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洞院公賢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
洞院 公賢
時代 鎌倉時代後期 - 南北朝時代
生誕 正応4年8月13日1291年9月7日
死没 延文5年4月6日1360年4月21日[1]
改名 公賢→空元/遍昭光院
別名 中園相国
官位 従一位太政大臣
主君 伏見天皇後伏見天皇後二条天皇花園天皇後醍醐天皇光厳天皇光明天皇崇光天皇後光厳天皇
氏族 洞院家
父母 父:洞院実泰、母:小倉季子小倉公雄の娘)
兄弟 公賢、慈厳、公敏、守子、公泰実守
粟田光子(粟田光久の娘)
粟田光久の娘
小倉実教の娘
実世実夏ほか
養子:阿野廉子実守
特記
事項
園太暦』の著者
花押 洞院公賢の花押
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洞院 公賢(とういん きんかた)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。正式な名乗りは藤原 公賢左大臣洞院実泰の子。官位従一位太政大臣。通称は中園相国。出家して空元。また遍昭光院とも称された。有職故実の大家で、歴代天皇・将軍からたびたび諮問を受けた。また、公賢の日記『園太暦』は、中原師守師守記』と並ぶ最重要史料であり、重要文化財に指定されている。文芸にも造詣が深く、歴史物語増鏡』の作者の正体としては、二条良基に次ぐ有力候補である。養女で後醍醐天皇側室の洞院廉子(阿野廉子)を通じて、南朝後村上天皇の系譜上の祖父になる。

経歴

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正応4年(1291年)誕生。父・実泰の蔭位により同年従五位下に叙され、数え7歳にして早くも正五位下侍従となる。文保2年(1318年後醍醐天皇の即位の際には皇太子邦良親王春宮大夫を務める。また、後醍醐天皇の側室阿野廉子の養父となっている。元徳2年(1330年内大臣に就任するが、翌年辞職。後伏見院の院執事として鎌倉幕府の滅亡を迎える。建武の新政が始まると内大臣に還任。翌年には右大臣に昇る。雑訴決断所頭人や伝奏なども兼ね、建武政権でも重きをなし、延元元年(1336年)には義良親王(のちの後村上天皇)の元服に際し、加冠役を務めたほどであったが、南北朝分立後は北朝に属し、北朝側の重鎮として光厳院の院執事となる。以後、たびたび辞意を表するが受け入れられず、左大臣太政大臣を歴任。

公賢は朝廷で高位高官の地位にあって朝政を主導しただけでなく、有職故実にも明るく学識経験も豊富だったため、天皇公家らから相談を受けることも多く、その日記『園太暦』はこの時代の朝廷の様々な人物の動きを知る上での貴重な基本史料となっている。観応2年(1351年)のいわゆる「正平の一統」においては北朝側の代表として交渉をまとめた。だが、南朝側による崇光天皇らの吉野への連行事件、続く文和2年(1353年)の後光厳天皇美濃国退避に同行しなかったことから天皇の疑心を買い、政治の中枢から外れていくことになる。「聖朝之半隠、当世之外物」(『魚魯愚鈔』所収「揚名介事」奥書)と記したのもこの時期のことである[2]。また、この時期に南朝に下った異母弟の実守を後継者から外して、実子の実夏を後継者としたものの、実夏と不仲になったために実守を帰参させて再び後継者にしようと図り、公賢没後の家門争いの原因となった[3]。延文4年(1359年)にようやく辞職が許されて出家、空元と号した。翌年薨御。

他の著書に『皇代暦』・『魚魯愚鈔』など。子に洞院実夏・実世。孫に『尊卑分脈』を編んだ洞院公定(実夏の子)がいる。また、鷹司師平一条経通の2代の関白を娘婿、左大臣近衛道嗣を孫婿(正室は実夏の娘、公賢没後に関白となる)として彼らの相談役としても活躍した。

康永三年の辞左大臣表について

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以下の官歴に見る通り、洞院公賢は康永3年(1344年)2月21日および同年12月18日の二度にわたり、左大臣の辞職を請う上表を行った。これら二通の辞表は、いずれも公賢自身の日記『園太暦』に記録されている。

