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特集項目 - 政治[編集]
元老院(げんろういん、ラテン語: senātus、セナートゥス)は、古代ローマの統治機関。
共和政では、元老院は建前上執政官の諮問機関であったが、名望家や現職および元職の要職者のほとんどを議員とし、また名望家は多数のクリエンテスを抱えることにより立法機関である市民集会に多大な影響を与えていたため、その実体は外交・財政などの決定権を掌握する実質的な統治機関であった。ローマを指す言葉にSPQRがあるが、これは"Senatus Populus que Romanus"(元老院とローマの市民)の略である。
元老院議員は、過去に会計検査官を務めた人物を対象に、財務官が検討した上で決められていた。例外として、護民官を経験した平民は自動的に議員になれた。
新たに元老院議員となる場合、過去に議員を輩出した家系の出身者であることが有利に働いた(そのため、議員を何人も輩出する家系は次第にノビレスと呼ばれる特権階級を形成していった)。ただしノビレスの方が有利とはいっても、ノビレスであれば自動的に議員になれるわけでもなく、ましてや世襲によってその身分が継承されることもなかった。
議員の多数を占めるノビレスはノブレス・オブリージュの精神の体現者という側面が強く、そのため戦場に赴くことを厭わず、そこで戦死する者も多かった。加えて古代故に各議員の寿命は短く、また職を担えないほどに老衰した際は自ら身を引く者も多かった。そのため、元老院議員の身分は終身であるにも関わらず、議員の新陳代謝は十分に……続きを読む
特集項目 - 軍事[編集]
ローマ軍団(古典ラテン語:legio、レギオー)は、古代ローマにおける軍隊(excercitus)のうち陸軍の基本的な編成単位のことである。軍団はローマ市民権を有する者だけで構成されていた。
1つの軍団は、時代によっても異なるが、帝政ローマ時代では1つの軍団は10のコホルス(大隊)から構成され、騎兵200強を含めたおよそ5,000から6,000人の軍団兵がいた。古代ローマ史上を通じて名前や番号をもった通算約50個の軍団が創設されたが、それらの多くが長い歴史の間で全滅・解散されており必ずしも存続しえたわけではなかった。
元来、ローマが王政であった頃の「レギオー」という言葉は、後の帝政のものとは全く異なり、召集されたローマ市民により構成される、重装歩兵、騎兵も含めたローマ軍全体を指していた。伝説によれば建国の祖ロームルスはケレレスと呼ばれる一種の親衛隊を有していたとされるが、その実在を証明する手だては今のところない。この頃の戦法は古代ギリシア伝来の重装歩兵戦術であった。また自軍の兵力の把握のためにローマ王セルウィウス・トゥッリウスがケンスス(国勢調査)を行っている。のちに軍制改革が行われ、兵士を所有財産に応じて5つの階級に区分(当時、兵士各自の武具は自前で購入するのが原則だったので兵装の均一化のために所有財産で区分けすることは有効であった)、区分けされた階級はさらに100人の集団に区分けされケントゥリア(百人隊)と名づけられた。
王制から共和制に変わると、従来の単一であった軍団が、王に代わる司令官として執政官の登場により2つに分割され、2人いた執政官がそれぞれ1つの軍団の指揮権を有する体制に変革されたと考えられている。しかしながら、共和政初期における戦争の目的はほとんどが略奪、もしくは防衛であったため、戦いにおいて軍団の総力を結集させることが可能であったか……続きを読む
特集項目 - 文化[編集]
ラテン語(ラテンご、ラテン語 : Lingua Latina、リングワ・ラティーナ)とは、インド・ヨーロッパ語族のイタリック語派の言語の一つ。ラテン・ファリスク語群。ローマ帝国の公用語として広く普及し、帝国滅亡後も西ヨーロッパを中心に広く使われた。現在、日常で使われることはほとんどなくなっているが、今なお専門用語・学術用語・祭祀宗教用語の分野では用いられ続けている。
