五月危機

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フランスの五月危機(ごがつきき)は、1968年5月におきた、フランスパリでおこわれたゼネスト(ゼネラル・ストライキ)を主体とした学生の主導する労働者、大衆の一斉蜂起と、それにともなう政府の政策転換を指す。五月革命ともいう。セックス革命文化革命社会革命でもあった。

パリ五月革命がドゴールを倒したという説は誤謬であり、ドゴールは選挙に勝ち、政権にとどまり続けた。しかし運動の影響で政権は弱体化し、翌年にはドゴールは辞任することになる。

五月革命では、キューバ革命のチェ・ゲバラと文化大革命の毛沢東が運動のイコンとしてかかげられた。背景にはフランス革命からロシア革命、キューバ革命、文化大革命へと至る「革命の歴史」があり、それを高度経済成長に湧くパリの学生がみちびき、各国の学生運動に熱をふりまき、より拍車をかけた。

1960年代後半、欧米、日本を中心とした世界の若者は、学生運動によってお互いの理念、思想、哲学を共有し、激しい政治運動をおこなうことができた。これによって国の枠組みにおさまらない対抗文化(counter culture)や反体制文化(ヒッピー文化)を構成するユートピアスティックな「世界的な同世代」という世代的な視座が加速度を増してゆく。以降、より自由に世界とコミュニケーションできるようになった学生は発言権を強めるようになり、フランスの現代化を推進させた[1]

それはロックや映画、ファッション[2]、アニメ、アートなどに影響を与え[3]、その精神はヒッピー文化、パソコン通信などを通じ、コンピューターカルチャーへとつながってゆく。

革命をとりまく世界の状況―1968[編集]

1968年は世界レベルで大衆の異議申し立て運動が活発化した年だった。

ベトナム戦争。アメリカの若者たちはテレビから流れるニュースを通じてベトナム戦争の惨状[4]を知り、当時義務だった徴兵制に反発するようになった。反戦運動はヒッピームーブメントとリンクして、ロック熱を高め、世界の若者に飛び火してゆく。

アメリカでは泥沼化したベトナムに対する反戦運動、中国では文化大革命が熱を帯び、日本では全共闘、東大紛争、こののちの10月2日にはメキシコでトラテロコの虐殺がおきる。ベトナムのテト攻勢[5]やワルシャワ条約機構軍によるチェコへの軍事介入(プラハの春)、メキシコオリンピック、西側の高度経済成長など、60年代後半は激動の時代だった。

旧態依然とした父権的な権力(白人=男性=異性愛)は同時代的な意識をもとめる民衆の挑戦をうけ、その権力の在り方そのものが問われるようになる。五月危機もそうした世界の潮流に呼応する形で起きた世界的な大衆運動の一環であり、それ以後のヨーロッパの大衆文化や思考の在り方にポジティヴな強い影響を与えた。

この運動の在り方や変革そのものを、保守・右派の価値観で否定的にとらえれば「危機」であり、左派、リベラルの立場で肯定的にとらえればパリ五月「革命」として見ることができる。

戦後フランスの社会状況[編集]

ド・ゴール大統領。フランス・反ナチ・レジスタンスの象徴的な英雄だったド・ゴールは五月革命では旧体制(アンシャン・レジーム)の象徴となってしまう。激動する時代の移り変わりのはやさにいちばん驚いていたのは当の大統領だったのかも知れない。

第二次大戦がおわって植民地帝国だったフランスは第四共和政という政権の安定しない政治体制に移行した(1946-1958)。このあいだにベトナムとアルジェリアという2つの旧植民地独立の挑戦をうけ、インドシナ戦争(1946-1954)とアルジェリア戦争(1954-1962)に派兵した。インドシナ戦争で苦戦を強いられたフランス軍は1953年ディエンビエンフーで敗れ、ベトナムからの撤退を余儀なくされる。さらにフランスはアルジェリアの植民地維持に固執し、議会の混乱を招くと、泥沼のアルジェリア戦争(1954)へと突入してゆく。第四共和政が明確なリーダーシップを採りえない体制であったことから、第二次大戦の国民的英雄ド・ゴール将軍[6]はより大統領権限の強化された第五共和政を樹立(1958)し、アルジェリアやアフリカ各国の独立を容認した。一方で父権を感じさせる強い権限での統治スタイルや強力な行政、官僚機構は、新しい時代の大衆の反発を招くものでもあった。

自由、平等、性の解放[編集]

