ブルーノ・タウト

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ブルーノ・タウト
ブルーノ・タウト.jpg
生誕 1880年5月4日
ドイツの旗 ドイツ帝国 東プロイセン
ケーニヒスベルク
死没 (1938-12-24) 1938年12月24日(58歳没)
トルコの旗 トルコ イスタンブール
国籍 ドイツの旗 ドイツ
職業 建築家
建築物 鉄の記念塔
ガラス・パヴィリオン
ベルリン市ブリッツの馬蹄形住宅

ブルーノ・タウトBruno Julius Florian Taut1880年5月4日-1938年12月24日)は、ドイツ東プロイセンケーニヒスベルク生まれの建築家都市計画家[1]鉄の記念塔1913年)、ガラスの家1914年)が評価され、表現主義の建築家として知られる。

1933年、ナチスの迫害から逃れるため海外に滞在先を探していた際に、前年にあった上野伊三郎率いる日本インターナショナル建築会からの招聘を受け入れ、1933年に来日し3年半滞在した[2]。日本では建築設計の仕事を得られなかったことから、トルコ政府の招きにより転地し、1938年に当地で没した。

人物・来歴[編集]

修業時代[編集]

ブルーノ・タウトは父ユリウス・ヨーゼフ・タウト、母ヘンリーテ・アウグステ・ベルタ・タウトの第三子として1880年5月4日にケーニヒスベルクに生まれた[1]1897年、クナイプホーフ・ギムナジウムを卒業した後、ケーニヒスベルクの建設会社、グートツァイト社に入社、ここで2年間、石積み・レンガ工事などの壁体構造の仕事の見習いとして働いた[3]。父親の商売が失敗したことから、タウトは大学の授業料を自分で稼ぐ必要があったので、20歳の時にケーニヒスベルクの国立建築工学校に入学した後も、建築現場で見習いとして働きながら得た金を学資にして、1902年に卒業した[3]

卒業後はケーニヒスべルクを離れ、ハンブルクベルリンシュトゥットガルトなどで修業を積み、1903年にベルリンの建築事務所(ブルーノ・メーリンク[要出典])に就職した[4]。更に、1904年から1908年までの間、シュトゥットガルト工科大学教授だったテオドール・フィッシャーに弟子入りして(テオドール・フィッシャーの設計事務所勤務[要出典])建築理論と実務を本格的に学んだ[5]。1908年からは、ベルリンのシャルロッテンブルク工科大学のテオドール・ゲッケ教授の授業を受け、ベルリンのハインツ・ラッセン教授の設計事務所で働いた[6]

グラスハウスの内装

1909年、同僚だったフランツ・ホフマンと共同で、ベルリンで設計事務所を設立・開業[6]1912年には弟のマックス・タウトも事務所のメンバーに入った[6]1910年ドイツ工作連盟に参加。[要出典]1913年には、ライプツィヒで開催された国際建築博覧会で「鉄の記念塔」を作り[7]1914年にはケルンで行われたドイツ工作連盟の展覧会に「ガラスの家」を出展、これら2作品によってタウトは名を広く知られるようになった[8]。「鉄の記念塔」、「ガラス・パヴィリオン(グラスハウス)」[注 1]は表現主義の代表的な作品とされる[9]。また、この頃タウトが設計した、田園都市ファルケンベルクの住宅群ドイツ語版(1913-1916年)はベルリンのモダニズム集合住宅群の1部として世界遺産(文化遺産)に登録されている。

結婚・同棲[編集]

時間は前後するが、1904年頃、タウトはベルリンから北東に50キロメートルほどの場所にあるコリーンという村に友人たちとともに滞在した[5]。ここで、ヘドヴィック・ヴォルガスト(この村に長く続いた鍛冶屋であるヴォルガスト家には3人の娘がおり、その3女[10])と出会い大恋愛の末、1906年に結婚した[11]

