田中芳男

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田中 芳男
人物情報
別名 芳介(幼名
生誕 (1838-09-27) 1838年9月27日天保9年8月9日
信濃国伊那郡飯田中荒町(現:長野県飯田市
死没 (1916-06-22) 1916年6月22日(77歳没)
東京府東京市本郷区金助町(現:東京都文京区本郷
国籍 日本の旗 日本
配偶者 ゑい(三沢良益養女)
両親 隆三(父)、ツマ(母)
子供 礫三郎(養子・奥村邦秀三男)、節三郎(養子・後藤多美雄三男)、奈津(長女・節三郎妻)、睦子(次女・辻太郎妻)、冬子(三女・井村大吉妻)、秋子(四女・柘植六郎妻)、五一(次男)、美穂(六女・関屋竜吉妻)
学問
研究分野 物産学、博物学
研究機関 蕃書調所→洋書調所→開成所
影響を
受けた人物
伊藤圭介
学会 帝国学士院
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田中 芳男

選挙区勅選議員
在任期間 1890年9月29日 - 1916年6月22日

在任期間 1883年6月25日 - 1890年10月20日
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田中 芳男(たなか よしお、天保9年8月9日1838年9月27日) - 大正5年(1916年6月22日)は、幕末から明治期に活躍した博物学者、物産学者、農学者園芸学者錦鶏間祗候男爵

明治期に動物園植物園を構想し、上野で実現。「博物館」という名称を生み出し、殖産興業の指導に尽力、基礎博物学の啓蒙に努めた。パリで行われた第4回万国博覧会、ウィーン万国博覧会に責任者として派遣される。元老院議官、貴族院議員、大日本山林会会長、日本園芸会副会長を歴任している。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

1838年(天保9年)8月9日、信濃国伊那郡飯田城下の中荒町(現在の長野県飯田市中央通り)に旗本千村氏[1]の典医を務める医師田中隆三(号:如水)の三男として生まれた。隆三は1834年長崎に留学して蘭学を修めており、医学のみならず本草学、舎密学(化学)などにも関心が深く、芳男もその影響を強く受けることになった。また、隆三は芳男に漢学を身に着けさせ、特に「人の人たる道は、この世に生まれたからには自分相応の事をして世用を為さねばならない」と教え諭した[2]

晩年の伊藤圭介

1856年(安政3年)秋、名古屋に出て尾張藩御典医で博物館者としても著名であった伊藤圭介の門下に入り、千村五郎柳河春三らと共に書生として種痘などの西洋医学を身に着けたほか、博物学や本草学を学んだ。しかし、1858年に家督を継ぐ立場である兄が病死したことから、故郷の飯田に帰った。ただ、自宅で本草学や博物学の研究を行ったり、時には名古屋に出て伊藤圭介のもとで学問をしていたという[3]

幕府に仕える[編集]

1862年(文久2年)、伊藤圭介が幕府の蕃書調所(間もなく洋書調所に改組)に招聘を受けることなり、芳男はその助手として出仕し、物産学・本草学の研究開発に当たることとなった[4]。芳男のその後の述懐によると、この際採用された人物の多くは師である伊藤圭介を含めて殖産学、特にダイコンニンジンゴボウなどといった日用の産物には関心がなく、芳男が物産所でもっぱらこの研究に従事することとなったという[5]。この間、圭介の伴をしてシーボルトを訪ねている[6]。開成所付置の物産所で殖産興業の発展を探った。その後師は高齢により職を辞して故郷に帰り、その後任となった。1865年慶応元年)、幕府はパリ万国博覧会に正式参加表明し、万博に昆虫標本の出品を決定することとなった。翌1866年(慶応2年)、芳男は幕府からパリ万国博覧会への出張と昆虫標本採集と製作を命じられ、関東一円に赴き博物学者の子阿部為任と採集を行った。同年11月、パリに向けて出港し、シンガポールやスエズ運河を経由して到着している。1867年(慶応3年)、パリ万国博覧会に出張。自ら採集した昆虫標本が現地の研究者に高く評価された[7]

明治政府の官僚として[編集]

1867年(慶応3年)帰国した。翌年には戊辰戦争が起こり、5月には上野戦争があったが、芳男はこれには関わらず、研究や整理に没頭した。

東京が明治新政府の所有となると、洋書調所は開成所に解消され、芳男は御用掛として任命されて大阪舎密局の建設に従事した[8]。大阪の大阪城跡地に理化学専門の高等教育研究機関「舎密局」開設準備にとりかかるが、舎密(けみ)局と呼ばれたこの施設を、科学だけでなく物理学等その他の自然科学全般を研究対象にする組織機関として、博物館、という名称を提案する。さらにこのとき植物園や温室などを附設することを提言、この施設を「遊歩所」、「園囿」と名づけている。この施設の構想案では7つのゾーンに分割し、幾何学的洋風庭園など、今日のリサーチパーク的な植物施設を構想している[9]

