帯方郡

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3世紀の朝鮮半島

帯方郡(たいほうぐん)は、204年から313年の109年間、古代中国によって朝鮮半島の中西部に置かれた軍事・政治・経済の地方拠点(植民地との見方も存在する[1])。楽浪郡の南半を割いた数県(代では7県〈『晋書地理志』〉)と、東の、南の、南端の(半島南端)がこれに属す。後漢から西晋の時代にかけ、郡の経営や羈縻支配を通じて韓・倭という東夷地域へ中国の文化や技術を持ち込んだほか、直轄となった魏朝以降には華北の中国文化の窓口としても重要な役割を果たした。郡の長が太守であり、その配下の官吏と軍団の在する郡役所が郡治である。帯方郡治は、楽浪郡治(平壌)の南方にあったことは確かだが、詳しい位置については諸説ある(後述)。

帯方郡の歴史[編集]

朝鮮歷史
朝鮮の歴史
考古学 櫛目文土器時代 8000 BC-1500 BC
無文土器時代 1500 BC-300 AD
伝説 檀君朝鮮
史前 箕子朝鮮
辰国 衛氏朝鮮
原三国 辰韓 弁韓 漢四郡
馬韓 帯方郡 楽浪郡

三国 伽耶
42-
562
百済
346-660
高句麗
前37-668
新羅
356-
統一
新羅
熊津安東都護府
統一新羅
鶏林州都督府
676-892
安東
都護府
668-756
渤海
698
-926
後三国 新羅
-935

百済

892
-936
後高句麗
901
-918
女真
統一
王朝
高麗 918-
遼陽行省
東寧双城耽羅
元朝
高麗 1356-1392
李氏朝鮮 1392-1897
大韓帝国 1897-1910
近代 日本統治 1910-1945
現代 連合軍軍政期 1945-1948
大韓民国
1948-
朝鮮民主主義
人民共和国

1948-
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公孫氏による創設[編集]

後漢の末、中平6年(189年)に中国東北部遼東太守となった公孫度は、勢力を拡大して自立を強め、後漢の放棄した朝鮮半島へ進出、現在の平壌付近から漢城北方にかけての一帯にあった楽浪郡を支配下に置いた[2]。その後を継いだ嫡子・公孫康は、建安9年(204年)楽浪郡18城の南半、屯有県(現・黄海北道黄州か)以南を割くとともに南方の土着勢力韓・濊族を討ち、併せて帯方郡として「是より後、倭・韓遂に帯方に属す」[3]という朝鮮半島南半の統治体制を築く。郡治とは、その周囲の数十県(城)の軍事・政治・経済を束ねる一大機構であり、個々の県治よりもひときわ大きな城塞都市であった。公孫康はほどなく魏の曹操に恭順し、その推薦によって後漢の献帝から左将軍・襄平侯に任ぜられ、帯方郡も後漢の郡として追認された。

公孫康の死後、その子・が幼いために公孫康の実弟・公孫恭が後を継ぎ、後漢の献帝から禅譲を受けた魏朝の文帝(曹操の子・曹丕)により、車騎将軍・襄平侯に封じられた。しかし、太和2年(228年)成長した公孫康の子の公孫淵は叔父・恭の位を奪い取り、魏の曹叡(明帝)からの承認も取りつけて揚烈将軍・遼東太守に任ぜられる。公孫淵は、祖父以上に自立志向が強く、魏朝の仇敵である孫権との同盟を画策し、最終的には、魏から受けた大司馬・楽浪公の地位を不足とし、景初元年(237年)反旗を翻して独立を宣言。遼東の襄平城で燕王を自称するにいたる。帯方郡も楽浪郡もそのまま燕に属した。

翌年(238年)魏の太尉・司馬懿の率いる四万の兵によって襄平城を囲まれ、長期の兵糧責めにあって公孫淵とその子・修は滅びる。これまで帯方郡は「後漢─魏─燕」と、形式的にはその所属に変遷があったが、実質的は一貫して公孫氏の領有下にあり、韓や倭といった東夷からの朝貢は公孫氏が受け取っていたと思われる。

魏の直轄経営[編集]