2月21日の辞表

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臣公賢言、商丘無用之木矣、何比舟檝之材[4]、燕岱有類之石焉、豈混瑚璉之器[5]、遠取諸物、近取諸身[6]、臣公賢誠惶誠恐、頓首頓首、死罪死罪、臣聞、大臣者協賛帷幄、儀形簪紱、以翼以弼、鼎司当塩梅之任[7]、為衡為鈞、棟宇叶社禝之臣[8]、是以高祖之興隆漢也、施皇明於蕭曹之功[9]、太宗之弘巨唐也、得王佐於房杜之誉[10]、国之匡輔、寔因賢良者歟、如臣者岳降謝精、淵博隔智、唯禀家門之茂績、多歴文武之清要、燮季功疎、三台三遷之運過分、短材位高、一喜一懼之心相半、於戯魏公二百余事、有進而退之詞[11]、周老八十一章、有盈而止之訓[12]、就中三合之慎当于年、虚受之責在子天、云彼云是、不可不謙、且毎思淳朴之道、弥欲謝伐檀之詠[13]、方今陛下宝業布化矣、文思垂風矣、祁姓姚姓之主[14]、任庸璅者、可黷厥名焉、五竜六竜之臣[15]、預躬迎者、何隠厥鱗矣、微而栄進、徳広所及也、伏羨乾慈、曲廻辰晷、然則妄沢之譏難遁、縦解鵲印於槐庭之月[16]、報国之忠未忘、猶仰鴻化於蓬闕之雲[17]、将避傍人之嘲、忝酬明君之恩、不勝方寸悚迫之至、謹奉表、陳乞以聞、臣公賢誠惶誠恐、頓首頓首、死罪死罪、謹言、[注 1]
康永三年二月廿一日、従一位行左大臣臣藤原朝臣公賢上表

まず、冒頭の自己卑下が秀逸だ。『荘子』の「無用の木」や『論語』の「瑚璉(器)」といった著名な古典を引き合いに出し、自分を「役に立たないねじれた木材」や「道端の石ころ」と定義する。国家の重鎮である左大臣が、自らを未加工の素材(木や石)に例え、祭祀や政治に使われる完成された「器」ではないと断じるレトリックは、自身の無能さを強調すると同時に、理想的な臣下像というものを逆説的に浮き彫りにしている。

中盤では、漢の蕭何・曹参、唐の房玄齢・杜如晦といった中国史上のスーパースター級の名宰相を列挙し、「政治とは彼らのような天才が行うものであり、私のような凡人がやるものではない」と論を展開する。ここで公賢は、魏徴や老子の言葉を借りて「進むこと」よりも「退くこと(知足)」の重要性を説く。頂点に達する前に止めることこそが天の理であり、分不相応な地位に居座り続けることは、『詩経』にある「働かずに大飯を食らう者(伐檀)」として世間の指弾を受けることになると、自身の恐怖心を吐露している。これは保身であると同時に、貴族としての高いプライドの裏返しでもある。

また、天皇を伝説の聖王(堯・舜)になぞらえ、「聖人の治世には、必ずや野に隠れた賢人(五龍・六龍)がいるはずだ」として、自分の後任に真の賢者を登用するよう促す論理も鮮やかだ。自分が辞めることが、ひいては国家のためになり、新たな人材発掘につながるという「公益」を盾に辞任を正当化している。

結びの「槐庭(朝廷)の月に官印を解く」という表現は、非常に映像的で美しい。権力の中枢に未練なく別れを告げ、一人の忠臣として精神的な支柱であり続けることを誓う姿は、まことに風流である。全体を通して、単なる職務放棄の願いではなく、漢籍の教養を駆使して「引き際の美学」を演出した、極めて知的で格調高い文学作品のような仕上がりとなっている。

12月18日の辞表

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臣公賢言、去二月廿二日、中使正四位下行右近衛権中将藤原朝臣公世、出自中禁[18]、返以上疏、天高聴卑[19]、徒謝栄路於鶴唳[20]、年老力微、何負恩山於亀背[21]、臣公賢誠惶誠恐、頓首頓首、死罪死罪、臣聞、臣以君為心、君以臣為体[22]、上雖有陶臣、非四岳之一岳者、争馭至徳[23]、上雖有商湯、臣非三鼎之一鼎者、安説滋味[24]、臣倩顧、鈍劣之質更無採用之道、所謂探燕雀之巣者、不得鳳凰之卵[25]、入枳棘之林者、未見梁柱之材之義也[26]、設其位者英博可受、求其人者器識可帰、如臣者庸朽取已、以栄為憂焉、恩禄余身、不知所裁矣、晨兢夕惕[27]、暑往寒来[28]、方今我君若稽古道、経緯天地[29]、明徳広被、再披大明於大雅中[30]、賢才無隠、誰秘遺賢於遺民間、於戯西山月老[31]、仁紫庭之有遑、南陽日長、高文通之不仕[32]、微兮委任、益于政猷歟、伏望、宸鑑早垂允容[33]、不耐懇欵慚懼之至、謹重抗表陳譲、以聞、臣公賢誠惶誠恐、頓首頓首、死罪死罪、謹言、[注 2]
康永三年十二月十八日、従一位行左大臣藤原朝臣公賢上表

まず目を引くのは、徹底した「謙遜」と「自己卑下」のレトリックだ。「風声鶴唳」や「亀背」といった故事成語や比喩を駆使して、自分がいかに小心者で、年老いて腰が曲がり、役立たずであるかを強調している。「鶴の鳴き声に怯える敗残兵」や「甲羅のように背が曲がった亀」というイメージは視覚的にも強烈で、公賢が自身の老いと無力さをあえて戯画化して訴えている様子が伝わってくる。これは単なる事実の陳述ではなく、天皇に対して「これほど弱り切った忠臣を無理に働かせるのですか」と情に訴える高度な心理戦術とも言えるだろう。