1869年明治2年)5月、舎密局は開設されるが、予算の関係上他の施設は実現できなかった[10]

1870年(明治3年)3月、大学南校物産局に転任となり、東京に戻った[11]。ここでは後に博物館の創設に共に従事する町田久成と同僚となっている。

1870年(明治3年)[年号要検証]、物産局を創設。のち勧業寮、農商務省、農林省・商工省、通産省を経て経済産業省に発展する。また、物産会すなわち殖産興業を主な目的とした博覧会の開催に度々かかわる。

1872年(明治5年)、九段坂上招魂社境内で小規模博覧会(物産展)を実施。この年文部省が発足、湯島聖堂(旧幕府昌平坂学問所)が文部省所轄となり、文部省博物館として改組、物産展の展示物収用されると同時に同博物館に移籍した。同年東京府に、園樹の植え替え付につき建議を提出(造園修景大辞典5巻による)。

1872年4月(明治5年3月)、翌年開催のウィーン万国博覧会への公式参加に伴い、全国各地から取り寄せた出品予定品を公開するため、湯島聖堂大成殿で博覧会を実施する。

湯島聖堂で行われた博覧会のスタッフ達。前列右から2番目が田中芳男、4番目が町田久成。

1873年佐野常民らともにオーストリア・ウィーンで開催されたウィーン万国博覧会に派遣される。

1875年(明治8年)、博物館、動物園などをもつ公園の設立に尽力し、上野の博物館・動物園の建設のために町田久成らとともに力を注いだ。町田が初代博物館長を務め、後に田中が職に就く。こうして上野公園設計に携わり、博物館と動物園を設置した。

同年刊行された田中芳男訳纂『動物学初篇哺乳類』は簡略な図解であるが、分類階級の訳語として、classに「」、orderに「」、familyに「」、genusに「」、speciesに「」の訳を用い(磯野1986)、これが今日に及んだ[12]

飯田市街地にある田中芳男顕彰碑の傍らにあるビワの1品種「田中」。田中芳男が長崎で食べたものを持ち帰り、自宅で栽培したことが始まりとされ、現在も愛媛県や千葉県等で栽培されている

農商務省博物局長を務めた後、省を退職し、元老院議官、貴族院議員などの任に就く。

1878年(明治11年)駒場農学校の設立に参画する。1881年(明治14年)大日本農会結成に参画し、1882年に大日本水産会と大日本山林会の創設に尽して日本での農学と農林水産業の発展に貢献。

1890年(明治23年)

1893年(明治26年)、日本園芸会副会長として、小平義近らと日比谷公園設計案を提出したが採用されず。

1915年大正4年)12月1日、男爵を叙爵[15]。生涯、農林水産業や博物学の発展振興につとめた。 1916年(大正5年)6月22日、東京市本郷区本郷金助町(現在の東京都文京区本郷三丁目)で永眠。墓所は谷中霊園にある。

田中芳男の顕彰[編集]

飯田市美術博物館にある田中芳男の胸像
  • 1999年(平成11年)9月に、飯田市美術博物館で開催された「田中芳男展」に契機に、平成12年4月に「田中芳男を知る会」が設立され、年6回の学習会や出版活動、市公民館で関連資料の展示などが行われるようになった[16][17]
  • 2007年(平成19年)に、飯田市の有志により「田中芳男の胸像等制作を願う会」が設立され、飯田市美術博物館および国立科学博物館に設置する田中芳男の胸像制作のための募金活動が始まった[18]2008年(平成20年)に、田中芳男の生誕百七十周年と飯田市美術博物館の開館二十周年を記念して、両館への寄贈を実現させた[19]
  • 2016年(平成28年)8月30日〜9月25日、国立科学博物館で没後100年記念企画展開催。前日には、胸像の除幕式が行われた[20]

係累[編集]

栄典[編集]

飯田市街地にある田中芳男とその弟・義廉の顕彰碑
東京・谷中霊園にある田中芳男の墓
位階
勲章等
外国勲章佩用允許

著作[編集]