襄平城の攻城戦の最中であろうか、魏は劉昕と鮮于嗣をそれぞれ帯方太守、楽浪太守に任じ、両者を密かに海路で、山東半島から黄海を越えて朝鮮半島に派遣。帯方郡と楽浪郡の2郡を掌握させた。帯方郡はこれにより魏の直轄地となる。太守・劉昕は、周辺の東濊・韓族の首長に邑君あるいは邑長の印綬を賜与し、魏との冊封関係を改めて結び直した。邪馬台国・卑弥呼も、景初2年(238年。『魏志倭人伝』の記述は誤りで、景初3年が正しいとする説もある)6月に、この新生・帯方郡の地へ、朝貢使の難升米を派遣したわけである。このとき太守は劉夏であったが、彼は郡の官吏を付けて後漢の都・洛陽まで難升米の一行を送らせた。

正始元年(240年)にさらに異動があり、新太守となった弓遵は、魏の詔書・金印紫綬を配下の梯雋に持たせて卑弥呼のもとへ送った。ところがこの弓遵は、同6年(245年)に嶺東へ遠征して東濊を討った後、それまで帯方郡が所管していた辰韓八国を楽浪郡へ編入することになり、その決定を現地に伝えた際、通訳が誤訳を犯して臣智激韓を激怒させ[4]郡内の韓族が帯方郡の崎離営を襲った。これを弓遵と楽浪太守の劉茂が兵を興して討ち、魏軍は韓族を滅亡させたが弓遵は戦死した。

同8年(247年)弓遵から引き継いだ太守・王頎は、倭の使者から邪馬台国狗奴国との交戦の報告を受け、自ら上洛して官の決裁を仰ぐが、魏朝から邪馬台国へ援軍が送られることはなく、魏の少帝の詔書と黄幢を携えた塞曹掾史(外交官、軍使、軍司令副官など諸説あり)の張政が派遣されるに留まった。

ここまでの帯方郡の動きは『三国志』からつぶさに知れる。歴代太守の記録を見ると、戦死した弓遵の例を除き、外交官としての非軍事的活動が主であることに気づく。また、その頻繁な人事異動には(8年間で4人の太守)、帯方郡の軍閥化を防ぎ第2の公孫氏を生まぬようにするための魏の基本方針と推測される

帯方郡の滅亡[編集]

泰始元年(265年)に魏の重臣であった司馬炎(懿の孫、後の晋の武帝)が魏の曹奐(元帝)から禅譲を受けて晋朝(西晋)を興すが、その新しい王朝の繁栄も長くは続かず、永康元年(300年)身内の八王の乱ですっかり混迷状態に陥った。この時代、帯方郡に属する県は、帯方・列口・南新・長岑、提奚、含資、海冥の7県であった(『晋書地理志』)。

建興元年(313年)遼東へ進出した高句麗が南下して楽浪郡を占領すると、朝鮮半島南半に孤立した帯方郡は晋の手を離れ情報も途絶した。元の帯方郡や楽浪郡南部に残された漢人の政権や都市は、東晋を奉じて5世紀初頭までの存続が確認されているが、5世紀前半には百済によって征服され、5世紀後半に入ると南下した高句麗が百済を駆逐して支配下へ置いた。

倭との関係[編集]

帯方郡の滅亡後も地理的概念として帯方の名は残っていたようで、広開土王碑文によると404年に倭から百済征伐の形で北侵し、帯方界(旧帯方郡の境界?)に進入して高句麗と戦ったが無数の将兵を失ったという[5]

帯方郡治はどこにあったか[編集]

楽浪郡治の所在地が、現在の平壌の郊外、市街地とは大同江を挟んだ対岸にある楽浪土城(平壌市楽浪区域土城洞)にあったことに異論はない。土塁で囲まれた東西700m、南北600mの遺構に、当時のさまざまな遺物のほか、官印「楽浪太守章」の封泥(封印の跡)までもが出土し、考古学的に明らかにされた状態といえる。これに対して、帯方郡治の比定地については決め手がなく、現代の38度線を挟んで諸説ある(東潮「古代朝鮮との交易と文物交流」『日本の古代3』1986年)。『魏志倭人伝』では、帯方郡が邪馬台国への旅の出発点であるだけに、かの邪馬台国論争からの関心も厚い(安本美典「魏志倭人伝を読む その3」邪馬台国の会・第232回講演記録)。

南方説[編集]

ソウル説と広州説がある。広州は最初の百済の都であり、3世紀の馬韓の「伯済国」は広州にあったともされる。この二説は必ずしも対立するものではなく、初期には広州にあった帯方郡がソウルに遷り、その跡地に百済が興ったとも考えられる。

