日英通商航海条約

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日英通商航海條約
Anglo Japanese Treaty of Commerce and Navigation 16 July 1894.jpg
通称・略称 陸奥条約
署名 1894年7月16日[1]
署名場所 ロンドン
発効 1899年7月17日
(第17条のみ1897年1月4日
締約国 日本[2]イギリス[2]
主な内容
条文リンク 通商航海條約 - 国立国会図書館デジタルコレクション
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日英通商航海条約(にちえいつうしょうこうかいじょうやく、英語: Treaty of Commerce and Navigation between Great Britain and Japan)は、1894年に締結された日本イギリスの通商条約[2]

1894年7月16日に駐英日本公使青木周蔵と、英外相キンバーリーによって調印された[1]

領事裁判権と協定関税率を定めた幕末日英修好通商条約を改訂したものであり、この条約の締結により日本は維新以来最大の懸案だった条約改正に成功した[2]

日英通商修好航海条約(にちえいつうしょうしゅうこうこうかいじょうやく)ともいう。

概要[編集]

日本政府明治初期から取り組んでいた各国との不平等条約の改正交渉の結果、ようやく達成できた最初の改正条約である。安政五カ国条約締結以来、日本政府の悲願だった領事裁判権の撤廃がなされた。この条約締結におけるイギリス側の目的はロシア帝国の南下政策に対抗するために日本の軍事力に期待したものであった。本文は22箇条よりなる。内容は内地開放を代償として領事裁判権を撤廃したこと、関税自主権を部分的に回復したこと、片務的であった最恵国待遇を相互的とする、などであった。調印の際、英国外相キンバーリー伯は、青木公使に対し「日英間に対等条約が成立したことは、日本の国際的地位を向上させるうえで清国の何万の軍を撃破したことよりも重大なことだろう」と語っている[3]。また、この条約の成立によって日本陸軍はイギリスの日本接近を確認したので、日清戦争の開戦を決意したともいわれている[4]

以降、1894年(明治27年)から翌1895年(明治28年)にかけて同内容の条約をアメリカフランスドイツロシアオランダイタリアなど14カ国とも調印した。これにより、日本は法権のうえでは欧米列国と対等の関係に入った。しかし、もう一つの悲願である関税自主権回復はこの条約では成し得ず、イギリスからの輸入品の約70パーセントは協定税率の束縛を受けることとなった。この時点では法権回復(領事裁判権撤廃)を主目的とし、税権(関税自主権)については一部回復を目指したので、当初の目的は達成されたことになる。

この条約は、調印当時の外務大臣陸奥宗光の名をとり、陸奥条約とも呼ばれる。1899年(明治32年)から実施され、12年間有効とされた。以降、日本は内地雑居に踏み切ることとなった。

なお、その後、桂太郎を首班とする第2次桂内閣の外務大臣小村寿太郎は、この条約が満期となるのを契機に関税自主権回復に乗り出し、1911年(明治44年)2月21日、対アメリカとの日米通商航海条約改正時に関税自主権の完全回復を達成した。イギリスとの新通商航海条約は、同年4月3日に調印され、7月17日に発効した[5]

1941年昭和16年)7月26日、イギリスおよびイギリス連邦各国より日本に対し本条約の破棄が通告され効力を失った。日本が英米に宣戦布告し、第二次世界大戦に参戦するのは、この年の12月のことである。

脚注[編集]

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  1. ^ a b 日本大百科全書. “日英通商航海条約” (日本語). コトバンク. 2021年1月11日閲覧。
  2. ^ a b c d 世界大百科事典. “日英通商航海条約” (日本語). コトバンク. 2021年1月11日閲覧。
  3. ^ 臼井(1986)p.639
  4. ^ 藤村(1989)pp.82-83
  5. ^ 『20世紀全記録(クロニック)』(1987)p.161

参考文献[編集]

  • 臼井勝美「条約改正」『国史大辞典第7巻 しな-しん』国史大辞典編集委員会、吉川弘文館、1986年11月。ISBN 4642005072
  • 講談社編集(企画委員:小松左京堺屋太一立花隆)『20世紀全記録(クロニック)』講談社、1987年10月。ISBN 4-06-202-662-7
  • 藤村道生「条約改正-国家主権の回復」『朝日百科日本の歴史10 近代Ⅰ』野上毅、朝日新聞社、1989年4月。ISBN 4-02-380007-4

関連項目[編集]

外部リンク[編集]