マリウスの軍制改革

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

マリウスの軍制改革(マリウスのぐんせいかいかく、Marian reforms)とは、紀元前1世紀ガイウス・マリウスによって施行されたローマ軍における改革。この改革により軍事だけでなくローマ社会でも大幅な変革が起こり、やがてはローマ社会の覇権的性格、ローマ軍の侵略的傾向を促し、間接的に帝政ローマを創設する土台を作り上げた。

マリウスの改革以前[編集]

マリウス
スッラ

共和政ローマではローマ市民権を持つ市民が義務[1]としての兵役が課せられており、以下の基準に従って各々が兵役に就いた。

  • 兵士は財産に応じて定められた5つの階級に属していなければならない。
  • 兵士は3000セステルティウスに相当する資産を所有していなくてはならない。
  • 兵役の際に必要な武具は自前で購入しなくてはならない。

この兵士たちを率いて戦争に赴く場合、2人の執政官(コンスル)が日毎に交代で軍団の総指揮を執った。執政官は元老院に属し、必ずしも戦術に長けている人物とは限らなかった。また兵士も市民の義務として自発的に従軍する市民兵であったが、やはり必ずしも戦闘に慣れているというわけではなかった。実際、第三次ポエニ戦争前後にローマはマケドニア王国ギリシャに派兵し勝利を得てきたが、戦闘を勝ち抜いた兵士の世代が変わると今度は兵の弱体化が目立つようになる。

また、ポエニ戦争で領土を拡大したローマは、長引く戦争での農地の荒廃と戦争によって獲得した属州からの安価な穀物の流入、征服事業での奴隷を用いた貴族の大土地所有(ラティフンディウム)が拡大したことによる中小自作農の没落を招いていた。やむを得ず「3000セステルティウス」という資産条件を切り下げてまで徴兵対象を拡大せざるを得ず、これによって兵士の質の低下に拍車がかかった。その状況を危惧したグラックス兄弟は中小自作農救済のための改革を行おうとしたが、貴族層の反発により改革は不徹底に終わる。

そんな中、紀元前113年にはグナエウス・パピリウス・カルボキンブリ族に破れた。そしてアフリカのヌミディアユグルタが新たな脅威として現れてくる。当初元老院はクィントゥス・カエキリウス・メテッルスを執政官として選び派兵させるが、2年が過ぎても決定的な勝利が得られず、元老院の外交、軍事の指導力低下はだれの目にも明らかとなった。ここで、戦線の長期化を恐れたメテッルスの副官の1人であった「ノウス・ホモ」(新人)ガイウス・マリウスが紀元前108年に除隊、ローマの執政官選挙に出てユグルタ戦争の早期解決を訴えてローマ市民の支持を受けた。こうしてマリウスは紀元前107年に執政官となったが、メテッルスは任された軍隊をもう1人の執政官ロンギヌスに任せてしまう。さらにロンギヌスはガリアに進攻したキンブリ族討伐のために出立する予定を立てたため、マリウスには率いる兵力が全く足りなくなり、騎兵は特に皆無の状況であった。マリウスは、この目前の危機を解決するために後述のような内容の軍制改革に着手する。

マリウスの力によってユグルタは敗走したが、彼を捕らえて戦争終結をもたらした真の功労者はマリウスの副官ルキウス・コルネリウス・スッラであった。紀元前104年にマリウスは生け捕りにしたユグルタを引き連れて華々しくローマに凱旋し、ローマでの人気をおおいに高めた。同年、マリウスは2度目の執政官に選出された。

軍制改革の内容[編集]

志願兵制度の採用[編集]

改革するに至ってマリウスは今まで自前で武具を賄えない貧民階級に注目する。そして以下の事を取り決めた。

  1. 国が武具を支給する。
  2. 戦闘に従事する者の給料も国が支給する。
  3. 従軍期間を25年とする。
  4. 退役後、兵士たちに土地を与える。また司令官より年金を給付される(しかしながら士官、下士官の者は10倍から25倍の金額、土地を与えられたようである)。
  5. 従来からの司令官が指揮可能な軍の制限(司令官1人が指揮できるのは2個軍団まで)を撤廃する。