京畿道ソウル説
現在のソウルに帯方郡治があったとする説(関野貞、小田省吾、白崎昭一郎、坂田隆、江上波夫など)。『漢書地理志』には、前漢時代の楽浪郡25県の1つとして帯方県が記され、「帯水、西して帯方に至り海に入る」とある。この「帯水」とはどの川かとなるが、同書には明らかに大同江を指し示す「列水」がある以上、「帯水」を大同江のことと解する余地はない。最有力なのは中部を西流する大河の漢江であり、その河口部のソウルこそが帯方郡治であったという論法になる。このような文献解釈としての説得性が南方説の強みであり、最も古典的な説でもある。
京畿道広州説
ソウルの東南40kmの広州を帯方郡治に比定する説(岡田英弘、ソウルか広州のどちらかだろう〈前掲書〉)。上記のソウル説と根拠はほぼ同じで、広い意味では「ソウル近隣説」ともいえる。漢江を河口から遡ると、ソウルを過ぎて北上する北漢江と南東に向かう南漢江に分かれる。「帯水、西して帯方に至り海に入る」の「帯水」を北漢江ではなく南漢江と解すれば、帯方郡治を広州と考えることも可能である。広州はいまでこそ目立たぬ小村であるが、百済の最初の王都・尉礼城とはここであった。古代の邑城が、海からはやや離れ、少し河口を遡った小高い地に多く存在することを考えると、むしろソウルよりも相応しい場所といえる。

南方説の問題点としては、ソウルを中心として風納里土城、夢村土城、石村洞古墳群などの発掘が行なわれたものの、めぼしい発見は未だないことである。ソウルも広州も古学的裏付けが乏しく、郡治があった痕跡は希薄である。

北方説[編集]

鳳山郡説と安岳郡説がある。ともに考古学上の見地から唱えられた。この両説も南方説の場合と同じく、郡治所の移動がありうることを考えれば、必ずしも対立するものではない。

黄海北道鳳山郡説
平壌から南へ50km、黄海北道鳳山郡沙里院にある唐土城を帯方郡治に比定する説(那珂通世、白鳥庫吉、榎一雄、今西竜、井上光貞、井上秀雄、鳥越憲三郎など)。楽浪郡址と同時代の瓦・塼(煉瓦)・銭などが出土しているほか、1912年に付近の古墳群からは「帯方太守 張撫夷塼」と刻まれた塼槨墓が見つかるなど考古学的な発見は多い。
黄海南道安岳郡説
平壌の南西60km、安岳郡に比定する説。付近には「元康5年(295)」銘塼のある下雲洞古墳、「太康9年(288年)」銘塼出土の柳雲里北洞があり、楽浪墓制と同じく、漢人の塼槨墓がこの地にも数多く営まれたことを窺わせる。大同江河口の入江を扼する位置にあり、中国遼東半島、山東半島のどちらにも近いという海上交通の要地でもある。

北方説の問題点として、黄海北道や黄海南道では、楽浪郡に近すぎて2つに郡を分けた意味が無いという批判がある。また北方説では「韓、帯方の南にあり……方四千里ばかり」(『魏志韓伝』)という1辺4,000里の正方形にはならず、縦長の長方形になってしまい記述に合わない。この2点を掲げて批判する南方説の支持者は日本や韓国や中国に多い。第三に、中国の歴代の史書では百済の起源について帯方郡との関係をいう場合が多く、南方説では馬韓伯済国(京畿道広州)が帯方郡(京畿道広州)の跡地に存在していたか、近隣の帯方郡(京畿道ソウル)に進出したと解釈されているが、北方説では百済の発祥の地と帯方郡が離れすぎて説明が不可能になってしまうという問題点がある。

帯方郡の疆域[編集]

北方説の考古学的根拠は、必ずしも帯方郡治(帯方県)の位置を確定するものではないが、帯方郡の領域が安岳郡や鳳山郡まで広がっていたとする論拠としては問題ない。最近の説では、鳳山郡・安岳郡・信川郡など載寧江流域の一帯には、他国からの流入者・亡命者などを含めた中国人社会が(帯方郡治所のあった場所が北方か南方かにかかわらず)形成されていたという見解(東潮・前掲書)が、これらの地に塼槨墓が存在する理由を合理的に説明しうるものとして注目されている。この上で、もし郡治がソウルか広州にあったと仮定した場合、帯方郡の領土はやけに細長い形になるので、岡田英弘は、帯方郡は黄海南道安岳郡から京畿道にかけての交易路に沿って、回廊状に7県がならんでいたと推定している。同様な回廊状の郡としては前漢代の玄菟郡があり、そちらは玄菟回廊ともよばれる。

