに財産以外の継承を含むものを財産取得編に含んだことは理に適っておらず、ローマ法のパンデクテン方式によって、財産法から独立した一編に収めるべき法理論上の理由があった[610]。
家族法を民法典で規定すべきか[編集]
- 倫理慣習の変遷期であり、民法典で事細かに規定すべきではない(富井[611]、能勢栄[612])
- 法典による慣習の統一が必要である(法治協会[613])
- 後見人の他に後見管理人、親属会議を定めなければならないのは、庶民には繁雑に過ぎる(村田)[614]
- 親属会議の開催は大した負担ではない(大木)[615]
前述のように、ナポレオン民法典の家族法は家父長権の強大を基盤とし、根底においては日本の家制度と通じる面があったと解しうるが、そうした家族事項を法典化するという作業そのものにおいて、旧慣派には違和感を与えたようである[616]。
家族法部分を民法典で規定せず、別個の法典に委ねる立法方式としては、モンテネグロ民法[617]の他、ソ連や中国などの社会主義民法の場合がある[618]。
財産法の基本的性格[編集]
債権譲渡[編集]
- 債権の自由な譲渡を許すときは、親友同士の金銭の貸し借りだったものが、高利貸しとの金銭消費貸借にすり替わってしまう(江木ほか)[622]
非金銭的利益の保護[編集]
- 金銭に見積もれない契約を無効とし(財333条)、金銭上の損害が発生しなければ法律上の保護が無いとしたのは正義に反する(江木ほか)[625]
- 同条の意義が不明瞭なのは確かだが、不当に名誉・信用を傷つけた場合は財370条により対応されるので問題無い(梅[626])
法人[編集]
用益権、使用権・住居権[編集]
旧民法編纂過程では、(物権としての)用益権類似の慣習は日本において絶えて久しく、施行すれば弊害が多いとも報告されていた[631]。
なお箕作自身が松岡と共に作成した前述の「別調査案」では、用益権は人事編において必要という理由で維持されている[632]。
賃借権の物権化[編集]
- 賃借権を債権でなく物権としたことによって、所有者の許可無く又貸しが可能になる等賃借人の権利が強くなり過ぎ、所有者の権利が不当に害される(村田)[633]
- 賃借権を今より強固にする方が宜しいというのでこうした(箕作)[634]
賃借権については、これを対人的な債権ではなく対世権たる物権とすると、借主の地位が強化されるが、抵当権が設定され繁雑である(所有権絶対原則の重大な例外となる)のと、フランス民法典の文理解釈上無理がある事から、フランスの通説は債権としている[635]。
なお箕作・松岡の「別調査案」では、用益権を更に分解した使用権・住居権は削除され、賃借権や永借権は人権(債権)になっている[636]。
明治民法でも原案起草担当の梅によって賃借権は債権になっている[637]。
物権法の不備[編集]
先取特権[編集]
抵当権や質権よりも先取特権の効力を高くしたのは、抵当権者・質権者の期待に反する(富井)[639]
主物と従物の処分[編集]
- 田畑を売る約束をすると鋤鍬牛馬、庭を売るなら石灯籠や水鉢も自動的に売られたことになるが、当事者の意思、慣習に合致しない(村田)[640]
証拠法[編集]
- 手続法たる民事訴訟法に委ねるべき(花井)[641]
- 訴訟法に送るといいながら訴訟法に無い場合がたくさんある(富井)[642]
- 厳格な拘束主義を採り、実際の慣行と著しく違う(富井)[643]
- 公正証書の効力が強過ぎ、日本社会の実際に不適合(富井)[644]
時効[編集]
- 長期の占有の効果として他人に所有権を侵されることになるのは、憲法違反(明治憲法27条)である(村田)[645]
時効制度は明治5年布告第300号「不及裁判」に始まるもので、それ以前の日本には存在しなかった為に、現行民法典成立後も長く非難された[648]。
教科書法典の是非[編集]
- 法典中に無用の学問定義を多数置くのは、法典を錯雑とさせ、特定の学問的立場を法によって強制するもので弊害が大きい(江木ほか[649]、富井[650])
- 例えば「財産」とは「権利」であると注釈する財産編第1条によると、何々権と名前が付いてないと財産的保護を受けられないことになる(村田)[651]
法典は同時に判例・学説・教科書を兼ねるべきか、冗長で説明的な法文はかえってかわりづらいのではないか、自然法的啓蒙法典プロイセン法以来のこの問題は、2010年代の民法・債権法改正事業においてもこの問題は再燃した[654]。
法典の難解さ[編集]
元来此一般の人民が……裁判官と雖も能く此法典が分るでありませうか、私共は分らぬことが屡々あるのです、其時は原書と比べて原書に想像を及ぼしてアー、成程あのことを云ふ積であるのかと云ふことで漸く分ることが屡々ある、……同じことを云ふにも無効とか取消とか錯除とか……実に誤解を来し易いと私は思ひます[660]。 — 富井政章、第三回帝国議会貴族院演説
この点、当時の日本人の知的水準の低さの故に自然法やボアソナードの高尚な法思想を理解できなかったのだとして、日本の後進性を揶揄強調する見解と[661]、前述の尾崎三良のような日本最高峰の人材にとってすら難解と感じられるようでは、到底実際の施行に耐えないものであったとの見解がある[662]。
民法典論争の顛末[編集]
概要[編集]
1893年(明治26年)3月、内閣に法典調査会を置くことになり、それに先立って総裁となる予定の伊藤博文が西園寺公望・箕作麟祥・穂積陳重・梅・富井・横田國臣らを招き、旧民法修正の方針を諮問[663]、穂積陳重により、民法の根本的改修、パンデクテン方式の採用、分担起草、委員会への実業家の採用などが答申される[664]。
1893年(明治26年)3月25日勅令第11号により、『法典調査会規則』が成立、穂積陳重(英法・延期派)、富井政章(仏法・延期派)、梅謙次郎(仏法・断行派)の三名が起草委員に任じられる[665]。
なお勅令第1号とする文献があるが、11号の誤りである(仁井田)[666]。
翌月、伊藤博文が法典調査会総裁、西園寺公望が副総裁に任命され、また数十名の主査委員と査定委員とを任命[667]。
1894年(明治27年)3月、当初法典調査会書記であった松波仁一郎・仁保亀松・仁井田益太郎が起草委員補助の役職に就任[668]。
同4月、穂積陳重の提案に基づく『法典調査規定』が内閣で成立[669]、更に『法典調査の方針』が法典調査会で成立して、起草の基本方針と体制が確定[670]、5月12日には法典調査会で第一回目の会議が行われる[671]。
7月16日、日清戦争の勝利で日本の国力が認められた為、安政の不平等条約に代わる日英条約が調印される[672]。
之に依ると五年後に改正条約が効力を生ずると云ふ事になって居ったのですが、別に外交文書で、民法・商法等の法典が完全に施行せられなければ更に実施を延期する事が定めてあった。……斯う云ふ事情ですから、どうしても法典編纂をやらなければならぬ……と云ふ事になった訳です[673]。 — 仁井田益太郎
そこで、日本政府は、その条約に認められた最も早い時期に条約実施を達成すべく民法編纂を急ぎ、梅が危惧していた、英仏両派の激烈な対立により民法典成立がいたずらに長引くといった事態に陥ることなく、両派の俊英に成る法典調査委員会はより良い法典を作成すべく一致団結してまい進し、とうとう母法であるドイツ民法典(1900年施行)に先駆けて成立するにまで至った[674]。
旧民法中の「明治二三年民法財産編財産取得法編債権担保編証拠編を廃止し」、第一編総則・第二編物権・第三編債権とする「民法中修正案」は、1896年(明治29年)2月26日の第九会帝国議会の衆議院に提出され、両院での審議を経て同4月27日に法律第89号として公布された[675]。
第四編・第五編の親族法・相続法については、明治29年12月31日の施行期限に起草が間に合わなかったため、いったん一部延期法を明治29年12月に成立させたうえで[676]、後日別個に議会に提出して成立するという形を採っている(明治31年法律第9号)[677]。
これによって、「第一編」から「第三編」までは明治29年法律第89号、「第四編」「第五編」は明治31年法律第9号という形式上別の法律になったが、これは後二編(親族・相続)は外国人に適用が無いから条約発効に好都合であるというので先に前三編だけを成立させたという事情によるものであって、後二編の家族法部分が財産法と別法典だというのは全くの俗説誤解の域を出ない(梅)[678]。なおフランス民法典も36章の一つずつが単行法として施行され、最終的に全体として統合公布されたという経緯がある[679]。
旧民法人事編を廃止し第四編親族・第五編相続とする「民法中修正案」は明治31年5月21日の第十二回帝国議会の衆議院に提出、6月2日可決。同日貴族院に送付され、同10日に可決・成立。6月21日法律第九号として公布[680]。
1898年(明治31年)7月16日から民法典全部について実施され、実施後一年にして、翌年7月16日から諸国との間の新条約が実施されることとなり、領事裁判権が撤廃された[681]。
英法はどのように影響したか[編集]
英法派が延期派の中核であったにもかかわらず、現行民法に対する英法の影響は僅少である[682]。
このために、民法典論争で勝利した英法派は、現行民法典成立によって、かえってその後凋落することになった[683]。
英法の影響が僅少であるのは、穂積陳重以外の起草者二名が英法に十分精通していなかったこともあるが、ベンサムの執拗な主張にもかかわらずイギリスが遂に体系的な法典を制定せず体系的な緻密さを欠いたこと、不動産法における部分のように、英法に封建法的要素を残した部分があり、近代法の観点から不適当だったことが挙げられている[684]。
穂積陳重の法典構想[編集]
