ポーランド回廊

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ポーランド回廊と周辺の状況 1922年の国境線を示した地図。ドイツ領は桃色で、ポーランド領は黄色で示されている。ポーランド領のうち西北端のバルト海に面した細長い部分をポーランド回廊と呼ぶ。
ポーランド回廊付近拡大図

ポーランド回廊(ポーランドかいろう、ドイツ語: Polnischer Korridor)は、第一次世界大戦後のポーランド国家復興の際にドイツ国から割譲された領土のうち、自由都市ダンツィヒ(現グダニスク)とドイツ領プロイセン州に挟まれ、バルト海に面した回廊地帯を指す。ポーランド第二共和国(1918–1939)時代においての、バルト海への往来を確保するための回廊であった。

概要[編集]

ポーランド回廊に当たる地域、プロイセン地方は何百年もの間、神聖ローマ帝国領であったポンメルンおよびブランデンブルクの東プロイセンと、西側の西プロイセンは(ポメラニア東部のポメレリア地方と呼ばれる地域、1466年から1772年まではポーランド王領プロシアになった。十字軍東方植民以来、スラブ系であるポーランド人が定住する前からドイツの影響を何世紀にもわたってこの地に及んでいた。ポンメルンから、バルト地方にかけて住むドイツ系住民は、バルト・ドイツ人(あるいはドイツ騎士団であるチュートン人)と呼ばれ、またプロイセンには元々バルト民族のプロイセン人が住んでいた。

連合国の際の根拠としてウィーン会議で決定された、ロシア帝国支配下のポーランド王国を領域とすることになった。しかしこの状態のポーランドは、北東側のバルト三国、北側はプロイセン王国東プロイセン西プロイセンによってバルト海への出口が塞がれていた。このためアメリカ合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソン十四か条の平和原則でポーランドに海への出口を与えると声明し、それを受けて西プロイセンにポーランドのバルト海への出口として設定されたのがポーランド回廊である。ドイツは回廊の成立をヴェルサイユ条約によって受け入れることとなった。ヴィスワ川の河口に近い港湾都市ダンツィヒ(後のグダニスク)はドイツ人が大多数を占める街だったが、ポーランドも海運・水運をダンツィヒに依存しているため双方が譲らず、結局ポーランド領でもドイツ領でもない国際連盟の下にある「自由都市ダンツィヒ」となった。しかしダンツィヒとポーランドの対立が深まったため、ポーランド政府はポーランド回廊の海岸にあるグディニャという小さな港町に当時最先端の埠頭を建設して100%ポーランドが管理できる港を作りあげ、ダンツィヒと激しく競合するようになった。

西側の住民は、ドイツ領であった東プロイセンや西のポンメルンと比べると、カシューブ人ポーランド人といったスラブ系人の割合が比較的多かった。しかし過去にはドイツ騎士団国家で文化的にはドイツ人の影響の濃い地域でもあった。ドイツ人の数も都市部を中心に無視できないほど大きかった。1910年、ドイツ人 421,029人 がこの回路地域に居住していた、全体の42.5%にあたる[1]。 ポーランド回廊の設定によって領土を東西に分割されたドイツ人はポーランドの国に定住する事を受け入れなかった[2]第二次世界大戦でドイツが敗れると、東プロイセンはポーランド領となり、ポーランドの海に面した地域は大きくなった。またポーランド・ソビエト戦争の際には[3]赤軍がこの地域のドイツ人は追放を行なった。

関連項目[編集]

  • ^ Orphans of Versailles Appendix B
  • ^ Orphans of Versailles: The Germans in Western Poland, 1918-1939 pages 32-48 Richard Blanke University Press of Kentucky, 1993
  • ^ Orphans of Versailles: The Germans in Western Poland, 1918-1939 pages 32-48 Richard Blanke University Press of Kentucky, 1993