五月革命の特徴は「学生たち」が状況を先導したところにあり、従来の政治的枠組みをobsolète metodo(時代おくれのやり方)としてみせた。

これは、当時のフランス市民たちに新しい政治の季節の到来を予感させるものだった。若い学生たちはそれまでの「父権的な政府」も官僚的で怠慢な労働組合の幹部も拒否し、「若く斬新な政治姿勢」をうちだして、若者と市民数の力で圧倒しようとした。また彼らは戦後高度経済成長に育ったベビーブーマーであり、急激に数の膨張した大学生だった。

1938年、フランスの大学生は6万人にすぎなかったが、それが1961年に24万人、 1968年までに60万5,000人にまでふくれあがる[7]。それまで特権階級の場だった大学は一般に開かれ、よりつつましい階級の家庭の学生の比率が膨らんだ。旧態依然としたド・ゴール政権(ド・ゴール主義)は彼らを発言権のある存在としてはみとめておらず、倦怠と抑圧を感じる学生の不満は高まっていた。彼らは広い意味で「平等」をもとめていた。社会にも、階級にも、帝政の歴史にも、第3世界にも、政治にも。

「Egalité! Liberté! Sexualité!―平等!自由!セクシャリティ!」は革命運動時の学生の重要なスローガンとなった。古い世代の制度と新しくふくらんだ大学生のあいだでに生じた摩擦はやがてマニフェストをともなったデモやゼネストというかたちで顕在化されるようになる。

タイムライン[編集]

1968年3月15日付日刊紙ル・モンドにジャーナリスト、ピエール・ヴィアンソン=ポンテは「現在、私たちの生活を定義するものは退屈だ」、「フランス人は退屈だ。彼らは世界を揺るがす激動に参加していない」と書いた。その後の出来事は、「退屈」が反乱の強力な触媒として作用したことを示唆している[8]

1968年3月22日[編集]

1968年のパリ。壁一面に張られた政治的主張のポスター。なにより多様でカラフルでポップだった。五月革命のヴィジュアルはゴダールとポスターの色彩で彩られる。

事件の発端は1966年以降に起こったストラスブール大学学生運動、教授独占の位階体制に対する民主化要求や既存の学生運動組織だったフランス全国学生連盟(UNEF[9])、官僚主義への反発からはじまる[10][11]。やがて要求は1964年に創立したばかりのパリ大学ナンテール分校(現在のパリ第10大学、ちなみにサルコジ大統領マクロン大統領もここの卒業生である)へと波紋をひろげ、1968年3月22日にはベトナム戦争反対を唱える国民委員会5名の検挙に反対する学生運動へと発展[12]、ソルボンヌ(パリ大学)の学生の自治と民主化の運動に継承された。

のちに欧州議会の議員となったユダヤ系ドイツ人、赤毛のダニーこと「ダニエル・コーン=ベンディット」、フランス西部レンヌで美術教師となった全学連(UNEF)の副リーダー「ジャック・ソヴァジョ[13]」、国家教育名誉査察官になった反=スターリニズムの毛沢東主義者「アラン・ジェスマル[14]」、革命共産党連盟(LCR)のスポークスマンになったトロツキスト「アラン・クリヴィンネ[15]」らの指導者があらわれ、一部の労働者も学生に賛同して、運動は労働者にも波及してゆく。3月29〜30日。ナンテール校の授業は中断された。

1968年5月1日[編集]

極右の学生組織「オキシデンタル・グループ(Occidental group)」がナンテール校を攻撃しようとしているという噂が広まり、緊張が高まった。

1968年5月2日[編集]

ソルボンヌの学生組合ビルの一部が燃え、オキシデンタル・グループによって非難される。 ダニエル・コーン=ベンディットを含む7名ものメンバーは3月22日の運動の件で懲戒委員会に呼び出される。

1968年5月3日[編集]

ナンテール校の学部長はキャンバスの閉鎖を決定する。追放された学生およそ500名は、ソルボンヌ校を占拠する。それを追い払おうとする警察、フランス共和国保安機動隊(CRS)、大学当局と対立。100名以上の負傷者、20名の重傷者、数百名の逮捕者をだす。ソルボンヌ校は閉鎖された。学生はパリ市街ラテン地区のストリートへと雪崩れこみ、バリケードを築いた。オデオン座カルチエ・ラタンを含むパリ中心部で大規模なデモがおこなわれ、警察がカルチェ・ラタンへ踏みこんでこれを弾圧、いわゆる普通の学生もデモに参加し、区別のつかなくなった警察に無関係な一般市民も巻きこまれた。

