騎馬民族征服王朝説

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『騎馬民族国家
日本古代史へのアプローチ』
著者 江上波夫
発行日 中公新書版(1967年)
中公文庫版(1984年5月)
中公新書(改版)(1991年11月30日)
発行元 中央公論社中央公論新社
ジャンル 日本古代史
形態 新書、文庫
公式サイト 中公新書
コード 中公文庫版 ISBN 4-12-201126-4
中公新書版 ISBN 4-12-180147-4
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騎馬民族征服王朝説(きばみんぞくせいふくおうちょうせつ)とは、東北ユーラシア系の騎馬民族が、南朝鮮を支配し、やがて弁韓を基地[1]として日本列島に入り、4世紀後半から5世紀に、大和地方の在来の王朝を支配ないしそれと合作して大和朝廷を立てたという説。騎馬民族日本征服論(きばみんぞくにほんせいふくろん)ともいう。東洋史学者の江上波夫考古学的発掘の成果と『古事記』『日本書紀』などに見られる神話伝承、さらに東アジア史の大勢、この3つを総合的に検証した結果、提唱した考古学上の仮説である。

この学説は戦後の日本古代史学界に波紋を広げた。手塚治虫が『火の鳥 黎明編』でモチーフにし[2]、一般の人々や一部のマスメディアなどで広く支持を集めたが[3]、学会では多くの疑問も出され、定説には至らなかった[4]。支持する専門家は少数派にとどまっているとされ、今日ではほとんど否定されているともされる[5][注釈 1]。なお、この説の批判者からは、騎馬民族による征服を考えなくても、騎馬文化の受容や倭国の文明化など社会的な変化は十分に説明可能であると指摘されている[6]

学説の概要と根拠[編集]

江上波夫は、日本民族の形成と日本国家の成立を区別し、民族の形成は弥生時代の農耕民族に遡るものの、日本の統一国家である大和朝廷は、4世紀から5世紀に、満洲松花江流域の平原にいた扶余系騎馬民族を起源とし朝鮮半島南部を支配していた騎馬民族の征服によって樹立されたとする。

すなわち、大陸東北部に半農の騎馬民族が発生したが、その内、南下した一部がいわゆる高句麗となり、さらにその一部が「夫余」の姓を名乗りつつ朝鮮半島南部に「辰国」を建て、またさらにその一部が百済として現地に残るが、一部は、加羅(任那)を基地とし、4世紀初めに対馬壱岐を経由して九州北部(江上は、天孫降臨神話の日向を筑紫とみる)を征服し、「任那日本府」を倭王の直轄地とする「倭韓連合王国」的な国家を形作ったという。崇神天皇が『古事記』に「ハツクニシラシシミマキノスメラミコト」、『日本書紀』に「ミマキイリビコイニエノスメラミコト」と記録されているのは、その現れであり、さらにその勢力は、5世紀初めころに畿内大阪平野に進出し、そこで数代勢威をふるい巨大古墳を造営し、その権威をもって、大和国にいた豪族との合作によって大和朝廷を成立したのであるとする。

そして、唐の朝鮮半島南部への進出によって(白村江の戦い)、日本がその出発点たる南部朝鮮保有を断念するに及んで、大和朝廷は、日本の土地の古来からの伝統的王朝たるかのように主張し、そのように記紀を編纂したものであるとする考古学説が、江上の騎馬民族征服王朝説の概要である[7]

ここで注意すべきは、江上は、元寇のように大陸騎馬民族が一気に九州または日本を征服したと見ているわけではなく、長い年月朝鮮半島を支配し定住した民族が、情勢の変化により逼塞したことにより、長期間かけて日本列島を征服支配したとしているのであり、大陸騎馬民族が一気呵成に日本列島を征服したことを前提としてそれを否定するものは、江上への批判としては適切でない。そして、江上は、騎馬民族が農耕民族を征服支配した場合には、徐々に農耕民族に同化するものとしている。それが故に、江上は、大和朝廷を騎馬民族によって成立したと見ながら、日本の民族の形成は弥生時代にまで遡ると捉えているとされるのである。

このような江上の学説は、遺跡遺物などによる文化習俗と文献を総合して主張される。 文化習俗面では、4世紀後半から7世紀後半ころの後期古墳文化におけるそれは北方的、武人的、軍事的であり、弥生時代の南方的、農民的、平和的なものの延長であった古墳文化と"断絶"があることを根拠とする。文献的な根拠は、記紀や新旧唐書など多岐にわたる。以下、主な文化習俗的根拠及び文献的根拠を紹介する。 (断定的に記述するが、古墳時代の区切り方なども含めて江上の学説であり、学会において反対があるものもあることを承知されたい)