次に注目すべきは、天皇を持ち上げることで逆説的に辞任を正当化する論理展開の巧みさだ。「君主は心、臣下は体」という儒教的な身体論を持ち出し、「陛下は伝説の聖王である堯や湯王のように素晴らしい。だからこそ、私のような凡庸な臣下(燕雀や棘)では釣り合わない」と主張する。つまり、自分の無能さを嘆くふりをしながら、実は「名君には名臣が必要だ」という正論を盾にして、自分を解放するように迫っているわけだ。自分が有能であることを証明するために書くのが現代のエントリーシートなら、ここで行われているのは「いかに自分が無能か」を格調高く証明するコンテストのようなもので、その逆説が面白い。

また、文中に散りばめられた引用の多さ(『史記』『詩経』『後漢書』など)は、公賢という人物の並々ならぬ教養の深さを如実に物語っている。「凡庸な私には務まらない」と書きながら、その文章自体が極めて高度な知識と文章力を必要とするものであり、皮肉にも彼が大臣にふさわしい教養人であることを証明してしまっている点は滑稽でもあり、貴族文化の粋でもある。

最後に、隠遁への憧れを語る部分(西山の月、南陽の日長)には、激動の南北朝時代を生きる政治家の本音が透けて見えるようで味わい深い。伯夷・叔斉や高鳳といった隠士の名前を挙げ、政治のドロドロした世界から離れて静かに暮らしたいという願望を美しく飾っている。もちろん、これが額面通りの本心なのか、それとも「これほど高潔な私」を演出するためのポーズなのかは定かではない。しかし、こうした典雅な美辞麗句で身を包み、老いと教養を武器に権力者と渡り合う姿からは、中世の貴族が持っていた強かな精神性が感じられる。

官歴

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※日付=旧暦

月日 年齡 出来事 備考
正応4年(1291年 1 誕生
正応5年(1292年 4月 2 従五位下
永仁2年(1294年 1月6日 4 従五位上
永仁4年(1296年 1月7日 6 正五位下東二条院御給
永仁5年(1297年 12月17日 7 侍従
永仁6年(1298年 1月5日 8 従四位下玄輝門院御給
4月9日 左少将
永仁7年(1299年 3月24日 9 従四位上
正安2年(1300年 1月11日 10 正四位下朝覲行幸、春宮権大夫実泰卿院司賞讓
嘉元3年(1305年 1月22日 15 陸奥権介
徳治1年(1306年 12月22日 16 左中弁左少将如元
徳治2年(1307年 3月2日 17 兼左宮城使
延慶1年(1308年 閏8月8日 18 喪母母入道正二位権中納言小倉公雄卿三女従二位季子
9月17日 止左中弁
9月20日 従三位
12月10日 左中将
延慶2年(1309年 9月22日 19 左大弁
10月15日 参議
延慶3年(1310年 1月5日 20 正三位伏見院御給
3月9日 権中納言参議大弁労二箇年
8月2日 兼左兵衛督
応長1年(1311年 4月15日 21 従二位
5月26日 右衛門督
正和1年(1312年 12月12日 22 左衛門督
正和3年(1314年) 1月2日 24 正二位朝覲行幸、伏見院御給
文保2年(1318年 3月9日 28 春宮大夫
8月13日 止左衛門督讓舍弟公敏卿
8月24日 権大納言
元応元年(1319年 9月5日 29 勅授帯剣
正中元年(1324年 34 大納言
嘉暦元年(1326年 3月20日 36 止春宮大夫依春宮薨去也
11月4日 右大将
12月24日 右馬寮御監
嘉暦2年(1327年 8月15日 37 喪父父従一位左大臣兼陸奥出羽按察使実泰公、号後山本左府
嘉暦3年(1328年 9月14日 38 除服出仕宣下
元徳2年(1330年 3月5日 40 内大臣無饗禄、右大将如元
3月22日 辞右大将
元弘1年(1331年 2月1日 41 辞内大臣
正慶2年(1333年 6月12日 43 還任宣下
建武1年(1334年 9月9日 44 上表依病也
12月17日 式部卿
建武2年(1335年 1月5日 45 従一位元徳元年春日行幸行事賞
2月16日 右大臣式部卿如元
3月6日 春宮
建武3年(1336年 10月10日 46 止春宮傅依春宮北国行啓也
建武4年(1337年 6月9日 47 辞退
7月12日 止之
康永2年(1343年 4月10日 53 左大臣無饗禄、不設賓筵
康永3年(1344年 2月21日 54 上表
被返下表
12月18日 上表、犹為当職参公事
貞和1年(1345年 9月6日 55 上表不許、犹当職也、被返下表
貞和2年(1346年 6月11日 56 辞退今度不及上表
貞和4年(1348年 10月20日 58 任大臣兼宣旨
10月22日 太政大臣今日設賓筵
貞和5年(1349年 12月14日 59 蒙輦車宣旨
12月25日 牛車宣旨
観応1年(1350年 3月18日 60 上表
正平6年(1351年 11月13日 61 南朝任左大臣、兼後院別当
正平8年(1353年 6月21日 63 南朝任太政大臣
延文4年(1359年 4月15日 69 出家法名空元
延文5年(1360年) 4月6日 70 自去比黄疸病悩