1968年5月6日[編集]

再びカルチエ・ラタンおよびラテン地区で激しい衝突がおき、 600名の学生と345名の警察官が負傷、 422名が逮捕された。フランスの各地で高校生や大学生による連帯ストライキがおきた。7日、全学連(UNEF)が呼びかけた4万人デモがおこり、大学の再開を主張した。警察はカルチエ・ ラタンから撤退し、学生たちの「解放区」になった。9日、労働総同盟(CGT)とフランス民主労働総同盟 (CFDT) とが会合する。

1968年5月10・11日[編集]

米国とベトナムの交渉に参加する代表団の安全確保のため、警察の増員部隊がパリに到着した。全国高等教育職員組合 (SNES[16]) が警察による抑圧を非難し、高校生によるさまざまな行動委員会が組織された。フランス放送協会 (ORTF) は、一連の出来事の放送を禁止した。国民教育相と学生の交渉が行われるが,これは決裂に終わる。学生、労働者バリケードを築き、カルチエ・ラタン一帯を占拠し(「バリケードの夜」)、転がされた車が燃えた。警察251名、学生102名など計377人が重傷、418名が逮捕され、およそ60台もの車が燃やされた。警察の強硬な反応に学生と一般市民は団結を強めた。11日、それぞれの組合が共同で13日のデモ、ゼネスト決行を宣言した。フランス各地でのデモや占拠は続く。ポンピドゥー首相は学生達の要求に譲歩を見せた。

1968年5月13日[編集]

労働組合(CGT、CFDT、FEN)と左派政党は学生支援のために24時間のストライキを呼びかけた。約80万人もの教師、組合員、政治家がパリの通りに集まる。ジョルジュ・ポンピドゥ首相は、ソルボンヌの再開を発表することで状況を落ち着かせようとした。学生は恒久的な占拠を宣言する。討論と会議は昼夜を問わずに行なわれた。

1968年5月14日[編集]

シャルル・ド・ゴール大統領は、ルーマニアに公式訪問。ストライキは多くのルノー工場に波及し、およそ50もの工場が労働者に占拠され、工場の責任者は労働者の手によって拘束され、工場に「赤い旗」が掲げられた。5月17日までに20万人がストライキを決行、この数字は翌日のストライキで200万人にふくれあがり、その後1週間でフランス人労働者のおよそ2/3にあたるおよそ1千万人が参加したと言われる。

1968年5月15・16日[編集]

学生に占拠され、旗がひるがえるパリ・オデオン座。パリは瞬間的に新勢力に占拠され、またもとの日常へともどっていった。

レ・フィガロ紙が「権力はストリートにある」と報道。パリ、オデオン座を学生が占拠。タクシ―運転手たちがストライキを宣言。16日、より広域にデモとストがひろがる。

1968年5月17・18・19日[編集]

17日、フランス共産党が左派の共通プログラムを呼びかけ、鉄道(SNCF[17])もストライキ。18日、極右勢力による反共産主義デモが行われ、ストラスブール大学で自治が宣言される。19日、フランス国鉄・パリ市交通公団・郵便通信電話局でストライキ、燃料不足が始まる。

1968年5月20日[編集]

ほとんど全てのセクターでゼネストに近い状態になった。全学連(UNEF) と フランス民主労働総同盟(CFDT[18]) が記者会見をひらき、談上の「労働者と学生の闘争は同じである」という語はスローガンとなり、教師達の組合の枠を超えてストライキがひろがるきっかけとなった。フランス放送協会(ORTF)は放送を中止する。

1968年5月21日[編集]

銀行や繊維産業等も含めた大規模なゼネスト、フランスの交通システムはすべて麻痺状態に陥った。

1968年5月22日[編集]

フランスでは800万人以上の人々がストライキを行なった。 ドイツを旅していたダニエル・コーン=ベンディットはフランスへの再入国を拒否される。

1968年5月24日[編集]

パリ市庁舎や証券取引所[19]を学生が襲撃、20万人の農業労働者や各大学もストライキに突入し、カトリック教会でも学生の要求に親和的な意見が高まる。デモはパリ市街をまわり「人民政府」を要求。はじめて2人の死者を出す。テレビ演説でド・ゴール大統領は国民投票を提案して世論を取り戻そうとしたが、演説はほとんど影響を及ぼさず、抗議者は辞表を要求した。ラテン地区での衝突で456人が負傷し、795人が逮捕された。ストラスブールボルドーナントリヨンでも衝突が起こり、警察官がトラックで押しつぶされ、死亡している。