起草者三名の共通認識及びその法理学的支柱をなすのは、近い将来の家族制度の解体を予想しつつ、社会の発展に法律の発展の足並みを合わせようという漸進的社会改革論である穂積陳重の法律進化論であるといわれている[685]。
穂積陳重の延期論は、実弟八束のような立場とは距離を置いており、 近代的民法典を作るにはその編成をドイツ民法草案やザクセン民法典同様のパンデクテン方式によるべきとするものであった[687]。
人事編を先頭に置くプロイセン国法及びフランス民法の方式から[688]、個人主義の財産法を原則形態として先に置き、家族法をその後に置くドイツ民法典の方式への移行は、ヘンリー・メインの言う「身分から契約へ」(英:From staus to contract)の定式に合致するものであり、近代的な法律進化の現れと見られたのである[689]。
また、社会の変動期であるとの理解からすれば、説明的で詳細に過ぎ、しばしば具体的事項の列挙を伴った旧民法では硬質過ぎて、社会の激動に耐えられないと考えられた[690]。
そこで、ドイツ民法典第一委員会の決議に倣い「法典の条文は、原則変則及び疑義を生ずべき事項に関する規則を掲ぐるに止め、細密の規定に渉らず」(「法典調査の方針」第11条)とする基本方針を上申した[691]。
これは、起草の時間が無いから詳細に規定しなかったのではなく、立法者が全ての紛争を事前に予想し規定することは不可能であるとの立場から、学説・判例の発展を阻害しないよう、法典は必要最小限の事項に絞って抽象的に規定するに止めるべきとの意であったと解される[692]。
穂積陳重のいう財産法の「根本的改修」の真の意味は、ここにあると解される[693]が、旧民法の修正という建前であった事実を重視すべきであり、根本的修正に当たらないとの主張もある(星野英一の項目参照)。
起草体制[編集]
起草三者が担当範囲ごとに原案を起草、これを基に三名の合議で起草委員としての案(修正原案[694])を確定し、これを委員会が審議するというのが大体の起草方法であった[695]。
穂積陳重が伊藤博文の諮問に答えて示した原案では、施行延期期限の短いことから割普請による他ないとの理由により、起草三者の合議を経ることなく、直ちに委員会に委ねる、という形であったが、法典速成の不可能を説く富井の提案により修正されたのである[696]。
原案起草者につき、平野作成表では以下の通り[697]。
- 第一編 総則
- 第一章 人(梅)
- 第二章 法人(穂積)
- 第三章 物(富井)
- 第四章 法律行為
- 第一~三節(富井)
- 第四節(梅)
- 第五節(穂積)
- 第五章 期間(梅)
- 第六章 時効(梅)
- 第二編 物権
- 第一~二章 総則・占有権(穂積)
- 第二章 所有権
- 第一節(梅)
- 第二節(富井)
- 第三節(富井)
- 第四章 地上権(梅)
- 第五章 永小作権(梅)
- 第六章 地役権(梅)
- 第七章 留置権(穂積)
- 第八章 先取特権(穂積)
- 第九章 質権(富井)
- 第十章 抵当権(梅)
- 第三編 債権
- 第一章 総則
- 第一~二節(穂積)
- 第三節(梅)
- 第四節(梅)
- 第五節(穂積)
- 第一章 総則
- 第二章 契約
- 第一~二節 (穂積)
- 第三~七節 (梅)
- 第八節(穂積)
- 第十節(富井)
- 第十一節(富井)
- 第十二節(富井)
- 第三章 事務管理(穂積)
- 第四章 不当利得(梅)
- 第五章 不法行為(穂積)
- 第二章 契約
大体衆議院の委員会で主に答弁をして居られる先生が其の部分の起草を担当したと云ふ事になるのです。……梅先生の方は、他人の起草した部分でも喋られたのですから、富井先生が最初に喋って居れば富井先生の起草した部分です……此所が得意だとかさう云った話ではなく、全く事務的な……意味で、一番終りを富井さん、初めを梅さん、二番目が穂積さんと云ふやうになって居たと考へて居ります[698]。
— 仁井田益太郎
なお、第3編第2章第9節請負、及び第4編親族・第5編相続は未確定[699]。
星野通作成表では、不当利得についても不明となっている[700]。
比較法の結実[編集]
民法典論争で批判されたように、旧民法の欠点の一つは、フランス民法典及びイタリア民法典を模範としたにとどまり、他の欧州の法典を殆ど参照していなかったことであったから、法典調査会は極力広範囲に諸外国の立法学説を参照し、現行民法典を立案起草した[701]。
殊に当時最も進歩的合理的と称されたドイツ民法草案を有力な資料としたことは、旧民法に比し、現行法典を内容的にも形式的にも格段に進歩せしめた(星野通)[702]。
むろん、ドイツ法のみを輸入しようとしたわけではなく、旧民商法に批判的であった伊藤博文も、明治20年の時点においてさえ、フランス法自体は高く評価していたから[703]、ドイツ法一点張りで日本民法典を作成しようとは考えておらず、旧民法施行延期が決まった後には、一国の法に固執することなく、参照できるものはできるだけ広く参照して、「泰西の普通の法」を基に民法典を制定すべきと主張していたのであった[704]。
日本民法起草にあたって参照された他のドイツ法系の法典・草案としては、ザクセン、プロイセン、スイス(債権法、州法)、モンテネグロ(独仏折衷)、オーストリアなどがあり、フランス法系ではフランス・イタリア・スペイン・ベルギー・オランダ・ポルトガルなど、英米法系ではインドやイギリス・アメリカ法など、そのほかにもロシア民法などが挙げられている[705]。
あの当時に、よくも方々の国の法律を調べたものですね。驚くですね。丁度私がドイツに居りました時にベルリンで国際比較法学会の二十年の記念祝典がありまして、私にも何か演説をしろと云はれた。少々閉口したのですが、民法編纂の資料を多少持って居たのですからそれを持出して、諸君の国々は比較法学を学問として研究なさるけれども、本当に比較法学を使って法律を作ったのは日本である。現に民法を作る際にはこれこれの諸国の法律を参照したといふ話をして、参考諸国法のリストを読み上げましたところ、すべての国名が満遍無く出て来るので各国からの出席者非常に喜んだ。殊に可笑しかったのは、モンテネグロの民法と云った所が大喝采で、モンテネグロの代表者が私の所へやって来て握手をしました[706]。 — 穂積重遠
独法導入の動機[編集]
伝統的な説明によると、法典論争を経て日本がフランス法の導入からドイツ法へ舵を切ったのは、当時ドイツの文物の輸入が盛んになったこともさることながら[707]、何よりもナポレオン法典が古過ぎ、一方ドイツ民法(啓蒙教科書法典のプロイセン法ではない[708])の設計思想が新しい時代に適合していたからである[709](外部リンク参照)。
仏国民法は……其条数2281亦浩瀚と謂うべし……古来の陋習を確信したる良規定多きは蓋し学者の認むる所なり、唯編纂の体裁其宜しきを得ず其規定亦細目に渉る……嫌なきに非ず是新民法が主として範を此法典に取らざりし所以なり[710]。……独逸……第一議会草案は2164条より成り第二議会草案は2359条より成れり……実に浩瀚と謂うべし故に往往細目に渉りて規定を成すことなきに非ずと雖も而も仏国民法の如く徒らに冗長に流れず又重複に渉れるも稀なり且法理の微を究め殆ど想像し得べき一切の場合を網羅して復た遺憾なからしめ又其体裁に於ても……能く学理を貫徹し……流石は現時学者の淵叢を以て称せらるる独国たるに恥ぢず、若し此法典にして終に発布せらるるに至らば実に古今独歩の美法典と謂うべし、故に新民法が尤も模範とせしは此草案に在るなり[711]。
但各国の法律皆多少の長短あるが故に新法典は決して一模範に拘泥せず汎く各国の法律を参照し……たることは既に……論じたるが如し[712]。
……普漏西国法は……刑法に関する部分を除き猶ほ1万7548の多きに及び……中には刑法の外諸種の公法、商法等に属する条数少からずと雖も其法文の体裁極めて平易を旨とし説明、引例常に法条の過半を占め且其規定も細目に渉れるが故に其条数の遂に万を以て数ふるに至りたるも敢て怪むに足らず故に普漏西国法は独逸法の基礎を成すに拘らず之を参照して利する所甚だ多からざるなり[713]。
— 梅謙次郎「我新民法と外国法」
マルクス主義法学者平野義太郎も、明治民法がまずドイツ民法第一草案に拠ったのは、それが特殊ドイツ的だったからではなく、西洋法共通の祖であるローマ法を普遍化・現代化した法典だったからであると説明している[714]。
我民法典は、ドイツ民法第一草案とフランス民法とを模範とし、其の長を採り短を捨て、速成の割合には完成した――或いは歴史上先例なきが如くに思ふ人も或る程の――ものである。しかし、一般の継受法がさうであったやうに、日本が外国法を継受したのは、外国の活きた法律を継受したのではない。……何を継受したかと云へば、最も抽象された一般的の法規、即ち幾度となく篩にかけられたローマ法の継受であったので、それはローマの社会の内部的秩序でもなく、中間の継受国ドイツの法律生活を規律した規範でもなかった。それ等の内面的生活如何を顧ず凡ての場合に妥当する普遍的な判決規範の継受であって……日本法にして外国法とも間違へられるものであった[715]。
— 平野義太郎『民法に於けるローマ思想とゲルマン思想』
これに関しては、明治14年以後のフランス法からドイツ法への転換は、政変に伴うプロイセン流の国家思想への接近を反映したものだとの見解[716]も戦後には有力に主張されており、憲法や行政法の場合ならともかく、日本民法がドイツ法の影響を受けて成立・発展したのは、単にドイツ法学の優秀性が高く評価されたに過ぎない[717]とする見解と対立している。