1907年には長男のハインリッヒ、翌年には長女のエリザベートが生まれたが、その後ヘドヴィックは体調を崩したため、ハインリッヒはヘドヴィックの母親の家に、その後はタウトの弟マックス・タウトの家に引き取られた[12]。長女のエリザベートも同様にマックスの家に引き取られ、2人とも養子同様にして育てられた [13]。この頃から、タウトとヘドヴィックの間に亀裂が生まれ出したらしい[14]

1916年には、職場の部下だったエリカ・ヴィッティッヒと恋愛関係になり同棲するようになった[15]1918年10月にはエリカとの間に娘のクラリッサをもうけたが、ヘドヴィックに頼んでクラリッサを自分の子として入籍させている[16]

アルプス建築・色彩宣言[編集]

1916年には初めてトルココンスタンチノープル(現イスタンブール)に渡り、ドイツ・トルコ友好会館の建設に携わった[9]。この時にミマール・シナン建築のモスクに強く惹かれるようになった[9]。タウトはトルコと縁の深い建築家で、最晩年にもトルコと関わりを持つようになる。

1918年に起草、翌年に出版した画帖『アルプス建築』は実際には実現不可能な建築物(アルプス山中にクリスタルの建築を建てようとするユートピア構想[要出典])のイメージ図で[17]ニーチェの『ツァラトゥストラはこう語った』の下山のシーンから影響を受けていることが知られている[18]1919年には、その他にも『宇宙建築師』(Der Weltbaumeister)を描いた。[要出典]同年、タウトはモスクワに入って仕事をした[8]。これ以後、断続的に続いた旧ソ連での仕事は、後にタウトがナチスから睨まれる原因になった。

1921年から1924年まで、タウトはマクデブルク市の建築課に勤務し[19]、この時期に「色彩宣言」を発表[20]、建築物はすべて色彩を持たねばならないと主張して、マクデブルク市庁舎やオットーリヒター通りの集合住宅に彩色を施した[20]。更に、このマクデブルク時代に『曙光』『都市の解体』を出版[21]、特に後者は世界的にも広く読まれ、日本でも分離派の建築家に好んで読まれた[22]

ジードルング[編集]

その後タウトは1924年ベルリンに戻って、住宅供給公社ゲハークの主任建築家になった[19]

当時、ドイツは第1次世界大戦で敗戦国となり、様々な工業製品を作ることで賠償金を支払っていた。このため労働者は劣悪な環境下で働いており、ベルリンの労働者住宅は監獄のようであった[23]。この次期、タウトは主任建築家として労働者の健康を考慮したジードルング(集合住宅)建設に注力し、1924年から1932年までの間にジードルング(住宅団地)1万2,000戸の設計を行った[24]。タウトは、1924年から携わったブリッツジードルングで国際的な評価を受けた[25]

この間にタウトが設計した建築物のうち、シラーパークのジードルングwikidata(1924-1930年)、ベルリン市ブリッツの馬蹄形住宅wikidata(1925-1930年)とカール・レギーンの住宅都市ドイツ語版(1928-1930年)[注 2]は、ベルリンのモダニズム集合住宅群の1部として2008年世界遺産(文化遺産)に登録されている[26]

1930年、ベルリンにある母校のシャルロッテンブルク工科大学(現:ベルリン工科大学)の客員教授に就任した[19]

ナチス政権[編集]

革命への憧れをもっていたタウト[要出典]は、1932年から1933年までソ連で活動した。1933年4月には、タウトはモスクワ市の建築局、都市計画局の主管としてホテル、火葬場などの建築計画に従事しているはずだったが、市当局との意見調整に失敗して計画は実現しなかった[27]。タウトはモスクワ市との契約を解除して同年2月にドイツに帰国した[28]

前月の1月30日にはヒトラー内閣が誕生しており、以前から社会主義的傾向のある建築家として知られた[29][注 3]タウトがソビエト連邦から帰国したことは、政権から危険視される原因になった[29]親ソ連派の「文化ボルシェヴィキ主義者」という烙印を押されたタウトは職と地位を奪われた。[要出典]

