池田仲博
池田 仲博(いけだ なかひろ、1877年(明治10年)8月28日 - 1948年(昭和23年)1月1日)は、明治から昭和にかけての華族(侯爵)・貴族院議員・陸軍軍人(陸軍歩兵中尉)。旧因幡国鳥取藩主家池田氏第14代当主。
略歴[編集]
1877年(明治10年)8月28日、徳川慶喜の五男として生まれる。初名は博(ひろし)。佐野源次郎方へ預けられる。1880年(明治13年)9月、徳川邸に戻る。1887年(明治20年)3月に兄厚とともに静岡から東京に移り、4月に学習院に入学した。1890年(明治23年)2月25日、従兄にあたる侯爵池田輝知が嗣子なくして死去したのに伴い、その次女・亨子(みちこ)と結婚し、婿養子として池田侯爵家を相続・襲爵した。同年4月11日、輝博と改名する。1894年(明治27年)1月、明治天皇の五男の輝仁親王と1字が重なることから、鳥取藩初代藩主池田光仲の一字を加えて仲博(なかひろ)に改名する。
1896年(明治29年)5月、同族の子爵池田源[1]とともに、北海道十勝地方の中川郡におよそ300万坪の原野(利別太・下利別に約220万坪、ウシシュベツに約70万坪)の貸付を得て、池田農場を開設した[2]。
1896年(明治29年)に学習院初等科を卒業、さらに1898年(明治31年)11月25日に陸軍士官学校(10期)を卒業、翌1899年(明治32年)6月27日には陸軍歩兵少尉に任官。第一師管軍法会議判士、陸軍幼年学校生徒隊中隊付などを歴任した。1909年(明治42年)9月30日、予備役に編入された[3]。
1902年(明治35年)7月から貴族院議員(侯爵議員)を務め、火曜会に属した。
1907年(明治40年)、当時の皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の山陰行啓時の宿泊施設として鳥取城跡の扇御殿跡に自身の別邸を建てた。これがいわゆる「仁風閣」である。「仁風閣」の館名は、この行啓に随行した元帥海軍大将・東郷平八郎が命名による。
1910年頃俳句をやり高浜虚子の指導を受け、父徳川慶喜と虚子を引き合わせたこともある[4]。
1946年(昭和21年)4月12日、貴族院議員を辞職[5]。1947年(昭和22年)5月3日、華族制度の廃止により失爵した。
1948年(昭和23年)1月1日に逝去。墓所は鳥取・大雲院(東京・多磨霊園から改葬)。
栄典[編集]
- 1897年(明治30年)6月30日 - 勲四等瑞宝章[6]
- 1903年(明治36年)12月11日 - 従四位[7]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 旭日小綬章[8]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[9]
- 1938年(昭和13年)2月11日 - 金杯一個[10]
家系[編集]
- 父母
- 配偶
- 妻:池田亨子(輝知の次女)
- 子女
- 長女:幹子(1902年 - 1996年、徳川宗敬夫人)
- 長男:池田徳真(1904年 - 1993年、15代当主)
- 次女:静子(1907年 - 1987年、西郷従吾夫人)
- 次男:朽木綱博(朽木綱貞養子)
- 三女:謙子(1907年 - 1994年、池田清就夫人)
- 四女:温子(水野忠款夫人)
- 三男:荒尾博正(荒尾嘉就養子)
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』(霞会館、1996年)
- 衆議院・参議院編『議会制度七十年史』(大蔵省印刷局、1962年)
関連項目[編集]
| 日本の爵位 | ||
|---|---|---|
| 先代: 池田輝知 |
侯爵 (鳥取)池田家第2代 1890年 - 1947年 |
次代: 華族制度廃止 |