  1. 魏志倭人伝』には邪馬台国に「牛馬なし」と記されており(実際にも弥生時代に日本に牛馬がいた形跡は発見されていない)、古墳時代前期にも馬牛は少なかったと思料されるが、古墳時代後期(5世紀6世紀)になると、急に多数の馬の飼養が行われるようになり、馬の埋葬事例や埴輪の馬も見られる。これは馬だけが大陸から渡来したのではなく、騎馬を常用とした民族が馬を伴って大陸から渡来したと考えなければ不自然であること。
  2. 古墳時代前期(4世紀中頃まで)の古墳は、木棺または石棺を竪穴式石室に安置し、副葬品も、鏡、銅剣のような呪術・宗教的色彩の強いもので、魏志倭人伝の倭と類似する弥生時代以来のものであった。これに対して、後期(4世紀終わり頃から)の古墳は応神・仁徳陵で代表されるように壮大であり、石室は大陸系であることが明白な横穴式となり、副葬品も武器や馬具などの実用品に変わり、さらに男女や馬の形をした埴輪が加えられるようになるなど急激な変化が見られること。
  3. そして、古墳などの壁画や埴輪に描かれた服装や馬具、武器は、魏志倭人伝で描かれた邪馬台国(人は全身及び顔に入墨をした上に穴の開いた青い布を被っており、馬はいなかった)のそれとは全く異なり、大陸騎馬民族によってもたらされた朝鮮半島のそれ(白い服をまとい帯を締め、馬を操った)と同様、大陸騎馬民族の胡族のそれとほとんどまったく同類であること。
  4. 高句麗語のなかで現在に伝わっている語彙が、古代の日本語と似ているとされていること。ただし高句麗語がどういうものであったかは明らかではない。
  5. 記紀の天孫降臨説話や神武東征神話は、地理的にも文献的にも、それぞれ朝鮮半島からの九州征服と畿内進出を表し、それは、単語(例えば、クシフルのフルは漢語で村を表し、クシフルは日本書紀ではソホリとされ、それは朝鮮半島で国の中心・王都を表す語である)及びストーリー(例えば、古事記によると、天孫降臨した地は韓國すなわち南部朝鮮に向かっているとされるが、そこを天神の故郷と解すれば文意が自ずと通じるし、亀に導かれて新しい土地に建国する神武東征神話は高句麗などの朝鮮半島の建国神話そのものである)において高句麗など朝鮮半島の開国説話と共通の要素を持っていること。
  6. 江上は、実在した天皇のうち、諡号に「神」の文字をもつ崇神天皇応神天皇を、それぞれ天孫降臨及び神武東征の主人公と見る。そして崇神天皇は、『日本書紀』では御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)とあり、『古事記』では所知初国之御真木天皇(ハツクニシラスノミマキノスメラミコト)とあることから、崇神天皇は、ミマキ(ミマ(任那)のキ(城))に居住し、そこを出発点として国を創建したと解釈できること[注釈 2]
  7. そして、江上は、応神天皇が畿内に進出し、後に大和朝廷が成立したと考えるが、朝廷国家には、諸豪族に(大伴、物部、中臣等)と地名をその氏とした(葛城、巨勢、蘇我等)の二重構造が見られるが、旧くからの天孫天神系豪族と朝廷成立以前からそれぞれの地方に地盤を持っていた国神系豪族に対応するものであり、軍事は天孫天神系豪族、天皇家の姻族となるのは多く国神系豪族とされた事実がある。このような二元性は大陸における騎馬民族の征服王朝の大きな特徴そのものであること。
  8. 随使裴世清の大和朝廷への紀行には、倭国は言われていたような蛮族ではなく秦王朝(辰韓を含めて、中国では辰を秦と記すので秦王朝とあるのは「辰王朝」であるという)であったと記され、『旧唐書』には「日本国は倭国の別種であり、もと小国の日本が倭を併合した」とあり、『新唐書』日本伝には、神武以前の日本の統治者が「筑紫城」にあり、後に大和地方を治めたとある。このように、隋や唐は、大和朝廷を古来の倭そのものではなく、朝鮮半島南部の辰王朝の末裔であり、それは大和地方を治める以前は筑紫にいたと見ていること。ただし旧唐書にある日本とは天武天皇朝のことであり、倭とは天智天皇朝のことを指しているという考えが一般的である。
  9. 倭王武は、中国南朝に対して、使持節都督新羅百済任那加羅秦韓慕韓七国諸軍事安東大将軍と自称したが、ここに当時存在しない秦韓(辰韓)・慕韓(馬韓)など過去の三韓の国名を加える一方で、その一つである弁韓を加えていない。これは、弁韓は倭王が現実に支配している任那そのものであるからあえて加える必要はないが、倭王は過去に三韓を支配したことを主張したものだと見られること。そして、事実過去に、三韓(辰韓・馬韓・弁韓)の一部を統治した「辰王」という扶余系の騎馬民族と考えられる支配者が存在した。また、上述したように、唐は、日本は、辰王朝が倭を征服した国家だと見ている。
  10. 高句麗好太王碑文からうかがわれるように、応神の時代には倭軍は朝鮮半島奥深く進出したこともあり、辰王朝の末裔を名乗る百済王家を援けている。このような遠征を農耕民族がすることはありえない。天皇家が任那を中心とした騎馬民族である辰王朝の末裔であるが故に戦乱に加わり、百済王家を援けたとみるのが自然であること。
  11. 皇位継承は血統の原理によってなされたが、実は、このように血統を守り(江上は継体天皇も血統が継続していたとみている)、農耕民族に見られるような禅譲による王朝の交替がないのは騎馬民族の特徴であること。また、男子の天皇と天皇をつなぐものとして女帝が現れる古代のあり方は、皇位継承に際して有力者が集まり会議を行う手続を含めて、戦時中に天子が死亡した場合は国会で次の天子を決定するまで后が指揮権を取るという大陸騎馬民族の王位継承のあり方そのものであること。
  12. 平安時代初期に編纂された『新撰姓氏録』に収録された1182の氏のうち帰化人系統は326で、実にほぼ30%であり、様々な渡来人を受け入れたことが知られているが、農耕民族は他民族を蛮夷視したり蔑視したりする性癖が強く外国人の集団的移住を許容するものではない。このように大量の集団移民を受け入れ、時には強制的に国内に移住させるのは騎馬民族国家に特有のものであること[注釈 3]
  13. 続日本紀』に、渤海の使者に与えた返書の中で、かつて高麗が日本に対し「族惟兄弟(族はこれ兄弟)」と表現したことにふれていること(江上は、天皇氏と新羅や任那の支配者層は同族であるとし、ともに天孫族と呼ぶ)。

