アントニヌス勅令

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アントニヌス勅令(アントニヌスちょくれい、ラテン語: Constitutio Antoniniana)は、212年ローマ帝国カラカラ帝によって発布された勅令。この政令により、帝国内の全自由民にローマ市民権が与えられた。「アントニヌス」とは、カラカラの本名「マルクス・アウレリウス・セウェルス・アントニヌス」に由来する。

概要[編集]

勅令はカラカラの以下の言葉とともに発布された。

余と余の臣下の者達の間では、帝国を守り立ててゆく上での負担を分かち合うだけでなく、栄誉も分かってこそ良き関係を築くことができるはずである。この法令によってはじめて、これまで長きに渡って市民権所有者のみが享受してきた栄誉に今やすべての民が浴することとなった。[要出典][1]
カラカラ

この政令により、帝国全領域に住む奴隷以外のすべての自由民にローマ市民権が与えられることとなった。従来市民権所有者のみに認められていた選挙権や属州民税(資産の10%を納める)の免除などの特権ももれなく付与された。古来よりローマ社会は漸次同化路線を推進しており、顕著なものとしては紀元前90年同盟市戦争の結果イタリア半島の全同盟市民に対しローマ市民権を付与しているという先例もある。いわばこのような同化政策の総決算ともいえた。

一方、それまで市民権所有者のみに課されていた遺産相続税・解放奴隷税(奴隷を解放する際に課された税)といった特別税の納税や兵役など、市民としての義務もすべての自由民に課されることとなった。特に相続税・解放奴隷税は従来の5%から10%へ税率が引き上げられることとなり、このことから同時代に生きていた歴史家のカッシウス・ディオは、特別税の課税対象者を帝国全域に広げることで増税を図り、また属州で頻発していた深刻な税金逃れや逃散を抑えることを狙った税収増大策と解釈した[2]

結果[編集]

しかしながら、属州民を無条件にローマ市民としたことで、帝国の基本的な財源であった属州税は課税対象の属州民が"消滅"したことにより事実上廃止されることとなった[注 1]。遺産相続税(親族は非課税)と解放奴隷税は増額されたものの、これらの税は属州税のように毎年恒常的に入る安定したものではなく、また「非血縁者に自分の遺産を分与する」・「長年尽くした奴隷に、奴隷身分から解放することで報いる」というローマ社会特有の慣習[注 2]に立脚した税であって属州民にはそのような慣習はなく、恒常的な財源には成り得なかった[4]。このため国庫収入は増大するどころか却って減少してしまい、以後の帝国は財源不足を補うために臨時税を濫発せざるを得なくなった[5]

従来ローマ市民権は、属州民であっても補助兵として軍団に入隊し、満期除隊まで勤め上げれば退職金と共に世襲の市民権を得ることができるものであった。しかし待遇の低い補助兵に志願する者の数は年々減少し、また市民権所有者にもかねてより市民の義務とされていた兵役に就くことを忌避する者が多くなり、部隊編成に支障をきたしていた。加えて先帝のセプティミウス・セウェルスが兵士の待遇改善を行ったために長期にわたって軍務に就く者が増加して軍人の高齢化が進んでおり、何らかの改革を求められていた軍隊事情もこのような政令が発布された理由の一つと考えられる。だが「国土防衛は市民の義務」といった伝来のローマの市民精神はこの時期すでに減退しており、結局このような対応策によっても国防能力の弱体化を押し留めることはできなかった。

市民権は軍務に就くなどの条件を満たせば属州民であろうと与えられていたものであったことから、市民と属州民との格差は絶対的に固定されたものではなく、一生を賭して克服することが可能な格差といえた。しかしこの勅令によってすべての自由民に市民権が与えられたことにより、かつての属州民は向上心を無くし、元からの市民権所有者も特権と誇りを奪われ、社会全体の活力が削がれる結果をもたらすこととなった。また元の市民権所有者からの反発により、「勅令以前からのローマ市民」と「勅令以後のローマ市民」という、どのようにしても克服が不可能な新たな階級意識も生まれるという何とも皮肉な事態も生じた[6]

