東明聖王

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東明聖王
Goguryeo-monarchs(1-6).PNG
各種表記
ハングル 동명성왕
漢字 東明聖王
発音 トンミョンソンワン
日本語読み: とうめいせいおう
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平壌にある東明聖王の墓
墓近くの東明聖王の石像

東明聖王(とうめいせいおう、(紀元前58年 - 紀元前19年)は、高句麗の初代(在位:紀元前37年 - 紀元前19年)とされる指導者であり、東明王とも呼ばれる。姓は高、朱蒙(しゅもう、チュモン)または鄒牟(すうむ、추모、チュモ)、衆解(しゅうかい、중해、チュンヘ)とされる[1]扶余金蛙王(きんあおう)の庶子とされる。扶余の7人の王子と対立し、卒本(ジョルボン 遼寧省本渓市桓仁)に亡命して高句麗を建国、初代指導者となった。ツングース系民族[2]

建国神話[編集]

「東明」を始祖にする建国神話・始祖伝説は、扶余・高句麗・百済に共通して見られる。歴史的にみれば扶余建国神話の東明と高句麗始祖の朱蒙とは別の人物だと見当がつく。東明伝説も朱蒙伝説も筋書が構造的に共通点が多い、その特徴は王の政治的権威の源泉を天に帰属させ、同時に農業生産を左右する河神の権威を主張することである。ここでは高句麗の建国神話を『魏書』と『三国史記』に基づいて記述する。扶余の建国神話については後述。百済の始祖神話については、「温祚王#建国神話」を参照。

天光受胎[編集]

朱蒙の母である河伯(かはく、黄河の水神)の娘を自称する柳花(ユファ)は、太白山の南を流れる優渤水に居た所、扶余王の金蛙と出会ったが、柳花の「遊びに出た先で、天帝の子を自称する解慕漱(かいぼそう、ヘモス)に誘われ付いて行くと帰して貰えず、両親一族の怒りを買ってしまい仕方なく此処に住んでいます」という話を疑った金蛙によって部屋へ閉じ込められていた所、日光が柳花を照らし身を引いて避けても日光は追ってきて柳花を身篭らせ、やがて大きな卵を産んだ[3]

金蛙王は卵を犬や豚の傍に捨てさせるが、共にこれを食べなかった。路上へ捨てると牛馬がこれを避け、野原へ捨てると鳥が卵を抱いて守った。自ら割ろうとしても割れず、遂に母親へ返した。母が暖め続けると卵が割れ、男の子が生まれた。7歳になると自ら弓を作り、矢を射ると百発百中だった、それが朱蒙である。

国人との対立[編集]

朱蒙の名の由来は扶余の言葉での達人と言う意味である。朱蒙は名の如く弓の達人であり将来必ず異心を抱くとして夫余国の人々は排除を望んだが、王は朱蒙を庇い馬の世話を命じる。

しかし、朱蒙が駄馬を良く世話して肥し駿馬には餌を与えず痩せ細らせることで王を駄馬に乗せ自らへ駿馬を賜らせることに成功し、また狩りへ出ると少ない射撃で多くの獣を傷付けたため、夫余国の人々は再び朱蒙の暗殺を企てた。陰謀を察知した朱蒙の母が逃亡を促すと、友である烏引・烏違(ヲヱン、ヲイ)の2人(三国史記では、烏伊・摩離・陝父(ヲイ、マレ、センピョ)の3人)と共に逃亡した。

亡命と建国[編集]

朱蒙は友と共に夫余を捨て東南へ逃走した。淹水(鴨緑江の東北)まで来ると橋がなく、追手を恐れ川に向かって「私は太陽の子で河伯(黄河の水神)の外孫である、今日逃走してきたが、追手がいよいよ迫っている、どうすれば渡れるか?」と言うと、魚や鼈(スッポン)が浮かんで橋を作り、朱蒙らは渡ることができた。朱蒙らが渡り終わると魚達の橋は解かれ、追手は河を渡れなかった。

