西園寺公広
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| 画像提供依頼:愛媛県歴史文化博物館所蔵の木像の画像提供をお願いします。(2019年3月) |
| 時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
|---|---|
| 生誕 | 天文6年(1537年) |
| 死没 | 天正15年12月11日(1588年1月9日) |
| 墓所 | 愛媛県西予市宇和町卯之町の光教寺 |
| 幕府 | 室町幕府 |
| 主君 | 長宗我部元親→小早川隆景 |
| 氏族 | 西園寺氏 |
| 父母 | 父:西園寺公宣、養父:西園寺実充 |
| 兄弟 | 公次、公広、宣久、黒瀬公義 |
| 妻 | 正室:西園寺実充娘・西姫 |
| 子 | なし |
西園寺 公広(さいおんじ きんひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。伊予国の戦国大名。伊予西園寺氏8代当主。黒瀬城主。西園寺十五将の一人。
生涯[編集]
天文6年(1537年)、西園寺公宣の子として誕生。もともとは伊予来住寺で僧籍にあったが、弘治2年(1556年)、当主であった伯父・西園寺実充の実子・公高が戦死したため、永禄8年(1565年)に実充の養嗣子として迎えられて還俗し、実充の娘・西姫の婿となり、家督を継承した。同年、土佐国の一条兼定を攻める。
永禄11年(1568年)には毛利氏、河野氏と手を結んで一条兼定、宇都宮豊綱、津野氏を攻めて勝利した。(鳥坂峠の戦い)
元亀3年(1572年)にも一条氏を攻めたが、逆に兼定と縁戚関係にあった大友宗麟の攻撃を受けて大敗した。
天正12年(1584年)、長宗我部元親の猛攻を受けて降伏し、さらに翌天正13年(1585年)、四国平定を図る豊臣秀吉配下の小早川隆景に降伏した。その後は居城の黒瀬城のみを残され、新領主の隆景に属し九州平定に配下として従軍するなどしたが、天正15年(1587年)、新たに宇和の領主となった秀吉の家臣・戸田勝隆に戸田邸で謀殺された。享年51。実子も養子もなかったため、これにより大名としての西園寺家(伊予西園寺氏)は完全に滅亡した。
辞世の歌は「黒瀬山 峰の嵐に 散りにしと 他人には告げよ 宇和の里人」。
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