この点、伊藤博文は、明治20年10月の時点でもなお、「ナポレオン法を基礎とし」て独自に民商法典を起草すべきという立場を表明しており、依然フランス法への指向性は強いままであったことが指摘されている[718]。
独法はどのように影響したか[編集]
総論的な設計思想はプロイセン国法やフランス民法、旧民法の採用したローマ法の『法学提要』方式ではなく、ザクソン民法典のパンデクテン法式を採用することが穂積陳重により定められたが[719]、各論的分野において、最もドイツ法を重視したのは、仏法派の富井政章であった[720]。
起草員会で問題となったのは、代理権の授与に就ての単独行為説・委任説とである。単独行為に依って代理権を授与する事が出来るか、又委任契約に依ってのみ代理権を授与する事が出来るかと云ふ点に就ては、穂積・梅両先生は委任説を採り、富井先生は単独行為説を採られた。……此の単独行為説等は、正しくドイツ法の思想を採られたのです。……調査委員会で字句が修正され……「委任」「委任契約」なる文字がなくなり、「代理権」なる文字が用ひられ、履行の責めに任ずると云ふ事でなく、ただ其の責めに任ずと云ふ事になったのです。……詰り富井さん等の考が反映した事は疑ひない[721]。 — 仁井田益太郎
現第109条
- 第三者に対して他人に代理権を与えた旨を表示した者は、その代理権の範囲内においてその他人が第三者との間でした行為について、その責任を負う。
- ただし、第三者が、その他人が代理権を与えられていないことを知り、又は過失によって知らなかった場合は、この限りでない。
大体ドイツ法思想で民法は出来た訳ですけれども、偶にはフランス法の考への入った所がある。どちらかと云ふと梅さんの手に成った部分がさうです。穂積さんは公平などちらにも偏らずと云ふ態度であったと思ひます。富井さんは寧ろドイツ法一点張りで行かうと云ふ気分が見えたやうです。……富井先生は……日本民法の出来る迄は、ドイツ法の思想は少しも鼓吹されていないのです。フランス法主義の法典が出来て学校にも講訳されて居った……所がドイツ法の思想に拠った民法が出来て、此の民法を解釈し説明して行くにはドイツ法の考へに依らなければならぬので、初めて、ドイツ法の思想が入って来た。法律を学ぶにはドイツ法をやらなければならぬと云ふ事になって来たのです。詰り、ドイツ法思想の日本民法学と云ふものが出来る基礎は、民法そのものにある。ドイツ法の思想があって然る後に日本民法が出来たと云ふよりは、日本民法がドイツ法の思想を輸入したと云ってよい[722]。
……富井先生はフランスに於ける材料からドイツ法の思想を得られたのです。……尤も穂積先生、梅先生はベルリンに一年ばかり居られて、其時にドイツ法の考へを充分吸収して帰られたと思ふ。つまり、三人共ドイツ法の思想には共鳴して居られたのです[723]。
— 仁井田益太郎
財産法はどのように修正されたか[編集]
新時代への対応[編集]
- ドイツ民法草案に倣い、パンデクテン方式、法律行為理論を採用し、
- 公法・手続的法規定、商法との重複規定を削除して私法の基本法としての性格を貫徹し、
- 旧民法に多数あった定義、民法の大原則、分類などの教科書規定をほとんど削除して条文数を大幅に圧縮し、解釈の弾力性を高めて、激動する社会の変化に備えた[724]。
教科書的規定が一掃されたにもかかわらず、かえってわかりやすくなったといわれている[725]。
また、ナポレオン法典は法人を個人と国家の間に位置し、商工業の自由を拘束する中間団体と見て、フランス革命以来の立場を堅持し敵対的姿勢を採っていたが[726]、法人設立許可主義の原則を特別法で緩和しようという構えを見せた旧商法の立場から一歩進めて、ドイツ民法草案を参考に、
のも重要である[728]。
政治的中立性[編集]
ドイツ民法草案及び成案は、「総則」の後、パンデクテン法教科書やザクセン民法の立場を退け、「物権」ではなく「債務」法を先に置く[729]。
バイエルン民法草案の立場を採用したものであるが[730]、これには極度の重商主義の現れとするギールケからの批判があり、日本民法はザクセン民法の主義を採用している[731]。
もっとも、当初債権は旧民法同様「人権」の語が採用されており、ドイツ法に倣い「債務」とすべきではないかという磯部四郎や穂積八束らの提案もあったが多数の支持を得ず、最終的に穂積陳重によって、天賦人権論を想起させる人権の語を避け、政治的に無色・無難な「債権」が採用されたという経緯がある(星野通)[732]。
倫理・慣習への配慮[編集]
旧民法が従来の慣習・倫理に反するとの批判への対応として、明治民法は個別の制度についても修正を加えた[733]。
- 慣習法が成文法に優先すべき場合のあることを個別・例外的にのみ認めるのではなく、一般原則として認める(現92条)[734]。
- 金銭に見積もりえないものについても債権の目的となることを認める(現399条)[735]。
- 精神的損害等の無形的損害についても、不法行為による損害賠償の対象に含める(現710条)[736]。
- 裁判上の「錯除」に依らなければ効力を生じないとする旧民法の主義は改められ、「法律行為」の「取消」は、「相手方に対する意思表示」のみで効力を生じるものとなっている(現123条)[737]。
なお、成文法が日本の慣習法の集大成ではなく、外国法の再構成であることから、日本の慣習をどの程度成文法に優先すべきかは、起草者以来の難問となっている[738]。
旧民法の債権譲渡自由が個人主義に過ぎ、弱肉強食の経済社会を招くとの批判に対しては、
- 譲渡自由を原則としつつも、「性質上」できないものがあることを明示し、また当事者の「特約」によって予めこれを禁止できる(現466条)ものとした[739]。
旧民法編纂過程から大きな批判を浴びた物権法分野についても、ボアソナードの土地法構想は大きく修正されている[740]。
- 日本の慣習に反すると批判された旧民法の賃借権[741]・用益権・使用権などを廃止して所有権を拡充し[742]、
- 賃借権を債権と構成して、借地関係については債権たる借地権と、物権たる地上権の二元主義にした[743]。
これは、物権と債権を明確に区別するパンデクテン方式の帰結の一つである[744]。
また、かつて石造建築が主であった西洋諸国と異なり、木造建築が多く、土地と建物を一体と見ない日本独自の制度として[745]、
(もっとも、債権的な借地権しか持たなければ、借地人は特別法の制定無しには地主が交替した場合に直ちに借地権を失う弱い存在であったかというとそうではなく、両者の中間的存在として、債権的な借地権にも第三者対抗力がありえたことが明治初期の判例群から伺われる[748]。)
旧民法は農村に不適合で、その現れとして入会権について全く規定していないとの批判に対しては、膨大な慣習調査の結果を咀嚼する時間の無いことから、やむをえず妥協的立法で済ませている(263・294条)[749]。
この不備は、権利思想・個人主義の発達と相まって、全国の山林を禿げ山にする弊害を生んだ[750]。
古典的自由主義の徹底とその限界[編集]
個人主義・自由主義を採り、ヨーロッパ的な所有権絶対の原則・契約自由の原則を採るということは、個人の創意・競争心を刺激して資本主義社会の発達に資する反面、必然的に富の偏在、貧富の格差を産むということでもある[751]。
明治民法は最新の立法の主義を採用した一方で、民法典が古典的自由主義に傾きすぎ、弱肉強食の過当競争を招くとの民法典論争以来の批判に対してはこれを退け、国法は私人間の関係になるべく介入するべきでなく、また民法は私法の基本法に徹するべきであるから、当事者の自律的な温情・徳義に期待して、社会政策的な規定は民法典に盛り込まないという立場を採っている[752]。
これは、法律と道徳のバランスをどう取るかの問題でもある[753]。
この点、明治民法典の理論的指導者であった穂積陳重が採ったのは、イギリス流の社会ダーウィニズムの影響を受けた法律進化論であり、そこから導き出されるのは家族生活の段階的解体[754]のみならず、穂積八束が批判した、自由競争の促進による適者生存の原理であったと解しうる[755]。
ただし、穂積陳重の法律進化論は、「法律」も進化する、というだけであって、その方法は単純な生物学上の進化論(社会進化論)の応用ではなく、あくまでも比較法学であり(進化主義)、弱肉強食・自然淘汰のダーウィン理論をそのまま当てはめようとしたわけではないことも指摘されている[756]。
この点、梅謙次郎は、利息制限法の民法典への組み入れや、独占禁止法・労働法の制定に反対し、ビスマルクに賛同して社会主義者鎮圧法の制定に賛成するなど、重商主義的見地から経済的自由主義を徹底して、弱肉強食は経済発展上むしろ是認奨励されるべきとの立場であった[757]。
一方、ドイツ民法第二草案は、ギールケらの批判を受けて僅かに社会主義への兆しを見せたが、明治民法はドイツ第一草案と同じくローマ法的なままに、したがって自由主義的なままに成立したのである[758]。
我民法起草時には、我にはギールケがなかった。従て、ギールケの非難に値した諸規定は其のまま継受された。だが、経済的自由主義の勃興しかけた当時の日本にとっては、左程不幸事ではなかった。寧ろ権利を尊重し個人を自由に活躍せしめることは必要でもあり、従ってまた祝福されるべきものであった[759]。 — 平野義太郎『民法に於けるローマ思想とゲルマン思想』
このように明治民法がフランス民法・ドイツ民法第一草案と同じく19世紀の楽観的自由主義を採って、近代的な所有権絶対の原則・契約自由の原則を維持徹底し、権利本位の社会を構築したことは、刑法の罪刑法定主義と共に、明治の目覚ましい経済発展の礎となったが[760]、反面、資本主義社会の急速な進展に伴い、必然的に小作争議の激化や環境問題などの弊害と、特別法や判例による修正を生み出すこととなった[761]。