1968年5月25日[編集]

ド・ゴール主義の国務長官ジャック・シラクが主宰で労働者、国、雇用主組織のあいだでの三者間会議が催される。

1968年5月27日[編集]

政府、労働組合、および雇用主連合間の交渉が社会雇用省(Minister of Social Affairs and Employment)にて行われる。交渉の結果、最低賃金が3分の1上昇し、労働組合への公的権利が確立される「グルネル協定(Grenell agreements)」が締結された。 一部強硬派は合意を不服とし、ストライキを続けた。 ダニエル・コーン=ベンディットは秘密裏にフランスに戻る。

1968年5月29日[編集]

全国規模でデモがおき、パリに共産主義者80万人が集まり、「人民政府!」を連呼した。ド・ゴールは秘密会議を招集する。

1968年5月30日[編集]

ド・ゴール大統領はドイツから帰国し、フランス軍のジャック・マシュ将軍の支援を求めた。 ド・ゴールはラジオ放送を行ない、辞任を拒否するが、国会を解散すると述べた。その夜、何十万人ものド・ゴールの支持者、いわゆる「サイレント・マジョリティ」がパリのシャンゼリゼ通りを行進した。

1968年6月[編集]

公共および民間労働者の大部分は仕事に戻ったが、余波としての散発的な暴力は続いた。警察、学生、労働者が別の事件で、3人が死亡した。

6月23日および30日の第1回、第2回の総選挙で、ド・ゴールに近い政党が大勝利を収めた。

1968年7月10日[編集]

ド・ゴール大統領はモーリス・クーヴ・ド・ミュルヴィルを首相に任命した[20]

概要[編集]

新左翼のアンチ共産党[編集]

「赤毛のダニー」こと、ダニエル・コーン・ベンディット。五月革命というとフランス人が先導していたと思いがちだが、先導していたのはドイツ人移民だったというところが大陸ヨーロッパらしい。

ソ連と関係が深かった「スターリン主義」的なフランス共産党は、当初は影響下にある労働総同盟(CGT)を通じて労働者のストライキを組織した。だが、当時の共産党幹部ジョルジュ・マルシェは運動のリーダーであるダニエル・コーン=ベンディットら”ソ連を非難する急進的な学生運動”を「アナーキストのドイツ人」と否定、バリケードを構築しての衝突や街頭占拠をすすめる学生や労働者を「トロツキスト」と非難した。党や労働総同盟には学生主導のストライキを組織する力はなく、逆に学生や労働者のほうがより時代にあった根本的な要求をかかげていた。さらに五月革命には党や組合によって、組織されたものではない運動の自由で自発的な性質があり、「反=組合」「反=共産党」の幸福感があった[21]。同じようにスターリン主義に幻滅していた、無神論的実存主義の哲学者ジャン・ポール・サルトルが学生運動家に接近した。

新左翼と左翼の混在[編集]

実際に五月革命を主導していたのは、「反スターリニズム」的、「反ソヴィエト連邦」的な新左翼グループだった。デモはトロツキスト、マオイスト(毛沢東主義者)、アナーキスト、学生、労働者、市民、状況主義者(シチュアニスト[22])らと、フランス社会党、共産党など旧来の左翼の混合部隊だった。これらの性質の違う、さまざまなグループが雑多に集まり、運動を高揚させていったところに、この革命の特徴がある。とくに彼らのなかでも若い学生、市民が新しい主張をして、想像力ゆたかなポスターやスローガンをかかげていたことは運動の長所でもあった。

事態鎮静化[編集]

政治生命の危機に直面したシャルル・ド・ゴール大統領は、国民議会を解散し、あくる6月に総選挙をすることを約束した。解散にさきだつ5月27日、政府は労働組合との賃上げ交渉に寛大にこたえるかたちで事態の鎮静化をはかった。その結果、学生と労働組合はよりよい条件の「グルネル協定」を締結(すべての賃金の10%上乗せと最低賃金の35%引き上げ[23])、労働環境の改善をする。労働者はかならずしも満足しなかったが、この政府の軟化姿勢によって、段階的にデモは消滅へとむかうこととなった。

