三輪山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
三輪山
Mt.miwa from Hashihaka-kofun.JPG
三輪山(箸墓古墳付近より)
標高 467.1 m
所在地 日本の旗 日本
奈良県桜井市
位置 北緯34度32分06秒
東経135度52分01秒
座標: 北緯34度32分06秒 東経135度52分01秒
三輪山の位置
Project.svg プロジェクト 山
テンプレートを表示

三輪山(みわやま)は、奈良県桜井市にある。奈良県北部奈良盆地の南東部に位置し、標高467.1m、周囲16km。三諸山(みもろやま)ともいう。なだらかな円錐形の山である。

概要[編集]

記紀に於いて、三輪山は『三諸山』、『美和山』、『御諸岳』などと記され、古代より原始信仰(自然物崇拝)の対象であったとされているが、その始まりは諸説ある。古墳時代に入ると、山麓地帯には次々と大きな古墳が築造されたため、この一帯を中心にして政治的勢力、すなわちヤマト政権の初期政権(王朝)が存在したと考えられている。200 - 300mの大きな古墳が並び、そのうちには第10代の崇神天皇行灯山古墳)、第12代の景行天皇渋谷向山古墳)のがあるとされ、さらに箸墓古墳(はしはかこふん)は『魏志』倭人伝に現れる邪馬台国の女王卑弥呼の墓ではないかと推測されている。記紀には三輪山伝説として、奈良県桜井市にある大神神社の祭神・大物主神の伝説が載せられている。よって、三輪山は神の鎮座する山、「神奈備」とされている。中世以降は長らく神仏習合の影響が色濃く、神宮寺も数多く建立され、徳川将軍家などに『三輪明神』として篤く信仰された。

三輪山そのものが、大神神社の御神体として正式に記録されたのは、1871年(明治4年)に神社が奈良県にあてた口上書に、神山とは「三輪山を指す」と使ったのが初である。しかし三輪山は国有林民有林であり、大神神社の境内には属さない。史跡指定されているのは麓の境内のみである。

入山する際は、後述の規則()を遵守する必要がある。入山せずに参拝する際には、大神神社の拝殿から直接、神体である三輪山を仰ぎ拝むといった手法を採る。したがって、大神神社には本殿がなく、そこには自然そのものを崇拝する古神道が息づいている。

三輪山の祭祀遺跡としては、下方から辺津磐座(へついわくら)、半ほどの中津磐座(なかついわくら)、頂上付近の奥津磐座(おきついわくら)、山ノ神(やまのかみ)岩陰祭祀遺跡、大神神社拝殿裏の禁足地遺跡、狭井神社西方の新境内地遺跡などがあるが、磐座学会の江頭氏などによれば、山の祭祀遺跡に「辺津」などの海に関係する言葉はおかしく、諸説あるが意味として宗像祭祀遺跡のそれぞれから後世とられたと思われる。辺津は海岸(浅い海)、中津や奥津は島の海岸(深い海)等の意味である。

頂上には高宮神社が祀られているが、延喜式神名帳には式内大社として神坐日向神社が載せられている。この日向神社は、古代には三輪山の頂上に祀られ、太陽祭祀に深く関わっていた神社であったと推測されている。

頂上付近はかなり広い平地である。この神社の東方に東西約30m、南北10mの広場に高さ約2mの岩がたくさんある。これが奥津磐座である。現在、この山中で見学できるのはこの磐座だけである。奥津磐座や、中津磐座には巨石群の周囲を広く環状に石を据えた形跡があり、「日本書紀」巻二の天孫降臨に際しての高皇産霊尊の勅に「天津神籬および天津磐境を起こしたて」とある磐境にあてる考えもある。[1]

また、山ノ神遺跡に関しては大正7年5月に偶然発見されたものである。古墳時代中期以降の岩陰祭祀遺跡で、発見当初は古墳と思われた。磐座とされる石と5個の石がこれを取り囲むような状態で見つかり、さらにその下には割石を敷きつめて地固めがされていた。調査に入るまでの3ヶ月の間に盗掘を受けてしまったとされるが、残った遺物には、小形の素文鏡3、碧玉勾玉5、水晶製勾玉1、滑石製模造品の子持勾玉1、勾玉約100、管玉約100、数百個の有孔円板と剣形製品、無数の臼玉、高坏、盤、坏、臼、杵、杓、匙、箕、案、鏡の形を模した土製模造品、それに剣形鉄製品と考えられる鉄片などがあり、本来はさらにおびただしい量の遺物が埋納されていたことが知られている。[2]その遺物を見ると、鏡・玉・剣のセットが歴然としている他、三輪山の神が農耕神としての一面を持つことが興味深く表れているといえる。國學院大学博物館には山ノ神祭祀遺跡のレプリカが展示されている。