ここにおいて、「身分から契約へ」のテーゼは、修正を余儀なくされたのである(身分から契約へ、契約から身分へ)[762]。
家族法はどのように修正されたか[編集]
冒頭で述べたように、かつては旧民法が民法典論争で否定された結果、明治民法によって反動化したとの説[763]が通説であったが、現在の通説は、明治民法は穂積八束らからの猛批判にもかかわらず、旧民法からの根本的修正を受けていないと解している[764]。
親続編調査の方針は先に目録を議する時に略々極まったことと思ひまするに依って重ねて述べませぬ、一口に申せば一方に於て弊害なき限りは従来の制度慣習を存することにし、又一方に於ては社会の趨勢に伴って社会交通が開け其他種々の原因よりして社会の状況が少しく変れば直ちに法典を変へねばならぬと云ふやうなことにならないこと……を以て編纂することが必要であらうと考へます、既成法典は此二点から見れば多少修正を加ふべき点はありませうけれども、根本的に改正を加へねばならぬと云ふ程の点はないやうに思ひます[765]。 — 富井政章、法典調査会『民法議事速記録 第四拾貮卷』第124回法典調査会(明治28年10月14日)
親族法・相続法は相当に日本の慣習を参酌して出来たものですから、親族・相続法は旧民法に大分似て居ります[768]。 — 仁井田益太郎
起草当事者側からの説明によれば、旧民法と大きく異なるほぼ唯一の点としては、婚姻・養子縁組の成立につき、慣習無視をあえて進めて、届出主義を採用したことが挙げられている(仁井田)[769]。
構成[編集]
パンデクテン方式を採用し、相続法編を独立させて財産法から明確に分離したことは、家督相続を柱とする相続法を売買契約などと同じく財産取得法の一種とする法体系は不自然であるという延期派による批判への回答にもなった[770]。
これを法律進化論に基づく漸進的社会改革論として高く評価する[771]か(星野通もこの立場[772])、保守派への妥協であって官僚主義の現れと見るか[773]は評価が分かれている。
また、民法典論争で最も激しく争われた家族法領域を後回しにして、先に財産法を成立させることで、法典の早期成立を図ったとか[774]、あるいは、家族法は過渡期の立法であり早々に改正が必要になると予想していたことから、体系上財産法と分けることで、改正しやすくしたとの側面も指摘されている[775]。
戸主権[編集]
民法典論争で最も激しく争われた親族法分野(旧民法人事編)については、家制度・戸主権を前提としつつも、その弊害をできるだけ少なくしようとする努力が行われた[776]。
前述の戸籍法における戸主届出の原則は、明治民法によって当事者届出制度に改められた[777]。
法律は、依然として、戸主といふものを認めてゐるが、唯だ、其一家の代表者として認めてるほどの事で、決して、生殺与奪といふが如き、強力の権力を認めてゐない。故に、家族に対して、懲罰権をもたぬのみか、……戸主は、相続によって、其家の財産を持ってゐるから、家族を扶養する義務を負はした。かうなってみれば、其財産は、たとへ、戸主の名義でも、其実は、其一家の共有と同じ事だ。……要するに……戸主といふ者は、殆んど、必要がない様になった[778]。 — 梅謙次郎(引用者、平野義太郎)
その結果、家族に対する明治民法の戸主権は、極めて貧弱なものとして、引き続き批判されることとなった[779]。
注意すべきは、明治民法の戸主権は一見すると広い範囲に及ぶように見えるが、親権の場合と異なり、戸主の同意を得ずに婚姻・縁組しても、法律的には適法に成立し(旧776条但書)、ただ戸主の側から、制裁として離籍権又は復籍拒絶権の行使が可能になるだけに過ぎないことである[780]。自動的に新家分立が成る旧民法と異なり、その行使は任意である[781]。
明治民法776条
- 戸籍吏は婚姻が……第750条第1項……其他法令に違反せざることを認めたる後に非ざれば其届出を受理することを得ず
- 但し婚姻が……第750条第1項の規定に違反する場合に於て戸籍吏が注意を為したるに拘はらず当事者が其届出を為さんと欲するときは此限りに在らず
同750条
- 家族が婚姻又は養子縁組を為すには戸主の同意を得ることを要す
- 家が前項の規定に違反して婚姻又は養子縁組を為したるときは戸主は其婚姻又は養子縁組の日より一年内に離籍を為し又は復籍を拒むことを得
- (3項略)
新民法施行以前は、別段、之といふ法律もなく、唯、慣習でやってゐた所から、婚姻などは……随分、公けに認められぬ夫婦があった。是は、男女が、互に、想ひ想はれて夫婦になり度いといふても、戸主、又は、親が許さぬといふ場合に、其男女が法律以外に夫婦の状態を為すのである。……新民法では、斯る場合には、其戸主の監督を離れて離籍する事の出来るやうにしてある[782]。 — 梅謙次郎
戸主の同意を得ない身分行為を無効や取消原因にすべきだという主張は、法典調査会において、家族制度擁護論者からすら全く現れていない[783]。
明治民法が離籍権を明文化したのは、行使の結果戸主は扶養義務を免れるに留まる為、離籍される事、扶養を受けなくなる事の痛くない者には睨みが効くものではなく、実害は無いとの考えであった[784]。
親権[編集]
「親権」を認めず父権とすべきという穂積八束らの主張は採用されていない[785]。
親権については、旧民法より明治民法の方が個人主義に傾いたことが指摘されている[786]。
婚姻・養子[編集]
明治民法は、旧民法で夫婦間の贈与以外の契約を禁止していたのを改め、かつその取り消しは、訴えを要さず、相手方に対する「意思表示」のみで当然に効力が生じるとしている(現754条)[787]。
婚姻の成立については、旧民法は西洋諸国の場合と同様、法定の届出の後、慣習に則った「儀式」(典型例:教会での宣誓、神前での三々九度の杯)を行うことによって成立するとしていたが(人事編43条以下、67条)、繁雑に過ぎ現実的でないとの理由から、明治民法はあえて慣習を無視して簡略化し、届出のみをもって婚姻が成立するとしている[788]。
養子縁組の場合も同様の変更が行われた[789]。
明治民法の婚姻法は、依然としてフランス民法典を介してカトリック教会法の間接的影響が顕著である(明治民法765~771条、778条1号等)[790]。
相続[編集]
相続法については、旧民法でフランス法系の技術的規定と日本固有の家督相続制が矛盾衝突したため、ドイツ民法草案を介してローマ法の遺言相続主義の法理を採り入れ、学理的整備を行っている[791]。
しかし、前述のとおり、通説は根本的修正には至っていないと解しており、相続法は旧民法以来のフランス民法の影響が最も強く残っている分野の一つである[792]。
戸主以外の死亡時の「遺産相続」においては、小規模の農業・商工業を念頭に、家産の分散を心配して単独相続を採るべきとする富井の見解と、来たるべき資本主義の興隆を念頭に、戸主死亡時の「家督相続」の場合も分割相続制を採るべきとする梅の見解が法典調査会において激しく対立したが、明治民法は旧民法の立場を一部修正して、遺産相続の場合は分割相続を採るという折衷的立場を採用している[793]。
「家督相続」は日本流、「遺産相続」は西洋流になって居りますが、此の点では議論はなかったのですか[794] — 穂積重遠
あるべき筈だが、旧民法の時から遺産相続は分割主義になって居る。修正案の書入を見たけれども何も書いて居りません。問題にはならなかったと思ひます。「家督相続」に就ては「単独相続」、「遺産相続」に就ては「分割相続」としようと云ふやうに考へて居ったのですね[795]。 — 仁井田益太郎
家督相続における配偶者の最劣位は改善されている[796]。
民法典論争延長戦[編集]
村田保の評価[編集]
旧民法の編纂に携わりその欠点を熟知し、貴族院議員として法典論争の延期派をリードした村田保は、第9回帝国議会(明治29年)においては、
- 冗長な教科書法典であったのがスリム化されたこと
- 用益権、使用権、住居権、賃借権といった日本の慣習に反する規定が削除されたこと
- 外国人起草に依らず日本人自身の起草に成ること
を挙げて、明治民法財産法成案に満足である旨述べている[797]。
穂積八束の明治民法批判[編集]
一方、穂積八束は明治民法の審議を通じて、民法典論争以来の主張を繰り返したが、その姿勢も弱く、積極的な支持者も無く、多くの重要局面で家の論理の貫徹を阻止されたから、八束には到底受け入れがたいものであった[798]。
民法典論争において、準正や限定承認、時効制度等、日本の国情に反するとして激しく非難されたものの多くは何れも明治民法にも採用され、その為に明治民法は引き続き民法典論争以来の非難を受ける事になる[799]。
明治民法によって「忠孝」を全うすることは不可能となったのである[800]。
施行間近となった明治民法に対して、八束は次の様に述べて切歯扼腕している[801]。
欧州の範型に鋳造されたる新法典は将に其成るを告げんとす。今にして日本固有法を説くは死児の齢を数ふるに似たり。然れども予は好で法の過去を論ず。死児は蘇すべからず。我数千年の民族固有法は他日天定め人に勝つの時なきを絶望せざればなり。家といふ観念の如き蓋其一なり[802]。 — 穂積八束
なお、家制度と賃借権の債権化を理由に、明治民法は八束の主張を全面的に受け入れて成立した「忠孝亡ぶこと無き民法」、「国家的民法」であった[803]、との事実認識に立つ学者もいる。
梅謙次郎の明治家族法批判[編集]
梅謙次郎は、こと財産法については、「今後百年位は格別の事もあるまいが、幾分か今日よりも進歩する」と自画自賛する一方で[804]、家族制度は封建の遺風なりと断じ、これを保守しようとする明治民法(家族法)は必ず改正の必要に迫られると批判している[805]。
