カリーニングラード

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カリーニングラード
Калининград
Kaliningrad Montage (2016).png
カリーニングラードの市旗 カリーニングラードの市章
市旗 市章
位置
カリーニングラードと周辺諸国地図の位置図
カリーニングラードと周辺諸国地図
位置
カリーニングラードの位置(バルト海内)
カリーニングラード
カリーニングラード (バルト海)
カリーニングラードの位置(ヨーロッパロシア内)
カリーニングラード
カリーニングラード (ヨーロッパロシア)
カリーニングラードの位置(北西連邦管区内)
カリーニングラード
カリーニングラード (北西連邦管区)
カリーニングラードの位置(カリーニングラード州内)
カリーニングラード
カリーニングラード (カリーニングラード州)
カリーニングラードの位置の位置図
カリーニングラードの位置
座標 : 北緯54度43分 東経20度31分 / 北緯54.717度 東経20.517度 / 54.717; 20.517
歴史
建設 1255年
旧名 ケーニヒスベルク
創設者 ドイツ騎士団
行政
ロシアの旗 ロシア
 連邦管区 北西連邦管区
 行政区画 カリーニングラード州の旗 カリーニングラード州
 市 カリーニングラード
市長 Alexandr Yaroshuk
地理
面積  
  市域 215.7 km2
標高 4.8 m
人口
人口 (2008年現在)
  市域 421,678人
その他
等時帯 カリーニングラード時間 (UTC+2)
郵便番号 236000–236042
市外局番 +7 4012
ナンバープレート 39, 91
公式ウェブサイト : http://www.klgd.ru/

カリーニングラードロシア語Калининградカリニングラート〕、ラテン文字転写の例:Kaliningrad )は、ロシア連邦西部にあるカリーニングラード州州都である。バルト海に接する港湾都市で、人口は約42万人。カリーニングラード州はポーランドリトアニアに挟まれたロシアの飛地領で人口はおよそ95万人、世界有数の琥珀の産地である。

カリーニングラードはもともと1255年ドイツ人東方植民によって建設された都市で、1946年まで使われていた旧名はケーニヒスベルクKönigsberg;ドイツ語で「王の山」の意)。20世紀前半まではドイツの東北辺境の重要都市であった。

気候[編集]

  • 年間平均気温7.6℃
    • 真夏の気温:16~30℃
    • 真冬の気温:4~-14℃
    • 1月・2月の平均気温:-4℃
    • 7月・8月の平均気温:17℃
  • 年間降水量804㎜

多くのロシアの都市に比べ、海洋性に近い気候で、夏はそれほど暑くなく、冬も極端に寒くはならない。降水量は年間を通して、ほぼ均等。

30℃(86.0F)を超えることはそれほど多くないが、最高気温は1992年8月10日に36.5℃(97.7F)を記録している。7月としての最高気温は1994年7月30日に記録された36.3℃(97.3F)。

最低気温は1956年2月に-33.3℃(-27.9F)、1月としては同年に-32.5℃(-26.5F)を記録している。

歴史[編集]

ドイツ帝国の地図。最東端がケーニヒスベルクを州都とする東プロイセン

ケーニヒスベルクとしての歴史[編集]

現在カリーニングラードと呼ばれているケーニヒスベルクは、1255年ドイツ騎士団によって建設され、ハンザ同盟に所属するバルト海の貿易都市となった。街はポーランドとリトアニアを流れるプレーゲル川(現・プレゴリャ川)の河口部に位置し、中州であるクナイプホーフを中心に広がり、プレーゲル川流域の物産を集めてバルト海沿岸の諸都市と交易し繁栄した。ところが住民はポーランド王国を支持してドイツ騎士団と対立、1410年タンネンベルクの戦いの結果第一次トルンの和約が交わされ、ケーニヒスベルクをはじめとしたドイツ騎士団領はすべてポーランド王国の従属国となる。その後ドイツ騎士団による専制に反発したケーニヒスベルク等の商業都市がプロイセン連合を結成して騎士団と対立してポーランド王国の庇護を求め、1466年第二次トルンの和約によりケーニヒスベルクはポーランド王の直接の所有物となり、住民による自治権を与えられた。