1933年3月1日(総選挙の4日前)、タウトはベルリンを離れて[29]パリへ逃亡した[31][注 4]。その後、(ドイツに戻ってわずか二週間後[要出典])スイスへ向かい、ベルンの日本公使館で旅券を発行してもらった[29]。タウトは「日本インターナショナル建築会」の海外客員の1人で、前年の1932年夏に同会から招待状を送られていたので、旅行先として日本を選んだのである[29]

その後、マルセイユから汽船で地中海を渡り、ギリシャ、トルコイスタンブール[要出典]黒海を経由して、汽車でモスクワ入りした後、シベリア鉄道ウラジオストックまでたどり着いた[29]。その後4月30日に同地を離れ日本海を渡り、5月3日に敦賀に到着した[29]。 来日に際して、妻のヘドヴィックや子供たちはドイツに残していったが秘書のエリカを同伴させた[15]

ニッポン[編集]

敦賀では、「日本インターナショナル建築会」の上野伊三郎らがタウトを出迎えた[32]。上野らは、タウトの来日前に手はずを整ており、来日の翌日の5月4日にはタウトを桂離宮に案内して観覧させ、タウトは離宮の美しさを称賛した[32]。これほど早く拝観させた理由については、タウトが、毎年自分の誕生日にはその土地の最もよい建築を見ることにしているので日本の最もよい建築を見たい、と言っているので、それに合わせて桂離宮を見せたのだと上野が言っていたという伝聞が残されている[33]。タウトは桂離宮を世界に広めた最初の建築家だったと言える。

一方、その半月後の5月21日、斎藤寅郎の案内で日光東照宮に出かけて[34]、その過剰な装飾を嫌ったタウトは日記に「建築の堕落だ」とまで書いて罵倒した。後にタウトが桂離宮伊勢神宮を皇室芸術と呼んで持ち上げ、東照宮を将軍芸術と呼んで嫌悪する[35]下地はこの時にできた[注 5]

上野は5月26日に、上野の母校である早稲田大学の建築学科教室を案内、上野はタウトを同大学の講師に迎え入れようと交渉したらしいが、こちらは不首尾に終わった[39]。上野は、その後もタウトを修学院離宮平安神宮比叡山琵琶湖祇園伊勢神宮にも案内した[40]。上野は滞日中のタウトの面倒を最もよく見た人で、タウトの滞在費捻出に骨を折ったのも上野である[40]。その後、7月9日から17日まで6日間に渡って東京帝国大学で、上野の通訳のもとで講義を行った[40][41]。ただ、この講義に集まってきたのは大半が学生だったらしく一般人はほとんど聞きに来なかったのでタウトは幻滅したようである[42]

来日直後は、京都の呉服商(京都大丸の当主)下村正太郎の客人としてしばらくやっかいになっていた[43]が、11月10日からは、タウトは仙台の商工省工芸指導所(現在の産業技術総合研究所の前身の1つ)の嘱託として赴任[44]、この後タウトは、1936年10月までの間日本に滞在し、仙台高崎で工芸の指導や、日本建築に関する文章(『ニッポン ヨーロッパ人の眼で見た』『日本美の再発見』『日本文化私観』『日本 タウトの日記』 など)を書いた[45][注 6]

このうち、『ニッポン ヨーロッパ人の眼で見た』(1933年6月に起稿、同年7月に脱稿、1934年5月に明治書房から出版、翻訳者は平居均)と『日本文化私観』だけがタウト滞日中に翻訳・発表された文章である[45]。残りの文章は全てタウトの死後に翻訳・出版された[注 7]。 『ニッポン』はタウトが来日直後の日本に関する印象をまとめた口述筆記による本で、この中で桂離宮を激賞したことが以後の「桂離宮ブーム」を引き起こしたことで知られる[50]。出版して間もなく日本図書館協会の推薦図書に、その後は文部省選定の優良図書に指定されている[51]