更に逃げて卒本川へ至ると土地が肥沃で要害堅固なので、鹘昇骨城(現遼寧省桓仁県五女山城)を築き都とした。孝元帝建昭2年(西暦紀元前37年)に国を建て高句麗と号した。即位直後から隣接する濊貊(三国史記中の靺鞨は濊貊を指す)の部落に対して略奪や破壊を繰り返すと、濊貊は恐れて服属した。しかし、夫余の圧迫を受け紀元3年になると丸都城へ遷都する。

王位の継承[編集]

紀元前19年5月、王子の類利(るいり、ユリ、後の瑠璃明王)がその母(礼氏)とともに扶余から逃れてきた。朱蒙はこのことを喜び、類利を太子として後に王位を受け継がせた。同年9月に朱蒙は40歳で亡くなり、龍山に葬られて号を東明聖王とされた。

建国の年[編集]

伝説では紀元前37年に建国したというが、実際には紀元前75年元鳳6年)に玄菟郡が廃止された時、高句麗侯として自立したとみられている。紀元後の32年に高句麗侯は高句麗王に昇格したがこれは漢帝国の朝廷から与えられた称号であり、自称としては伝説の通り紀元前37年に実質的に王であったとして問題ないと考えられている。

好太王碑(広開土王碑)では好太王は鄒牟王の17世とする。これを17世孫の意味にとると、『三国史記』高句麗本紀に広開土王は東明聖王の12世孫とあるのと比べて5世代も多い。そこで『三国史記』は新羅王室に連なる慶州金氏金富軾が編纂したものであり、新羅を持ち上げるために高句麗の建国年を新羅の自称建国年(実際には4世紀末から5世紀初頭)よりも後にしたと見る説もあったが、現在では碑文の17世は「17代目」の意味[4]とするのが普通である。

扶余の建国伝説との比較[編集]

後漢書』夫余伝に見られる建国神話は、以下の通り。

昔、北方に索離国という国があり、王の婢が言われなく身籠ったため、王はこの婢を殺そうとした。婢は「天空に神聖なる気が立ちこめ、私に降り注いだために身籠ったのです」と答えた。王はこの婢を軟禁し、後に男子が生まれた。王はこの子を豚に食べさせようとして豚小屋の前に置いたが、案に相違して豚は息を吹きかけてその子を守ろうとし、死ぬことがなかった。王は今度は馬小屋に持っていったが、馬も同じようにその子を守ろうとした。王はこれは神意を表すものと思い、その母を許してその男子を東明と名づけた。東明は成長して弓術に優れたので、王は東明の勇猛振りを恐れて、これを殺そうと考えた。そこで東明は南方へ逃走し、掩淲水に至った。川に向かって東明が弓を射ると、魚や鼈が浮かんできて橋を作り、東明はこれに乗って渡り逃れることができた。そして夫余の地に至って王となった。

「扶余の始祖としての東明」の伝説は、古くは『論衡』吉験篇に見られる。また、『三国志』夫余伝が『魏略』からの孫引きとして伝えており、これらの史書の中の高句麗伝では、始祖伝説は見られない。『魏書』に至って扶余伝はなくなり、代わりに高句麗伝のなかで高句麗の始祖伝説が伝えられるようになった。その伝説の骨子は、元来の東明伝説(扶余の建国神話)に、河伯(水神)の外孫であること、卵生であること、という要素が加わって、高句麗が扶余から出たこと、名を朱蒙とするというものである。また、東明伝説において東明が弓術に優れていたとするのと呼応するように、「朱蒙」という語は「善射」を意味する、とも書かれる。後に高麗の時代になって、『三国史記』(1145年撰上)では、高句麗の始祖を「が朱蒙、が東明聖王」とするようになり、高麗の詩人である李奎報(1168年-1241年)の叙事詩「東明王篇」(1194年)においても、高句麗の始祖を東明王と同一視するようになった。さらには『三国遺事』の時代になって民族的統合の象徴として檀君に系譜化され、「東明王である朱蒙は檀君の子である」とされるようになったと考えられている。

扶余の東明伝説と高句麗の朱蒙伝説との共通構造は、両者の民族的同一性を表している。しかしこれらの始祖伝説を同一とはみなさず、高句麗の始祖伝説に卵生型説話の要素を含むことや、広開土王碑文や『魏書』高句麗伝に「東明」の表現が見られないことなどから、東明伝説の構成を元に高句麗独自の要素を加えた始祖伝説が創られ、後の『三国史記』において東明聖王と朱蒙とが同一視されたとする説もある。

