ノート:他戸親王

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他戸親王の藤原永手擁立説について[編集]

他戸親王を藤原永手が擁立し、他戸親王異母兄・山部親王(後の桓武天皇)を擁立する藤原良継藤原百川と対立したと、現在の記事では断定されていますが、これはある学者の説(記憶では京都女子大学教授・瀧波貞子氏だったかと)の考察であって、同時代の史料で明確に裏付けのとれる話ではなかったと思います。もし私の記憶違いで、現在これらの話を断定できる史料がある可能性もありますので、皆様の調査ご協力をお願いします。

ちなみにこの問題の箇所を書いたIP:210.196.189.19会話 / 投稿記録 / 記録 / Whois氏は2006年10月12日以降はwikipediaにアクセスした記録がないので、対話による修正補足は不可能と思われます。--こぶまき 2008年7月31日 (木) 07:37 (UTC)[返信]

文中を読んでみますと、私も以前読んだ中西康裕氏の説も同じような見解も同じようなものであった記憶があります。ただ、宮廷の主流派が他戸を推し、藤原式家特に百川が山部を推したという考えそのものは珍しくは無く、河内祥輔氏は他戸擁立の主力を称徳天皇と説き、白壁王には所生男子が大勢いるために傍系に皇統が移ることを危険視してウルトラCとして採った秘策が道鏡を中継ぎとしてその皇太子に他戸を立てようとしたという考えです。藤原一族が白壁王を一致して立てた点に関しては問題はないのですが、藤原永手を中心とした北家の立場は道鏡政権においても比較的主導的な地位(永手は豊成死後は死去まで太政官の筆頭大臣)にあったことから、道鏡擁立は反対でも他戸擁立は支持であったとしても理論上は無理はないのですが、ここは複数説の併記が望まれます。--水野白楓 2008年10月3日 (金) 03:59 (UTC)[返信]

調べたところでは、永手による他戸親王擁立説の最初は中川収氏のようです。(「光仁朝の成立と井上皇后事件」(初出:『日本歴史』227号(1967年4月)、『奈良朝政治史の研究』(高科書店、1991年)採録))--水野白楓 2008年11月17日 (月) 09:48 (UTC)[返信]
(コメント)返答が遅くなり申し訳ありません。また、いろいろ調査して下さったようでありがとうございます。いろんな学者が「藤原永手他戸親王擁立説」を唱えてられますが、どうも明確な史料根拠がある話ではなく、また擁立の性質や内容については諸氏で説が様々なようですね。私も複数説併記に賛成します。--こぶまき 2009年1月19日 (月) 02:17 (UTC)[返信]