帯方回廊の北端として岡田英弘は安岳郡は帯方郡の領域に含まれるが鳳山郡は含まれないとした。帯方郡の屯有県は「公孫康、屯有県以南の荒地を分けて帯方郡と為す」(『魏志韓伝』)とあるように当初は帯方郡に属していたが、『晋書地理誌』の掲げる帯方郡の7県には入ってはおらず、楽浪郡に入っている。つまり屯有県は楽浪郡と帯方郡の境にあり、はじめ帯方郡に属したが後に楽浪郡に移管している。

北帯方・南帯方[編集]

三国遺事』によると帯方郡には南北の二つがあるという。実際の位置は北帯方が南、南帯方が北になる。南帯方は本来の帯方郡からみて南なので理解できるが、北帯方はどこから見て・なにと比べて「北」というのか不明。『三国遺事』が南北を逆に誤記しているとも考えられる[6]

  • 北帯方
前漢が楽浪郡と同時に設置(紀元前108年)した郡で、その郡治は今の全羅南道羅州市にあった。これが正しいとすると漢四郡(楽浪・玄菟・臨屯・真番)は実は漢五郡だったことになる。その後(紀元前82年?)独立国を自称(帯方国)していたが、37年高句麗に滅ぼされたという[7]
  • 南帯方
220年 - 265年)の時代に今の全羅北道南原市に郡治が置かれたという。これが正しいとすると魏が遼東の公孫氏を滅ぼしその楽浪郡と帯方郡を接収した238年以降のある時、魏は一時的にせよ帯方郡を大きく南へ移動させたことになる。このような史実は仮にあったとしても瞬間風速的なもので永続的なものではなく、候補として考えられる事件としては、魏が馬韓の反乱を鎮圧した245/246年の出来事かとも思われる[8]

脚注[編集]

