橘奈良麻呂の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

橘奈良麻呂の乱(たちばなのならまろのらん)は、奈良時代政変橘奈良麻呂藤原仲麻呂を滅ぼして、天皇の廃立を企てたが、密告により露見して未遂に終わった。

概略[編集]

事件前史[編集]

橘奈良麻呂の父の左大臣橘諸兄は、聖武天皇の治世に政権を担当していた。

743年(天平15年)、難波行幸中の聖武天皇が病に倒れた時、奈良麻呂は佐伯全成に対し小野東人らと謀り、次期天皇に黄文王を擁立する旨の計画を漏らす。既に738年(天平10年)の段階で、皇女の阿倍内親王が皇太子に立てられていたが、奈良麻呂が「皇嗣立てることなし」と皇太子が存在しないと述べている。当時の女帝は全て独身(未婚か未亡人)であり、1代限りで終わる阿倍内親王ではなく、男性の皇位継承者を求める動きが背景にあったと考えられている。

749年(天平21年/天平感宝元年/天平勝宝元年)、聖武天皇が譲位して阿倍内親王(孝謙天皇)が即位すると、天皇の母の光明皇太后に信任されていた藤原仲麻呂が皇太后のために新設された紫微中台の長官(紫微令)に任命される。仲麻呂は孝謙天皇からも寵愛深く、急速に台頭してゆく。一方、阿倍内親王の皇位継承に批判的と見られていた橘諸兄親子の勢力は次第に衰退することとなった。藤原氏の台頭に危機感を抱いた奈良麻呂は、11月の孝謙天皇即位大嘗祭の時、佐伯全成に再び謀反の計画を謀った。しかし全成が謀反への参加を拒絶したため謀反を実行することが出来なかった。

755年(天平勝宝7年)、諸兄の従者佐味宮守から、諸兄が酒宴の席で朝廷を誹謗したとの密告があった。聖武太上天皇はこれを問題としなかったが、翌756年(天平勝宝8年)2月、これを恥じた諸兄は辞職した(2年後諸兄は失意のうちに75歳で死去)。

同年4月、聖武上皇不豫の際黄金を携えて陸奥より上京した佐伯全成に対して三度謀反の計画を謀った。このとき奈良麻呂は大伴古麻呂を誘い、大伴佐伯両氏族をもって黄文王擁立を告げるが佐伯大伴両氏はともにこれを拒絶した。

同年5月2日、聖武太上天皇が崩御する。太上天皇の遺言により道祖王が立太子された。翌757年(天平宝字元年)4月、道祖王が孝謙天皇の不興を受けて廃され、代わって仲麻呂が推す大炊王(淳仁天皇)が立太子される。

陰謀の計画と発覚[編集]

仲麻呂の専横に不満を持った奈良麻呂は、不満を持つ者たちを集めて仲麻呂を除こうと画策する。同年6月28日7月22日)、山背王が孝謙天皇に「奈良麻呂が兵をもって仲麻呂の邸を包囲しようと計画している」と密告した。7月2日7月26日)、孝謙天皇と光明皇太后が、諸臣に対して「謀反の噂があるが、皆が逆心を抱くのをやめ、朝廷に従うように」との詔勅を発した。

しかし、その日の夜、中衛府の舎人上道斐太都から、前備前小野東人に謀反への参加を呼びかけられたと仲麻呂へ密告があった。仲麻呂はただちに孝謙天皇に報告して、中衛府の兵を動かして前皇太子道祖王の邸を包囲し、小野東人らを捕らえて左衛士府の獄に下した。翌7月3日7月27日)、右大臣藤原豊成中納言藤原永手らが小野東人を訊問。東人は無実を主張した。その報告を受けて、孝謙天皇は仲麻呂を傍らに置いて、塩焼王安宿王黄文王、橘奈良麻呂、大伴古麻呂を前に「謀反の企てがあるとの報告があるが自分は信じない」との宣命を読み上げた。

ところが同日事態は急変する。右大臣豊成が訊問から外され、再度、永手らを左衛士府に派遣し小野東人、答本忠節(たほのちゅうせつ)らを拷問にかけた。東人らは一転して謀反を自白した。その内容は、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、安宿王、黄文王らが一味して兵を発して、仲麻呂の邸を襲って殺して皇太子を退け、次いで皇太后の宮を包囲して駅鈴と玉璽を奪い、右大臣豊成を奉じて天下に号令し、その後天皇を廃し、塩焼王、道祖王、安宿王、黄文王の中から天皇を推戴するというものであった。

過酷な処分[編集]

東人の供述により、7月4日7月28日)に奈良麻呂を始め、道祖王、黄文王、大伴古麻呂、多冶比犢養(たじひのこうしかい)、賀茂角足(かものつのたり)ら、一味に名を挙げられた人々は直ちに逮捕され、永手らの訊問を受けた。訊問が進むにつれ、全員が謀反を白状した。奈良麻呂は永手の聴取に対して「東大寺などを造営し人民が辛苦している。政治が無道だから反乱を企てた。」と打ち明けた。