系譜

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公賢の子女とその母一覧
「名」の欄は色で性別を区別する。例えば、男子女子。名前が斜体かつ灰色背景の欄は、養子縁組による子であることを示す。
生卒年 備考
洞院実世 1308 - 1358 家女房 北朝正二位権中納言、南朝従一位左大臣
洞院実夏 1315 - 1367 粟田光子(右馬頭粟田光久女、後醍醐天皇乳母、従三位) 北朝従一位内大臣
慈宗 西華門院中納言局(参議親世[34]女) 法印権大僧都
道守 家女房 法印権大僧都、成就院、早世
慈守 粟田光子(右馬頭粟田光久女、後醍醐天皇乳母、従三位) 法印権大僧都、北野別当、曼殊院門跡
桓恵 権大納言小倉実教 大僧正、実乘院門跡
境空 ? - 1394 嘉暦先坊少将局 竹林寺淨土寺二尊院住持、法位上人、隱遁号遣迎院竹林寺
実縁 粟田光子(右馬頭粟田光久女、後醍醐天皇乳母、従三位) 大僧都、興福寺東門院、早世
慈昭 ? - 1376 家女房高倉局(右馬頭粟田光久女) 僧正、北野別当、法性寺座主、一身阿闍梨、曼殊院門跡
杲守 僧正、石山座主、成就院
尋源 権僧正、石泉院
賢実 家女房小宰相局 法華宗
穎弁 家女房高倉局(右馬頭粟田光久女) 住高山寺北坊
示鏡 ? - 1448 二尊院住持、弁空上人、廬山寺明道上人資
桓忠 ? - 1379 家女房中納言局 権僧正、日吉権別当、実乘院門跡、早世
守快 僧正、杲守僧正資
女子(名不詳) 家女房(同実世) 徳大寺公清室、徳大寺実敦母、遁世法名正音
倫子(綸子) 粟田光子(右馬頭粟田光久女、後醍醐天皇乳母、従三位) 一条経通北政所、一条内嗣母、早世
吉子 鷹司師平北政所、遁世法名光真
女子(名不詳) 後伏見院三条局 比丘尼真当、守清庵
花園院兵衛督局 比丘尼理明、播磨安養院
波多野因幡入道通貞女 比丘尼恵林、景愛寺
家女房高倉局(右馬頭粟田光久女) 徽安門院東御方、崇光天皇後宮、安福殿女御、比丘尼了覚
西園寺実俊室、比丘尼理空、早世
亀谷源中納言基俊卿 禁中伺候、遁世法名退覚、野宮摂取院
家女房中納言局(同桓忠、守快) 近衛道嗣妾、久良親王養女
比丘尼理融、播磨安養院
阿野廉子 不詳 実右中将阿野公廉女、洞院公賢養女、後醍醐天皇後宮
洞院実守 参議高倉永康卿 北朝正二位大納言、南朝右大臣、実洞院実泰四男、依父命為舎兄公賢養子