1934年8月1日になると、タウトはエリカとともに高崎へ移住し井上工業研究所顧問として、井上工業が制作していた工芸製品のデザイン、製作指導を行うようになった [52]。これは、久米権九郎井上房一郎にタウトを紹介したことが縁で決まったことである[53]。高崎に移って以降約2年間を少林山達磨寺にある洗心亭でエリカと共に過ごした。

少林山達磨寺洗心亭

ここでの生活をタウトは大変気に入ったようである[54]。井上工業研究所では、水原徳言が共同制作者としてタウトに協力した[55]。水原はタウトの日本における唯一の弟子だと言われている[56]。井上工業研究所でタウトは、家具、和紙漆器など日本の素材を生かし、モダンな作品を発表。井上が1935年に東京・銀座軽井沢に開店した工芸品の店「ミラテス」で販売を始めた。また東京・日本橋丸善本店および大阪の大丸にて「ブルーノ・タウト氏指導小工芸品展覧会」を開催した。例えば、高崎で細々と生産が続く工芸「皮編」は、竹皮を使った草履表(南部表)の職人に対して、近代化が進んでいた当時の日本に合うような新しい用途の製品を作るよう、タウトがデザインなどを指導したという[57]

一方でタウトは日本滞在中、建築方面の仕事に余り恵まれなかったことを少なからず不満に思っていた。実際にタウト自身が日記の中で、日本での生活は「建築家の休日」であると自嘲している[58]。唯一の例外が、実業家だった日向利兵衛の別邸(熱海市指定有形文化財)の地下室部分である[59]

滞日中、タウトに設計を依頼するという計画は何度か持ち上がったが実現まではいかなかった[60]。例えば、1935年3月5日に、大倉和親邸の設計を任された久米権九郎を手伝う話があったが、タウトが描いたスケッチが「日本的でありすぎ」たことに失望され、それ以後2度と依頼する人物はあらわれなかった[61]。 日本でのタウトは建築設計では実りがなかったが、一方で建築理論の構築に勤しみ、桂離宮を評価した本を著したり、日向利兵衛別邸でインテリアデザインを行ったりもした。 タウトは、日本滞在中に地方へ何度か旅行をしているが特高に尾行されたこともある[62]。また、必ずしも名所のような美しい場所ばかりに足を運んだというわけでもなく、貧民窟を見たこともある[62]

1935年に入るとタウトは次第に日本での生活の将来に不安を覚えるようになりだした[63]

トルコ[編集]

1936年9月11日、タウトにトルコからイスタンブール芸術アカデミー(現ミマール・シナン大学)の教授招聘の手紙が届いた[64]。当時のトルコは大統領ケマル・アタテュルクの独裁的指導の下で近代化を目指していた。

この話を持ってきたのは、トルコにいた建築家マルチン・ヴァグナーである[65]。ヴァグナーはタウトの盟友で[66]、ドイツ社会党に所属していたことからナチス政権に睨まれたため、1933年にトルコに亡命していた[65]。当初は、ハンス・ペルツィヒが候補者としてあがっていたのだが、ペルツィヒが急死したので代わってタウトに白羽の矢がたった[65]

タウトは日本での将来に不安を抱いていたこと[63]や、親友の上野から、日本にいても建築家としての仕事は期待できないのでトルコへ行ってそこで建築の仕事をしたほうがよい、との助言もあって[67]か、タウトをこれを受け入れて、10月8日洗心亭を発ち、10月11日の夜東京で友人たちが告別会を開いたのち、10月15日夜、下関から関釜連絡船でエリカと共に日本を去った[68][69]。その後は、北京に10日ほど滞在した後、11月11日、シベリア鉄道経由でイスタンブールに到着した[70]。以後はイスタンブールがタウトの住みかとなった。

日本でとは違って、トルコでのタウトは建築家として非常に多忙だった[71]。そのため日記をほとんど書いておらず、トルコでのタウトの行動や考えはよくわかっていない[58]

タウトはアタチュルク大統領の信用が厚く、アンカラの文部省建築局首席建築家を任された[70]。ただ、その分他の建築家から妬まれた面もあったらしい[55]。トルコ滞在中にタウトは水野徳言に手紙を出し、トルコに来るようにと言っているが、水野はその話を断ったので、この話は実現しなかった[72]

