徳川厚
| 德川 厚 とくがわ あつし | |
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『華族画報』に掲載された写真 | |
| 生年月日 | 1874年2月21日 |
| 没年月日 | 1930年6月12日(56歳没) |
| 出身校 | 学習院卒業 |
| 前職 | 東明火災海上保険取締役 |
| 配偶者 | 徳川里子 |
| 子女 |
長男・徳川喜翰 次男・大木喜福 |
| 親族 |
父・徳川慶喜(征夷大将軍・貴族院議員) 義父・松平慶永(大蔵卿) 義兄・徳川達孝(貴族院議員) 弟・池田仲博(貴族院議員) 弟・徳川慶久(貴族院議員) 弟・徳川誠(貴族院議員) 義弟・徳川圀順(貴族院議長) 義弟・蜂須賀正韶(貴族院副議長) 義弟・大河内輝耕(貴族院議員) 義弟・四条隆愛(貴族院議員) 義弟・毛利五郎(貴族院議員) 義弟・三条公美(貴族院議員) 義弟・松平慶民(宮内大臣) 義弟・徳川義親(貴族院議員) 甥・徳川慶光(貴族院議員) 甥・朽木綱博(貴族院議員) 甥・四条隆徳(貴族院議員) 甥・蜂須賀正氏(貴族院議員) 従兄・徳川篤敬(貴族院議員) |
| 選挙区 | (男爵議員) |
| 当選回数 | 3回 |
| 在任期間 | 1904年7月10日 - 1925年7月9日 |
德川 厚(とくがわ あつし、1874年〈明治7年〉2月21日 - 1930年〈昭和5年〉6月12日[1])は、日本の実業家、政治家、名望家[2]。爵位は男爵。号は龍山。新字体で徳川 厚(とくがわ あつし)とも表記される。
来歴
[編集]生い立ち
[編集]江戸幕府第15代将軍であった德川慶喜の四男として生まれた。母は側室の中根幸。小林与七郎のもとに預けられる。兄の夭折により、慶喜の事実上の長男として育てられた。1882年(明治15年)11月に9歳で德川宗家から分家し、華族に列した。なお、德川宗家自体の家督は、1868年(明治元年)の時点で既に慶喜から德川家達に譲られている。
1884年(明治17年)7月7日、華族令に伴って男爵に叙せられる。なお後年になって、慶喜が公爵に叙され新たに徳川慶喜家を興すが、こちらの家督は厚の弟である德川慶久が継いでいる。そのほかの弟には、徳川慶喜家から分家した德川誠や、勝海舟(伯爵)の家を継いだ勝精などがいる。
実業家として
[編集]1887年(明治20年)3月、弟・博(後の池田仲博)とともに静岡から東京に移り、4月、学習院に入学する。1888年(明治21年)7月、学習院を卒業する。1895年(明治28年)12月、旧越前福井藩主である松平春嶽の六女・里子と結婚する。1904年(明治37年)の第3回貴族院男爵議員選挙にて選出され、同年7月10日に貴族院議員に就任した[3]。以来、1911年(明治44年)の第4回貴族院男爵議員選挙[4]、1918年(大正7年)の第5回貴族院男爵選挙でも再選され[5]、1925年(大正14年)7月9日まで貴族院議員を務めた[1]。また、東明火災保険(後に東京海上火災に合併)取締役も務めた。1927年(昭和2年)5月、隠居し、長男・喜翰に家督を譲った。墓所は東京都台東区上野の寛永寺。
ひき逃げ事件
[編集]1917年(大正6年)12月に運転免許状を取り、厚は自ら自動車を運転していた。1918年(大正7年)3月7日の夕方、帝国ホテルで食事をしてかなりの酒を飲んだ。帰途も自ら運転を行い、酩酊していたため自宅とは違う方向に走らせていた。煮豆屋の屋台にぶつかり、屋台を引いていた男が左大腿部に全治3週間の重傷を負った。厚はそのまま自動車を運転して現場を離れるも、通行人が警察に届けてほどなく取り押さえられる。厚は酩酊していてまともに返答できなかった。3月10日、警視庁は飲酒運転の廉で運転免許状の返納を命じる。16日、右側通行が道路取締役規則に違反しているとして、警視庁は10円の過料処分に付した[6]。
人物
[編集]「趣味すこぶる広汎にして、競馬、撞球、銃猟、運動、絵画等何れも玄人の域に達する」[7]と評された。
文学を好み龍山と号した。また、天理教徒でもあった。
家族
[編集]- 父・徳川慶喜
- 母・中根幸 ‐ 慶喜の側室
- 同母弟・徳川誠 ‐ 男爵
- 同母妹・蜂須賀筆子
- 妻・里子(1878年 - 1955年) ‐ 旧越前福井藩主・松平慶永の六女。子女は以下の5男2女である。実弟に徳川義親。
- 長男:德川喜翰(1897年1月21日 - 1938年5月10日) - 妻は白井新太郎の長女・美代子[8]。父の隠居を受け男爵となる。
