重岡薫五郎

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重岡薫五郎

重岡 薫五郎(しげおか くんごろう、元治元年1月3日[1]1864年2月1日) - 明治39年(1906年6月21日[2])は、日本の衆議院議員自由党憲政党立憲政友会)、弁護士

経歴[編集]

伊予国喜多郡内ノ子村(現愛媛県内子町)にある呉服商兼雑貨屋の次男に生まれる。東京大学法学部を経て、司法省法学校速成科を卒業後、判事登用試験に合格するも、10日間で辞職。1887年(明治20年)からフランス・エクス大学(現エクス=マルセイユ大学)に留学し法学博士号を取得。帰国後、1892年(明治25年)に第2回衆議院議員総選挙に年齢を2歳ごまかして出馬するも、改進党系の有友正親に敗れる。第三高等中学校法学部教授や関西法律学校教授嘱託をつとめたほか、1893年(明治26年)に弁護士業を開業している。

1894年(明治27年)、第3回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、第9回まで連続当選を果たした。その間、1895年(明治28年)から1902年(明治35年)まで法典調査委員をつとめたほか、1898年(明治31年)に第1次大隈内閣外務省通商局長、1900年(明治33年)、第4次伊藤内閣では文部省官房長に任じられた[3]

1906年(明治39年)、胃癌のため42歳で死去。その早すぎる死を悼んだ西園寺公望ら政友会の同志より遺族に黒田清輝制作の肖像画が贈呈された[4]。墓所は内子町禅昌寺。

栄典[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 重岡忠三編『重岡薫五郎小傳』〔1954年〕。第2回衆議院議員総選挙出馬の際、被選挙権のない28歳であり、年齢を2歳ごまかしたことから、文久2年生とされていることが多い。愛媛県喜多郡内子町内子の禅昌寺にある重岡薫五郎の墓には「明治39年6月21日没 享年43歳」と記されており、生年は正しくは元治元年である。
  2. ^ 官報』第6894号、明治39年6月23日。
  3. ^ 七戸克彦「現行民法典を創った人びと(27)組織改編後の委員5・6 : 倉富勇三郎・重岡薫五郎、外伝22 : Jバッジ」『法学セミナー』第56巻第7号、日本評論社、2011年7月、59-61頁、ISSN 04393295NAID 40018830265 
  4. ^ 重岡薫五郎の資料 内子へ 町出身の明治期衆院議員 黒田清輝作の肖像画も 愛媛新聞 2016年4月16日
  5. ^ 『官報』第5964号「叙任及辞令」1903年5月22日。

参考文献[編集]

  • 山崎謙編『衆議院議員列伝』衆議院議員列伝発行所、1901年。 
  • 重岡忠三編『重岡薫五郎小傳』1954年。 
先代
内田康哉
外務省通商局長
1898年
次代
林権助