脚注

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注釈

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  1. ^ 大意:
    私、公賢が誠恐誠惶の極みにて謹んで申し上げます。
    私のような者は、かの『荘子』に説かれる商丘の無用な木のような存在であり、どうして舟や楫となるような有能な人材と肩を並べられましょうか。また、燕や岱といった地方に転がっているありふれた石ころのようなものであり、宗廟で重んじられる瑚璉のような立派な器に混じることなど到底できません。遠く万物から例を取り、近く我が身を顧みますに、私、公賢はただただ恐れ多く、額を地面に打ち付け、死に値する罪深さを感じるばかりでございます。
    私が聞き及びますに、大臣というものは、君主のそばで政務の計画を助け、官僚たちの模範となるべき存在です。君主の翼となって政治を助け、最高幹部の地位にあるならば、政治の均衡を保ち、物事を適切に調整する重責を担わねばなりません。また、度量衡のはかりのように公平を維持し、国家という建物の棟木となって国家を支えるのが臣下の務めです。
    それゆえ、漢の高祖が漢王朝を興隆させることができたのは、蕭何や曹参といった功臣たちの働きによって、皇室の威光が行き渡ったからです。また、唐の太宗が盛唐の基盤を築けたのは、房玄齢や杜如晦といった王佐の才ある者たちの名声を得ていたからです。国家を正しく導き助けることは、実にこれら賢良な家臣の存在によるものでしょう。
    しかし私ごときは、霊峰から生じたような精妙な才気には恵まれておらず、深い知恵とは程遠い凡庸な身です。ただ、家柄と先祖の輝かしい功績を受け継ぎ、文武の要職を歴任してきたに過ぎません。君主を補佐する功績は疎かであるにも関わらず、左大臣の地位へと順調に昇進を重ねたことは、身に余る運命のいたずらです。才能は乏しいのに地位ばかりが高い現状に、喜びと恐れが半々の心境でございます。ああ、かつて唐の魏徴は二百回あまりも諫言を行い、その中には進むことよりも退くことの重要さを説いた言葉がありました。老子の『道徳経』八十一章の中にも、「物事は頂点に達する前に止めるべき」という教えがあります。とりわけ「慎み」の教えは私の今の年齢にこそふさわしく、虚心に教えを受ける責任は天命に従うことにあります。世間が何と言おうとも、自分自身は謙虚であらねばなりません。また、常に素朴で純粋な生き方を思うたびに、「働かずに食事だけ貪る」と『詩経』の伐檀篇で詠まれたような、分不相応な批判を受けることを避けたいと強く願うのです。
    今や陛下の大業は教化として広まり、その優れた徳は風となって天下に垂れています。堯や舜のような聖人たる陛下が、もし私のような凡庸でつまらない者を用い続ければ、その聖名を汚すことになりかねません。世の中には五龍や六龍と称されるような真の賢臣がいるはずです。陛下が自ら彼らを迎えようとされているのに、どうして彼らが才能を隠したままでいられましょうか。
    私のような微力な者が栄達できたのは、陛下の徳が広く及んだおかげです。天のような陛下の慈愛と、曲げて私を顧みてくださったご恩には深く感謝し、羨望いたします。しかしながら、「功績もないのに恩沢を受けている」という世間の非難から逃れることは困難です。
    たとえ、朝廷の月明かりの下で官印を解き職を辞したとしても、国に報いようとする忠誠心を忘れることはありません。引退後も、宮中の雲間から広がる陛下の広大な教化を仰ぎ見ることでしょう。
    つきましては、世間のあざけりを避け、また明君の恩義に報いるため、心臓が張り裂けんばかりの恐縮の至りではございますが、謹んでこの表を奉り、事情を陳述いたしました。私、公賢は誠恐誠惶の極みにて、額を地面に打ち付け、死に値する罪深さを感じつつ、謹んで申し上げます。
  2. ^ 大意:
    私、公賢が誠恐誠惶の極みにて申し上げます。
    去る二月二十二日、勅使である右近衛権中将・藤原朝臣公世殿が宮中より退出され、私の辞表に対する慰留のお言葉をもたらされました。天のように高い尊厳を持つ陛下が、このような卑しい身分の者の言葉に耳を傾けてくださったのです。しかし私は、栄光ある出世街道にいながら、まるで風声鶴唳の故事にあるように、戦場で鶴の鳴き声に怯える敗残兵のごとく、ただただ恐縮して辞退を申し上げるばかりです。すでに私は年老いて力も衰えております。亀のように曲がってしまったこの背中で、どうして山のように重い陛下のご恩を背負いきれましょうか。私、公賢は誠恐誠惶の極みにて、額を地面に打ち付け、死に値する罪深さを感じるばかりでございます。
    私が聞き及びますに、「臣下は君主を心とし、君主は臣下を体とする」といいます。
    しかし、いくら君主が伝説の聖王堯のような陶唐氏の名君であっても、臣下がその補佐役である四岳のような賢人でなければ、どうして至高の徳を世に行き渡らせることができるでしょうか。
    また、いくら君主が殷の湯のような聖主であっても、臣下が名宰相・伊尹のように、鼎を支える足の一本となって料理の味を調えることができなければ、どうして天下の善政を整えることができましょうか。
    つらつら我が身を顧みますに、鈍く劣った性質であり、採用いただく余地など全くございません。世に言う「凡人の家に賢人はいない」、「劣悪な環境に人材はいない」とは、まさに私のことです。
    本来、官位というものは博識な英傑が受けるべきものであり、人材登用とは器量と見識のある人物に帰着すべきものです。私のような凡庸な老いぼれを採用してしまっては、栄誉どころか憂いとなるばかりです。身に余る恩禄をいただき、どう裁量してよいか分からず、来る日も来る日もビクビクして過ごし、暑い夏から寒い冬へと季節だけが過ぎ去ってしまいました。
    今や我が君は、古の道に照らして天下を統治し、その明徳は広く行き渡っています。それは『詩経』大雅篇にある文王の徳が再び現れたかのようです。賢才はもはや野に隠れておらず、誰も登用漏れの人材を民間に隠し立てなどしておりません。
    ああ、首陽山の月は老い、かつて伯夷・叔齊が隠遁した故事を思えば、宮廷を去るゆとりがあってもよいはずです。南陽の日差しは長く、後漢の高鳳が仕官せずに隠棲したように、私もそうありたいと願います。私のような微力な者が辞職して職務を委ねることこそが、かえって政治のためになるのではないでしょうか。
    伏してお願い申し上げます。陛下の鏡のような明察をもって、早々に私の願いをお聞き届けください。真心のこもった恐縮と恥じ入る思いに耐えきれません。謹んで重ねて表を奉り、辞譲の意を陳述いたしました。私、公賢は誠恐誠惶の極みにて、額を地面に打ち付け、死に値する罪深さを感じつつ、謹んで申し上げます。