  1. ^
    • 鳥越憲三郎「前漢武帝が元封三年に朝鮮半島の北部を植民地として楽浪・臨屯・玄菟・真番の四郡を設置」(『人物』 中西進王勇編、大修館書店〈日中文化交流史叢書 第10巻〉、1996年10月。ISBN 4-469-13050-8)。
    • 渡辺延志朝日新聞記者「楽浪郡は前漢が前108年に設置した植民地(渡辺延志 (2009年3月19日). “紀元前1世紀の楽浪郡木簡発見”. 朝日新聞. http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200903190125.html 2011年6月1日閲覧。 )」「中国の前漢が朝鮮半島に置いた植民地・楽浪郡(渡辺延志 (2010年5月29日). “最古級の論語、北朝鮮から 古代墓から出土の竹簡に記述(1/2ページ)”. 朝日新聞. http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201005280277.html 2011年6月1日閲覧。 )」「漢字が植民地経営のために、朝鮮半島にまで広がっていた(渡辺延志 (2010年5月29日). “最古級の論語、北朝鮮から 古代墓から出土の竹簡に記述(2/2ページ)”. 朝日新聞. http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201005280277_01.html 2011年6月1日閲覧。 )」
    • 長野正孝「武帝は朝鮮半島に楽浪と玄菟、真番と臨屯の漢四郡をつくって、漢人の郡太守と県令を送り、植民地政策を始めた。侵略した漢人達は土着の住民達を奴隷のように使って半島の地下に眠る鉄鉱石を掘り出し、衛氏朝鮮の古い製錬・鍛造施設を使い何ら投資することなく鉄生産を始めた。」『古代史の謎は「鉄」で解ける』PHP研究所2015年
    • 武光誠魏志倭人伝は、朝鮮半島にあったの植民地、帯方郡から邪馬台国にいたる道筋を詳しく記している」武光誠「古代史最 大の謎邪馬台国の21世紀的課題」『月刊現代』2008年6月号、87頁
    • 魚塘漢の武帝紀元前一〇八年衛満朝鮮の末王右渠を征服して、衛満朝鮮の故地に植民地というべき漢の四郡を設置した。」『朝鮮の民俗文化と源流』同成社1981年、41頁
    • 全浩天「漢が漢四郡を設置し、植民地支配をはじめるころ、高句麗族は、当代に威名をとどろかした漢帝国にたいする反侵略戦争の過程で真番、玄菟二郡を崩壊させ、国家形成をとげたのであった。これは、まさに凄絶な戦いであったにちがいない。」『古代史にみる朝鮮観』朝鮮青年社1996年
    • 築島裕「この東方は、漢の東方植民地を指すが、楽浪人の楽浪は、漢の東方植民地の最先端地にあたる、朝群の四郡を指したことも、ここではっ きりしてきた」『国語学論集―築島裕博士還暦記念』明治書院1986年、554頁
    • 黄文雄春秋時代から戦国時代初期にかけての封建体制下では、諸子や功臣の封地は国と称されたが、それとは別の県が、帝国以降の郡県制の基礎となった。漢の時代に朝鮮半島北部に設置された四郡など、まさしく漢民族の植民地だった。」『台湾朝鮮満州日本の植民地の真実』扶桑社2003年、385頁
    • 武雄市史』「これらの直轄植民地の四郡には、優れた文化をもった漢民族の官吏や軍隊が派遣され、一般の漢人の移住も行なわれた。」『武雄市史』第1巻、国書刊行会1981年、184頁
    • 水野祐「朝鮮の楽浪郡以下の植民地は、漢帝国の勢力圏の東の果てで、はるか遠隔の地と思われていた所であった。」『日本民族の源流』雄山閣1986年、263頁
    • 義富弘倭人朝鮮半島の 漢の植民地楽浪郡に年々往来していたというのである。」『しまぬゆ 1 1609年、奄美・琉球侵略』南方新社2007年、17頁
    • 河合敦「朝鮮半島にあった漢の植民地・楽浪郡や帯方郡を通じて、中国王朝へ朝貢していたことが記載されている。」『早わかり日本史』日本実業出版社2008年
    • 武光誠「武帝はこのあと四か所の郡と呼ばれる植民地を設置して朝鮮半島を支配した。このような動きによって、大量の中国人が朝鮮半島に入ってくることになったのである。箕子朝鮮衛氏朝鮮の都も、武帝の四郡の中で最も有力であった楽浪郡の郡治(郡を治める役所)も、現代のピョンヤンのあたりにあった。」『地形で読み解く世界史の謎』PHP研究所2015年、195頁
    • 田辺広「紀元前一〇八年漢の武帝は北朝鮮を植民地として現在の平壌を中心に 楽浪郡を置き後にソウル付近に帯方郡を設けた。」『日本国の夜明け』文芸社2003年、13頁
    • 西本昌弘「楽浪郡は漢武帝時代の紀元前108年に、朝鮮半島に設置された漢の植民地」『古代文化』第41巻、1989年、14頁
    • 羽原又吉「臨屯、眞番の植民地四郡をおき、後漢の西暦二〇四年にはさらに帶方郡をおかれた」『日本近代漁業經濟史』第2巻、岩波書店1957年、13頁
    • 影山剛「漢はこの地域に新しく帯方郡を設置して植民地経営を開始した」『漢の武帝』教育社1979年、56頁
    • 杉原荘介「楽浪郡が漢帝国の最東方の漢民族の植民地」『日本の考古学: 弥生時代』河出書房新社1966年、414頁
    • 安田元久「武帝は北朝鮮に楽浪、臨屯、玄莬、真審の四郡を置き、植民地として郡県的支配が行われるようになった。」『資料對照日本史の新硏究』洛陽社1959年、22頁
    • 田村実造「ところが漢の武帝は対匈奴作戦の一環として半島の征服を計画し、紀元前108年(元封3年)に大軍をおくって衛氏朝鮮をほろぼし、ここに楽浪郡以下の四郡をおいて植民地とした。楽浪郡はその後313年に高句麗に併合されるまで420年あまり中国の植民地として存続した。」『世界の歴史9』中央公論社1961年、399頁
  2. ^ 『晋書』地理志上
  3. ^ 三国志』魏書東夷伝韓条
  4. ^ 『三国志』魏書東夷伝韓条
  5. ^ 池上裕子小和田哲男小林清治池享黒川直則『クロニック 日本全史』(講談社1995年)69頁参照。
  6. ^ 実際には北帯方にせよ南帯方にせよ前後漢魏晋の時代に存在したことはない。
  7. ^ 北帯方とは実は百済滅亡後に唐が設置した帯方州(全羅南道羅州市)と古代の帯方郡を混同したものであって、史実ではない。三品彰英『三国遺事考証』塙書房、1975年
  8. ^ 南帯方とは実は1309年に設置された高麗時代の帯方郡(全羅北道南原市)と古代の帯方郡とを混同したものであって、史実ではない。三品彰英『三国遺事考証』塙書房、1975年

参照文献[編集]

  • 池上裕子、小和田哲男、小林清治、池享、黒川直則編『クロニック 日本全史』(講談社、1995年)