そして赤貧にあえぐ者の中で社会的な成功にわずかな望みをかけて大量の人員がマリウスのもとに走った。

実際の所はマリウスの行った改革は単純なもので、「兵士への給料」は、従来においても「働き手を兵士に取られた農家への損失補填」として行われており、改革の前後でその金額は変わっていない。端的に言えば、徴兵制を志願制に変えただけの事である。しかしながらこの単純な改革によって、困窮した農民は兵役から解放され、無産者達は職を得る事になった(一家の働き手を取られた農家への損失補填としては不足していた金額であっても、無産者にとっては有難い収入源となった)。またこれにより、ローマ軍は今までの市民からなる軍隊から職業兵士で構成された精強な軍団へと変貌を遂げる。

軍制内部組織の改革[編集]

再現イベントにおける、第3軍団キュレナイカの軍団兵

次に軍制の改革に着手する。今までの軍の内部組織は以下の通りにした。

そしてケントゥリアの定員を80人と定め、指揮者としてのケントゥリオ(百人隊長)の地位を向上させた。また10分割された8人のコントゥベルニウムは1つのテントを共同で使うものとした。このケントゥリアを共に行動し、戦闘、共同生活を行う者達として独立した戦闘部隊の核として作り上げた。また行軍に際して兵士は各自の荷物を運ぶ[2]事が前提となり、訓練では全ての重量を持った長距離の行進が重要視された(マリウスのロバ)[3]兵站の軽減化によりローマ軍の機動力が増す事となった。

軍制改革の効果、影響[編集]

軍事面での効果[編集]

まず、志願兵制度の前節の項目1.と2.により兵装が支給された事により軍隊の規格化が進み、また自らの職業(大抵は農業)を持つパートタイムによるアマチュアの市民兵から、規律を重んじ過酷な訓練にも耐えうるプロフェッショナルの戦闘集団となった。3.により長期間の共同生活を行う事で軍団内の結束が強まった。戦術面でも長期間の戦線で敵との対峙も可能、長期的な展望をもっての作戦の展開が可能となった。これにより再びローマ外部から侵略してくる蛮族を食い止める事ができた。4.で支給された土地は主にローマ軍が戦争を行い、占領した土地である事が多かったので、ローマの属州における影響力が徐々に強化されていった。また5.により司令官の軍事力の制限がなくなり、しばしば元老院の権威を圧迫するようになる。また、これらによって、軍団の私兵化が急速に進行していった。

社会面での影響[編集]

マリウスの軍制改革は後のローマ社会に多大な影響を与えた。単なる場当たり的な改革に留まらず、困窮した中小農民を兵役から解放すると同時に、無産者を兵士として雇う事により救済する、一石二鳥の効果をもたらした。そして生活面の不安が解消されたことに加えて、兵役に志願することでローマ市民としての誇りも取り戻すことが出来た[4]。先にグラックス兄弟の改革の頓挫によって果たせなかった事が、マリウスの軍制改革によって見事に果たせた事になる。

しかし、共同生活、訓練、戦闘を通じて築き上げられた軍団の結束力はローマ軍を世俗社会から隔離した存在とさせてゆく。すなわち兵士にとって生まれ故郷の選挙区よりも軍団との結びつきの方が強固となり、民会よりも軍団の司令官(元老院から、あるいは自前で兵站、給料を取り付け、退役後に占領した土地を分配してくれる人物)との結びつきが強くなっていった。また司令官もそのような兵士たちの要望に応えるように戦地では大胆な侵略を試みるようになる。

また、これまで一定以上の財産を持っていた中小自作農から徴兵された兵士達は、自らの財産を守るためにも戦ってきたのであるが、それらを兵役から解放した結果、そのような「祖国防衛」的なローマ軍の性格が薄らぐ事になった[5]