家族制度の廃滅、及び、隠居制度の廃滅、それから、養子制の減少、これだけは、今日において、断言して憚らぬ。是れは、百年といはず、ここ、二十年か、三十年の中には、恐らく、実施される事で、なぜかといふに家族制度といふものは、元来、封建の遺習であって、到底、今日の社会の進歩に伴はない制度であるからだ。……殊に、選挙法などが、改正になって、財産の資格を廃し、智識の資格も加へるやうになったら、益々……無用に帰するであらう。……こんなことをいふと、弟穂積などは、困ったものだといふかもしれないが、しかし、社会の趨勢は、滔々として、此の方向に押し寄せて来るには仕方がない[806]。 — 梅謙次郎「二十世紀の法律」読売新聞、明治33年1月5日
つまり、「民法出でて忠孝亡ぶ」の論争は、明治民法の成立を以って決着せず、民法施行後に持ち越されることになったのである[807]。
法典調査会でもほとんど支持者のなかった穂積八束の学説は、時代錯誤的なものとして、花井卓蔵を例外として法曹界では孤立無援であったが[808]、帝国大学の教授という立場から、教育界には強い影響力を有していた[809]。
教育界・政界の家族法批判[編集]
そこで、八束の影響を受けた教育界を中心として、明治民法は非道徳的・個人主義的に過ぎるから、忠孝の道徳と法律の実際を一致させるべきとして、旧民法と同様に改めて批判と改正論が浴びせられることとなる[810]。
かつて英法派として延期派に属し、第1次山本内閣に文部大臣として入閣した奥田義人は、個人主義の国であるスイス民法で認められている程度の家長権や家産制度すら明治民法は認めていないと指摘し、江木千之は、明治民法は「個人主義の極端」であり、「是ほど家族制度を破って居る国は恐らくあるまい」と嘆いて、民法改正を主張したほどであった[811]。
産業構造の変化に伴う家制度の崩壊[編集]
前述のように、先祖伝来の有限の家産の上に成り立ち、多数人の緊密な協力を有する産業、農業や小規模商工業を中核とする社会においては、個々の構成員の共同体からの自由な離脱や所有物の処分、均等平等相続制を採用して家産の細分化を許すときは、家業がたちゆかなくなって共同体全員が共倒れになるから、個人主義・自由主義・平等主義はその経済的基盤を欠いており、それとは逆に、家長による統率と、家産の同一性を維持するための単独相続制が導かれることは、ほとんど全ての民族が経験したことである[812]。
そこで、旧民法・明治民法が採用した長男「単独」相続制は、二、三男をプロレタリアとして農地から投げ出すことを強制するものだとの主張もあるが、日本の狭少な耕地と低い生産力、地租の重圧という諸条件の下で仮に法律上均等分割相続を規定したとしても、農民のプロレタリア化は免れないので、当を得ないと批判されている[813]。
ところが農業が生活の基礎だという状態はだんだん少なくなって来る。社会の多くの人々の職業は何かというと、サラリーマンである。……サラリーマンの家において何か生産されるかというと何もされない。主人の月給を皆で消費する。……しからばその、社会的ファンクションは何かといえば、それは子供を育てて行くということである。それが……家に残された最後の社会的機能である。……家の承継としての相続は、……農業の家とサラリーマンの家とによって、全くその意味を違えて来る。……サラリーマンの方の財産は、……定期預金だという場合が極めて多い。子孫のために美田を残すということは、サラリーマンには通用しない。……三万円の定期預金は三人の子に一万円づつ分けられると社会的損失を来たすか、来さないか……分けるということが単に兄弟の間で公平であるというだけでなく、分けることが財産の社会的ファンクションに何ら影響を与えない[814]。
— 我妻栄
むしろ、日本においても資本主義の発達に伴い農村共同社会が解体され、都市に人口が流入して家族生活が変化して戸主権を必要とする社会的実態を失っていたから、法曹界においてはむしろ戸主権の制限を加え、また女子の地位向上・男女平等を実現しようとする改正論が主流であった[815]。
石坂音四郎や穂積重遠のように家制度を再評価する少数民法学者もいたが、厳格な均分相続制の貫徹を既に放棄した英米仏瑞等の相続制度を比較研究した上で、現実の夫婦・親子を中心とする小家族制度の保護を主眼としたものであって、既にそれは復古的保守主義とはかけ離れたものであった[816]。
また、家督相続における長男単独相続制の問題は、「単独」相続であることではなく、法律で「長男」単独相続制を規定したことであった[817]。
明治以前の庶民、特に農民においては、必ずしも長男相続に固定されず、具体的事情に応じて様々な相続形態が選択されていたからである[818]。
そこで、明治民法の起草者中、早世していた梅を除き、穂積陳重や富井政章ら、更に陳重の息子穂積重遠が中心となって社会の実態に合わせた改正事業に取り組み、1925年(大正14年)の「親族法改正要綱」「相続法改正要綱」への結実を経て、戸主権による居所指定に従わなかったとき「裁判所の許可」のあるときに限って離籍措置を採る事ができるとして、戸主権の制限を図った改正案が成立するなどの成果を見ながら[819]、1944年(昭和19年)の中断を挟みつつ[820]、日本国憲法制定を受けて、遂に我妻栄らによる戦後の家族法の全面改正に至る[821]。
梅が予見した程には家制度の解体が速やかに進行しなかったのは、日本の殖産興業を支えた女工が「家」と深く結びついていたこと、大恐慌に際して「家」が失業者を何とかして収容し、帰農させる社会的役割を果たしたからであった[822]。
なお、大正の要綱は「進歩的」に過ぎるので「もちろんこれは政府の採用するところにならなかった」[823]との事実認識に立つ学者もいる。
民法典論争の本質・評価を巡る論争[編集]
概要[編集]
これらの論争がどういう意義を有するかについては、日本史の教科書や法学、民法の通俗書等を中心に、もっぱらドイツ系の穂積八束とフランス系の梅謙次郎の政治的イデオロギーの対立として記述する書籍も散見される。
しかし、後述するように、そのような単純な二項対立の構造ではなく[824]、純粋な学問的論争の他に、学閥争い、政治的争いの性格を加えた複雑の要素が絡んだものであるとの理解が民法学者の通説的な理解であり[825]、後述するように、その複雑性をいちおう認めた上で、どのような事実認識・歴史観に基づき、どの要素を強調しようとするかの差異が生じている[826]。
法典論と非法典論[編集]
英法派は旧民法のみならず、旧商法にも反対しており、一方仏法系の多くが属する旧民法の断行派は旧商法についても断行派であった[827]。
つまり、梅謙次郎が強調したように、仏法派と英法派、断行派と延期派の対立は、そもそも一国の統一的な法典を早急に制定すべきか、それともかつてサヴィニーが主張したように、必要に応じて単行法の制定のみにとどめて判例法・慣習法の発展によって暫時補いつつ、まずは学問の発展を待つべきかというという法典論と非法典論(法典編纂慎重論)の対立でもあり、日本における法典論争の当時激しく議論されていたものであった[828]。
ただし、延期論者が統一的な法典の必要性までを否定したわけではなく[829]、延期派中の多くの論者が、民法典論争決着後、法典の修正に向けて直ちに動き始めていたことも明らかにされている[830]。
穂積陳情説[編集]
延期論者であった穂積陳重からは、感情論や英仏両派の学閥の争いであったという面は認めつつも、ドイツと日本の2つの法典論争の共通性を重視し、その学問的性格を強調する見解も主張されており[831]、後世においても一定の支持を得ている[832]。
延期戦は単に英仏両派の競争より生じたる学派争いの如く観えるかも知れぬが、この争議の原因は、素もと両学派の執るところの根本学説の差違に存するのであって、その実自然法派と歴史派との争論に外ならぬのである。由来フランス法派は、自然法学説を信じ、法の原則は時と所とを超越するものなりとし、いずれの国、いずれの時においても、同一の根本原理に拠りて法典を編纂し得べきものとし、歴史派は、国民性、時代などに重きを置くをもって、自然法学説を基礎としたるボアソナード案の法典に反対するようになったのは当然の事である。故にこの争議は、同世紀の初においてドイツに生じたる、サヴィニー、ティボーの法典争議とその性質において毫も異なる所はないのである。延期断行の論争は頗る激烈であって、今よりこれを観れば、随分大人気ない事もあったけれども、その争議の根本は所信学説の相違より来た堂々たる君子の争であったのであるから、この争議の一たび決するや、両派は毫も互に挟さしはさむ所なく、手を携えて法典の編纂に従事し、同心協力して我同胞に良法典を与えんことを努めたるが如き、もってその心事の光風霽月に比すべきものあるを見るべきである[833]。
— 穂積陳重『法窓夜話』97話
ただし、この穂積陳重説をどのように理解するかは学者によって異なり、
ドイツの法典論争を純粋の学問的論争と理解した上で、
- 英仏両派の勢力争いに過ぎないとするもの(仁井田)[834]
- 日本の民法典論争はブルジョワ自由派に対する半封建派の争いであるから、ティボーとサヴィニーの争いではなく、ティボーとレーベルグの争いに類似すると主張するもの(平野)[835]
- 自然法学対歴史法学、進歩主義と保守主義、自由民権主義と国権主義、藩閥的官僚主義思想、英仏両派の感情的対立等の「複雑」の要素が絡んだものであるから、ドイツの法典論争のような純粋の法理戦ではないとするもの(星野通)[836]、
ドイツの法典論争もまた純粋の学問的論争ではなく、一民・一国・一法律を巡る政治上の争いと理解した上で[837]、