などが掲げられる。

学説に対する疑問・反論[編集]

高句麗の積石塚(長寿王の墓と推定)
5世紀末葉。中国吉林省集安市。底面は一辺31.58mの方形、高さは12.5m
箸墓古墳
3世紀後半。奈良県桜井市。全長278m、高さ30m
行燈山古墳
4世紀前半。奈良県天理市。墳丘長242m、高さ31m
渋谷向山古墳
4世紀後半。奈良県天理市。墳丘長300m、高さ25m
大仙陵古墳
5世紀前半。大阪府堺市。墳丘長525m、高さ35.8m

反論としては、

  1. 考古学の成果からみて、古墳時代の前期(2世紀末葉-4世紀)と中・後期(5世紀以降)の間には文化に断絶がみられず、強い連続性が認められること[8][9]
  2. 「大陸から対馬海峡を渡っての大移動による征服」という大きなイベントにもかかわらず、中国・朝鮮・日本の史書いずれにあっても、その記載はなく、それどころか中国の史書では、日本の国家を、紀元前1世紀から7世紀に至るまで一貫して「倭」の称号を用いており、ここに強い連続性がみられること[10]
  3. 騎馬民族であるという皇室の伝統祭儀や伝承に馬畜に由来するものがみられないこと。また、『記紀』において馬に乗って活躍する英雄の話がまったく出てこないこと[注釈 4]
  4. 日本における乗馬の風習の開始は江上が騎馬民族の渡来を想定した4世紀までにはさかのぼらず、5世紀初頭が上限であり、以後、馬の飼養、馬具の国産化が軌道にのって騎馬の風習が一般化したのは5世紀末以降とみられること[8]
  5. 5世紀の古墳から出土する甲冑の多くは馬上での着用に適しない歩兵戦用の短甲を主とした組み合わせであり、また、初期の馬具は装飾的な要素が濃厚で実践向きとはいえないこと[9]
  6. 日本列島の王墓とされる大規模な墳墓には高句麗百済の王陵である積石塚新羅地域の王墓である双円墳がほとんどなく、これらと日本の前方後円墳では形態等がまったく異なること[12]。つまり、王陵の形態に共通性がまったくないこと。
  7. 日本独自の古墳形式である前方後円墳は、2世紀末葉から3世紀前半にかけての畿内で発生していることが明らかで、朝鮮半島や中国大陸にそれに相当する古墳は存在せず、4世紀から5世紀にかけて最盛期をむかえ、6世紀に至るまで墳形や分布にとくに際だった断絶がみられないことから、日本の王権が畿内を発祥とする土着の勢力である可能性がきわめて高いこと、及び副葬品も征服を示すものが皆無であり[13]、関東地方や九州で確かに馬具やが出土されているが、これは戦闘用のものではなく、一般の乗馬用のものであったり、また持ち主の社会的地位や権威を誇示する威信財としか考えられず、これをもって征服があったとはいえないこと[14]
  8. 弥生時代の日本に稲が伝わり、稲作と米食が始まったが、食用家畜はともなっておらず、その後も有畜農業がみられなかったこと。食用家畜を飼育することによってその肉や乳を利用したり、乳製品や馬乳酒を作るなどの食体系も欠落していること[15]
  9. 近世に至るまで日本では馬や羊のオスを去勢するなど家畜の管理・品種改良をおこなう畜産民的な文化や習慣がほとんど皆無であったこと[15]。また、車の使用など、騎馬民族の多くに特徴的にみられる習慣・技術が欠如していること[15]