出典

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  1. ^ 洞院公賢』 - コトバンク
  2. ^ 小川剛生『二条良基研究』(笠間書院2005年)P46
  3. ^ 松永和浩『室町期公武関係と南北朝内乱』(吉川弘文館2013年)P242-244
  4. ^ 公賢は自分を「商丘の木」に例えて、才能がなくて国の柱になるような立派な木材とは比べものにならないと謙遜している。「商丘」というのは昔の中国の地名なんだけど、ここでは単なる場所の名前ではなくて、『荘子』に出てくる「無用の用」という哲学的なイメージを使っている。『荘子』人間世篇には、商丘の大木は木質が粗悪で器物として使えないため、かえって天寿を全うできたという記述がある。後世、「商丘の木」は一見役に立たないようでいて、実は災いを避けて身を守ることができる状態の象徴とされた。「舟楫」は『書経』説命篇上にあって、殷の武丁傅説に対して「若し巨川を済らば、汝を用て舟楫と作さん」と頼んだ故事から来ている。武丁が傅説に対し、渡し舟の櫂のように自分を助け、国を管理するよう戒めた言葉である。
  5. ^ 「燕岱」は昔のの国や泰山のことで、石の産地として有名だった。一方で「瑚璉の器」は『論語』公冶長篇に出てくる言葉で、孔子が弟子の子貢を宗廟のお供え物を盛る立派な器に例えたことから、国を治める大器を意味するようになった。
  6. ^ この句は『易経』繋辞伝からの直接引用である。「古、包犠氏の天下に王たるや、仰いでは象を天に観、俯しては法を地に観、鳥獣の文と地の宜を観、近くは諸を身に取り、遠くは諸を物に取り、是に於いて始めて八卦を作る」。原意は、聖人が自然と自身を観察することを通じて八卦を創制したということであり、後に天地万物と自身の中から道理を悟ることを広く指すようになった。
  7. ^ 「鼎司」は三公の位を指し、「塩梅」は『書経』説命下篇の「若し和羹を作らば、爾惟れ塩梅たり」に典拠を持つ。商王武丁が「塩梅が五味を調和させる」ことを以て、傅説が朝政を調和させる必要性を譬えたもので、後世では「塩梅の任」といえば、宰相が君主を補佐して国家を治める職責を指す。
  8. ^ 「衡鈞」は権衡と鈞石のことで、国家の法度と官員選抜の基準を譬えている。「棟宇」は家屋の棟梁であり、社稷を支える重臣の譬喩である。二者は『詩経』小雅・斯干篇の「竹の如く苞り、松の如く茂る」という「棟梁」のイメージに由来し、後に『後漢書』黄瓊伝が「衡鈞の平」を以て官員が公正に職務を履行する必要性を強調した。
  9. ^ 「高祖」は劉邦のこと、「蕭曹」は創業の功臣である蕭何曹参のこと。蕭何は劉邦を補佐して天下を定め、律令を制定した。曹参は蕭何の後を継いで相となり、「蕭規曹随」の治国方略を推し進め、漢初の社会を安定させた。『漢書』蕭何曹参伝には、二人が「心を同じくして政を輔け、海内晏然たり」と記され、後世における「賢相」の模範となっている。
  10. ^ 「太宗」は李世民、「房杜」は宰相の房玄齢杜如晦のこと。史書には「房謀杜断」と称される。『旧唐書』房玄齢杜如晦伝は「笙磬音を同じくす、唯だ房と杜のみ」と彼らを讃えており、二人は共に朝政を掌り、太宗を補佐して「貞観の治」を切り開いた。
  11. ^ 「魏公」は唐の名宰相、魏徴のこと。彼は国家を治める優れた才能を持ち、その性格は剛毅直截で、決して自説を曲げない硬骨漢であった。太宗は彼との対話を常に楽しみ、魏徴もまた自分を深く理解してくれる知己の主君に出会えたことを喜び、忠誠を尽くした。太宗は彼を労い、「卿がこれまでに諫言した二百余りもの事柄は、すべて私の意に適うものであった。卿の忠誠心がなければ、これほどまでになし得なかっただろう」と最大限の賛辞を送っている。『貞観政要』と『旧唐書』には、彼が二百回以上にわたって諫言を行い、君主の驕りを戒め、勢いに任せて進むだけでなく、時には退いて反省することの大切さを説いたことが記されている。その率直さゆえに時に疎まれることもあったが、終生変わらぬ信頼を築いた二人の関係は、君臣の理想の姿と称えられた。
  12. ^ 「周老」はの時代の人と伝わる老子で、彼の『道徳経』全八十一章の中には「一杯になるまで注ぎ続けるより、適当なところで止めるほうがいい」や「足るを知れば辱められず、止まるを知れば殆うからず」といった、ほどほどで止める知恵が説かれている。
  13. ^ 詩経』魏風の「伐檀」という詩に由来する。汗水たらして種まきもしないのになぜ三百もの穀物を取れるのか、狩りもしないのになぜ庭に獲物がぶら下がっているのかと、働かずに利益を得る支配層を批判した詩である。ここでは、自分もそうした批判を受けるような位負けした人間にはなりたくないという謙遜の意味で使われている。