タウトがトルコで設計した建築物には、首都アンカラアンカラ大学文学部など教育機関建築の設計、イスタンブール郊外の自宅などがあり、そのほとんどは現存している。ただ、自宅の完成間近にタウトは亡くなってしまう。1938年に入ってからは健康状態が優れないことが多くなり[73]、アタチュルク大統領死去(1938年11月10日)の葬儀の演出をタウトが任されていた頃には既にかなり体の状態はよくなかったらしい[74]

1938年12月24日、心臓疾患で病没[73]、最後の仕事は彼自身の死の直前に死去した大統領ケマル・アタテュルクの祭壇だった。翌25日に告別式が行われたあと、エディルネ門国葬墓地に埋葬された[73][75]。タウトの死後、デスマスク、タウトの所有物はすべてエリカが日本へ持ち出し洗心亭に預けており、トルコ国内にタウト関連の資料は残されていない[71]

タウトを巡る誤解[編集]

ユダヤ人・亡命[編集]

タウトは日本滞在中、ユダヤ人(あるいはユダヤ系ドイツ人)であるからヒトラー政権に迫害されて日本へ亡命したのだと盛んに噂されて、辟易していたらしい[76]。実際はタウトはユダヤ人ではなく、13世紀から続くドイツ人家系図があるのだと、噂を否定するコメントを建築雑誌『国際建築』に、日本滞在中に残している [77]。弟のマックス・タウトが、兄がドイツを後にしてからもベルリンに住んでいたことも、タウトがユダヤ人ではないことを裏付けている[77][23]

また、当時から、タウトが日本に亡命したと書く文章があふれているが、井上章一によると、それとは矛盾する事実が残されている。タウトの日記には、日本滞在中にドイツ大使館に出かけた(1936年10月12日[78])とか、日独協会から講演を依頼されてそれを引き受けたとか、亡命者とは考えられない行動をしている事実が書かれている[79]。その他にも、1935年3月1日にドイツのフランツ・ホフマン(タウトと共同の設計事務所を持っていた人物)から日本のタウト宛にドイツ帰国を勧める手紙が届いている(タウトは、帰国しても自由がないと言って、この話を断っている)[80]ことも1つの証拠になっている。

桂離宮の「発見者」[編集]

タウトは自分の日記(1935年11月4日)に「私は桂離宮の『発見者』だと自負してよさそうだ」と 書き残している[81]。 一般的にタウトが初めて桂離宮の真価を評価した と言われているが、事実とは異なっており、「伝説」でしかないと言える。 タウトの著述に関してさまざまな誤解が広まっていることは否定できない [82]

事実と異なっている点は3つある。1つは、タウト以前にも 桂離宮を高評価した日本人はそれなりの数に達していたという点である。 2つ目は、観光案内書の紹介の大きさを見る限り、桂離宮の知名度はタウト来日以前から 一般的に高かったと考えられる点である[83]。 3つ目は、専門家を越えて一般大衆レベルにまで桂離宮のモダニズム建築としての解釈が浸透したのは、 タウト滞日中の1930年代中期、あるいはその多くの著書が翻訳されて出版された1940年代のことではなく、 1960年代以降とかなり遅くなってからのことである[84] [注 8]

タウト以前に桂離宮を評価する日本人が全く、あるいはほとんどいなかったということはなく、 むしろ専門家の間ではかなり早くから高く評価されていた。 ただ、評価していたのは建築家ではない。 明治・大正時代、桂離宮を研究・評価したのはもっぱら庭園関係者と茶人だった [85]。庭園という観点からの桂離宮評価だったからか、 この時代の建築家は桂離宮にはあまり興味を示さず、建築家の評価は低かった[86]。 しかし、庭園関係者が桂離宮を絶賛していたのは確かである[87]

