岡谷繁実

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岡谷 繁実(おかのや しげざね、天保6年3月12日1835年4月9日) - 大正9年(1920年12月9日)は、上野館林藩士。通称は鈕吾。 江戸で高島流砲術を学び、その後水戸に遊学し、江戸昌平黌に学ぶ。幕末、館林藩秋元志朝長州藩と血縁関係であったため、勤王家として活動する(尊皇派の公家・高松実村高松保実の継嗣)の家老)。

安政元年(1854年)から明治2年(1869年)にかけて、戦国時代から江戸時代までの192人に及ぶ武将たちのエピソードを記した『名将言行録』を著述。

経歴[編集]

  • 1835年(天保6年)、山形城内に生れる。
  • 1847年弘化4年)、家督を継ぐ。
  • 1854年安政元年)、『名将言行録』起稿
  • 1860年万延元年)、藩の許しなく上京、朝廷に攘夷を建言し、勅使の東下を請願する。
  • 1861年文久元年)、無断上京の罪により降格処分を受ける。
  • 1863年(文久3年)2月、世子秋元礼朝の侍講となる。12月、中老役になり、雄略天皇山陵修復を行う。
  • 1864年元治元年)2月、征長回避を周旋する。4月、藩命により長州に赴くが、そのため幕府の嫌疑を蒙り、10月に藩から禄を奪われ蟄居を命ぜられ、武州深谷に居を移す。
  • 1868年明治元年)、大坂遷都に反対し、蝦夷地経営に適する江戸への遷都を建白した(同年7月、東京奠都の形で実現する)。高松保実に仕え高松家の家老となる。小沢一仙とともに草莽義軍の高松隊を結成、参謀となり、甲府へ先着するも無許可出兵であったため帰還を命ぜられる。
  • 1869年(明治2年)、岩代国巡察使に随行して会津へ赴任、8月、若松県大参事に転ずる、9月、会津松平家再興を建言、10月、知人の罪への関与を疑われ広島藩預かりとなる、11月、知人に連座して免官、この頃、『名将言行録』初版刊行、その後も増補改訂を続ける。
  • 1874年(明治6年)、水沢県七等出仕として復官。
  • 1878年(明治11年)、内務省出仕を経て修史館御用掛に転ずる。
  • 1886年(明治19年)、退職。
  • 1892年(明治25年)、史談会幹事となる。
  • 1900年(明治33年)、『皇朝編年史』刊行。
  • 1911年(明治44年)、続巻を含む『名将言行録』増補版刊行。
  • 1920年(大正9年)12月9日、病没。