見えざる手

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見えざる手(みえざるて、: an invisible hand)とは、アダム・スミスの『国富論』の第4編第2章に現れる言葉である。

概要[編集]

アダム・スミスは、投資家が自らの資産運用で、自らの利益を求め、その収益性と危険負担(リスク負担)を熟慮して運用しようとすることを指摘し、かつ擁護している[要出典]

この様な部分知にしか基かず、全体を見渡した行動ではない(たとえその投資行動が社会全体の利益実現を何ら念頭に置いたものではなくとも)、自利心に導かれた行動、つまり、個別投資家の行動が自らに係る資産運用において安全かつ効率的であろうとすることが、結果的に、あたかも「見えざる手」に導かれるかの様に、全体としての効率的な投資を実現し、経済を成長させることを論じた[要出典]。逆に、他人の個々の投資行動を指図しようとする行為は、誰も責任を取れない行為であり、有害であるか無益なものになる。

この言葉はしかし、現代の初等経済学では元の文脈を離れて、市場における自由競争が最適な資源配分をもたらす、(需給関係を通じた価格変動の)自動的な調整機能を指すものとして使われることが多い。

市場経済[編集]

市場経済において、各個人が自己の利益を追求すれば、結果として社会全体において適切な資源配分が達成される、とする考え方。スミスは個人が利益を追求することは一見、社会に対しては何の利益ももたらさないように見えるが、各個人が利益を追求することによって、社会全体の利益となる望ましい状況が「見えざる手」によって達成されると考えた。スミスは、価格メカニズムの働きにより、需要と供給が自然に調節されると考えた。

経緯[編集]

元々はキリスト教終末思想に由来し、「人類最後の最終戦争には、信徒は神の見えざる手により救済され、天国へ行くことができる」などの教えから来る物で、これを経済論に比喩として用いたものである[1]。『国富論』には1度しか出てこない言葉であるが[2][3]、多くの経済議論に用いられ非常に有名となっている。また、神の見えざる手英語: invisible hand of God)ともいわれるが、『国富論』には「神の(of God)」という部分はない[2][3]

人は自分自身の安全と利益だけを求めようとする。この利益は、例えば「莫大な利益を生み出し得る品物を生産する」といった形で事業を運営することにより、得られるものである。そして人がこのような行動を意図するのは、他の多くの事例同様、人が全く意図していなかった目的を達成させようとする見えざる手によって導かれた結果なのである。

...he intends only his own security; and by directing that industry in such a manner as its produce may be of the greatest value, he intends only his own gain; and he is in this, as in many other cases, led by an invisible hand to promote an end which was no part of his intention.

国富論』第4編「経済学の諸体系について」第2章

なお、同著者の著作である『道徳情操論』の中にも「見えざる手」についての記述があるが、これは『国富論』でのそれとは意味が異なる。

脚注[編集]

  1. ^ 『金融恐慌とユダヤ・キリスト教』 島田裕巳 ISBN 4166607278
  2. ^ a b 竹中平蔵 『経済古典は役に立つ』 光文社〈光文社新書〉、2010年、56頁。
  3. ^ a b 木暮太一の「経済の仕組み」 アダム・スミスの「生きるヒント」 第1回 「格差を拡げる自由競争は是か非か?」現代ビジネス 2012年6月22日

関連項目[編集]