ミハイル・カリーニン
| ミハイル・カリーニン Михаи́л Кали́нин | |
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1920年 | |
| 生年月日 | 1875年11月19日 |
| 出生地 |
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| 没年月日 | 1946年6月3日(70歳没) |
| 死没地 |
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| 所属政党 |
ロシア社会民主労働党 ロシア共産党(ボリシェヴィキ派) ソビエト連邦共産党 |
| 配偶者 | エカテリーナ・カリーニナ |
| サイン |
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| 在任期間 | 1938年1月17日 - 1946年3月17日 |
| 在任期間 | 1922年12月30日 - 1938年1月12日 |
| 在任期間 | 1919年3月30日 - 1938年7月15日 |
ミハイル・イヴァーノヴィチ・カリーニン(ロシア語: Михаи́л Ив́анович Кали́нин, ラテン文字転写: Mikhail Ivanovich Kalinin , 1875年11月19日(ユリウス暦11月7日) - 1946年6月3日)は、ロシアの革命家。ソビエト連邦の政治家。オールド・ボリシェヴィキとしてロシア・ソビエト連邦社会主義共和国とソ連の国家元首にあたるロシア中央執行委員会議長、ソ連中央執行委員会議長、ソ連最高会議幹部会議長を歴任した。
生涯
[編集]1875年11月19日、ロシア帝国時代のトヴェリ(Tverskaya Gubernia)ヴェルフナヤ・トロイツァ村(Верхняя Троица)の農民の子として生まれた。少年時代は地主に雇われ、小学校と地主の家の図書室で学ぶことができた。
1889年、地主の夫人の計らいでサンクトペテルブルクに移り、砲兵工廠、プチロフ工場で旋盤工として勤務した。1891年の16歳の時、プチロフ工場で革命運動に入る。1898年、ロシア社会民主労働党に入党する。1903年の党分裂後は、ウラジーミル・レーニン率いるボリシェヴィキに属する。以後、幾度か当局による逮捕、追放と脱走を経験する。
1919年、党中央委員に選出。同年3月にスペイン風邪で死去したヤーコフ・スヴェルドロフの後任としてロシア中央執行委員会議長に就任する。1922年にソビエト社会主義共和国連邦が正式に発足すると、中央執行委員会議長として第1回ソビエト大会を取り仕切った。1924年6月、党中央委員会政治局員候補に、1926年1月には政治局員に選出された。
1938年まで中央執行委員会議長に在任。同年1月17日、スターリン憲法によって発足した第1期ソ連最高会議の選挙にて初代最高会議幹部会議長に選出されている。なお、同最高会議においてスターリンは肩書なしの一議員[1]として振舞ったが、実質的に最高会議をコントロールする立場にあった。
レーニンはカリーニンを労働者、農民の事情に精通した人物と見なしていた。また、国家元首として週に1回限られた人数ではあったが一般市民と接見し、希望を聞くなどしていた。そのためボリシェヴィキの長老として好々爺然とした風貌もあいまって、大粛清が始まると、カリーニンには多数の請願が寄せられた。カリーニンはしばしば裁判に介入して無辜の人々を救済し、「愛しき父親、スターリン」に対して「親切な祖父、カリーニン」と親しまれた。一方で、大粛清やカティンの森事件の指令書に公式に署名している。大粛清において、スターリンは当時まで生存していた革命時代の元勲を自身の脅威と見なし、そのほとんどを追放・処刑していた。その中でカリーニンはソ連成立初期から実権の無い国家元首という名誉職にあって権力闘争から遠ざかっていたことから自身は粛清対象とはならずに命脈を保ったものの、夫人のエカテリーナ・カリーニナはトロツキストの容疑で強制収容所に送り込まれている。第二次世界大戦直後にエカテリーナは釈放されたが、その後も国内で軟禁状態に置かれ、スターリンの死の翌年であり、カリーニンの死後8年経った1954年にようやく名誉回復となった。
カリーニンは大腸癌で1946年6月3日にモスクワにて死去した。国葬が執り行われ、遺体はクレムリンの壁墓所に埋葬されている。
ヴォルガ川沿いの都市トヴェリは1931年から1990年までは「カリーニン」に改名された。また、1945年、ソ連に占領・編入された東プロイセンのケーニヒスベルクはカリーニングラードと改名され、ソ連・ロシア領となった東プロイセン北部はカリーニングラード州と命名された。
脚注
[編集]- ^ 最高会議議長にカリーニン選出『大阪毎日新聞』(昭和13年1月19日夕刊)『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p344 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
関連項目
[編集]- 金永南 - 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)で名目上の国家元首にあたる最高人民会議常任委員会委員長を務めた人物。金日成・金正日・金正恩の三代にわたって要職を務め上げ、金一族による独裁体制下にある北朝鮮で相次いだ粛清においても名誉職にあって権力闘争から遠ざかっていたことが幸いして命脈を保った。
| 公職 | ||
|---|---|---|
| 先代 ミハイル・ウラジーミルスキー 中央執行委員会議長代行 |
中央執行委員会議長 第4代:1919年 - 1938年 |
次代 アンドレイ・ジダーノフ 最高会議幹部会議長 |
| 先代 連邦の結成 |
初代︰1922年 - 1938年 |
次代 自分自身 |
| 先代 自分自身 中央執行委員会議長 |
初代︰1938年 - 1946年 |
次代 ニコライ・シュヴェルニク |