  • 田中芳男氏昔日談」(名和昆虫研究所編輯部編 『昆虫標本製作全書』 名和昆虫研究所、1903年8月)
  • 「維新前の昆虫学等に就て」(『博物之友』第5年第28号、日本博物学同志会、1905年9月)
  • 田中芳男君の経歴談」(後掲 『田中芳男君七六展覧会記念誌』)
    • 前掲 『日本科学技術史大系 第15巻 生物科学』 - 抄録
    • 東京国立博物館編 『東京国立博物館百年史 資料編』 東京国立博物館、1973年3月
    • 後掲 『田中芳男十話・田中芳男経歴談』
    • 青木豊、山本哲也編 『大正・昭和前期 博物館学基本文献集成 上』 雄山閣、2016年4月、ISBN 9784639024187
  • 「田中芳男君演」(『大日本山林会報』第401号、1916年4月)
    • 後掲 『田中芳男十話・田中芳男経歴談』
  • 『田中芳男のサボテン研究』 奥一、1956年6月
  • 長沼雅子 「田中芳男『博覧会日記全』(一)」(『伊那』第826号、伊那史学会、1997年3月)、「田中芳男『博覧会日記全』(二)」(第828号、1997年5月)
  • 田中義信 「田中芳男自筆『田中芳男履歴年表』解説と翻刻」(『飯田市美術博物館研究紀要』第14号、2004年4月、NAID 110008448270
  • 橋詰文彦 「田中芳男『信州諸山採薬記』」(『信濃』第53巻第2号、信濃史学会、2001年2月、NAID 40001602978
著書・編書
訳書
  • 泰西訓蒙図解』上下、文部省、明治4年12月(1872年)
  • 林娜氏植物綱目表』 文部省博物局、明治5年8月(1872年)
    • 前掲 『日本科学技術史大系 第15巻 生物科学』 - 抄録。
  • 垤甘度爾列氏植物自然分科表』 文部省博物局、明治5年10月(1872年)
    • 『垤甘度爾列氏植物自然分科表』 文部省博物局、1875年12月校訂
    • 前掲 『日本科学技術史大系 第15巻 生物科学』 - 校訂版の抄録。
  • 動物学初編』上下、博物館、1874年11月
    • 前掲 『日本科学技術史大系 第15巻 生物科学』 - 抄録。
    • 青木國夫ほか編 『江戸科学古典叢書 34』 恒和出版、1982年1月
  • 学業捷径初編』上下、成島謙吉同訳、田中芳男、1875年3月
論文

脚注[編集]

  1. ^ 美濃国久々利領主で信濃国伊那郡天領預地を領する
  2. ^ みやじま 1983, p. 4.
  3. ^ みやじま 1983, p. 8.
  4. ^ みやじま 1983, p. 14.
  5. ^ みやじま 1983, p. 15.
  6. ^ みやじま 1983, p. 16.
  7. ^ みやじま 1983, p. 34.
  8. ^ みやじま 1983, p. 36.
  9. ^ みやじま 1983, p. 40.
  10. ^ みやじま 1983, p. 41.
  11. ^ 村沢 1978, p. 21.
  12. ^ 磯野直秀 1986
  13. ^ 『官報』第2182号、明治23年10月6日。
  14. ^ 『官報』第2195号、明治23年10月22日。
  15. ^ 『官報』第1001号、大正4年12月2日。
  16. ^ 『田中芳男十話』改訂版 あとがき 2008年6月29日
  17. ^ 『信濃毎日新聞』2000年(平成12年)4月20日 19面
  18. ^ 『信濃毎日新聞』2007年(平成19年)9月29日 30面
  19. ^ 『信濃毎日新聞』2010年(平成22年)2月10日 25面
  20. ^ 企画展「没後100年記念 田中芳男 ―日本の博物館を築いた男―」開催ならびに関係者・プレス内覧会実施のお知らせ (PDF)”. 国立科学博物館 (2016年8月9日). 2017年6月12日閲覧。
  21. ^ 「伊那史叢説」第三編
  22. ^ 『太政官日誌』明治9年1月-6月
  23. ^ 『官報』 第14号「叙任」1883年7月17日。
  24. ^ 『官報』第3266号「叙任及辞令」1894年5月22日。
  25. ^ 『官報』第4301号「叙任及辞令」1897年10月30日。
  26. ^ 『官報』第565号「叙任及辞令」1914年6月19日。
  27. ^ 『官報』第1168号「叙任及辞令」1916年6月23日。
  28. ^ 『官報』第154号「賞勲」1884年1月7日。
  29. ^ 『官報』第718号「賞勲叙任」1885年11月20日。
  30. ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
  31. ^ 『官報』第2205号「彙報 - 官庁事項 - 褒章 - 藍綬褒章下賜」1890年11月4日。
  32. ^ 『官報』第3823号「叙任及辞令」1896年3月31日。
  33. ^ 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
  34. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  35. ^ 『官報』第1001号「叙任及辞令」1915年12月2日。
  36. ^ a b c 田中芳男」(日本史籍協会編輯 『百官履歴 下巻』 日本史籍協会、1928年2月)。

参考文献[編集]

関連文献[編集]

外部リンク[編集]


その他の役職
先代:
幹事長
高橋仲次
大日本山林会
1915年 - 1916年
幹事長
1895年 - 1915年
次代:
後藤守正
先代:
幹事長
富田鐵之助
大日本農会副会頭
1902年 - 1904年
幹事長
1900年 - 1902年
次代:
三島弥太郎
先代:
村田保
大日本水産会幹事長
1896年 - 1899年
次代:
松原新之助
先代:
宮島信吉
品川弥二郎
大日本農会幹事長
1891年 - 1893年
1885年 - 1889年
次代:
前田正名
宮島信吉
日本の爵位
先代:
叙爵
男爵
田中(芳男)家初代
1915年 - 1916年
次代:
田中美津男