- 穂積陳重の認識においてもまた日本の民法典論争は純粋の学問論争ではなく、「白刃既に交わる」(穂積陳重『法窓夜話』97話)文字通りの戦争であったが[838]、日独の法典論争は何れも政治上の闘争でありつつも法の根本的な理解の相違に根差しているという意味で、確かに同一であるとするもの、がある[839]。
仁井田益太郎説[編集]
私の感じた所では、此の争いは一種の勢力争ひである。歴史法派と自然法派の争と云ったやうな高尚の争ひではない。見様に依れば一種の勢力争ひである。なぜかといふと、英法派はボアソナードの作った仏法系の法典が嫌ひで――元来法典は嫌ひな所へ持って来て――仏法派に都合の好いやうな旧民法は大嫌ひである。尤も、人事編の方は、日本人が編纂したのですけれども、其の他はボアソナードが編纂した。仏法派は旧民法を盛り立てて行かうと云ふのですから、一種の勢力争いのやうなものであったと、私には感じられます[840]。……あの時の法典の断行、延期の争は、法学界始まって以来の事だと思はれる位ひ熱心にやったのです。一種の生命線と云った関係があって、法典実施を断行されては英吉利法律学校が無くなって了まふと云ふ騒ぎです[841]。
— 仁井田益太郎
この仁井田説に対しては、十分な審議を経ることなく、帝国議会創設を待たず駆け込み的に旧民法を成立させた政府に対しての、村田保ら一部政治家の反感が論争を激化させたという側面を無視しており、一面的に過ぎるという批判がある(星野通)[842]。
また、この仁井田発言を根拠に、法典論争は私立法律学校による「パンの争い」であったという説が形成されているが、当時の私立法律学校の講師はほとんど無報酬であったこと、講師たちのほとんどは弁護士や官僚などとの兼業であり、仮に学校が無くなっても飯の食い上げにはならなかったこと、江木衷が免職されても刑に処せられても「本望」として法典論争に臨んだこと等を説明できないと批判されている[843]。
星野・中村論争[編集]
民法典論争の評価を巡っては、戦後の一時期に激しい議論となったことがある[844]。
平野・星野説[編集]
戦前から戦後にかけてのかつての通説は、法典論争において特に激しく攻撃されたのが旧民法人事編ほか家族法であったことから、延期論を採用して新たに制定された明治民法は当然に家族法部分において保守的に変容したという事実認識を所与の前提としており[845]、歴史上の全ての闘争は「階級闘争」である(共産党宣言)とするマルクス主義的歴史観の影響の下[846]、講座派の代表的論客であるマルクス法学者の平野義太郎や[847]、それを支持する玉木肇、青山道夫、星野通らによって[848]、旧民法断行派と延期派の争いは、英仏両派の感情的な学閥争いであるばかりでなく、何よりも梅謙次郎に代表されるブルジョワ民主主義的民権派と、穂積八束に代表される保守的封建的国権派というイデオロギーの争いであると主張されていた[849]。
論争は主として法典人事編の近代家族法的性格をめぐって展開した自然法学・歴史法学派の学説的抗争の感深く、また同時にそれと不可分に結びつく個人主義・自由主義と国家主義・伝統尊重主義のイデオロギー的相克であり、……感情的喧嘩でもある……そして延期派制勝裡にやがて天皇制家族国家の支柱ともいうべき家父長家族制度の明治31年民法典誕生の運びとはなったのである[852]。 — 星野通
21世紀以後も、マルクス理論を捨象したうえで、このような見解に親和的な説明[853]が断定的に採用されることも少なくない。
西洋を範とする法典の編纂は明治初年に着手され、フランスの法学者ボアソナードをまねいて、フランス法をモデルとする各種法典を起草させ、1880(明治13)年には刑法と治罪法(刑事訴訟法)を憲法に先行して公布した。その後も、条約改正のためもあって、民法と商法の編纂を急ぎ、1890(明治23)年には、民法・商法、民事・刑事訴訟法が公布され、法治国家としての体裁が整えられた。これらの内民法は、1890(明治23)年に大部分がいったん公布されたが、制定以前から一部の法学者のあいだで、家族道徳など日本の伝統的な倫理が破壊されるとの批判がおこり、これをめぐって激しい議論が戦わされた(民法典論争)。
1891(明治24)年、帝国大学教授穂積八束は法律雑誌に「民法出デテ忠孝亡フ」という題の論文を書き、ボアソナードの民法を激しく批判した。この結果、1892(明治25)年の第三議会において、商法とともに、修正を前提に施行延期となり、1896(明治29)年と1898年(明治31年)に、先の民法を大幅に修正して公布された。こうしてできた新民法は、戸主の家族員に対する絶大な支配権(戸主権)や家督相続制度など、家父長制的な家の制度を存続させるものとなった。
— 笹山春山ほか『詳説日本史』(山川出版社、2013年)285-286頁
我妻説[編集]
旧民法家族法(特に人事法)の方が、明治民法と比較してより「進歩的」であったという説に対して、旧民法と明治民法の条文の比較の観点から批判するのが我妻栄である[854]。
なるほど、戸主権の実質的内容をやや強大にし、法定推定家督相続人の去家禁止の規定を設けたこと等は、重大な点ではあろう。然し、延期論者が非難した親権、準正、扶養等の個々的制度は何れもそのままに踏襲された。……「家」の維持ということも、観念的な主張の範囲を出でず……「民法出でて忠孝亡ぶ」とまで非難された旧民法の修正としては、意外の感を抱かしめる。もっとも、一派の委員は、自分の抱懐する「家族制度」的規定を提案しても到底受理されない雰囲気を察知して、不満を抱きつつ原案の技術的検討に従事した場合が多かったようである。……「立法は妥協なり」の原理を如実に示すものである。……一部の学者は旧民法の改正につき……旧民法は「資本主義的単一家族制度」を原則とせんとしたのに対して、現行法[855]は「家父長的大家族制度」の復活と維持とを主張する、といっている。然し私は、審議の全過程を検討して、この説を肯定する根拠は遂にこれを発見しえない。
……法典論争をもって「民主主義・個人主義に対する半封建的家族制度の固守」の争いとなすことは或いは承認しうるとしても、現行法[856]が旧民法に比して半封建的家族制度の復活を実現したと判断することに対しては、賛成を躊躇せざるをえない。然らば、何故に延期派の主張を充分に容れない修正案が議会を通過したか、という問題になるであろうが、それはその争いが既に純学理的なものではなく、学閥、政争の色彩を有し、それが鎮静したことと、条約改正の必要という外的要素の強圧が加わったことがその原因であった、と私は考える[857]。
— 我妻榮
また、石井良助も、明治民法を「旧民法と対照した場合、……全般的により一層旧慣を尊重したとはいえないように思われる。そういう場合もあるが、反って、より近代的になっている場合も少なくないのである」と指摘し[858]、中川善之助も、二、三の例を挙げ、「どっちが近代的であり、どっちが封建的であったかは一概に断定できない」としている[859]。
中村・手塚説[編集]
更に、旧民法の性格を理解するには、いきなり明治民法と比較するよりも、前述の第一草案と比較すべきという主張が現れる[860]。
政治学者の中村菊男は、平野・星野説は旧民法の編纂過程を無視しており、実証的な根拠を欠いているとして激しく批判した[861]。
中村に賛成して論戦に参戦し、より詳細に論じたのが手塚豊である[862]。
進歩的と言いうるのは旧民法家族法の第一草案についてだけであって、旧民法成案そのものは半封建性という意味において、明治民法と大同小異であるというのが中村・手塚説の主旨である[863]。
延期論者が最初に攻撃した人事編第一草案は、反『醇風美俗的』、いいかえればヨーロッパ市民法的色彩のきわめて強いものであった。しかるにこの草案が法律取調委員会、元老院においていくたびか修正を施されるに伴い……逐次封建的要素を加え、遂にはその性格を根本的に改変したとも考えられるのであって、それがため公布された旧民法人事編そのものは明治民法に対比して勝るとも劣らざる半封建的民法であった。……要するに、両法典の戸主権は一言にしていえば「大同小異」と称すべきであろう[864]。
— 手塚豊
更に、中村は民法典論争の本質論に踏み込んで、基本的には前述の仁井田説を支持しつつも、結論としては不平等条約改正に対する政治的立場の違いによる争いがその本質であると主張した[865]。
筆者はこの論争をもって当時存在していた仏法派対英法学派の、一面感情的にして他面極めて功利的な、学派の対立に由来するものと見るものであるが、それを助長し発展させ、あのような大論争に至らしめた原因は、条約改正に関連する政治的立場の違いであると思う。……それは一方において国権の確立のためには条約の改正がぜひ共必要であり……附帯的条件として法典の編纂が必要であるという政府……の考え方であり、他方において条約改正の手段として法典の編纂を約束することは主権の侵害であり、内治干渉を誘致するものであるとする見解である。前者が断行派に後者が延期派に加担したのであって、単に後者がブルジョア的、後者が封建的であったとはいい得ない。……旧民法・明治民法両者を比較すると旧民法の内容が如何に反動的なものかわかる。……この法典をブルジョア民主主義的として打ち出すことは誤りである[866]。
— 中村菊男
これに対しては、星野の側から、なお旧民法の方が、明治民法よりも進歩的と見るべきであるとの反論があり[867]、例えば戸主権の内容につき、旧民法で既に認められていた戸主による家の構成員に対する居所指定権に、それを拒否された時の制裁としての離籍権が明文化されたため、旧民法よりも明治民法の方が強力になっている等と主張されたが、批判説は、旧民法の解釈論上当然に認められていたものを整理して明文化したに過ぎず(「戸主権の観念的強化」[868])、大差無いと考えている[869]。
