高木正得

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高木 正得(たかぎ まさなり、1894年1月20日 - 1948年)は、日本昆虫学者貴族院議員、子爵

生涯[ソースを編集]

河内丹南藩の最後の藩主高木正善の子として生まれる。1920年(大正9年)2月、父正善の死去により、家督を相続、子爵となる。1922年(大正11年)、東京帝国大学理学部動物学科を卒業する。その後、東京帝国大学大学院修了。昆虫学、寄生虫学を専攻。1932年(昭和7年)4月、補欠選挙で貴族院議員に当選する。1947年5月まで在職する。

貴族院議員や司法参与官を歴任。公務の傍ら、チョウカミキリムシを研究。昭和初期には、秋田県の官民共有林の払い下げを巡って詐欺的行為を働き、告訴を辛うじて免れて名古屋市に移住したといわれる[1]。名古屋では生活に窮し、風船売りで生計を立てたこともある[1]

戦後は東京都渋谷区関東女子高等学校(現在の関東国際高等学校)に奉職。しかし、1948年7月8日、「呉れゞゝも捜してはいけません。無駄です。自然に融合して還元するのみ」との遺書を残し、昆虫採集用の青酸カリを持ち出して失踪、大騒ぎになった。貴重な研究資料だった蔵書や昆虫標本類を戦災でことごとく焼失した上、それらを集め直すことが華族制度廃止で不可能になった悲しみと絶望が失踪の理由だったのではないかと邦子夫人は推測した。

1948年11月1日奥多摩雲取山中にて白骨死体となって発見された。縊死と考えられている。奥多摩は、かつて足繁く昆虫採集に通った思い出の地だった。

邦子夫人の弟は、昭和天皇侍従長随筆家入江相政。家督は長女・衣子の夫である高木正順(男爵木越安綱の七男)が継いだ。次女の百合子三笠宮崇仁親王妃となった。

脚注[ソースを編集]

  1. ^ a b 千田稔『明治・大正・昭和 華族事件録』p.343(新人物往来社、2002年)

参考文献[ソースを編集]