穂積氏
穂積氏 | |
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![]() 藤白鈴木氏が代々神職を務めた藤白神社 | |
氏姓 |
穂積臣 のち穂積朝臣 |
始祖 | 饒速日命 |
種別 | 神別(天神) |
著名な人物 |
穂積押山 穂積祖足 穂積百足 穂積五百枝 穂積濃美麻呂 穂積老 穂積忍麻呂 鈴木重家 鈴木孫一 穂積陳重 |
後裔 |
采女臣 藤白鈴木氏(社家・武家) 百谷氏(社家) 木積氏(社家) 穂積家(華族(男爵)) 鈴木家(地下家) など |
凡例 / Category:氏 |
穂積氏(ほづみうじ/ほつみうじ)は、「穂積」を氏(ウジ)の名とする氏族。姓(かばね)は始め穂積臣、後に穂積朝臣。
大和国山辺郡穂積邑および十市郡保津邑を本拠地とした有力な豪族で、神武天皇よりも前に大和入りをした饒速日命(ニギハヤヒ)が祖先と伝わる神別氏族。熊野国造家や末羅国造家とは同祖とされる。子孫の一部は「鈴木」を称し、藤白鈴木氏として続いた。
出自[編集]
穂積氏は、ニギハヤヒの後裔である大水口宿禰、さらに古くは欝色雄命(欝色謎命(孝元天皇の后)の兄)を遠祖とする。建忍山垂根は『古事記』に穂積氏祖と記され、娘の弟橘媛は日本武尊の妃となった。また、『日本書紀』に記される弟財郎女は成務天皇の妃となり和謌奴気王を生んだとされる。
姓は臣であった。天武13年(684年)11月には、八色の姓制定に伴い52氏のひとつとして穂積朝臣姓を賜った。
概要[編集]
穂積氏の具体的な活動が記述されるのは、6世紀前半の穂積押山からである。継体天皇に仕えた穂積押山は、継体6年に百済への使者に任命されて任那に駐在して任那加羅の哆唎の国守となり、任那のうち4県の百済への割譲に尽力したとされる。押山の姓は臣であるにもかかわらず、『百済本記』で「委意斯移麻岐彌(わのおしやまきみ)」と呼ばれているのは、554年に筑紫国造が戦功によって威徳王に「鞍橋君」という名を与えられたように、百済王と押山に特別な関係があったからであると考えられる[1]。
次に記録に現れる穂積磐弓は、欽明16年7月4日に蘇我稲目とともに吉備国の五郡に赴き、白猪屯倉を設置した。
穂積祖足は、推古8年(600年)2月に任那日本府救援のため、征新羅副将軍に任じられて約1万の軍勢を率い新羅に出兵(新羅征討計画)、五つの城を攻略して新羅を降伏させた。
飛鳥時代の穂積咋は、小乙下、大山上となり、大化元年(645年)に東国の国司に任命されたほか、大化5年(649年)には謀反の嫌疑がかかった右大臣・蘇我倉山田石川麻呂の逃亡先の山田寺を軍兵をひきいて包囲し、すでに自害していた石川麻呂の首を斬りおとさせた。穂積咋の子には、天武元年(672年)の壬申の乱で近江方の武将であった穂積百足、穂積五百枝の兄弟がおり、はじめ大友皇子(弘文天皇)のために兵力の動員を行う使者になったが、兄の百足が殺され軍の指揮権を奪われると大海人皇子(天武天皇)に従った。
天武13年(684年)の八色の姓制定に伴い、穂積氏は52氏のひとつとして朝臣姓を賜り、穂積虫麻呂、穂積稲足、穂積濃美麻呂が朝臣姓に改姓した。また、持統5年(691年)に先祖の墓記を上進するよう命じられた18氏の中に穂積氏も含まれており、後に日本書紀の元となった。
文武4年(700年)、穂積濃美麻呂は師の役行者と共に、相模国足柄下郡(現・神奈川県湯河原町)を訪れ陰陽の秘法を以て子之神社を創祀したとされ、このとき、当地で見出した「霊妙なる薬湯」が現在の湯河原温泉であると伝わる[2]。
奈良時代の官人・穂積老は、穂積咋の曾孫で、大宝3年(703年)に山陽道巡察使を命じられ、和銅3年(710年)1月1日には左将軍大伴旅人のもと、副将軍として騎兵、隼人・蝦夷らを率いて行進した。養老2年(718年)、藤原武智麻呂が式部卿に就任した際、式部大輔となる。養老6年(722年)に不敬の罪で佐渡島に配流されるが、天平12年(740年)に恩赦で入京を許された。その後、天平16年(744年)の難波京へ遷都の際、恭仁京の留守官を任され、天平勝宝1年(749年)8月に死去。この時大蔵大輔正五位上。
穂積濃美麻呂の子である穂積忍麻呂は外従七位上となり、初めて熊野速玉大社の禰宜に任じられ、この職は子孫が世襲した。
穂積財麿は、正六位下勲八等となり、弘仁3年(812年)に大鳥居側に手力雄神を鎮座し奉った。
その後、紀州熊野系の穂積氏は穂積国興の子・鈴木基行の代に鈴木を称し、藤白鈴木氏として続いた。また、宇井氏、榎本氏も穂積氏の分流と伝わり、熊野三党を形成した。
穂積氏の子孫として、藤白鈴木氏やその分家筋などがある。また、伊予国の旧宇和島藩士・穂積家出身で、日本民法典の起草者である穂積陳重もこの穂積氏の血統であるといわれている[3]。石切剣箭神社の社家である木積氏は穂積氏の末裔とされる[4]。穂積を姓とする氏族は穂積朝臣以外にも、桓武平氏北条氏流、桓武平氏千葉氏流、藤原北家秀郷流などがある。
脚注[編集]
- ^ http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17414/rsg062-02-i.pdf
- ^ 『子之神社、古神道総齋主・天佑師公式ホームページ』神社案内
- ^ 潮見俊隆・利谷信義編『日本の法学者』法学セミナー増刊99頁(長尾龍一執筆)(日本評論社、1974年)
- ^ 宗教社会学の会『生駒の神々/現代都市の民俗宗教』創元社、1985年