流れが変わったのは、昭和時代に入ってからである[88]。例えば、1928年(昭和3年)5月には桂離宮の実測測量が始まっている[89]。また、1920年代半ばから世界的にモダニズム建築が流行し、日本でもその流れに乗った建築家の1群が現れた。桂離宮は実際にはデザインに凝った建築であり、モダニズムからは遠い要素を多分に含んだ建物で、昭和以前は、そのように理解した論もそれなりに多かった[90]ものが、モダニズムが流行し始めると、モダニストたちは桂離宮を、モダニズム建築という点を強調し、モダニズムに合わない部分を無視して評価し始めるようになった[注 9]

一方、タウトは桂離宮を純粋なモダニズム建築としてから高評価したのではなく、それ以外の要素も多分に含まれていた。実際にタウト自身が、「「すべてすぐれた機能を持つものは、同時にその外観もまたすぐれている」という私の命題は、しばしば誤解された」と書いているように、タウトの桂離宮評価は、かなり誤解されて広まったと言える[93]

1929年、岸田日出刀は写真集『過去の構成』を著し、その中で桂離宮をモダニズム建築の観点から激賞した[94]。『過去の構成』はモダニズム建築家や若い建築家の間で評判となった著書で、堀口捨巳丹下健三らがその内容を誉めている[95]。しかし、桂離宮の評判は専門家の狭い領域から出ることはなく、専門家集団の中で共有されただけだった。その点に関しては、タウトが専門家の領域を越えて、桂離宮の価値を広めた点は間違いがない。問題は、その広がった領域、広がり方の程度である。

タウトの滞日中、その著書が読まれた層は一般大衆ではなく、古美術や古建築を専門とした読書人、或いは読書人を中心とした当時のインテリ層であり(例えば和辻哲郎のような建築を非専門とする人々)、社会全体からするとその数が多かったわけではない[96]。タウトが喚起した桂離宮ブーム、桂離宮の「発見」というのはこうした読書界の人間の意識を変えた程度のもので、一般大衆までの広がりを持った再認識ではなかった。ただ、彼らは出版メディアに頻繁に登場したので、建築家よりも影響力が強かった。

タウトがこれらの読書人に大きな影響を与えたのには、いくつかの理由があったらしい。1つには、タウトが文章に腕の立つ建築家だったことがある。例えば堀口捨巳はタウトの文章力を評価している[97]。また、日本主義・日本精神という言葉が流行したように、ナショナリズムの高揚していた1930年代にあって、日本文化を称揚する西洋人が現れた事は、彼らにとって心地よいことだったこともあるらしい[98]。特にタウトが国際的に知名度のある西洋人だった点は大きかった[99]

もう1点は、タウトの日本文化称賛の論理が、ステレオタイプ化した日本文化論と同一のものとして理解された点にあったようである[100]。 タウトが日本文化を賞揚した文脈は、明治中期から既に日本国内で流通していた日本人論・日本文化論のステレオタイプ化した論理と必ずしも同じだったわけではなく、そこからのずれを多分に持っていた[101]のだが、実際には、タウトは、ステレオタイプ化した日本人論・日本文化論を繰り返したものとして受容された[102]

作品[編集]

著書[編集]

  • 篠田英雄訳 『日本の家屋と生活』 春秋社、新版2008年。スケッチも多数収録
    • タウト 『日本の家屋と生活』 岩波書店、大判。復刊1995年ほか
  • 篠田英雄訳 『ニッポン ヨーロッパ人の眼で観た』 春秋社、新版2008年
    ※旧版は「タウト著作集」(全5巻)、春秋社
    他は『日本の藝術 ヨーロッパ人の眼で観た』、『建築・藝術・社会』、『日本の建築』
  • 篠田英雄訳 『日本雑記』 中央公論新社中公クラシックス〉、2008年
  • 篠田英雄編訳 『忘れられた日本』 中公文庫(新版)、2007年
  • 篠田英雄訳 『日本美の再発見』 岩波新書旧赤版[注 10]
  • 篠田英雄訳 『建築とは何か(正・続)』 鹿島出版会SD選書
  • 篠田英雄訳 『建築藝術論』 岩波書店(数度重版)
  • 篠田英雄訳 『日本 タウトの日記 1933年-1936年』(岩波書店 全3巻、旧版は全5巻)  
  • 森儁郎〔トシオ〕訳 『日本文化私観 ヨーロッパ人の眼で見た』 講談社学術文庫
  • 森儁郎〔トシオ〕訳 『ニッポン ヨーロッパ人の眼で見た』 講談社学術文庫  
  • 斉藤理訳 『新しい住居 つくり手としての女性』 中央公論美術出版
  • 斉藤理訳 『一住宅』 中央公論美術出版
  • 杉本俊多訳 『都市の冠』 中央公論美術出版、2011年
  • 沢良子監訳・落合桃子訳 『タウト建築論講義』 鹿島出版会、2015年

