西園寺実俊
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時代 | 南北朝時代 |
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生誕 | 建武2年(1335年) |
死没 | 康応元年7月6日(1389年7月28日) |
改名 | 実名(初名)→実俊 |
官位 | 従一位、右大臣 |
主君 | 光明天皇→崇光天皇→後光厳天皇→後円融天皇→後小松天皇 |
氏族 | 西園寺家 |
父母 | 父:西園寺公宗、母:日野名子(日野資名の娘) |
妻 |
正室:四条隆資の娘 理空(洞院公賢の娘) |
子 | 公永、公兼、道紹 |
西園寺 実俊(さいおんじ さねとし)は、南北朝時代の公卿。権大納言・西園寺公宗の長男、母は典侍日野名子[1]。官位は従一位・右大臣。
経歴
[編集]初名は実名(さねかた)。父・公宗は建武2年(1335年)、北条氏と謀った後醍醐天皇の暗殺計画に失敗して同年8月2日に処刑されており、実俊はその後に生まれ、探索の眼を逃れて養育された。このとき、西園寺家の家督は暗殺計画を密告した叔父・公重に渡っている。実俊は北朝の許で建武4年(1337年)従五位下となり、暦応3年(1340年)、母・名子と共に西園寺家北山第に入った。康永3年(1344年)に従三位、貞和5年(1349年)正三位・権中納言となる。叔父・公重が文和2年(1353年)南朝に仕えたため、実俊が家督を相続し、同年権大納言となった。貞治3年(1364年)内大臣、貞治5年(1366年)右大臣。永和元年(1375年)従一位。康応元年(1389年)6月8日出家、同年7月6日に55歳で薨去した。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 橋本政宣 編『公家事典』、吉川弘文館、2010年
- 近藤敏喬 編『宮廷公家系図集覧』、東京堂出版、1994年