授業面でも、大学では「五月革命」の精神をとりいれ、学生の自発的なアイデアを議論させる授業が行われるようになり、革命は教育システムに内在化されるものとなった。

対外的には西ドイツ日本イタリアなどの先進国の左翼学生たちに影響を与え、それらの先進国における学生運動をより激しいものにさせていった。やがて西ドイツやイタリアなどではフランス同様教育システムに組み込まれるようになる。五月革命は対案のない不満の爆発ではあったが、それまでの強権的な政権を軟化させることによって、大衆の力を権力に強く印象づける事件だった。

政権右派との抗争事件[編集]

フランス共和国保安機動隊(CRS[24])は動乱の鎮圧にさいして、「SAC[25]」(Civic Action Service―市民行動サービス)と「Occidental group[26]」(オキシデンタル・グループ)のふたつのグループを組織した。

「SAC」は元レジスタンス剛腕政治家のシャルル・パスクワとアフリカ政策(とりわけ戦争状態にあったアルジェリア)の政府顧問ジャック・フォッカール[27]が設立に関与したド・ゴール大統領への徹底した忠誠が特徴の政府中枢肝いりの民兵組織だった。彼らは動乱の市民にまぎれこみ、さまざまな工作をおこない、運動で負傷した学生を兵舎本部の地下へと拘束した。その結果、彼らの行動はその忠誠が保守市民に認められ、5月30日におこなわれたド・ゴール支持のカウンターデモを人でいっぱいにした。自由をもとめる学生や市民の攻勢にもかかわらず、ド・ゴールはおおくの保守市民から手堅い支持を集めた。

「オキシデンタル・グループ(Occidental group)」は1964年に設立され、主に極右の学生で構成されていた。1968年時点で1500人の構成員がおり、将来保守政治家となるジェラルド・ロンゲ[28]らが参加していた。構成員は生理的に共産主義を「毛嫌い」し、スローガンに「共産主義者とであったら、どこででも殺せ!」を掲げた白人至上主義であり、反ユダヤ主義であり、ベトナム戦争賛成派だった。その襲撃によって運動に参加した学生たちを蹴散らしたが、運動自体を弱める効果はなかった。結局最終的にマオイストやアナーキストとのあいだで抗争事件が勃発し、街頭での過激な暴力闘争となった。1968年10月31日ド・ゴール政権の手によって、解散させられた。

知識人たちの68年[編集]

  • ジャン・ポール・サルトル=戦後フランスを代表する哲学者。左翼だが、ソヴィエト政権に批判的だったサルトルは五月革命を熱烈に支持した。革命運動のリーダー、ベンディットとインタヴューもしている。サルトルはキューバにも訪れ、カストロやチェ・ゲバラを知っており、学生の革命に肯定的だった。
  • アンドレ・マルロー=保守派で反ファシズムの文学者。1968年当時文化大臣だったマルローは同時にレジスタンス時代に知り合ったド・ゴール大統領の熱心な支持者でもあった。マルローの忠誠心は5月30日の「ドゴール支持」のデモへとつづく。終生をつうじてその熱い忠誠の思いはかわることはなかった。
  • ヌーベルバーグを代表する映画監督ジャン・リュック・ゴダール。時代の空気を読むことに長けていたゴダールはそれ以前から五月革命を予見するような作品を撮っていた。著書「ミル・プラトー」で有名なポストモダン哲学者ジル・ドゥルーズはゴダールの姿勢を擁護している。
    ジャン・リュック・ゴダール=ヌーベルバーグ(新しい波)の映画監督。すこしづつ政治的なモチーフに関心を示すようになったゴダールは、五月革命に先だつ1967年に「中国女」というマオイズム的な映画をつくった。この映画はナンテール校の生徒たちに強い影響を与えた。実際五月革命はゴダールのイメージで充満していた。ちょうど五月に開催予定だったカンヌ国際映画祭に対し、トリュフォーやポランスキーらと祭の中止を要求したが認められず、彼らの作品の上映はなくなった(カンヌ映画祭粉砕事件)。
  • ルイ・アルチュセール=マルクス主義の哲学者。アンチ=スターリニスト。思想面でおおきな影響を五月革命にあたえたとされる。アルチュセールの生徒たちは青年共産主義マルクスレーニン連盟(UJC(ml))を結成。革命中、大学やストリートで活発に活動する。
  • ギ―・ドゥボールの著書「スペクタクルの社会」。この本は消費される商品と人間との関係性を分析し、五月革命に強い影響を与えた。
    ギ―・ドゥボール=左派系の詩人、映像作家、著述家。ドゥボールもまた五月革命に強い影響を与えた一人だった。彼はその著書「スペクタクルの社会」(1967)のなかで、新しい市民社会はスペクタクル(光景、ショー)化する商品を通じて人間疎外をうむことを指摘した。商品の語る真実っぽさ(スペクタクル)に囲まれ、個人そのものは商品のなかに解消されてしまう。このようなスペクタクルとリアルの境界を線引きすることが難しい状況が消費社会なのであり、それは新しい「状況」をつくることによって批判されなくてはならない(「状況主義」)。ドゥボールの提示したテーゼは68年を経て、いま現在のコンピューター情報社会を鋭く言いあらわしている。