陵墓[編集]

東明聖王の陵墓は平壌市中心部から東方25Kmの地点に推定陵墓が存在し、東明王陵と称されている。世界文化遺産高句麗古墳群の構成古墳である。元来は集安にあったものを427年の平壌遷都とともに遷された。陵墓は1辺32m、高さ11.5mであり、周囲には中門、祭祀堂、石像などが設けられている。玄室内部には29種の壁画が描かれている。1993年5月14日金日成の指示により整備が行われ、敷地面積約220ha、王陵区域、定陵寺区域、陪墳区域が整備された。

東明聖王が登場する作品[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 高句麗語声調があったかわからないが、中国語ベトナム語において「蒙」字は平声東韻で、「解」字は上声蟹韻で読まれている。
  2. ^
    • シロコゴロフ、川久保悌郎田中克巳訳『シロコゴロフ 北方ツングースの社會構成』(1942年、岩波書店)p285-p287「鳥居龍蔵氏は彼らを北朝鮮の強国、夫余及び高句麗の建設者と見做し、彼等をツングースであろうと考えている。」
    • 白鳥庫吉『白鳥庫吉全集 第4巻』(1970年、岩波書店)P536「『穢貊は果たして何民族と見做すべきか』穢貊の言語には多量のTunguse語に少量の蒙古語を混入していることが認められる。想うにこの民族は今日のSolon人の如く、Tunguse種を骨子とし、之に蒙古種を加味した雑種であろう。」
    • 井上秀雄、他訳注『東アジア民族史1-正史東夷伝』(1974年、平凡社)p103「(高句麗、夫余の)両族は、ともにツングース系と考えられている。両族が同系であることは始祖神話(東明・朱蒙伝説)の類同によっても推測できよう。」
    • 加藤九祚『北東アジア民族学史の研究』(1986年、恒文社)p156「高句麗は北扶余から発したというが、その北扶余がツングース・満州語族に属することは定説となっている」
    • 三上次男神田信夫編『民族の世界史3 東北アジアの民族と歴史』(1989年、山川出版社)p161「Ⅱ(夫余、高句麗、濊、東沃沮)の言語はツングース・満州語の一派か、またはそれに近い言語と思われるが、むしろ朝鮮語と近い親縁関係にあるか、詳しく調べてみなければわからない。」
    • 鳥越憲三郎『古代朝鮮と倭族』(1992年、中央公論社)「高句麗は紀元前1世紀末、ツングース系の濊族によって建国」
    • 浜田耕策『日本大百科全書』「【濊貊】前3世紀ごろモンゴル系民族に押し出されて朝鮮半島北東部に南下し、夫余、高句麗、沃沮を構成したツングース系の諸族を含むのである」
    • 村山正雄『日本大百科全書』「【夫余】古代中国の東北地方に割拠していたツングース系と思われる民族が建てた国名」
    • 佐々木史郎『日本大百科全書』「【満洲族】夫余と靺鞨はツングース系の民族ではないかと考えられている」
    • 護雅夫『日本大百科全書』「【騎馬民族】高句麗は東北アジア、満州にいたツングース系民族」
    • 諏訪春雄「朝鮮で高句麗や百済を建国した夫余族はツングース系の遊牧民族(学習院大学教授 諏訪春雄通信)」
    • 黄文雄『韓国は日本人がつくった』(2002年、徳間書店)「遼東や北満の地は、かつて高句麗人、渤海人などの(中略)ツングース系諸民族が活躍した地である」
    • 広辞苑「【高句麗】紀元前後、ツングース族の扶余の朱蒙の建国という」
    • 大辞泉「【高句麗】紀元前後にツングース系の扶余族の朱蒙が建国」
    • 南出喜久治「私の見解では、高句麗は、建国の始祖である朱蒙がツングース系(満州族)であり、韓民族を被支配者とした満州族による征服王朝であつて、韓民族の民族国家ではないと考へている。(いはゆる「保守論壇」に問ふ ‹其の五›日韓の宿痾と本能論)」