もともと、 イタリア半島中部のラティウム地方(ローマを中心とした地域、現イタリア・ラツィオ州)においてラテン人により用いられていた言語であったが、ローマ帝国の公用語となったことにより、広大な版図に伝播した。ギリシア語から多くの語彙を取り入れ、学問・思想などの活動にも使用されるようになった。東ローマ帝国においてはやがてギリシア語が優勢になったが、今日の西ヨーロッパに相当する地域においてはローマ帝国滅亡後もローマ・カトリック教会の公用語となり、長らく文語の地位を保った。現在でもバチカン市国の公用語はラテン語である。たとえば典礼は第2バチカン公会議まで、ラテン語で行われていた。今日に至るまで数多くの作曲家が典礼文に曲をつけており、クラシック音楽の中では主要な歌唱言語の1つである。ただし、実際の使用は公文書やミサなどに限られ、日常的に話されているわけではない。また、バチカンで使われるラテン語は、古典式とは異なる変則的なラテン語である。なお、多民族・多言語国家であるスイスではラテン語の名称のアクロニムを自国名称の略 (CH) としている。
中世においては公式文書や学術関係の書物の多くはラテン語(中世ラテン語、教会ラテン語)で記され、この慣習は現在でも残っている。例えば、生物の学名はラテン語を使用する規則になっているほか、元素の名前もラテン語がほとんどである。また法学においても、多くのローマ法の格言や法用語が残っている。19世紀までヨーロッパ各国の大学では学位論文をラテン語で書くことに定められていた。
今日のロマンス諸語(東ロマンス語 : イタリア語・ルーマニア語、西ロマンス語 : スペイン語・フランス語・ポルトガル語など)は、俗ラテン語から派生した言語である。また、ドイツ語・オランダ語・英語などのゲルマン諸語にも文法や語彙の面で多大な影響を与え……続きを読む
特集項目 - 人物[編集]
ガイウス・ユリウス・カエサル(古典ラテン語:Gaius Julius Caesar、紀元前100年 - 紀元前44年3月15日)は、共和政ローマ期の政治家、軍人であり、文筆家である。
マルクス・リキニウス・クラッスス及びグナエウス・ポンペイウスとの第一回三頭政治と内乱を経て、ルキウス・コルネリウス・スッラに次ぐ終身独裁官(ディクタトル)となり、後の帝政の基礎を築いた。「賽は投げられた」(Alea jacta est)、「来た、見た、勝った」(Veni, vidi, vici)などの引用句でも知られる。
ガーイウス・ユーリウス・カエサルが古典ラテン語の発音(再建音)に最も近い。ガイウス・ユリウス・カエサルは慣用的な表記である。英語読みの「ジュリアス・シーザー」(Julius Caesar)でも知られる。
「カエサル」の名は、帝政初期にローマ皇帝が帯びる称号の一つ、帝政後期には副帝の称号となった(テトラルキア参照)。ドイツ語のKaiser(カイザー)やロシア語のцарь(ツァーリ)など、皇帝を表す言葉の語源でもある。
カエサルの生誕年として以下の2つの説がある。
- スエトニウス『皇帝伝』の記述に沿った紀元前100年
- カエサルがプラエトル(法務官=就任資格が40歳以上)に就任した紀元前62年から逆算した紀元前102年
父は同名のガイウス・ユリウス・カエサル (Gaius Julius Caesar) で、ガイウス・マリウスは父ガイウスの義弟に当たる。父ガイウスはプラエトルを務めた後、アシア属州の属州総督を務めた。母はルキウス・アウレリウス・コッタの娘アウレリアで、祖先に幾人もの執政官を輩出した名家の出身であった。また、カエサルには幼少の頃から家庭教師としてマルクス・アントニウス・グニポが付けられたが、グニポはガリア系の人物で……続きを読む
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特集項目 - 王政ローマ
アルバ・ロンガ (Alba Longa) は、ラティウムにある古代ローマの母市となったラテン人の都市国家。ローマの南東アルバーノ山地に位置したと考えられている。
その名はラテン語で「長く白い都市」を意味する。
