日支共同防敵軍事協定

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日支陸軍共同防敵軍事協定
署名 1918年大正7年)5月16日
署名場所 北京
締約国 大日本帝国の旗 大日本帝国
中華民国の旗 中華民国
言語 日本語、中国語
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日支海軍共同防敵軍事協定
署名 1918年大正7年)5月19日
署名場所 北京
締約国 大日本帝国の旗 大日本帝国
中華民国の旗 中華民国
言語 日本語、中国語
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日支共同防敵軍事協定(にっしきょうどうぼうてきぐんじきょうてい)とは、1918年大正7年)、日本中華民国(当時の日本側による呼称は「支那共和国」)の間に結ばれた軍事協定である。日中共同防敵軍事協定日華共同防敵軍事協定とも呼ばれる。中国側の名称は中日共同防敵軍事協定

概要[編集]

協定締結の背景には、1917年8月14日に中国の段祺瑞内閣がドイツオーストリアに宣戦布告し、第一次世界大戦に参戦したことがある。これにより、日中は独墺を共通の敵とすることになった。また、同年11月のロシア十月革命によってロシアではウラジーミル・レーニンが率いるボリシェヴィキ政権へと代わると、連合国は共産勢力の脅威を宣伝した。

この頃から、日本では田中義一参謀次長を中心に軍事協定の締結、さらには日中同盟や武器統一、各種事業合弁が模索された。1918年1月4日、奉天省の中央銀行とも言うべき東三省官銀の発行していた奉天票が、銀との交換を停止し不換紙幣となってしまった[1]。1918年1月下旬には、在北京の日本人武官に対し、日中協定の締結を急ぐこと、中国側から発意させることを訓電した。

1918年3月3日に連合国を無視した対独単独講和となるブレスト=リトフスク条約(ドイツ=ロシア講和条約)の締結および同年3月16日の批准がなされると、ドイツの勢力がシベリア方面にも蔓延し、極東の安全を脅かす恐れが生じた (ビヨルケの密約という前例がある)。また中国側も、当時ロシアの勢力下にあった北満洲および外蒙古などの辺境の安全を懸念するようになった。

同年3月8日、寺内正毅内閣は協定の成立を図る旨の閣議決定をし、中国側に伝えられた。3月25日、東京において中華民国特命全権公使の章宗祥と日本の外務大臣本野一郎との間の交換公文により、日支間の共同防敵で意見が一致した。これは中華民国側が提案し、日本側がそれを受け入れたという形になっている。

しかし日本側代表の本野は公文交換1ヵ月後の4月23日、病気(胃がん)を理由に外務大臣を辞任し、同年9月17日に死去することになり、本協定の締結に立ち会うことはできなかった。

北京において同年5月16日に日支陸軍共同防敵軍事協定が、同年5月19日に日支海軍共同防敵軍事協定及びその説明書が結ばれた。陸軍協定については、同年9月6日に詳細協定が結ばれた。同年9月28日には、協同動作のために、日本が中国へ参戦借款を提供する契約が結ばれた[2]

1919年1月18日からパリ講和会議が開会されたため、2月5日に陸軍協定の、3月1日に海軍協定の終了時期が明確化された。

協定失効条件は、「独墺敵国ニ対スル戦争状態終了ノ時」とされていたが、この協定はロシアの赤軍勢力を見据えたものとも言われる。1917年12月より、ハルピンにおいて、ホルバート将軍ロシア語版と中国政府が、ソビエト勢力の取り締まりを始めていた[3]。また、1918年2月には、日本がブラゴヴェシチェンスクの日本人居留民に義勇自警団を組織させ反革命軍を支援していた[4]。その他、1918年3月6日より、ロシア白軍は中国国境付近のブラゴヴェシチェンスクガモフの反乱ロシア語版を起こしたため、赤軍が近くに集結していた。

脚注[編集]

  1. ^ 不換紙幣の標本奉天票 金と物どう動く 東京朝日新聞 1926年5月30日 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫
  2. ^ 参戦借款内容 日支両国にて発表 東京電話 大阪朝日新聞 1919年4月8日 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫
  3. ^ 原暉之「シベリア・極東ロシアにおける十月革命」『スラヴ研究』第24巻、北海道大学スラブ研究センター、1979年7月、75-125頁、ISSN 05626579NAID 110001240325 
  4. ^ 井竿富雄「陸軍におけるシベリア出兵構想の変容」『政治研究』第48巻、九州大学法学部政治研究室、2001年3月、31-54頁、doi:10.15017/16381ISSN 02898357NAID 120001875198 

参考文献[編集]

関連文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]