1525年にドイツ騎士団の総長だったホーエンツォレルン家アルブレヒトが修道会国家を世俗化させてプロシア公領を東プロイセンに成立させケーニヒスベルクはその首都となった。公国の血が絶えると1618年より同族であるブランデンブルク選帝侯のホーエンツォレルン家が飛び地となる公国を同時に治めることになった。1660年オリヴァ協定でポーランド王国がプロシア公領に対する宗主権を放棄して公領はポーランドから独立、プロイセン公国となり、1466年より194年の間ポーランド王が保障した自治権によって大いに繁栄していたケーニヒスベルクはその自治権を失ってプロイセン公国に隷属することになった。

1701年、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世は神聖ローマ帝国の外にあたるケーニヒスベルクで王に即位、フリードリヒ1世となりプロイセン王国がこの街で誕生した。この時期、ケーニヒスベルク大学などを擁する教育と研究の中心地でもあり、イマヌエル・カントら多くの学者を輩出した。19世紀にプロイセン王国を中心にドイツ帝国が形成されると、その一部となった。1848年にはヨーロッパ市民革命のプロイセンにおける中心地となり、王侯貴族の支配に対して商工業者を中心とした市民が立ち上がり、大規模な抵抗運動を行った。

プレーゲル川沿いの河岸

第一次世界大戦後、旧ドイツ帝国の東部領土が割譲され、ドイツやオーストリアによって分割されていたポーランドが独立を果たした。その際、ポーランド北部のバルト海に面した地域にあたる旧プロイセン公国の領域のうち、自由都市として残されたダンツィヒ(グダンスク)を除いた「西プロイセン」は、ポーランドの海への出口(ポーランド回廊)としてポーランドに割譲された。ケーニヒスベルクを中心とする「東プロイセン」はドイツ領として残されたが、ドイツ本国との陸上路が閉ざされ、孤立した飛び地となった。

のちにドイツで政権を握ったナチス党アドルフ・ヒトラーは、ポーランド侵攻直前に飛び地解消を名目にポーランド回廊の領土返還を要求したが、権威主義的なピウスツキ政権下のポーランド側はミュンヘン会談の取り決め(ドイツは英・仏・伊に対しチェコスロバキアから併合したズデーテン地方以外に領土要求はしないと約束した)を盾にドイツの領土要求を拒否したため、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、それに怒った英仏がドイツに宣戦布告して、第二次世界大戦が始まった。これにより東プロイセンは再びドイツ本土と陸路で結ばれた。

ソビエト領カリーニングラードへ[編集]

第二次大戦前の市街風景

独ソ戦中盤までケーニヒスベルクは比較的平和が保たれたが、戦争末期には東部戦線の激しい戦場となった。1944年8月26日から27日の夜にかけてイギリス軍の爆撃機174機による長距離爆撃が行われたが、この空襲は郊外に爆弾のほとんどが落ちほぼ失敗に終わった。しかし続く8月29日から30日にかけてのイギリス軍機189機による空襲では市街地中心部が打撃を受けた。住居と工場の多くが破壊されたほか、クナイプホーフはじめ旧市街の大半、大聖堂はじめ古い教会のほとんど、ケーニヒスベルク城、大学などは完全に破壊された。

ソ連赤軍東プロイセンに進撃を始めた1944年10月頃からは約37万人にのぼる市民の西部ドイツへの脱出が始まった。1945年1月13日にはソ連軍がついにケーニヒスベルクに達し1月末には市は完全に包囲されたが、市民や避難民はドイツ軍の確保した鉄道と港湾を使ってバルト海経由でケーニヒスベルクからの脱出を続けた。要塞化された市街の周辺には地雷鉄条網などで三重の防衛線が築かれ、2月から3月の間ドイツ軍は抵抗をつづけた。しかし1945年4月6日から4月9日まで、ソ連軍は4日間にわたり南北から最後の突撃を行い、残されたドイツ軍は降伏しケーニヒスベルクは陥落した(ケーニヒスベルクの戦い)。