ローマの建国伝説ではトロイアの英雄アエネアスはイタリア半島に到着後、ラティウムの王ラティヌスの娘ラウィニアを娶り新市ラウィニウムを創建したとされる。その子アスカニウス(ユルス)がラウィニウムを義母ラウィニアに譲ったあと建設した都市がアルバ・ロンガである。
アスカニウスのあとアルバの王位はアエネアスとラウィニアの息子のシルウィウスが継ぎ、以降アルバの王家は「シルウィウス」を名乗った。アスカニウスから数えて12代目の王プロカの死後、その息子ヌミトルとアムリウスの間で王位継承の争いが起こり弟のアムリウスが王位を簒奪する。しかしヌミトルの娘レア・シルウィアの産んだ双子の兄弟ロームルスとレムスは祖父の復位に協力し、アムリウスは倒されヌミトルがアルバ王となる。双子の兄弟はアルバの住人の一部を率い新たな都市を作るためアルバを去り、紀元前753年にロームルスによってローマ市が創建された。
ローマの3代目の王トゥッルス・ホスティリウスは戦争を好む人物でアルバ・ロンガに戦争を仕掛けた。このときのアルバの王はガイウス・クルウィリウスであった。クルウィリウスはローマの近郊にまで進軍し陣を構えたがここで急死し、そのあとはメッティウス・フフェティウスが指揮を担当した。その後有名なホラティウス三兄弟とクリアティウス三兄弟による決闘が行なわれローマ側が勝利し、アルバはローマに従った。しかしメッティウスはやがて裏切りを画策した末処刑され、ホスティリウスによってアルバは破壊されその住民はすべてローマのカエリウス丘に移され……続きを読む
特集項目 - 共和制ローマ
マリウスの軍制改革(Marian reforms)とは紀元前1世紀にガイウス・マリウスによって施行されたローマ軍における改革。この改革により軍事だけでなくローマ社会でも大幅な変革が起こり、やがてはローマ社会の覇権的性格、ローマ軍の侵略的傾向を促し、間接的に帝政ローマを創設する土台を作り上げた。
共和政ローマではローマ市民権を持つ市民が義務としての兵役が課せられており、以下の基準に従って各々が兵役に就いた。
- 兵士は財産に応じて定められた5つの階級に属していなければならない。
- 兵士は3000セステルセスに相当する資産を所有していなくてはならない。
- 兵役の際に必要な武具は自前で購入しなくてはならない。
この兵士たちを率いて戦争に赴く場合、2人の執政官(コンスル)が日毎に交代で軍団の総指揮を執った。執政官は元老院に属し、必ずしも戦術に長けている人物とは限らなかった。また兵士も市民の義務として自発的に従軍する市民兵であったが、やはり必ずしも戦闘に慣れているというわけではなかった。実際、第三次ポエニ戦争前後にローマはマケドニア王国、ギリシャに派兵し勝利を得てきたが、戦闘を勝ち抜いた兵士の世代が変わると今度は兵の弱体化が目立つようになる。
また、ポエニ戦争で領土を拡大したローマは、長引く戦争での農地の荒廃と植民都市からの安価な穀物の流入、征服事業での奴隷を用いた貴族の大土地所有(ラティフンディウム)が拡大したことによる中小自作農の没落を招いていた。やむを得ず「3000セステルセス」という資産条件を切り下げてまで徴兵対象を拡大せざるを得ず、これによって兵士の質の低下に拍車がかかった。その状況を危惧したグラックス兄弟は中小自作農救済のための改革を行おうとしたが、貴族層の反発により改革は不徹底に終わる。
そんな中、紀元前113年にはグナエウス・パピリウス・カルボがキンブリ族に破れた。そしてアフリカのヌミディア王ユグルタが新たな脅威として現れてくる。当初元老院はクィントゥス・カエキリウス・メテッルスを執政官として選び派兵させるが、2年が過ぎても決定的な勝利が得られず、元老院の外交、軍事の指導力低下はだれの目にも明らかとなった……続きを読む
特集項目 - 帝政ローマ
ローマ皇帝一覧では、古代ローマ帝国で正当と見なされたローマ皇帝を年代順に列挙する。
