パリ万国博覧会 (1867年)

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パリ万博のイラスト
日本の派遣団
万博に参加した日本の軽業師の練習風景

1867年のパリ万国博覧会(せんはっぴゃくろくじゅうななねんのパリばんこくはくらんかい, Exposition Universelle de Paris 1867, Expo 1867)は、1867年4月1日から11月3日までフランスパリで開催された国際博覧会である。42ヶ国が参加し、会期中1500万人が来場した。

概要[ソースを編集]

パリで開催された国際博覧会では2回目となる。日本が初めて参加した国際博覧会であり、江戸幕府薩摩藩佐賀藩がそれぞれ出展した。幕府からは将軍徳川慶喜の弟で御三卿清水家当主の徳川昭武、薩摩藩からは家老の岩下方平らが派遣された。

薩摩藩は「日本薩摩琉球国太守政府」の名で幕府とは別に展示し、独自の勲章薩摩琉球国勲章)まで作成した。幕府は薩摩藩に抗議したが聞き入れられず、幕末の政争が如実に現れた万博となった。この時、幕府もフランスで勲章外交を行うために独自の勲章制作を開始したが、結局幕府は倒れ、幻となった(葵勲章)。

一方、薩摩藩は、幕府が財政的に逼迫しており、幕府軍の出展目的の1つとしてあげられていたヨーロッパ諸国からの金員の借り入れを阻止する為に、敢えて藩として出展する形を採ったのである。 薩摩藩は、博覧会中にヨーロッパ諸国に対して、幕府側に金員の貸し付けを断るように水面下で調整し、結果として幕府への貸し付けはことごとく断られる結果となった。

薩摩藩が、なぜ博覧会に出展するほどの財力をなしていたかというと、当時の山川港にて、幕府に隠れて密貿易を実施していたからであった。 山川港は、水深50m以上の火山湖から港湾化された良港であり、当時の貧弱な湾岸工事でも、大型船を受け入れることができたことは好都合であった。

薩摩藩の国際的な感覚と交易は、藩士らが故島津斉彬の考えを引き継いだものであった。奇しくも日英戦争を経験することになった薩摩藩と長州藩が、後に開国へ協力することになるわけである。

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