この後すぐに獄に移され、永手、百済王敬福船王らの監督下、で全身を何度も打つ拷問が行われた。道祖王(麻度比と改名)、黄文王(久奈多夫礼と改名)、古麻呂、東人、犢養、角足(乃呂志と改名)は同日、過酷な拷問に耐えかねて次々と絶命した[1]。また首謀者である奈良麻呂の名が『続日本紀』に残されていないが、同じく拷問死したと考えられる[2]

安宿王は佐渡島大伴古慈悲藤原不比等の娘婿)は土佐国に配流され(両者ともその後赦免)、塩焼王は直接関与した証拠がなかったために臣籍降下(「氷上眞人塩焼」と改名)することで不問とされた。反乱計画に直接関与していなかったものの全成は捕縛され奈良麻呂から謀反をもちかけられた顛末を自白した上で自害した。他にもこの事件に連座して流罪徒罪、没官などの処罰を受けた役人は443人にのぼる。また、右大臣・藤原豊成が息子乙縄とともに事件に関係したとして大宰員外帥に左遷された。また、中納言・藤原永手も、その後仲麻呂派で固められた朝廷内で政治的に孤立し逼塞を余儀なくされたと言う説がある[3]。豊成・永手らは反仲麻呂派であると同時に奈良麻呂らの標的とされた孝謙天皇の側近であった人々であり、天皇廃立を企てた奈良麻呂らに対して過酷な尋問や拷問を行った人々であった。

その後[編集]

仲麻呂はこの事件により、自分に不満を持つ政敵を一掃することに成功した。758年(天平宝字2年)、大炊王が即位し(淳仁天皇)、仲麻呂は太保(右大臣)に任ぜられ、恵美押勝の名を与えられる。そして、760年(天平宝字4年)には太師(太政大臣)にまで登りつめ栄耀栄華を極めた。だが、その没落も早く、孝謙上皇の寵愛は弓削道鏡に移り、764年(天平宝字8年)、仲麻呂は乱を起こして敗れ、その一族は滅んだ(藤原仲麻呂の乱)。

乱で処罰された人物[編集]

家系 氏名 官位など 処罰内容
橘氏 橘奈良麻呂 正四位下参議 獄死
皇族 安宿王 正四位下讃岐守 妻子とともに佐渡国へ流罪
皇族 黄文王 従四位上散位頭 久奈多夫礼と改名の上、獄死
皇族 道祖王 皇太子 麻度比と改名の上、獄死
藤原南家 藤原豊成 正二位右大臣 大宰員外帥に左遷
藤原南家 藤原乙縄 正六位上 日向員外掾に左遷
多治比氏 多治比広足 従三位中納言 中納言を解任
多治比氏 多治比国人 従四位下・遠江守 伊豆国へ流罪
多治比氏 多治比犢養 従五位上 獄死
多治比氏 多治比礼麻呂 獄死?
多治比氏 多治比鷹主 獄死?
大伴氏 大伴古麻呂 正四位下・左大弁 獄死
大伴氏 大伴古慈斐 従四位上・土佐守 土佐国へ流罪
大伴氏 大伴池主 式部少丞 獄死?
大伴氏 大伴兄人 獄死?
佐伯氏 佐伯全成 従五位上陸奥守 自害
佐伯氏 佐伯大成 従五位下・信濃守 信濃国へ流罪
賀茂氏 賀茂角足 正五位上遠江守 乃呂志と改名の上、獄死
小野氏 小野東人 従五位上・前備前守 獄死
その他 答本忠節 外従五位下 獄死?
その他 山田三井比売嶋 従五位下(故人) 山田三井宿禰から山田史へ改姓

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 北山茂夫「天平末葉における橘奈良麻呂の変」、『立命館法学』2、1952年。
  • 中川幸広「橘奈良麻呂の変」、『古代史を彩る万葉の人々』、笠間書院、1975年。
  • 菊池克美「橘奈良麻呂の変」、『別冊歴史読本』23-6、1998年。
  • 木本好信「橘奈良麻呂の変」、『奈良時代の人びとと政争』、おうふう、2003年

補注[編集]

  1. ^ 続日本紀』には詳しい記述が無いが、他にも拷問で獄死した加担者がいたと考えられる。
  2. ^ 後に奈良麻呂の孫の嘉智子が皇后になった(檀林皇后)ため、記録から消されたといわれる。
  3. ^ 吉川敏子「仲麻呂政権と藤原永手・八束(真楯)・千尋(御楯)」(初出『続日本紀研究』294号、1994年 『律令貴族成立史の研究』塙書房、2006年 ISBN 978-4-8273-1201-0 所収)