志貴皇子
志貴皇子 (施基親王) | |
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時代 | 飛鳥時代 - 奈良時代初期 |
生誕 | 不詳 |
薨去 | 霊亀2年8月11日(716年9月1日) |
別名 | 芝基皇子、施基皇子、志紀皇子、施基親王 |
尊号 |
春日宮御宇天皇 田原天皇 |
位階 | 二品 |
父母 | 父:天智天皇、母:越道君伊羅都売 |
兄弟 | 弘文天皇、建皇子、川島皇子、志貴皇子、大田皇女、持統天皇、御名部皇女、元明天皇、山辺皇女、明日香皇女、新田部皇女、大江皇女、泉皇女、水主皇女、他 |
妻 | 託基皇女、紀橡姫 |
子 | 春日王、湯原王、榎井王、光仁天皇、壱志王、海上女王、難波内親王、衣縫内親王、坂合部内親王 |
志貴皇子(しきのみこ、? - 716年9月1日〈霊亀2年8月11日〉)は、日本の飛鳥時代末期から奈良時代初期にかけての皇族。芝基皇子または施基皇子(親王)、志紀皇子とも記す。天智天皇の第七皇子[1]。位階は二品。
皇位とは無縁で文化人としての人生を送った。しかしその薨去から54年後に、息子の白壁王(第49代光仁天皇)が即位し、春日宮御宇天皇の追尊を受けることとなった。現在の皇室は志貴皇子の子孫となる[2]。
経歴
天武天皇8年(679年)天武天皇が吉野に行幸した際、鵜野讃良皇后(後の持統天皇)も列席する中、天智・天武両天皇の諸皇子(草壁皇子・大津皇子・高市皇子・河島皇子・忍壁皇子)とともに、皇位継承の争いを起こすことのないよう結束を誓う(吉野の盟約)[3]。天武天皇14年(685年)冠位四十八階の制定により吉野の盟約に参加した諸皇子が叙位を受けるが、志貴皇子のみ叙位を受けた記録がない[4]。朱鳥元年(686年)封戸200戸を与えられる。
持統朝では、持統天皇3年(689年)撰善言司(良い説話などを撰び集める役)に任ぜられた程度で、叙位や要職への任官記録がなく、天皇の弟でありながら不遇な状況にあったか[5]。
文武朝に入ると、大宝元年(701年)の大宝令の制定に伴う位階制度への移行を通じて四品に叙せられる。大宝3年(703年)持統天皇の葬儀では造御竃長官を務め、慶雲4年(707年)6月の文武天皇の崩御にあたっては殯宮に供奉している[6]。
同年7月に元明天皇が即位し、再び天皇の兄弟となる。元明朝では、和銅元年(708年)三品、和銅8年(715年)二品と昇進を果たしている。元正朝の霊亀2年(716年)8月11日薨去。
壬申の乱を経て、皇統が天武天皇の系統に移ったことから、天智天皇系皇族であったために皇位継承とは無縁で、政治よりも和歌などの文化の道に生きた人生だった。薨去から50年以上後の宝亀元年(770年)に、六男の白壁王が皇嗣に擁立され即位した(光仁天皇)ため、春日宮御宇天皇の追尊を受けた。御陵所の田原西陵(奈良市矢田原町)にちなんで田原天皇とも称される。
人物
清澄で自然鑑賞に優れた歌人として『万葉集』に6首の和歌作品を残している。いずれも繊細な美しさに満ち溢れる名歌である。
- 石ばしる 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも
- 神なびの 石瀬の杜の ほととぎす 毛無の岡に いつか来鳴かむ
- 大原の このいち柴の いつしかと 我が思ふ妹に 今夜逢へるかも
- むささびは 木末求むと あしひきの 山の猟師に 逢ひにけるかも
- 采女の 袖ふきかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く
- 葦辺ゆく 鴨の羽交(はがひ)に 霜降りて 寒き夕へは 大和し思ほゆ
『新古今和歌集』以下の勅撰和歌集にも5首が採録されている[7]。
官歴
『六国史』による。
- 朱鳥元年(686年) 8月15日:加封200戸
- 持統天皇3年(689年) 6月2日:撰善言司
- 時期不詳:四品
- 大宝3年(703年) 9月3日:賜近江国鉄穴。10月9日:造御竃長官(持統天皇葬儀)
- 大宝4年(704年) 正月11日:益封100戸
- 和銅元年(708年) 正月11日:三品
- 和銅7年(714年) 正月3日:益封200戸
- 和銅8年(715年) 正月10日:二品
- 宝亀元年(770年) 11月6日:御春日宮天皇を追号
系譜
光仁天皇の即位により、春日宮御宇天皇の皇孫として二世王待遇となった皇族[17]。
- 桑原王(? - 774年) - 父王不詳
- 鴨王(? - 780年) - 父王不詳
- 神王(737 - 806年) - 榎井王王子、後に右大臣
- 壱志濃王(733年 - 805年) - 湯原王第2王子、後に大納言
- 浄橋女王(? - 790年) - 父王不詳
