額田王

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額田王(ぬかたのおおきみ、ぬかたのきみ、生没年不詳)は、飛鳥時代日本皇族歌人天武天皇の妃(一説に采女巫女)。

額田王(『万葉集』)の表記が一般的だが額田女王額田姫王(『日本書紀』)、額田部姫王(『薬師寺縁起』)とも記される。

係累他[編集]

『日本書紀』には、鏡王の娘で大海人皇子(天武天皇)に嫁し十市皇女を生むとある。鏡王は他史料に見えないが、「王」称から2世 - 5世の皇族(王族)と推定され一説に宣化天皇の曾孫という[1]。また、近江国野洲郡鏡里の豪族で壬申の乱の際に戦死したともいう。

出生地に関しては大和国平群郡額田郷や島根県東部(出雲国意宇郡)に求める説がある。

『万葉集』『日本書紀』に見える鏡姫王(鏡王女)を姉とする説もあるが(本居宣長玉勝間』)、それは「鏡王女」の表記を「鏡王の女(むすめ)」と解釈したもので無理があるとの意見もある。また、表記の解釈は同様で「鏡王の女(むすめ)」とは額田王自身のことを指すのではないかという新説も提出されている[2]

十市皇女の出生後、天武天皇の兄である中大兄皇子(天智天皇)に寵愛されたという話は根強いが確証はない。状況証拠は『万葉集』に収められた歌のみである。特に

  • 茜指す紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(巻1・20・額田王)
  • 紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも(巻1・21・大海人皇子)

の2首などをめぐって天智・天武両天皇との三角関係を想定する理解が一般にあるが池田弥三郎山本健吉が『萬葉百歌』でこの2首を宴席での座興の歌ではないかと発言して以来こちらの説も有力視され学会では通説となっている[要出典]。晩年の王の歌としては持統天皇吉野行幸に際して弓削皇子と交わした贈答歌があり行幸の時期から推測して60代前後までは確実に生存していたと推測されている。

なお岡部伊都子梅原猛らは談山神社所蔵の「栗原寺三重塔伏鉢」(国宝)銘文に見える「比売朝臣額田」について臣籍降下した額田王の改名とする説を唱えている。史料がないので真相は不明だが王族のはずの額田王が朝臣姓を賜っている点はやや不審でありもしこの説が正しいとすると額田王は当時藤原氏一族の有力者であった藤原大嶋と再婚し80歳近くまで生きていたことになる。

俗説[編集]

額田王が絶世の美人であったというのは小説などでは通説となっている。しかし額田王に関する記述がごく限られている以上その容貌について物語る史料があるわけではない。梶川信行(『創られた万葉の歌人 額田王』)によれば彼女の容貌については上田秋成の『金砂』が早い例だという。つまり上記の三角関係を想定させるような歌から彼女自身のイメージが後附けされたものとの説である。この三角関係についても富士谷御杖(『萬葉集燈』)・伴信友(『長等の山風』)の発言など江戸時代のものが早いと思われる。「伝説」は根強いものでもあるようで額田が美女であるとの根拠はないとの発言をしたところ聴衆から食ってかかられたこともあると梶川は述べる。これに類する逸話としては伊藤博も額田王について一般的にもたれているイメージは確証のあることではないという趣旨の講演をおこなったところ或る婦人に内容の撤回を求められたというものがある(『萬葉の歌人と作品』)。聖徳太子についても藤枝晃の講演をめぐって似通った逸話(大山誠一『〈聖徳太子〉の誕生』)があり歴史上の人物というものが史料からわかることと一般に知られる像との間におおきな開きがある例として注目される。

関連作品[編集]

額田王を扱った作品は数多い。

脚注[編集]

  1. ^ 『古代豪族系図集覧』(近藤敏喬編)によると宣化天皇-火焔皇子-阿方王-額田鏡王-額田女王とある。
  2. ^ 直木孝次郎『額田王』吉川弘文館人物叢書シリーズ

外部リンク[編集]