ローマ皇帝という名称は幾分、現代的な用法であって必ずしも当時の人間がその様に呼称したものではないし、時代毎に制度上の位置付けも変動している。しかしどうあれ、アウグストゥス以降にローマという国家で定着した「個人に専制的な権限を与える習慣」を端的に表現する上で、的確な用語であると多くの場合で見なされている。古代にヨーロッパとその近隣で強大な勢力圏を作り上げたローマは、共和制から君主制へと大きく政治制度の改革を行い、議会政治(「元老院及びローマ市民」)から個人による独裁への転換を事実上容認するようになった。
しかし、こうした体制を確立したアウグストゥスは元老院(議会)への配慮から共和制を建前上には維持する道を選び、「共和制における独裁」を模索した。従ってアウグストゥスはかつて存在した「ローマ王」や、それに比類する如何なる爵位や君主号を拒否した。その一方で共和制に存在した様々な役職や特権を自らや一族の独占とし、更に元老院を監督する立場にあるプリンケプス・セナートゥスを終身の称号として受け取った。アウグストゥスと共に初期のローマ皇帝とされる人々も一様にこうした方策で独裁体制を築き上げたため、独裁的で血統主義的な要素(アウグストゥスも最後まで親類での権力継承を望んだ)を持ちつつも、議会が一定の力を維持していた。歴史学者達はこれを元首政と呼び、単なる「専制的な君主制」とは異なるものであると評価し…続きを読む
特集項目 - 西ローマ
カタラウヌムの戦い(カタラウヌムのたたかい, フランス語読みでシャロンの戦いとも、英:Battle of Chalons)は、ゲルマン民族の大移動の時代にフン族と西欧諸民族連合軍の間で行われた会戦である。両軍合せ約5万名が参戦し、うち1万名が戦死するという大激戦となった。
451年、アッティラの率いるフン族はライン川を渡り、ガリアに侵攻し、オルレアンを包囲した。西ローマ帝国の将軍アエティウスはゲルマン諸族の軍と共にこれを討ちカタラウヌムの野(今の北フランス、シャロン=アン=シャンパーニュ付近)で決戦した。激戦の末、アッティラは大打撃を受けて本拠のハンガリー平原に退き、西欧はフン族の征服を免れることができたが、フン族の勢力は維持された。
ローマ軍側も追撃不可能なほどの被害を受けたことで、西ローマの勢力は弱まり、ガリアへのフランク族の侵入が始まることとなった。この決戦は世界史上の東西両民族の大衝突の一つとしても……続きを読む
特集項目 - 東ローマ
トレビゾンド帝国(トレビゾンドていこく、Trebizond, 1204年 - 1461年)は1204年に東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスが第4回十字軍によって陥落させられた際に、東ローマ帝国の皇族達が建てた亡命政権の一つ。トレビゾンド(ギリシア名トラペズス、現在のトルコ共和国トラブゾン)を首都とした。
東ローマ皇帝アンドロニコス1世コムネノス(在位:1183年 - 1185年)の孫アレクシオス・コムネノスが1204年4月、トレビゾンドを占領して建国。コムネノス王朝(1081年 - 1185年)の本流を継ぐものとして、「メガス・コムネノス(大コムネノス家)」と称した。しかし実際は、建国に尽力したグルジア王国の傀儡にすぎなかった。
当初は東ローマ帝国の亡命政権の中では最初にコンスタンティノポリスを奪還する勢いであったが、他の亡命諸侯との連携を欠いたため、同じ亡命政権のニカイア帝国やトルコ人のルーム・セルジューク朝に敗北し、小アジア北東部・ポントス地方の地方政権に転落してしまった。しかし、東ローマ帝国滅亡後の1461年にオスマン帝国によって滅ぼされるまで約250年間存続し、史上最後の東ローマ系国家となった。国家としてはあまり強大ではなかったが、東西交易路の途上に位置するその地理的状況はこの国に多くの富をもたらし、また周辺のグルジア、アルメニアなどのキリスト教文化圏との交流も盛んであった。外交上は東方のイスラーム諸勢力、特に白羊朝ペルシアと婚姻関係を基にした同盟関係を結ぶなどして独立維持を図っている……続きを読む
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