- 飽波女王(? - 787年) - 父王不詳
- 尾張女王(? - 804年?) - 湯原王王女、光仁天皇妃
孝謙上皇の寵愛を受けた道鏡を、志貴皇子の落胤とする説が『七大寺年表』『本朝皇胤紹運録』『僧綱補任』『公卿補任』などに見られる[18]。
系図
古人大兄皇子 | 倭姫王 (天智天皇后) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(38)天智天皇 (中大兄皇子) | (41)持統天皇 (天武天皇后) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(43)元明天皇 (草壁皇子妃) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
間人皇女 (孝徳天皇后) | (39)弘文天皇 (大友皇子) | 葛野王 | 池辺王 | (淡海)三船 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
志貴皇子 (春日宮天皇) | (49)光仁天皇 | (50)桓武天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
早良親王 (崇道天皇) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(40)天武天皇 (大海人皇子) | 高市皇子 | 長屋王 | 桑田王 | 磯部王 | 石見王 | (高階)峰緒 〔高階氏へ〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
草壁皇子 (岡宮天皇) | (44)元正天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大津皇子 | (42)文武天皇 | (45)聖武天皇 | (46)孝謙天皇 (48)称徳天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忍壁皇子 | 吉備内親王 | 井上内親王 (光仁天皇后) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
長親王 | 智努王 (文室浄三) | 大原王 | (文室)綿麻呂 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
御原王 | 小倉王 | (清原)夏野 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
舎人親王 (崇道尽敬皇帝) | (47)淳仁天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
貞代王 | (清原)有雄 〔清原氏へ〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
新田部親王 | 塩焼王 | (氷上)川継 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
道祖王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
- ^ 『続日本紀』霊亀2年8月11日条による。『類聚三代格』では第三皇子とする。
- ^ 『持統女帝と皇位継承』倉本一宏 吉川弘文館 2009年
- ^ 『日本書紀』天武天皇8年5月6日条
- ^ 『日本書紀』天武天皇14年正月2日条
- ^ 『世界大百科事典 第2版』
- ^ 『続日本紀』慶雲4年6月16日条
- ^ 『勅撰作者部類』
- ^ a b 『日本書紀』天智天皇7年2月23日条
- ^ a b 『本朝皇胤紹運録』
- ^ 『日本後紀』延暦24年11月12日条
- ^ 『続日本紀』宝亀4年10月14日条
- ^ 『続日本紀』光仁天皇即位前紀
- ^ 『日本後紀』延暦25年4月24日条
- ^ 『本朝皇胤紹運録』には「海上王」とあるが、『続日本紀』養老7年正月10日条などに海上女王の記載がある。
- ^ 『続日本紀』宝亀3年7月9日条
- ^ 『続日本紀』宝亀9年5月27日条
- ^ 『続日本紀』宝亀元年11月6日条
- ^ 太田亮は『姓氏家系大辞典』でこれを否定している。
参考文献
- 宇治谷孟『日本書紀 (下)』講談社〈講談社学術文庫〉、1988年
- 宇治谷孟『続日本紀 (上)』講談社〈講談社学術文庫〉、1992年
- 『世界大百科事典 第2版』平凡社、2005年
- 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年