また、婚姻の効果として、旧民法は夫婦の双方に同居義務があることを当然の前提としているのに対し(人事65条)、妻のみに同居義務を明示する(かのように読める)規定(旧788条)は、明治民法にあって旧民法には無い為、明治民法の反動性の根拠として挙げられる[870]。
しかし、旧民法人事編元老院提出案第82条は旧民法と同様の規定であり、(おそらくは当然の事として)元老院で削除されたのを看過している、と反論されている[871]。
1952年(昭和27年)に始まったこの星野・中村論争は、両者が自説を撤回することなく終息したが、星野も、中村が提起した旧民法家族法における草案の変質という問題提起を肯定せざるを得なくなった[872]。
旧民法と明治民法のどちらがより封建的・反動的であったかは水掛け論の様相を呈し、決着していないが[873]、旧民法成案が明治民法と同等以上の半封建的民法典であったとの手塚説は「確定したといってよいと思われる」[874]と評されるまでに学会の支持を得ている。
星野・中村論争の影響[編集]
中村・手塚の指摘は学会の共有財産になったが、なお旧通説に同調する論者において、旧民法と明治民法の違いの根拠とされているのが、明治憲法を基礎とする絶対主義的政治体制を背景としているかどうかである[875]。
旧通説の側からは、仮に旧民法と明治民法の半封建性が大同小異だとしても、民法典論争のイデオロギー性を全く否定するのも妥当でない(青山)との反論がされている[876]。
あるいは、手塚説の「大同小異」論には賛同しつつも[877]、中村説は旧民法から明治民法への財産法上の変化を不当に軽視しており[878]、賃借権を物権と構成して賃借人の保護を図る等、旧民法の財産法は明治民法よりも進歩的と見るべきであるとの主張がある[879]。
家族法についても、明治民法による修正が戸主権の「観念的強化」(手塚)に過ぎないとしても、観念的にでも強化されたことに意味があるかどうかが引き続き争われている[880]。
このような旧通説の立場に対しては、天皇制国家が絶対主義的体制であったという歴史観自体見直される現状において、そのまま受け入れる事は出来ないとの批判がある[881]。
賃借権の評価[編集]
現行民法が旧民法と異なり賃借権を債権と構成するなど、小作人が不利になり得る立法を採用したのは、明治政府の権力基盤であったブルジョワ寄生地主階級を保護する政策的意図に出たものと批判する説[882]、それは結果論であって、少なくとも起草者の主観的意図においては、物権として別個に制定した地上権が建物所有を目的とする土地賃貸借の原則形態として利用されるはずと考えていたとの説が対立している[883]。
また、立法者または原案起草者梅の19世紀以来の経済的自由主義への共感を表すものである[884]、あるいは、旧民法を単なる賃借権保護立法と見るのは適切でなく、零細な小作人の保護よりはむしろフランスにおけるような「富裕な借地農」の保護を想定しており、確かに日本の実情に適さなかったとの評価もある[885]。
保守対進歩という構図の問題点[編集]
旧通説の問題点のもう一つは、延期派=保守派、断行派=進歩派という図式を当てはめてしまうと、それでは説明の付かないあまりに多くの例外を認めることになってしまう点である[886]。
起草者をどう評価するか[編集]
例えば、賃借権の強化=進歩的、賃借権の弱化=保守的[887]、としてしまうと、賃借権の原案担当者は梅謙次郎であるので[888]、旧通説の図式に依れば仏法派・断行派・進歩派であるはずの梅が実は保守派だということになってしまうが、この点家永三郎の歴史観に立脚する一部の論者は[889]、梅も所詮政府側の人間であり、保守派に妥協したものであって、その自由主義は官僚的ブルジョワ自由主義に過ぎず、真の自由民権思想とは相いれない、詰まるところ梅も八束と同じく天皇制の藩屏に過ぎなかったと主張している[890]。
これに対しては、星野説の支持者からさえも大雑把に過ぎると批判されている[891]。
この点、マルクス主義者平野義太郎は、自由民権運動左派の大井憲太郎(旧民法断行派)の言を引用し、旧民法の妥協的性格を根拠に、ボアソナードすらも「保守主義の法律家」であったと評し[892]、一貫して梅を官僚的自由主義派と呼んでいるが、歴史観そのものには親和的な学者からすらも、旧民法の編纂過程を無視しており妥当でないと批判されている[893]。
保守的な断行派という存在[編集]
また、政界は政府系議員、民党系議員共に各々の立場から延期派・断行派に分裂していたこと[894]、特に自由民権運動を暴力で弾圧した超反動的な松方内閣や[895]、後に護憲運動によって打倒された清浦奎吾、典型的な保守派の論客鳥尾小弥太らが旧民法断行派であった事実を説明できないと批判される[896]。
もっとも、政府松方内閣は田中・榎本・大木の三大臣を除き断行論に冷淡であったとの認識が示されることもある[897]。
この点、政府松方内閣は、成立当初から長州藩閥と薩摩藩閥、山縣有朋と伊藤博文の対立という矛盾を抱えていた事が指摘されている[898]。
前述のように、商法典論争の時の首相であった山縣有朋は旧商法・旧民法共に断行派であった[899]。
延期派の巨頭谷干城と同様の保守的グループに属しながら、商法典論争で延期派であったのが、民法典論争で断行派に転じた鳥尾小弥太については、理論的に良いと思われた側にすぐ転向する癖があったとか[900]、政府から司法大臣の席を約束されていたという噂があったことが指摘されている[901]。
進歩的な延期派という存在[編集]
自由民権論の中心的人物福沢諭吉が民商法共に延期派であった事実については、不徹底なブルジョワ自由主義思想が法典論争を機にその馬脚を現したために福澤が思想的変節を示し、天皇絶対主義という新たなプロレタリアート搾取の支配体制の確立に加担することとなったと説明が試みられている[902]。
これに対しては、
- 福沢が条約改正と法典編纂を切り離すべきとして延期論に加担したのは国家主権の確立という立場からであって、福沢が延期派だから反動的封建派と見るのは正しくない[903]
- 各国の国民主義的運動自体、反封建的運動に矛盾するものではないし、特に日本の自由民権運動の場合、国内に対しては藩閥政府に対する民権の拡大を主張すると共に、列強諸国に対して国権の拡大を目指すという二面性を当初から持ち合わせていたのであって、明治期の国民主義的・国権的運動を一概に反動的・封建的と解するのは妥当でない[904]
- 福沢を含む延期派が、旧民法に反対して明治民法に反対しなかったのは、全体が日本人起草に成るという安心感に加えて、旧民法は条約改正交渉の要素の一つに過ぎなかったのに対し、明治民法の場合は既に条約改正が成り、施行の具体的条件として法典完成が特に急がれたために反対論が起こりづらかったに過ぎず、福澤の思想が変節したことを意味しない[905]
- 明治政府が重い負担を農民に課し、その負担の下で資本主義を発展させざるを得なかったのは、アメリカ公使ジョン・アーマー・ビンガムの指摘したように、不平等条約により正当に得られるべき関税収入を得られなかった為にその負担を農民に課さざるを得なかったことが主因であり、マルクス主義法学は日本社会内部の特殊性を強調するあまり、外国からの圧力という面を見逃している[906]
- 典型的な戦後の進歩的文化人によるステレオタイプに過ぎず、こんにちでは説得力が無い[907]
等の批判がされている。
明治民法により旧慣が温存されたのか[編集]
日本史の教科書など多くの書物には、民法典論争による延期派の勝利によって、明治民法は封建的な家族制度を温存・存続した、と書かれることが多い。
これに対し、それは素朴なイメージ論に過ぎないと批判し、明治民法典が旧慣を温存したのではなく、それ以前の家族制度とは質的な差異がある、戸主権は明治民法によってこそ創造されたと主張するのは前述の中田薫である[908](ただし、明治民法と江戸時代近世法との比較においては正しいとしても、旧民法編纂過程での戸主権出現を無視している点で手塚からの批判を浴びている[909]。)
中田によれば、日本固有法にローマ法の家長権の如きものは存在せず、家長個人は権利義務の主体ではなく、家族団体に対し重い責務を負う代表者に過ぎなかった(ゲルマン法型家父長制度)[910]。
しかし、個人ではなく家族団体が社会の基本単位であるときは、個人の所有権を確保し、自由競争を促進して経済を発展させようという富国強兵の目的を達成することは出来ない[911]。
そこで、現実に存在する団体主義的な家と、財産法的個人主義の要請をどのように調和させるかが旧民法編纂以来のテーマであった[912]。
一方、ローマ法では家長個人は構成員に対して強力な統率権を有し、家族団体の拘束から自由であり、先祖代々の家産は家族団体ではなく家長個人の所有である[913]。
明治民法が狙いとし、そして成功したのは、ローマ法を基礎に、個人の権利能力の完全な承認と、所有権の自由とを譲る事の出来ない大原則として据えると共に(民法総則・財産法)、前述の廃戸主制度を廃止して戸主の地位を絶対化することで(ローマ法型家父長制度)、現実に存在する地主制度や家族経営と、所有権の自由との平びょうを合わせ、両者を矛盾しないものに操作する事であった[914]。
なおドイツ民法典も家団体を社会の基本単位とするゲルマン法型を退け、ローマ法型法体系を採用しており、ドイツ親族法の歴史は団体主義の崩壊と個人主義発達の歴史でもある[915]。
民法典論争と商法典論争の関係[編集]
梅謙次郎の承認するところによれば、法典論争において延期派が勝利した主因は、新法典が日本の慣習に反する事項を多く含んでいたからであり、そしてその慣習違反は主として旧民法人事編にあったことからして、世に「人事編民法を延期せしめ、民法商法を延期せしむ」と風評されたと伝えられている[916]。