- 次男:大木喜福(1898年4月16日 - 1972年11月20日) - 伯爵大木遠吉の娘・伸子(1902-1971)と結婚、婿養子となり、大木姓と伯爵を継ぐ。
- 三男:德川喜好(1899年12月25日 - 1959年5月22日) - 農業大学卒業後、千住製麺、姫神金山(岩手県玉山村)出資社員[9]。1927年不渡り手形(取引なし)発行[10]。1930年に詐欺強盗罪で収監される[11]。1933年文書偽造行使詐欺で懲役2年(徳川慶喜家参照)。戦後は佐伯隆敏に近づき、「連合映画」社を作らせ、久邇朝融を紹介して天皇映画を企てたり[12]、全日本産業振興協会会長を名乗るなどした。子の徳川泰章は慶応大学卒業後、新聞社広告局入社も不都合があり退職、転職先の化粧品会社でも使い込みで辞め、1972年にはは165万円の詐欺容疑で神奈川県警に逮捕歴された[13](徳川慶喜家)。
- 四男:德川喜知(1901年5月28日 - 1929年11月27日) ‐ 早世
- 長女:徳川喜久子(1902年10月29日 - 1923年12月18日) - ※高松宮宣仁親王妃喜久子とは別人。ダンスホールで知り合った平民の多賀鉉之輔(元建材輸入業)との自由結婚し除籍[14]。
- 五男:徳川喜堅(1907年10月2日 - 1971年12月11日) - 男爵。1940年に長兄・喜翰の養嗣子となり襲爵。東京工業大学卒業後、特許局技師、三光産業顧問、日本繊維機械学会理事。大藪守治の長女・すみ子と結婚し三男を儲けるも離婚、のち21歳下の智佐子と再婚。二男の徳川喜昭(1941-2019)は日本臓器製薬役員。[15][16][17]
- 次女:徳川喜和子(1910年10月31日 - 1997年8月21日) - 元夫は戸田豊太郎(1950年離婚。華頂博信参照)。長男の戸田豊重(1931-)は紀尾井町町会長を長く務め、二女の豊子(1939-)は松平頼武に嫁した[18][16]。二男の徳川豊治(1932-)はアルコール中毒とも言われ、養子縁組した日露混血の男が徳川光康を名乗る(徳川慶喜家の項参照)。
出典
[編集]- 1 2 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』78頁。
- ↑ 『帝国名望家大全』東京府69頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年2月5日閲覧。
- ↑ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、14頁。
- ↑ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、21頁。
- ↑ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、27頁。
- ↑ 明治・大正・昭和華族事件録(千田稔著、新潮文庫)
- ↑ 『人事興信録』(大正14年)
- ↑ 『人事興信録』(第九版、昭和6年)「徳川喜翰」、「白井新太郎」
- ↑ 徳川喜好大衆人事録 昭和3年版、p30
- ↑ 全国不渡手形名簿 昭和2年度東京手形債権交換所、p243
- ↑ 『日米』The Japanese American News 1930年7月25日号
- ↑ 昭和天皇の義兄が“女性の斡旋依頼”「近頃よい掘り出しモノはないかね?」…「旧皇族、徳川家末裔、戦後成金の青年実業家」が昭和天皇と読売新聞を巻き込んで繰り広げた「歴史に埋もれた事件」の真相高鳥都、現代ビジネス、講談社、2025.09.06
- ↑ 『現代家系論』本田靖春、文春学芸ライブラリー文庫、p243
- ↑ 『朝日新聞の記事にみる恋愛と結婚 明治・大正』朝日新聞社、1997、p361
- ↑ 徳川喜堅人事興信録 第14版 下、1943
- 1 2 徳川厚 男爵とその家系につながる人々まつどライフプロモーション、松戸市、2018年4月10日
- ↑ 徳川喜昭氏(元日本臓器製薬執行役員 管理本部副本部長、6日死去)日刊薬業、2019/1/8
- ↑ 紀尾井町町会会長戸田豊重さんあらぶんちょ散歩119号、東京ケーブルネットワーク
参考文献
[編集]- 吉野民司編『帝国名望家大全』吉野民司、1895年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
| 日本の爵位 | ||
|---|---|---|
| 先代 叙爵 |
男爵 徳川厚家(宗家分家)初代 1884年 - 1927年 |
次代 徳川喜翰 |