四カ国条約
太平洋方面ニ於ケル島嶼タル属地及島嶼タル領地ニ関スル四国条約並同条約追加協定 | |
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通称・略称 | 四カ国条約 |
署名 |
条約:1921年12月13日 追加協定:1922年2月6日 |
署名場所 | ワシントンD.C. |
発効 | 1923年8月17日 |
締約国 |
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寄託者 | アメリカ合衆国連邦政府 |
文献情報 | 大正12年8月17日官報号外条約第3号 |
言語 | フランス語、英語 |
主な内容 | 太平洋の島々における相互の権利尊重と現状維持をはかる[1] |
条文リンク | 条約本文 - 国立国会図書館デジタルコレクション |
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四カ国条約(しかこくじょうやく、英語: Four-Power Treaty)、正式名称:太平洋方面ニ於ケル島嶼タル属地及島嶼タル領地ニ関スル四国条約並同条約追加協定(たいへいようほうめんニおケルとうしょタルぞくちおよびとうしょタルりょうちニかんスルよんごくじょうやくならびにどうじょうやくついかきょうてい)は、ワシントン会議において、アメリカ合衆国の主導により、1921年(大正10年)12月13日にアメリカ合衆国、イギリス、日本、フランスの間で調印された条約[1]。有効期間は10年で太平洋の島々における相互の権利尊重と現状維持をはかった。1923年(大正12年)8月17日に発効[2]するとともに日英同盟は破棄された[1]。
なお、4か国条約と表記することもある[3]。
概要[編集]
第一次世界大戦とロシア革命によってアジア・太平洋地域の勢力関係に変化が生じたところから、大戦の戦勝国であるアメリカ・イギリス・日本・フランスの4か国で協議の場が設けられた。四カ国条約により、各国が太平洋方面にもつ属地や領土・権益の相互尊重、および、それに起因する国際問題の平和的処理の仕方について定められた。この条約により、1902年(明治35年)以来約20年間にわたって日本の大陸政策を支えてきた日英同盟の更新はなされなかった。
背景[編集]
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第一次世界大戦において日本が連合国5大国の一国となり、戦後にヴェルサイユ条約により山東省の権益と、アメリカ領フィリピンとハワイの間に位置するパラオやマーシャル諸島の統治権を得たことや、シベリア出兵を続けるなど、アジア太平洋地域においてアメリカの利権に影響を与え出したことに対して、アメリカ国内で日本に対する脅威論が支持を受けた。
さらにこれに後押しされた人種差別的指向を持つ諸派が「黄禍論」を唱え、1913年カリフォルニア州ではいわゆる外国人土地法が成立している。また四カ国条約締結後であるが、1924年に排日移民法が制定され、日本からアメリカへの移民も禁止された。
日英同盟の解消[編集]
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アメリカは、太平洋地域に権益を持つ自国と日本、イギリス、フランスとの間における太平洋における領土と権益の相互尊重と、諸島における非軍事基地化を取り決めた「四カ国条約」の締結を提唱し、同盟国であり歴史的に関係の深いイギリスにこれを強く進言した[要出典]。 日本を5大国の一国に押し上げる原動力の1つとなった日英同盟を妨害する意図があったとも言われる。
結果的に1921年に「四カ国条約」が締結され、満期の来た日英同盟は更新されなかった。これは二国間同盟に基礎を置く排他的敵対的な安全保障体制から多国間安全保障体制への発展であるとして「発展的解消」とも言われる。 日本は同盟国が不在の状態になったが、日英同盟において対米戦は参戦条項の適用外であり、対米関係において参戦を義務付けられた同盟国は元々存在しない状態ではあった。のちに日英開戦時のイギリス首相のウィンストン・チャーチルは日英同盟解消を後悔していた[要出典]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
- ワシントン会議 (1922年)
- 価値観外交(自由と繁栄の弧) - 日米豪印戦略対話(対象は同四カ国条約の日本、冷戦以降のソ連・ロシアに引き続いて21世紀以降国力を伸ばした中華人民共和国) - セキュリティダイヤモンド構想