冷泉天皇

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冷泉天皇

元号 康保
安和
先代 村上天皇
次代 円融天皇

誕生 950年6月12日
五条邸
崩御 1011年11月21日
冷泉院
陵所 桜本陵
憲平
父親 村上天皇
母親 藤原安子
中宮 昌子内親王朱雀天皇皇女)
女御 藤原懐子
藤原超子
藤原怤子
子女 花山天皇
三条天皇
ほか(后妃・皇子女節参照)
皇居 大内裏
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冷泉天皇(れいぜいてんのう、天暦4年5月24日950年6月12日)- 寛弘8年10月24日1011年11月21日)、在位:康保4年10月11日967年11月15日) - 安和2年8月13日969年9月27日))は、日本平安時代中期)の第63代天皇村上天皇の第二皇子で、憲平(のりひら)。母は藤原師輔の娘・中宮安子円融天皇の同母兄。

略歴[編集]

第二皇子であったが、異母兄の広平親王を押しのけて、生後間もなく立太子。時の権力者である藤原実頼・師輔の兄弟の力が働いていたと思われる。康保4年(967年)、村上天皇の崩御を受けて18歳で即位。この時初めて紫宸殿即位式を行った。精神に病があり皇太子の時代から問題になっていたことから、藤原実頼が関白についた。同母弟の為平親王(村上天皇第四皇子)と、もうひとりの同母弟の守平親王(村上天皇第七皇子、後の円融天皇)の間で冷泉天皇の皇太子(皇太弟)をめぐって安和の変が起こった。安和2年(969年)、円融天皇に譲位。譲位後は冷泉院と称される。62歳で崩御。記録では死因は赤痢とされている[1]

以後後一条天皇の即位まで約50年間弟の円融系との皇位迭立が続き、円融系を父方、冷泉系を母方とする曾孫の後三条天皇の即位で両皇統は融合される事となった。

在位中の重臣一覧[編集]

冷泉天皇の奇行[編集]

冷泉天皇は容姿が非常に端麗であったが、皇太子時代から精神の病ゆえの奇行が目立った。大江匡房が記した『江記』などにより、以下のエピソードが挙げられる。

  • 足が傷つくのも全く構わず、一日中蹴鞠を続けた。
  • 幼い頃、父帝(村上天皇)に手紙の返事として、男性の陰茎が大きく描かれた絵を送りつけた。
  • 清涼殿近くの番小屋の屋根の上に座り込んだ。
  • 病気で床に伏していた時、大声で歌を歌っていた。
  • 退位後に住んでいた御所が火事になった折、避難するときに牛車の中で大声で歌を歌った。

これらの奇行と当時の摂政だった藤原実頼と外戚関係を持たず、逆に有力な跡継ぎとされていた為平親王が伯父の源高明を舅とし、藤原氏を刺激した(安和の変の伏線となる)事等が僅か2年で退位する原因となった。もっとも退位後は在位時のプレッシャーがなくなったのか、62歳まで生きたが、花山天皇をはじめとする皇子女や弟円融天皇、甥の一条天皇等多くの親族に先立たれたのは皮肉な事であった。

系譜[編集]

系図[編集]

 
(60)醍醐天皇
 
(61)朱雀天皇
 
 
広平親王
 
 
 
 
 
 
 
(62)村上天皇
 
 
(63)冷泉天皇
 
(65)花山天皇
 
 
 
 
 
 
 
兼明親王
 
 
致平親王
 
 
(67)三条天皇
 
敦明親王(小一条院)
 
 
 
 
 
 
 
(源)高明
 
 
為平親王
 
 
禎子内親王
(後三条母、陽明門院)
 
 
 
 
 
(64)円融天皇
 
(66)一条天皇
 
(68)後一条天皇
 
 
 
 
 
 
昭平親王
 
 
(69)後朱雀天皇
 
(70)後冷泉天皇
 
 
 
 
 
 
具平親王
 
(源)師房
村上源氏へ〕
 
 
(71)後三条天皇
 
 
 
 
 


后妃・皇子女[編集]

諡号・追号・異名[編集]

追号は、後院(上皇の御所)となった冷泉院(現在の二条城の東北に嵯峨天皇が造営した離宮「冷然院」の後身)に由来する。

在位中の元号[編集]

陵・霊廟[編集]

(みささぎ)は、京都府京都市左京区鹿ヶ谷法然院町・鹿ヶ谷西寺ノ前町にある櫻本陵(桜本陵、さくらもとのみささぎ)に治定されている。公式形式は円丘。

日本紀略』によれば桜本寺前野で火葬し、その山傍に遺骨を埋葬したという。桜本寺の遺址から、明治期に現陵に治定された。

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

脚注[編集]

  1. ^ 権記』寛弘8年10月9日条