抗議する学生たちの投石[編集]

膨大な逮捕者をだしたデモにおいて、学生の主要な武器のひとつは投石だった。学生や大衆は石畳の舗装された石をほじくり返しては、それを投げるという原始的な方法をとった。これに対して警察はヘルメットと盾で装備をかため、催涙弾と警棒、放水による攻撃をくわえた。「武装した政府」とより「原始的な学生」という非対称性はベトナムにおける「圧倒的軍事力のアメリカ」と「アナログ兵器で立ち向かうベトナム」になぞらえられる。

ベトナムに鼓舞された「DIY精神」という意味で、この投石は当時のパリの雰囲気を伝えていた。

毛沢東主義への憧れ[編集]

文化大革命に参加する紅衛兵。五月革命当時のフランスではまだ文化大革命の実態は知らされておらず、フランス人のあいだでは毛思想への過剰な期待がふくらんでいた。

当時のフランスでは赤い中国のGrand Timonier[29]こと毛沢東の著書「Le petit livre rouge de mao」 (「毛沢東語録」)[30]が流行していた。それはパリのENS(高等師範学校)[31]の学生たちを通じてひろまり、左派知識人たちを活気づけ、学生や労働者を団結させる思想だった。学生はアメリカの覇権主義に反対するモデルとして毛沢東思想の書籍を読んだ。したがって中国への憧れも「五月革命」には投影されている。ただその憧れは思想的に深められることがなく、ロマンチシズムの色彩が濃かった。さらに当然なことながら、学生には政府を転覆させる力はなかった。つまり本物の武力による革命ではなくて、学生時代のモラトリアムな革命[32]だった。

「造反有理」をかかげた日本の60年代の安保闘争同様、現実の議会構成には大きな影響をおよぼすことがなかったが、フランスが中国も憧れの対象としたことは、世界状況の変化を反映した当時の市民の意識の変化でもあった。

フランス人たちの思考[編集]

また五月革命はうなりを上げるスピードと効率の社会システムを、ひとりひとりが「止めて」みる(ゼネスト)というところに意義があった。

つまり、この社会システムそのものを個人それぞれが吟味し、それが自分にとってどのように関わり、どのように意味をもつのか、国家機構という集団性と自分自身という個人性との関係の基本をあらためて問い直してみた運動でもあった。68年当時、パリ、エコール・ド・ボザールの准教授だったブルーノ・ケサンヌは高揚をまじえながら、五月革命について以下のように述べている[33]

「革命に参加したそれぞれの人は、ずっとその人自身と積極的に関わっていたんだ。 それは不公平に妨害工作をしてやろうとしたのでなく、どうやったらフランスが走ることを止めることができるのかということだった。 全世界は、彼らがいったん立ち止まって、その存在条件を社会に反映すべきなんだということに同意していたのさ」

フランス人たちはこのとき、いちど、立ち止まって考えてみたと言える。

評価[編集]

フランス革命同様に政治的なモチーフからはじまった革命ではなく、大衆の不満から自然発火的にはじまった運動だったとされる。

したがって、政治的側面のみならず、「旧世代に反対する新世代の台頭」あるいは「フリーセックス」「フリーラブ(自由恋愛)」(学生同士で性交渉する権利)に代表されるような古い価値観を打破するという意識を持って参加する学生もおおかった。この運動により労働者の団結権、特に高等教育機関の位階制度の見直しと民主化、大学の学生による自治権の承認、大学の主体は学生にあることを法的に確定し、教育制度の民主化が大幅に拡大された。「フランス及びドイツでは短期的には成就しなかった革命は五月危機などの主体となっていた学生たちが起こした社会運動によって成し遂げられていった」とされる[34]