一方、民法典論争のイデオロギー的闘争の巻き添えを受けて商法典までもが延期された、とする従前の理解に反対し、「民法出でて忠孝亡ぶ」のキャッチフレーズが後世に与えたインパクトが強すぎるあまり[917]、商法典論争は1891年の穂積八束論文よりも前に、1890年の第1回帝国議会を舞台に争われたものであるという事実が見過ごされており[918]、商法典論争においては「民法出でて忠孝亡ぶ」に象徴される極度のイデオロギー的闘争は商法典論争と全然無関係であるばかりでなく[919]、商法典論争をして法典論争の「関ヶ原」、民法典論争をして「大阪の陣」と穂積陳重によって評されたように、むしろ商法典論争こそ法典論争の「主戦場」であり、その時点で大勢は既に決し、後の民法典論争は延期派の「追討戦」に過ぎなかったと理解すべきである、との法学者の主張もある[920]。
民法典論争と刑法典論争との関係[編集]
ボアソナードの起草になる旧刑法は、旧民法に先駆けて1882年(明治15年)1月1日から実施されていたが、早くも1884年(明治17年)には刑法改正事業が着手され、明治40年4月24日法律第45号をもって結実した(現行刑法典)[921]。
現行刑法自体は、明治末期の時点における刑法学の理論状況や社会状況を反映したものであるが[922]、旧刑法実施後すぐに改正事業に着手されたことや、民法典論争との関係は明らかでない[923]。
旧刑法改正事業の中身を検討する限り、とりわけ旧刑法実施直後の刑法改正事業は、単に法典としての形式を更に整頓するに過ぎなかったとも論じられている[924]。
明治維新は絶対主義革命であったとする平野らの講座派マルクス主義的歴史観を正面から肯定する刑法学者からも、現行刑法典は主としてドイツ刑法を参考としつつ実務の経験に基づいてボアソナードの旧刑法を改善したものであり、出版条例などの治安立法(刑法典の特別法)と異なり、絶対主義とは無関係であると論じられている[925]。
残された課題[編集]
資料を基にした財産法・家族法両方の旧民法編纂過程、憲法・刑法・訴訟法など他の諸法典や、法典論争を巡る各論者の具体的主張、当時の政治状況をも含めた包括的・実証的研究は、その必要性が認識されながらも、未だ不十分な状態にある事が指摘されている[926]。
脚注[編集]
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- ^ 穂積陳重『法窓夜話』97話
- ^ 平野(1948)13頁、牧野(1949)58、226頁、仁井田ほか(1938)15頁、石井(1979)173頁
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- ^ 潮見・利谷(1974)50頁
- ^ ※中略、以下便宜上本文では同様に中略を……で表記する
- ^ 我妻(1972)312頁
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- 岡孝「明治民法起草過程における外国法の影響」『国際哲学研究・別冊4・法の移転と変容』(東洋大学国際哲学研究センター、2014年)
- 岡孝「日本における民法典編纂の意義と今後の課題」『19世紀学研究 8巻』(19世紀学会、2014年)
- 川口由彦『日本近代法制史 第2版』(新世社、2015年)
- 川角由和「「法社会学論争」の教訓――市民法学(ないし市民法論)の<戦前>と<戦後>・ひとつの素描――」『龍谷法学 49巻4号』(龍谷大学法学会、2017年)
- 岸上晴志「日本民法学事始考――ボアソナードと立法者意思」『中京法学 30巻4号』(中京大学法学会、1996年)
- 北村一郎編『フランス民法典の200年』(有斐閣、2006年)
- 黒木三郎「近代化」と近代化 法のあり方をめぐって」『比較法学 第6巻第2号』(早稲田大学比較法研究所、1971年)
- 熊谷開作『日本近代法の成立』(法律文化社、1955年)
- 栗生武夫『婚姻立法における二主義の抗争』(弘文堂書房、1928年)
- 栗原るみ「ジェンダーの日本近現代史(3)」行政社会論集22巻2号(福島大学行政社会学会、2009年)
- 小林直樹・水本浩『現代日本の法思想』(有斐閣、1976年)
- 坂井大輔「穂積八束の「公法学」(1)」(一橋大学、2013年)
- 坂本慶一『民法編纂と明治維新』(悠々社、2004年)
- 櫻井圀郎「親族にかかわる法と祖先崇拝」『キリストと世界:東京基督教大学紀要12巻1号』(東京基督教大学、2002年)
- 潮見俊隆・利谷信義編『日本の法学者』法学セミナー増刊(日本評論社、1974年)
- 重松優「自由主義者たちと民法典論争」『ソシオサイエンス 11巻』(早稲田大学大学院社会科学研究所、2005年)
- 重松優「大木喬任と「天賦人権」―民法典論争における大木喬任の舌禍事件」『ソシオサイエンス 13巻』(早稲田大学大学院社会科学研究所、2007年)
- 白羽祐三『民法起草者穂積陳重論』(日本比較法研究所、1995年)
- 杉山直治郎編『富井男爵追悼集』(有斐閣、1936年)
- 高田晴仁「明治期日本の商法典編纂」『企業と法創造 9巻2号』(早稲田大学21世紀COE総合研究所、2013年)
- 高田晴仁「福澤諭吉の法典論:法典論争前夜」『慶應の法律学 商事法:慶応義塾創立一五〇年記念法学部論集』(慶応義塾大学法学部、2008年)
- 田島順・近藤英吉『獨逸民法IV 親族法』(有斐閣、1942年)
- 竪田剛「穂積陳重の法典論 法典の「形体」について」『獨協法学 第36号』(獨協大学法学部、1993年)
- 竪田剛「穂積陳重の法典論 立法と法学の使命について」『獨協法学 第37号』(獨協大学法学部、1993年)
- 谷口知平・石田喜久男編『新版 注釈民法(1)総則(1)改訂版』(有斐閣、2002年)
- 谷口知平『仏蘭西民法I 人事法』(有斐閣、1939年)
- 谷正之「弁護士の誕生とその背景(7) : 明治時代中期の法制と免許代言人の活躍」松山大学論集第22巻第3号(松山大学、2010年)
- 張智慧「明治民法の成立と西園寺公望――法典調査会の議論を中心に――」『立命館大学人文科学研究所紀要』3号(立命館大学、2009年)
- 手塚豊「明治二十三年民法(舊民法)における戸主権(三・完)――その生成と性格――」『法学研究 27巻8号』(慶應大学法学部、1954年)
- 道垣内弘人『リーガルベイシス民法入門 第2版』(日本経済新聞出版社、2017年)
- 利谷信義『日本の法を考える』(東京大学出版会、1985年)
- 富井政章『訂正増補 民法原論第一巻總論上 十七版』(有斐閣書房、1922年)
- 中川壽之「明治法典論争の中の私立法律学校」『明治大学史資料センター報告』37巻(明治大学、2016年)
- 中川壽之「明治法典論争期における延期派の軌跡」『法学新報』第121巻第9・10号365頁(法学新報編集委員会、2015年)ISSN: 0009-6296
- 中村菊男『近代日本と福澤諭吉』(泉文堂、1953年)
- 中村菊男『近代日本の法的形成』(有信堂、1956年)
- 中村吉三郎『明治法制史 増補第1版』(弘文堂、1956年)
- 仁井田益太郎解題『舊民法』(日本評論社、1943年)
- 仁井田益太郎・穂積重遠・平野義太郎「仁井田博士に民法典編纂事情を聴く坐談会」『法律時報』10巻7号(日本評論社、1938年)
- 原田慶吉『日本民法典の史的素描』(創文社、1981年)
- 平野義太郎『民法に於けるローマ思想とゲルマン思想』(有斐閣、1924年)
- 平野義太郎『民法に於けるローマ思想とゲルマン思想 増補新版』(有斐閣、1970年)
- 平野義太郎『日本資本主義の機構と法律』(明善書房、1948年)
- 福島正夫著、吉井蒼生夫編『福島正夫著作集 第1巻』(勁草書房、1993年)
- 福島正夫著、利谷信義編『福島正夫著作集 第2巻』(勁草書房、1996年)
- 星野通『明治民法編纂研究史』(ダイヤモンド社、1943年)
- 星野通編著『復刻増補版 民法典論争資料集』(日本評論社、2013年、初版1969年)
- 穂積重遠『新民法讀本』(日本評論社、1948年)
- 穂積重遠『百萬人の法律学』(思索社、1950年)
- 穂積陳重『法窓夜話』(岩波書店、1980年)
- 穂積陳重『法典論』(哲学書院、1890年)
- 牧野英一『刑法に於ける重点の変遷 再版』(有斐閣、1935年)
- 牧野英一『法理學 第一巻』(有斐閣、1949年)
- 的野半介『江藤南白 下』(民友社、1914年)
- 松本暉男『近代日本における家族法の展開』(弘文堂、1975年)
- 松波仁一郎・仁保亀松・仁井田益太郎合著、穂積陳重・富井政章・梅謙次郎校閲『帝國民法正解壱巻』(日本法律学校、1896年、復刻版信山社、1997年)
- 水本浩・平井一雄『日本学説史・各論』(信山社、1997年)
- 蓑輪明子「旧民法延期論の台頭とその背景」(「日韓相互認識」研究会、2009年)
- 宮川澄「旧民法と明治民法」『立教経済学研究 15巻4号』(立教大学、1962年)
- 村上一博「穂積陳重博士の相続制度論――相続進化論と明治民法における「家」――」『同志社法学 34巻4号』(同志社大学法学部、1982年)
- 柚木馨『獨逸民法I 民法総則』(有斐閣、1938年)
- 我妻榮『民法研究VII 親族・相続』(有斐閣、1969年)
- 我妻榮『法学概論』(有斐閣、1972年)
- 我妻栄(遠藤浩・川井健補訂)『民法案内1私法の道しるべ』(勁草書房、2005年)
- 渡辺洋三・利谷信義編著『現代日本の法思想』(日本評論社、1972年)