T-34戦車、第二次大戦の戦勝記念碑の1つ

ドイツの戦後処理が話し合われたポツダム会談において、ケーニヒスベルクはソ連邦への帰属が決定された。すなわち、東プロイセンは南北に分割され、南部はポーランド領に、ケーニヒスベルクを含む北部はソ連のロシア・ソビエト連邦社会主義共和国に編入された。戦後もドイツ系市民約2万人(1945年7月の同市の総人口は約7万人)が同市内に残留していたが、1947年10月11日スターリンは市内に残留していたドイツ系市民の追放を決定し、翌年にかけてドイツ系残留市民は全員鉄路でソビエト占領区域(後の東ドイツ地域に相当)へと移送された。前後して大量のソ連市民が市内へ移住した。1946年7月4日、ソ連領となったケーニヒスベルクは1ヶ月前に死去した先のソビエト連邦最高会議幹部会議長ミハイル・イワノヴィッチ・カリーニンにちなんでカリーニングラード市、区域全体はカリーニングラード州とロシア語名に改称された。その後、ドイツ時代の遺物としてケーニヒスベルク城、ケーニヒスベルク大聖堂などの歴史的建造物がほとんど破壊され、城の跡地にはソビエトの家が建設された。

カリーニングラードは冷戦時代は軍事都市として、州全体が外国人の立ち入りが規制される閉鎖都市だった。ソ連でも重要な不凍港としてバルト艦隊の拠点となり、造船業が発達、また古くからの琥珀の世界的産出地としても地位を確かなものとした。

冷戦後[編集]

ところが冷戦崩壊後にリトアニアがソ連から独立した結果、カリーニングラード州は今度はソ連・ロシア連邦の飛び地となってしまった。さらに冷戦後の造船需要の悪化で造船業が衰退して失業率が増加し、市民の4割が貧困層といわれるほど経済状況が悪化、琥珀も密売者の間で高騰する事態となった。ソ連崩壊後の一時期は東欧各国の中心にある地理的特性を活かして「バルト海の香港」としようという夢が語られたが、それとは程遠い状態になりつつある。ソ連崩壊直後にロシアはここをポーランド領とする案を用意(代わりにドイツはシュチェチンを得るという話であった)したものの頓挫、結局そのまま放置された。

カリーニングラードの経済は崩壊し、この町が東ヨーロッパの中心に位置するということもあって、麻薬取引、人身売買、盗難車の取引中継地など、東欧・旧ソ連全域を舞台にしたさまざまな犯罪の拠点に使われるほど治安が悪化、エイズなどの感染症も蔓延し始めた。さらに、軍事都市時代の有害な廃棄物が放置されており、住めない土地が各地に広がっていた。もはやこの都市の存在が、ロシアにとってもポーランド・リトアニアなど周辺諸国にとっても頭痛の種となった。

ソ連崩壊後に再建されたクナイプホーフのケーニヒスベルク大聖堂
カリーニングラード市電 (2001年)
カリーニングラード市街と市電

独立後10年を経て、ロシア政府はウラジーミル・プーチン大統領のリュドミラ夫人(当時。2013年離婚)がカリーニングラード出身ということもあってカリーニングラードの復興をてこ入れすることにし、経済対策として経済特区を設け、輸入関税を免除するなど外貨獲得を目指した。しかし、当初はロシア国内向けの家電組立工場が多数成立した他は特区の効果はあまり出ず、さらに2004年に周囲を取り囲むリトアニアとポーランドが共にEUに加盟したため、カリーニングラードとロシア本土との通行にリトアニアがビザを科すようになったなど、周囲との通行に障害が生じ、先の見通しが立たないとまで言われた。

ところがその後、ロシア本土との通行にリトアニアのビザ取得が簡素化され、物流も整備された結果、カリーニングラードの経済は驚異的な成長を遂げている。2006年10月16日付の、BBCの『カリーニングラード、過去の汚名をそそぐ』と題された記事では次のようなことが述べられている[1]

…過去数年の経済成長率は毎年10%を超えており、モスクワを含めたロシアのどの地域よりも発展している。域内は建設ラッシュであり、モダンなデザインの新しいビルが建設され、街にはデザイナーズショップが建ち並ぶ。 …また、住民一人当たりの自家用車保有台数はモスクワを上回っている。ロシアで販売されるテレビの3台に1台はカリーニングラード製であり、州内ではハマーBMWといった高級車の工場がフル稼働している。 …人口95万人のカリーニングラード州の失業率はほぼ0%であり、労働力の不足が深刻である。そのため、カリーニングラード州政府は、ロシア本土などの旧ソ連地域から早急に30万人のロシア人をカリーニングラードに移住させる計画を進めている。とくに辺境のカザフスタンカフカス地方に住むロシア人は地位が不安定で定職に就くことも難しいため、カリーニングラード州としては彼らを呼び寄せたいと考えている。州政府は、彼らのための住宅建設は順調に進んでおりすぐにでも呼び寄せることは可能である、と述べている。…