  14. ^ 「祁姓」は伝説の聖王であるの姓、「姚姓」はの姓である。これらは聖天子の代名詞として使われ、現在の天皇を堯や舜になぞらえて称賛している。
  15. ^ 「五竜」は黄帝の時代に車を操った五人の兄弟、あるいは五行思想に基づく賢臣を指す。「六竜」は『易経』乾卦にある「時に六竜に乗りて天を御す」という言葉に由来し、天子を補佐する極めて優れた家臣団を指す。
  16. ^ 「鵲印」は『捜神記』の典故である。漢代の張顥が、鵲が石に化したものを見て、その石を割ると印を得、後に太尉の官に至ったことから、後世「鵲印」は高官の印綬を指すようになった。「槐庭」は三公の官署のことである。「鵲印を解く」とは、即ち高官の位を辞すること。
  17. ^ 「蓬阙」は仙人が住む蓬莱山にある宮殿のことで、転じて皇居を美化して指す言葉である。「鴻化」は帝王の大いなる教化のことである。辞職して身は離れても、心は常に皇居の空を仰いでいるという忠誠心を表している。
  18. ^ 中使とは勅旨を伝えるために派遣される使者のことである。中禁は禁中、すなわち皇居の内部を指す。『漢書』百官公卿表によれば、秦の官職である郎中令が宮殿の門戸を掌ったことに由来し、唐代以降、中禁は皇居の代名詞となった。ここでは、中使が宮中から直接出発し、天皇の旨を伝達することを強調している。
  19. ^ この言葉は『史記』宋微子世家に由来する。本来は、天は高遠な場所にありながらも人間の善悪を洞察できるという意味であるが、転じて臣下が君主の聡明さを称賛する際の決まり文句となった。天子が高い地位にありながら、身分の低い者の言葉にも耳を傾けることを表している。
  20. ^ 鶴唳は驚き恐れる様子の形容であり、『晋書謝玄伝にある風声鶴唳の故事に基づいている。これは、敗走する軍勢が風の音や鶴の鳴き声を聞いただけで敵兵が迫ったと錯覚し怯えたという逸話である。ここではその意味を転用し、栄達の道にありながら、その身に余る恩寵に対する恐れを抱いていることを表現している。つまり、過分な栄誉に対して、あたかも敗残兵が鶴の声に怯えるように、ただただ恐縮して辞退する心境を述べている。
  21. ^ 亀背とは、老齢のために背骨が亀の甲羅のように丸く隆起した状態、いわゆる円背を指す。『黄帝内経』霊枢経にも、寒さによって血流が滞り背骨が曲がる症状の記述がある。ここでは公賢自身が年老いて体が衰えていることを亀背という言葉で示し、山のように巨大な皇恩をどうして背負いきれようかと反語的に問いかけている。これは謙遜であると同時に、老齢を理由とした辞任の根拠でもある。
  22. ^ 君主と臣下が心身のように一体であることを説くこの思想の源流は古く、戦国時代楚簡『緇衣』や『礼記』緇衣篇にまで遡る。もとは「民は君を以て心と為し、君は民を以て体と為す」とあり、心が正しければ体が安らかになるように、君主が正しければ民も自ずから従い、民がいなければ君主も存在し得ないという「君民」の不可分な関係を説くものであった。後世、この概念は「君臣」の関係へと転じ、孔安国は「臣下は君主の命令を奉じるため心であり、君主は臣下の力を借りて初めて功を成すため体である」と機能的な依存関係を定義した。さらに唐の魏徴は、君主を頭、臣下を手足に例える『書経』の説を交えつつ、本句を引用した。魏徴は、優れた君主であっても手足たる臣下が欠ければ体として機能しないと述べ、君主が独断専行して臣下を軽んじることを厳しく戒め、両者の相補的な信頼こそが国家安寧の根幹であると強調した。
  23. ^ 陶臣とは伝説の聖天子である堯帝を指す。堯は陶という地に封じられたため陶唐氏と呼ばれたことによる。『史記』五帝本紀には堯の仁徳と知恵が詳しく記されている。四岳は堯や舜の時代の四方の部族長であり、重要な補佐役であった。『書経』堯典には、彼らが治水などの重要課題について帝と議論する様子が描かれている。この文は、たとえ君主が堯のように聖明であっても、臣下が四岳のような賢臣でなければ、至高の徳による政治を行うことは難しいという意味である。
  24. ^ 商湯とは殷王朝の開祖である湯王のことである。彼は伊尹を相として夏王朝を倒した。三鼎および滋味という表現は、伊尹が料理の極意をもって湯王に王道を説いたという『史記』殷本紀の故事、いわゆる「滋味を以て湯に説く」を踏まえている。鼎は煮炊きする器であり、ここでは国政を担う重臣の比喩である。公賢は、自分が伊尹のように鼎の足の一本となって政治の味加減、すなわち滋味ある善政を調える能力がないと謙遜している。