    • 長野正孝『古代史の謎は鉄で解ける』(2015年、PHP研究所)「高句麗はツングース系の騎馬民族がつくった国家で、定住化によって遊牧から次第に離れたが、騎馬による戦力は絶大なものがあった。」
    • 宮家邦彦『哀しき半島国家韓国の結末』(2014年、PHP研究所)p160「高句麗は紀元前三七年、マンジュ地方の鴨緑江付近で興ったツングース系国家であり、四世紀中ごろに南下して、楽浪郡北部を征服した。」
    • 豊田隆雄『本当は怖ろしい韓国の歴史』(2016年、彩図社)p9「高句麗は、韓族で構成される新羅や百済と違って北方のツングース系の国家」
    • 薗田香融『日本古代の貴族と地方豪族』(1992年、塙書房)、p259「今の北朝鮮に当る部分にはツングース系の高句魔」
    • 埴原和郎『日本人と日本文化の形成』(1993年、朝倉書店)p211「歴史時代に興亡した扶余も、靺鞨も、高句麗や渤海も、濊や沃沮などもツングース系だといわれている。」
    • 酒井忠夫『世界史研究』(1953年、績文堂)p128「高句麗(北満の半農半牧のツングース族が漢代以後中国文化の影響により興り建国)」
    • 渡部昇一『ことばの発見』(1975年、中央公論社)p87「東洋史の上で遼とか金とか高句麗とか渤海とか清とか言うのもツングースである。」
    • 三上次男『古代東北アジア史研究』(1966年、吉川弘文館)p87「広く東北アジアに居住する諸族を当昔にわたって見わたすと、東部シベリアから、東満洲、北朝鮮の山岳森林地帯には、古の貊や高句麗、中世以後の女真、満洲など、いわゆるツングース系の語族が変らない大勢力を擁していたことがわかる。」
    • 青木慶一『民衆と戦争』(1978年、東明社)p40「オロッコ-ツングースなどから成る高句麗が次第に南進して百済を圧迫するに至った。」
    • 成瀬治『世界史の意識と理論』(1997年、岩波書店)p116「すなわち、五胡が中国の華北に侵入し、騎馬民族の高句麗が朝鮮に勢力を拡大したころ、高句麗と同じツングース系の騎馬民族」
    • 沖浦和光『辺界の輝き』(2002年、岩波書店)p32「ツングース族などの騎馬民族系は、南下してきて朝鮮の北部に高句麗を建国します。話が長くなるので略しますが、それから百済王朝を攻め滅ぼします。」
    • 白崎昭一郎『広開土王碑文の研究』(1993年、古川弘文館)p49「『言語法俗大抵与句麗同』というから、高句麗と同系で、恐らくツングース系の民族であったろう。」
    • 水野祐『古代の出雲』(1972年、吉川弘文館)p300「朝鮮半島へ南下した大陸系北方民族が、高句麗にしても、扶余にしても、濊にしても、いずれもみな満州に原住したツングース系統と考えられている。」
    • 小島直記『松永安左ェ門の生涯』(1980年、松永安左ェ門伝刊行会)p1073「朝鮮には、西暦紀元頃、ツングース系の高句鹿と、そして漢民族の移民とが住んでいたという。」
    • 佐々木高明『地域と農耕と文化』(1998年、大明堂)p317「高句麗や渤海も、濊や沃阻などもツングース系の民族だといわれている。」
    • 室谷克実『日韓がタブーにする半島の歴史』(2010年、新潮社)p193「(中国の史書には)高句麗などのツングース系民族と韓族との間には、比較の記述がない。(民族が)違うことが大前提であり、わざわざ違うとは書いていない」
  3. ^ 高句麗など鳥を崇拝していた民族では、卵が神聖なものとされた
  4. ^ そうすると『三国史記』は広開土王が第19代であるとしているので今度は逆に2代も少ない。これについて、『三国史記』の系譜伝承は何段階にもわかれて形成されたと推定されているが広開土王の時代にはまだ後世の『三国史記』の系譜伝承が完成しておらず、次大王と新大王が追加されていなかったと考えられている。

参考文献[編集]