短期的には、68年に行われた総選挙においてド・ゴール大統領派が56議席増やした300議席を確保し圧勝した他、アメリカでは「保守・右派」のリチャード・ニクソンも大統領選で大勝し、日本でも佐藤栄作の自由民主党が安定多数を堅持した。保守政権の基盤は維持されたものの、ケインズ派や左派の異議申し立てに融和的とならざるをえなくなった。ニクソンは74年にウォーターゲイト事件で失脚した。

中長期的には、女性解放、黒人やアジア人への偏見の見直し、セックスやマリファナの再評価、反帝国主義、ベトナム終戦、マイノリティ運動、LGBT運動、エコロジー運動など現代につながるより幅広い認識をせまる大衆運動のさきがけとなった。この精神はフランスのみならず、アメリカやヨーロッパ、メキシコなどを包括して「68年精神(The spirit of 68)」と呼ばれ、それ以後の大衆文化におおきな影響を与えるとことなった。

五月革命、それから―[編集]

70年代パンク・ムーブメント[編集]

英国人デザイナーのヴィヴィアン・ウエストウッド。ロンドン・パンクはファッションに大きな影響をあたえた。とくにセックス・ピストルズとヴィヴィアン・ウエストウッドのファッションは衝撃的で、当時産業ロックなどで停滞していたロック界や、ファッション界に新たなる風をもたらした。

五月革命からしばらくのちの1970年代中盤にはいると、アメリカやイギリスのユースカルチャーの世界に「パンク」が登場する。パンクはアナーキズム、左翼、ダダ、ニヒリズムなどの傾向があり、権力に対する挑戦、不満、退屈によるストレスの爆発、DIY精神など、その精神そのものは五月革命と通底するところがある。もっともパンクは音楽であり、国家機能を停止させ、政府と直接的な政治交渉をするほどの集合的な力は生みださず、ある局所的なムーブメントであった。つまりファッションとしてのヴィジュアル面の影響が強く、真似しやすく、記号としての流通が簡単にできた。そのため政治思想としての反映ではなく、パンク・ファッション的が、おおくのデザイナーにインスピレーションを与えることとなった。マルコム・マクラレーンと組んでブティック「SEX」のデザイナーをし、セックス・ピストルズの衣装を手がけた英国のヴィヴィアン・ウエストウッドは億万長者になった後も、保守党のキャメロンに激しい抗議行動をおこなったり、緑の党を支持したりした。

レゲエやヒップホップの流行も起きた。米ソ冷戦構造下で発生したパンク革命は、資本主義社会体制下で実現が難しい、永遠の憧れとしての革命、実現しないユートピアへの憧れの側面が強かった。

パンクはアナーキストになりたい―(I wannna be anarchist[35](Anarchy in the UK-The Sex Pistols))若者だったが、五月革命の学生や知識人も社会主義に憧れをいだき、叶わぬユートピア実現のために戦ったのである。

セックス革命とアンチセックス[編集]

映画プロデューサーのハ―ヴェイ・ワインシュタイン。有名プロデューサーのハーヴェイ・ワインシュタインは、女性へのセクハラやレイプを繰り返していた。権力をカサに着たその手口はMe Too運動によって告発され、厳しく非難され追放された。

68年当時、欧米においても性そのものは現在より抑圧されており、性表現や性関係は比較的につつましやかなものだった。 聖書の価値観、キリスト教の教義では、婚前性交渉、婚外性交渉(不倫)、同性愛は罪であるからだ。 ヒッピーのフリーラブスピリットや五月革命などの対抗文化を受けて性はより広範にわたって「表現されるもの」となり、映画、小説、文学、舞踏、アニメ、ゲームなどのカルチャーを通じて一般にひろまり、身体意識の高まりを生むこととなった。また避妊具の発展、ファッションの簡易化、下着化、性映像の情報化、パーソナルメディアの発達とともに異性間での性交渉も日常に解放され、現在に至っている。一方で60年代の左翼的ウーマンリブとは正反対の、新しい規制を好きな保守的フェミニストは性が搾取されるものと主張した。これは右派政治家と一致していた。また一方、対象となる女性の人権を無視した「セクハラ」はMe too運動のような新しいカウンター運動を生んだ。

文化大革命の実態報道[編集]