結果としてこの勅令は、税収不足による財政の悪化、軍隊事情の改革失敗による国防力の弱体化、特権の無条件な付与による社会全体の活力低下によって帝国の国力を大いに衰えさせ、「3世紀の危機」と呼ばれる未曾有の国難を招く主要な要因となった。

評価[編集]

19世紀末までは、ローマ法大全とカッシウス・ディオ等文献史料により検討されてきた。1908年にギーセン・パピルスが発見され1910年に刊行されると、20世紀前半は、損壊の激しいこのパピルス文書の読解と解釈が論点となった。

弓削達は、ギーセン・パピルスの読解に関する諸学者の論争を検討し、前半の3-7行目における祭儀に関する文面を、デキウス帝の一般供犠命令に連なる、国家祭祀を非ローマ市民へも強制することで共同体の維持を狙ったイデオロギーの表明だと解釈している点に特色がある[7]。後半に関しては「降伏者」の解釈に焦点をあてており、全体的な解釈は、共和政時代以来のローマ市民権共同体の拡大政策の帰結である、とする[8]

塩野七生は増税政策としては完全に破綻していることから、勅令のそもそもの動機は増税目的ではないと考え、建国当初から外来者に対して開放的だったローマ社会の性格を踏襲し、市民と非市民の垣根を取り払うことで帝国の結束を高めようと考えたカラカラ自身の好意から出たものだろうと解釈している。ただしその結果は上述のように完全に裏目に出てしまい、「軽薄で浅慮な施策以外の何ものでもなかった」と評している[9]

近年の諸学者は、勅令は、イタリアに限定されていた法と属州法の間に多くの相違のあったローマ法の属州化の重要指標である、と捉えている。すなわち、属州人に対するローマ市民権の付与は、属州における私法が、ローマ市民へ適用される法で書き換えられなければならないことを意味した。このように考える学者たちにとっては、アントニヌス勅令は、帝国法がローマ法の基本法となる開始点であった、と考えられている[10]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ギボンはカラカラが特別税の他にそれまでの属州税も変わらず徴収し続けたと著しているが、これはギボンの誤り[3]
  2. ^ 「有力者に遺産分与を約束し、引き替えに生前において有力者の庇護を受ける」「利殖の才に長けた奴隷を解放するのと引き替えに、遺産を元の主人に分与する」「将来の見込みのある若者に対する善意の援助として」など種々の理由があった。[要出典]

出典[編集]

  1. ^ 現在発見されている同時代史料は次の3点である。ひとつは後述の同時代人カッシウス・ディオの史書の記述、ローマ法大全の学説彙纂第1巻5章17節のウルピアヌスの一文、エジプト出土の法令が記載されたパピルス文書(ギーセン・パピルス1巻40番)である。パピルス文書の日本語訳は(世界史史料 2012)p296に掲載がある。ウルピアヌスの法令文邦訳は(弓削 1964)p60に掲載されている。学説彙纂の当該部分の日本語訳は「ローマ領内に住む人々はアントニヌス帝の勅法によってローマ市民とされた」という一文となっている。その他後世の史料ではマルクス・アウレリウス時代のこととしたり(アウレリウス・ウィクトル16巻12節)、金口イオアン著「acta apostolorum homily」48-1ではハドリアヌス時代、ローマ法大全新勅法78.c.5ではピウス帝時代としている
  2. ^ カッシウス・ディオ『ローマ史』78巻9章4-5節。当該部日本語訳は(世界史史料 2012)p296所収
  3. ^ (ギボン 1995)P292
  4. ^ (塩野 2003)P24
  5. ^ (塩野 2003)P30
  6. ^ (塩野 2003)P30-33
  7. ^ (弓削 1964)p67,p90
  8. ^ (弓削 1964)p89-90
  9. ^ (塩野 2003)P32
  10. ^ (Humfress 2013)P87

参考文献[編集]