三輪山と大鳥居
三輪山遠望
三輪山と箸墓古墳

歴史[編集]

古くから「神宿る山」とされ、三輪山そのものが御神体であるとの考えから、神官や僧侶以外は足を踏み入れることのできない、禁足の山とされてきた。飛鳥時代には山内に大三輪寺が建てられ、平安時代には空海によって遍照院が建てられた。鎌倉時代に入ってからは慶円が三輪氏の氏神であった三輪神社を拡大し、本地垂迹説によって三輪明神と改め、別当寺三輪山平等寺を建立した。江戸時代には徳川幕府より厳しい政令が設けられ、平等寺の許可がないと入山できなかった。明治以降はこの伝統に基づき、「入山者の心得」なるものが定められ、現在においてはこの規則を遵守すれば誰でも入山できるようになった。

三輪山は古代より人々の心の拠り所であった。7世紀後半、白村江の戦いに敗れ近江に遷都するとき額田王が詠んだ歌が有名である。

 「三輪山を しかも隠すか 雲だにも こころあらなむ 隠さふべしや」 (万葉集巻1‐18)

異説として、記紀の中で「大三輪神」を祀る、と初出されるのは、なぜか筑紫国夜須である。これは神功皇后が祀ったとある。記紀に於いて三輪山は一貫として「三諸山」、「美和山」などの記述である。

入山の許可[編集]

登山を希望する場合は、大神神社から北北東250m辺りに位置する境内の摂社狭井神社社務所で許可を得なければならない。そこで氏名・住所・電話番号を記入し300円を納める。そして参拝証の白いたすきを受け取り御祓いを済ませる。道中このたすきを外すことは禁止されている。行程は上り下り約4kmで、通例2時間ほどで登下山できるが、3時間以内に登下山しなければならないという規則が定められている。また山中では、飲食、喫煙、写真撮影の一切が禁止され(水分補給のためのミネラルウォータースポーツドリンクの飲用は可能)、下山以降も山中での情報を他人に話すことを慎むのがマナーでもある。午後4時までに下山しないといけないため、午後2時以降は入山が許可されない場合がある。雷雨などの荒天の際は入山禁止となることもあるが、禁止とならない場合であっても万一の事故に備えて電話番号の確実な記入が求められる。また、大神神社で祭祀が行われる日は入山ができない。

原則として、数多く散在する巨石遺構や祭祀遺跡に対しても許可なく撮影はできない。さらに、山内の一木一葉に至るまで神宿るものとし、それに斧を入れることは許されておらず、山はなどの大樹に覆われている。

聖水思想[編集]

考古学者石野博信の自説によると、三輪山麓には聖水思想が古代から存在したことが指摘されている。纏向遺跡尾崎花地区の井泉と家ツラの導水施設は、古典で言う井水を浄化して聖水とするための施設であると推測し、「三輪の磐井」と呼ばれる井泉があり、大泊瀬皇子(後の雄略天皇)と「三輪の磐井」のほとりで戦った御馬皇子が、「この水は、百姓のみ唯飲むこと得む。王者は独り飲むこと能(あた)はじ」(『日本書紀』雄略天皇即位前紀)と呪詛したことを挙げ、5世紀頃の三輪山麓に聖水思想があったこと、それが纏向遺跡の「尾崎花の井泉」によって、3世紀にまで遡ることが分かるとしている[3](ただし、いくつか疑問点も残している)。

参考文献[編集]

  • 前田晴人『三輪山 日本国創成神の原像』学生社、平成18年
  • 『三輪山と古代の神まつり』学生社、平成20年、7名の論文集

脚注[編集]

  1. ^ 大場磐雄「磐座・磐境等の考古学的一考察」『考古学雑誌』32~8、1942年
  2. ^ 和田萃編「大神と石上 神体山と禁足地」筑摩書房p.50
  3. ^ 石野博信 歴史文化ライブラリー113 『邪馬台国の考古学』 吉川弘文館 初版2001年 ISBN 4-642-05513-4 p.26 - p.28より

関連項目[編集]