当時フランスで盛り上がった「毛沢東への憧れ」はやがて文化大革命の実情が明らかになるにつれて、「毛沢東への幻滅」へとかわった。文化大革命とは下からの「革命」ではなく、毛沢東共産党支配を恒久化するための、上からの「中華的ブルジョワ文化の殲滅」であり、毛の夢見た農本主義の完成を目指すものだった。それは五月革命が志向した精神とはかけ離れたところにあった。その意味でフランスのマオイストたちはそれほど誠実に毛沢東と向きあってはいなかったと言える。フランス人によくあるように、漠然としたユートピアを東洋に夢見ていた。もっとも、実際にそれに罪があるというわけではないが、あまりにも無邪気かつ無知でもあり、反=スターリニズムの機運のなかで学生や思想家の体のいい希望の星となった感は否めない。

けっきょく、毛沢東中国への幻想は消えた。しかし資本主義や消費主義に対するその批判的スタンスとしてフランスから共産主義がなくなったというわけではなく、また資本主義が1929年の世界大恐慌と同様に格差をむき出しにするとき、新たな平等主義の理想郷として新しいかたちでよみがえるだろう。資本主義そのものはシステム的に未完のものであり、格差社会を拡大する危険な制度だった。

サブカルチャーの流行[編集]

サブカルチャーはマンガ、アニメだけでなく、ヘヴィメタルなどのロックや麻薬、フリーセックスもふくまれた。キリスト教の影響が強い欧米社会において、セックス革命というのは「社会の世俗化(vulgar)」を意味する。キリスト教(とくにカトリック)や、キリスト教原理主義者はその教義のなかで「中絶」、「同性愛」を厳しく戒めてきた。なお中絶禁止は聖書には書かれていない。いまだ性をマイナス・イメージでとらえる信者も多い。したがって、このような社会の「世俗化」は、保守派の眉を顰めさせるような出来ごとであり、従来の価値を愛する保守の市民の根強い反発もある。くわえてサブカルチャーと結びついた麻薬やセックスの自由は、「中毒」や「依存症」になる危険もある。革命以後、アメリカのみならず、ヨーロッパも革新と保守の乖離の問題を抱えることとなった。

パリ五月革命と黄色いベスト運動[編集]

フランスはデモが多い国である。パリ五月革命は成功したストライキであり、フランス大衆のあいだでストライキが多く発生するようになった。五月革命という成功体験で市民はその再現を望むようになった。フランス社会は個人の自由や尊厳が尊重される社会となった。パリ五月革命の精神は、ネオ・リベラリストのマクロンに反対する「黄色いベスト運動」に、引き継がれている。

参考図書[編集]

  • ミシェル・ヴィノック『フランス政治危機の100年-パリ・コミューンから1968年5月まで』大嶋厚訳、吉田書店、2018年(第8章「一九六八年五月」参照)

五月革命に関連した映画[編集]

脚注[編集]

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  6. ^ http://www.biography.com/people/charles-de-gaulle-9269794
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  8. ^ RFI - Timeline May 68”. www1.rfi.fr. 2018年12月19日閲覧。
  9. ^ “Union Nationale des Étudiants de France” (英語). Wikipedia. (2018-05-14). https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Union_Nationale_des_%C3%89tudiants_de_France&oldid=841272194. 
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  19. ^ “Borsa de París” (カタルーニャ語). Viquipèdia, l'enciclopèdia lliure. (2016-09-25). https://ca.wikipedia.org/w/index.php?title=Borsa_de_Par%C3%ADs&oldid=17520839. 
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  22. ^ “Situationist International” (英語). Wikipedia. (2018-08-04). https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Situationist_International&oldid=853447361. 
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  29. ^ Informations, Chine. “Grand Timonier” (フランス語). chine.in. 2018年8月28日閲覧。
  30. ^ “Petit Livre rouge” (フランス語). Wikipédia. (2018-03-11). https://fr.wikipedia.org/w/index.php?title=Petit_Livre_rouge&oldid=146305508. 
  31. ^ Accueil | ENS” (フランス語). www.ens.fr. 2018年8月26日閲覧。
  32. ^ Mayo del 68: una revolución fallida”. lab.elmundo.es. 2018年8月27日閲覧。
  33. ^ Rubin, Alissa J.. “May 1968: A Month of Revolution Pushed France Into the Modern World” (英語). https://www.nytimes.com/2018/05/05/world/europe/france-may-1968-revolution.html 2018年8月28日閲覧。 
  34. ^ 特集:MAI 68
  35. ^ Sex Pistols - Anarchy In The U.K. Lyrics | AZLyrics.com” (英語). www.azlyrics.com. 2018年9月3日閲覧。

関連項目[編集]