関連文献[編集]

  • タウト撮影 『タウトが撮ったニッポン』 酒井道夫・沢良子・平木収編著、武蔵野美術大学出版局、2007年
  • 田中辰明・柚本玲 『建築家ブルーノ・タウト-人とその時代、建築、工芸』 オーム社、2010年
  • 田中辰明 『ブルーノ・タウト 日本美を再発見した建築家』 中公新書、2012年-入門書
  • 田中辰明 『ブルーノ・タウトと建築・芸術・社会』 東海大学出版会、2014年
  • 鈴木久雄 『ブルーノ・タウトへの旅』 新樹社、2002年-タウトの足跡・建築物を自ら訪ねた記録
  • 土肥美夫・生松敬三編訳 『ブルーノ・タウトと現代-「アルプス建築」から「桂離宮」へ』 岩波書店、1981年 
  • 土肥美夫 『タウト芸術の旅-アルプス建築への道 <旅とトポスの精神史>』 岩波書店、1986年
  • 高橋英夫 『ブルーノ・タウト』 新潮社、1991年(講談社学術文庫ちくま学芸文庫で再刊)
  • 宮元健次 『桂離宮 ブルーノ・タウトは証言する』 鹿島出版会、1995年
  • 長谷川章 『ブルーノ・タウト研究 ロマン主義から表現主義へ』 ブリュッケ、2017年 

展覧会図録[編集]

  • 『ブルーノ・タウト 桂離宮とユートピア建築』 マンフレッド・シュパイデル監修、ワタリウム美術館編/オクターブ、2007年2月
  • 『ブルーノ・タウト 1880-1938』 マンフレッド・シュパイデル、セゾン美術館(一條彰子、新見隆)編著、トレヴィル、1994年
  • 『ブルーノ・タウトの工芸と絵画』 上毛新聞社出版局、群馬県立歴史博物館編、1989年4月
  • 『建築家ブルーノ・タウトのすべて 日本美の再発見者 Bruno Taut 1880-1938』タウト展委員会編、1984年
    国立国際美術館武蔵野美術大学〈生誕100年記念〉ヨーロッパ・日本巡回展図録
  • 『ブルーノ・タウトの工芸 ニッポンに遺したデザイン』庄子晃子監修・益永研司撮影、LIXIL出版、2013年。ブックレット

日本との関係[編集]

  • 桂離宮日光東照宮を対比させ、前者に日本の伝統美を見出し、『ニッポン』『日本美の再発見』などを著した。数寄屋造りの中にモダニズム建築に通じる近代性があることを評価し、日本人建築家に伝統と近代という問題について大きな影響を与えた。
  • 日向別邸は熱海市に寄贈され、2005年から一般公開、2006年「旧日向家熱海別邸地下室」が重要文化財に指定された。日向別邸はもともと渡辺仁が設計した海を望む和風住宅であったが、地下室部分のインテリアがタウトに依頼された。
  • 高崎市の少林山達磨寺にはブルーノ・タウトが暮らした住居(洗心亭)が残っている[103]
  • 渋谷駅前で忠犬ハチ公を見かけた折、存命中に銅像まで建ったその逸話に感嘆しつつも、自身が残した実績と裏腹に母国では社会的に抹殺された身であることを嘆いている。
  • 群馬県高崎市の創造学園大学内にブルーノ・タウト資料館が、2004年4月より設置され常設展示を行い、また「ブルーノ・タウト賞」を設けた(4回まで)が、経営母体である堀越学園の経営悪化により、2010年8月に資料館は閉館され、展示品は岩波書店に返却された。
  • イスタンブール郊外のベシクタシュ地区オルタキョイに、「タウト・ヴィラ」と呼ばれるタウトの自邸があり、引き戸など、日本滞在中に知った日本建築のディテールが取り入れられていることから「ジャパン・ハウス」とも呼ばれている[104]