結果として、第二次ポエニ戦争以降ローマ死守の名のもとで対外的に強硬な姿勢が強くなりつつあったローマ軍が、さらに攻撃的にならざるを得ない決定的な要因を作った。

同盟市との関係[編集]

同盟諸都市との関係も変化を見せることになる。ローマ市民権を持つものが中心となる改革前のローマ軍では、戦争ではローマ市民の貢献が大きいことが前提であった。同盟諸都市も軍の供出などの義務を負っていたが、最も犠牲の出る中核部隊をローマ市民の軍団が受け持っていた。これは、完全なローマ市民権を持たない同盟諸都市にとって応分の負担と考えられてきたが、マリウスの改革の結果、軍団のなかで市民権を持つものと持たないものが同等の犠牲を払う仕組みとなって、ローマ市民権が一種の特権だと感じる同盟諸都市民が多くなっていく。ローマ市民は志願兵制に変更されていたのに対し、内政不干渉、自治の名の下にローマのこの制度改革は同盟諸都市には適用されず、兵力の供出が義務づけられていたままであったからである。

ローマでは、イタリア半島内の古くからの同盟諸都市に完全なローマ市民権を与えるかどうかは農地改革同様長年の政治課題となっており、マリウスの改革はその問題のバランスを崩すこととなった[6]。このことは、後に同盟市戦争と呼ばれる同盟諸都市の反乱を引き起こす1つの要因ともなっていった。

政治的影響[編集]

『キンブリの敗北』Alexandre-Gabriel Decamps、19世紀

実際はマリウスの私兵と化していたものの、名目上はローマ出身者の多くが選挙権のある「ローマ市民兵」であった軍団の兵士達は、やがて軍団司令官の政治的な台頭も促してゆく。マリウスは、ユグルタ戦争での勝利やキンブリ・テウトニ戦争での戦果によって市民の支持を集め、紀元前101年まで毎年執政官に選ばれた。紀元前102年、101年にゲルマン人がローマへの侵入を企てた時、マリウスは自らが育て上げた軍勢によってこれを打ち破ったからである。かつてローマ軍に多大な損害を与えた2つの部族を、マリウスはごく僅かな損害によって根絶した。

こうして、この改革は軍団の圧倒的支持を背景に、本来政治的な技能には長けていないマリウスを政治的に台頭させる結果となった。この傾向はマリウスよりも政治能力の高い人物に受け継がれ、マリウスの副官であったスッラ、スッラの副官であったグナエウス・ポンペイウス及びマルクス・リキニウス・クラッスス、マリウスの義理の甥でスッラの政敵であったガイウス・ユリウス・カエサルがそれぞれ元老院の名のもとにイタリア半島外地での覇権を伸ばしてゆく。そして軍事権力を持つ者同士が相食む内乱の一世紀へと続いていったのである。

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 兵役は義務というよりはローマ市民権を持つものにとってはむしろ権利であった。一人前の男子として政治参加の権利を承認させるための通過儀礼であり、兵役負担に比例して参政権が与えられていた。
  2. ^ 各人の背負う荷物の重さは40kgにもなった。
  3. ^ 舗装された街道の整備がこれを可能とした。
  4. ^ 無産者イコール失業者という訳ではなく、農地などの財産を持たないという事であり、都市においては労働者として雇われる事で糊口を凌ぐ事ができた。しかしながら古代ローマ人は他人から報酬として金銭を受け取る職業を卑賤なものとみなしていたため、こういう境遇に置かれた無産者は、単に生活が不安定なだけでなく、ローマ市民としてのプライドも大いに損なわれる事となった。
  5. ^ もっとも、ローマの領域が拡大し、祖国防衛的性格が薄らいだ事から、マリウスが軍政改革を行う必要に迫られたのであり、これは「鶏が先か卵が先か」という問題である。
  6. ^ 市民権問題は尾を引き、紀元前91年マルクス・リウィウス・ドルススがイタリア半島のラテン市民権保持者にローマ市民権を与えようとしたため、ドルススは元老院最終勧告によって殺害された。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

外部リンク[編集]