…ただし「ロシアの工場」カリーニングラード経済の問題は、原材料や中間製品がすべてロシア本土からやってきて、州内で作られる最終製品の販売先がロシア本土しかないことである。州政府としては、周辺のEU諸国と経済関係を築きたいところであるが、EUと様々な政治的問題を抱えるロシア中央政府がそれに反対している。…しかしカリーニングラード住民の意識は年々変化し、ロシア離れが加速しており、子供たちまで「我々カリーニングラード住民は大ロシア(ロシア本土)とは違って、もっとヨーロッパ的である」と発言するまでになっている。

カリーニングラードの今後のさらなる発展は、東方拡大を進めてきたEUとロシアの関係の重要な課題となっている。現在では、ソ連時代に破壊された大聖堂などの歴史的建造物の再建が進められている。[要出典]

ギャラリー[編集]

ケーニヒスベルク・カリーニングラードゆかりの人物[編集]

戦前のケーニヒスベルクの地図
ケーニヒスベルク大学(アルベルティナ大学、19世紀後半)。後のカリーニングラード大学、現在のイマニュエル・カント国立大学英語版

交通[編集]

カリーニングラード市電

フラブロヴォ空港英語版からはロシア本土の各都市や他のヨーロッパ都市への便が運行されている。バルチースクからはサンクトペテルブルクストックホルムコペンハーゲンリガキールへの航路がある。カリーニングラード駅からはモスクワサンクトペテルブルクソチチェリャビンスク方面への列車が運行されている。カリーニングラードの鉄道の特徴としては、ポーランド東ドイツ方面の路線は 標準軌広軌と併設(三線軌条)している点である。これは冷戦期には軍事目的で整備されたものであるが、現在でも役立っている。カリーニングラード駅の6番ホームはエルブロンク方面からの標準軌の列車が発着可能である。近郊列車はカリーニングラード北駅からも発着しており、ゼレノグラーツクスヴェトロゴルスクソヴィェツク方面に向かうものがある。

路面電車1881年に開業し、現在も運行が続けられている。1975年にはトロリーバスの運行も開始された。

姉妹都市[編集]

文化[編集]

スポーツ[編集]

2018 FIFAワールドカップの開催都市のひとつとなり、新築のカリーニングラード・スタジアムが会場として使用された。大会後はロシア・ナショナル・フットボールリーグに所属するFCバルチカ・カリーニングラードの本拠地として使用される。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ "Kaliningrad erases stains of past", By Laura Sheeter, BBC News, Kaliningrad, Russia :Monday, 16 October 2006, 14:03 GMT

文献[編集]

  • Eberhard Beckherrn, Aleksej Dubatov: Die Königsberg-Papiere. Neue Dokumente aus russischen Archiven. Schicksal einer deutschen Stadt. Langen Müller, München 1994.
  • Bert Hoppe: Auf den Trümmern von Königsberg. Kaliningrad 1946−1970, Schriftenreihe der Vierteljahrshefte für Zeitgeschichte, Bd. 80, München 2000.
  • Per Brodersen: Die Stadt im Westen. Wie Königsberg Kaliningrad wurde (mit einem Vorwort von Haug von Kuenheim), Vandenhoeck & Ruprecht, Göttingen 2008, ISBN 978-3-525-36301-0.
  • Eckhard Matthes (Herausgeber): Als Russe in Ostpreussen. Sowjetische Umsiedler über ihren Neubeginn in Königsberg/Kaliningrad nach 1945, Ostfildern 1999.
  • Eckhard Matthes: Verbotene Erinnerung. Die Wiederentdeckung der ostpreußischen Geschichte im Gebiet Kaliningrad (1945−2001). In: Osteuropa 51 (2001), H. 11−12, S. 1350−1390.

関連項目[編集]

外部リンク[編集]