脚注[編集]

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[編集]

  1. ^ タウトによると、「グラスハウス」はパウル・シェーアバルトの著書から影響を受けている[8]
  2. ^ カール・レギーン英語版とは、ドイツの社会主義者の名前である。
  3. ^ タウトは、アインシュタインが名誉会長を務めたソヴィエト友好協会の会員でもあった[30]
  4. ^ 娘のエリザベートを通じて、ヒトラーがタウトを逮捕者リストに載せたことを知ったため急きょパリへ逃亡した[31]。これは、エリザベートがフォン・ハマーシュタイン(ドイツ国防省の将官)の娘と親しかったので情報を得られたためである[31]
  5. ^ 元々上野らは、タウトが幻滅を感じるだろうと予想して、タウトに東照宮を見せる気はなかったようだが、その事情を知らない斎藤寅郎牧野正巳からの申し出を断ることができずに了承したものらしい[36]。上野らは、タウトをモダニズム建築家と見ていたのに対して、斎藤らはモダニズム建築ではなく表現主義の建築家、色彩の建築家と理解していた点が異なっていたらしい[37]。斎藤は、東照宮の建築様式は別にしても、その色彩なら気に入ってくれるのではないかと思ってタウトを案内したが、斎藤の予想とは逆の反応になってしまった[38]
  6. ^ タウトは滞日中、英語訳で『徒然草』『方丈記』『奥の細道』『源氏物語』などの古典文学を読んでいる[46]
  7. ^ 『日本美の再発見』と『日本 タウトの日記』は共に篠田英雄によって、それぞれ、1939年と1950年に、岩波書店から、『日本文化私観』は1936年に森儁郎(としお)の翻訳で明治書房より出版された[47]。『日本美の再発見』(原題は『日本美の再発見 建築学的考察』)は、桂離宮伊勢神宮白川郷の農家、秋田の民家などの建築に「最も単純な中に最高の芸術がある」典型であると称賛した本である[48]支那事変開始から2年経過して戦時体制に染まっていた日本で、タウトが天皇家の文化をたたえる、伊勢神宮を褒める、神道を讃える本を出したことは当時の日本政府には好都合だった[48]。この本は岩波新書に加えられたことから広く読まれ、また国威発揚のために文部省推薦図書に指定(1939年9月)された[48][49]
  8. ^ 桂離宮の実測などによって、この頃には建築家たちは既に桂離宮のモダニズム的解釈が正しくないことを理解しており、 世間の風説と専門家の間には大きな溝ができていた。
  9. ^ よく問題になったのが新御殿の一の間上段に設けられている所謂「桂棚」である。一の間上段は、これ自体がデザインに凝った造りになっているだけでなく、そこに設えられている「桂棚」は、違棚、袋棚、厨子棚から成る複雑な形状の棚で多くの銘木を使っている。モダニズム以前の観賞者達はこの棚を高く評価した[91]のに対して、モダニズム以後はこれを、技巧に走り簡素美を台無しにする瑕瑾であるとなじるか、単純に黙殺するようになった[92]
  10. ^ 巻頭に1935年10月30日に国際文化振興会の依嘱で行われた講演記録「日本建築の基礎」を含む。

出典[編集]

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参考文献[編集]

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  • 田中辰明『ブルーノ・タウト 日本を再発見した建築家』中央公論社〈中公新書〉、2012年。ISBN 978-4-12-102169-4

関連項目[編集]