  25. ^ 燕雀と鳳凰の対比は『戦国策』楚策に見られ、小人物である燕や雀と、大志を抱く鳳凰や鴻鵠を対比させる伝統的な表現である。燕雀の巣という凡庸な環境からは、鳳凰のような賢才は生まれないという意味である。
  26. ^ 枳棘と梁柱の対比は『韓非子』外儲説左下に由来する。枳棘は刺のある低木で悪劣な環境を、梁柱は建物を支える棟梁の材で賢才を象徴する。これらは、自分の出身や資質が凡庸であり、重責を担うべき人材ではないことを強調する比喩である。
  27. ^ 「晨兢夕惕」は、朝から晩まで恐れ慎み、少しも油断せずに職務に励むことの形容。語源は『書経』皐陶謨の「兢兢業業」と『易経』乾卦の「夕惕若厲」にあり、それらを組み合わせて「晨」と「夕」の対句とした表現である。
  28. ^ 「暑往寒来」は、夏が去り冬が来る、すなわち季節が巡り月日が経過すること。出典は『易経』繋辞下伝の「寒往則暑来、暑往則寒来」にあり、後に初学者の教科書である『千字文』に「寒来暑往」として取り入れられたことで定着した。
  29. ^ 「経緯天地」は、天地を統治し、秩序を整えること。「経」は織物の縦糸、「緯」は横糸を意味し、それらを組み合わせて布を織りなすように、国家や世界の組織を編み上げることを指す。出典は『左伝昭公二十八年などに見える諡号の定義にあり、「天地を経緯するを文と曰う」と記されている。つまり、広大な世界をあまねく治める知徳を備えていることこそが「文」の本質とされる。孔穎達による『春秋正義』では、聖人の徳が天の理に順応し、あたかも縦糸と横糸が交差して美しい模様を織りなすように秩序を形成することから、これを「文」と呼ぶと解説されている。
  30. ^ 『詩経』大雅篇にある「大明」という詩は、周の文王の徳と開国を称える歌である。現在の天皇の治世が、古代の理想的な時代である周の文王や武王の時代のように光り輝いていることを称賛している。
  31. ^ 西山とは首陽山のことであり、殷周革命の際に周の粟を食むことを恥として隠れ住み、餓死した伯夷・叔斉の兄弟の故事で知られる場所である。『史記』伯夷列伝に詳しい。「西山の月老い」という表現は、伯夷・叔斉のように節操を守る精神と、自身の老境、そして隠遁への憧れを重ね合わせたものである。
  32. ^ 南陽は地名、高文通は後漢の隠士である高鳳、字は文通を指す。『後漢書』逸民伝によれば、高鳳は南陽の人で、学問に熱中するあまり妻に頼まれた庭の麦を鳥から守る仕事を忘れ、雨で麦を流してしまったという逸話がある。彼は仕官を求められても断り続け、隠遁生活を送った。南陽の春の日差しの中で高鳳が仕官せずに読書に耽ったように、自分もまた職を辞して隠棲したいという願いが込められている。
  33. ^ 宸鑑の「宸」は帝王の住処から転じて帝王自身を指し、「鑑」は鏡のように物事を照らし見ることを意味する。すなわち天皇のご賢察ということである。これは臣下が君主の判断を敬って用いる言葉であり、ここでは天皇の賢明な判断によって、速やかに辞職の願いが聞き入れられることを希求している。
  34. ^ 甘露寺親長が加筆した『洞院系図』には確かに「参議親世」と記されている。しかしながら、『公卿補任』を調べてみると、「親世」という名前の公卿はわずか两人しかおらず、一人は天文16年に従三位に叙された非参議の藤原親世、もう一人は康安1年に従三位に叙された非参議の大中臣親世である。いずれも生涯を通して参議にはならなかった。したがって、この「参議親世」の正体については、さらに詳しく検討を要する。

参考文献

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  • 「洞院公賢」(執筆 森茂暁)-『国史大辞典』(吉川弘文館
  • 「洞院公賢」(執筆 清田善樹)-『日本史大事典5』(平凡社、1994年、ISBN 4582131050
  • 「洞院公賢」-『公卿人名大事典』(野島寿三郎編、日外アソシエーツ、1994年、ISBN 4816912444)509頁
  • 大日本史料』第六編之二十三 延文五年四月六日条(卒伝)
  • 『内乱のなかの貴族 南北朝と「園太暦」の世界』(林屋辰三郎、1991年、角川選書ISBN 4047032204
  • 『宮廷公家系図集覧』(近藤敏喬編、東京堂出版、1994年)

関連項目

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先代
洞院実泰
洞院家
4代
次代
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