  10. 祈年祭新嘗祭即位式大嘗祭など宮中の重要な祭儀に動物犠牲をともなった痕跡がないこと[15]
  11. 北方遊牧民のあいだでは馬上からの連射のため、短の使用が一般的であるが、日本では戦国時代に至るまで長弓であったこと[16]。また、刀剣も騎馬民族のものは馬上から振り下ろすため刀身に反りのある刀が一般的だが、日本列島の古墳から出土する刀はすべて直刀であること。
  12. 馬は神経質な動物であり、当時の船による大量輸送は不可能であって、現に13世紀蒙古襲来の際にもモンゴル高麗連合軍は軍馬をまったく輸送していないこと。
  13. 馬具や馬をかたどった埴輪の出土は関東地方や九州に偏在しており、ヤマト王権の本拠地である近畿地方からの出土が希薄であり、全体としても決して大量とはいえないこと。
  14. 倭王武の上表文では、「…昔より祖禰みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉して寧処にいとまあらず…(中略)…渡りて海北を平らぐること九十五国…」と記しており、畿内大和を中心とした視点で四方に出兵したという観念が認められ、日本列島外部からの征服をまったく主張していないこと。
  15. 遺伝子調査の点では、日本人固有で最多を占める遺伝子はD2系統であり、後から渡来してきたとされる(日本史上のいわゆる渡来人とは一致しない)O2系統遺伝子は江南系統と言われ中国南部地域に見られるが、どちらも騎馬民族系統とは言えないということ。
  16. 日本語の基本語彙の中には満州地域や朝鮮語の語彙はほとんどなく、わずかにみられる語彙も「羊」など本来日本にはないもので借用語の可能性の域を出ず、また、高句麗語百済語などの実態が判明しておらず、漢文以外の文章も残っていないため憶測の域を出ないこと。征服が事実ならば当然征服者である大陸の新しい言語が導入されたはずなのに、そのような痕跡がみられないこと。
  17. 古事記』や『日本書紀』の神話は騎馬民族に特徴的なトーテム獣(トルコモンゴルでは狼、朝鮮では熊など)が見られず、比較神話学上別種に分類されるということ。また、神話諸要素は文化交流の結果から説明できるのであり、必ずしも「征服」を必要としないこと。
  18. 江上は、崇神天皇こそ「辰王」の後裔にして倭人の協力のもと北九州に侵攻した任那王であり、日本建国の王だと説くが、崇神天皇には任那(加羅)・北九州のおもかげを示唆するものはまったくなく、『日本書紀』『古事記』『和名抄』のいずれの史料にあっても王宮・陵墓が奈良盆地に所在すると記されており、実際の古墳分布もそれを裏付けていること[17]。「ハツクニシラス」の称号については、江上説に反し、日本国の創始者の意味で使われているのはむしろ神武天皇の方であり、崇神天皇の場合は疫病で人民が死に絶えようというとき、正しい祭祀をほどこしてこれを鎮めた、および四道将軍を四方に派遣して国内を太平に導いた(『古事記』)、人民に調役を課し、天神地祇をよく祀ったので風雨順調で百穀がみのり天下太平となった(『日本書紀』)という功績を称えてあたえられたものだと明示されており、文献上「筆国の創始者」という意味はないこと[17]。「ミマキイリヒコ」にしても、「ミマ」を任那のミマと同一視する根拠はまったくないこと[17]。「ミマキ」は、堅い良材(御真木)とでも解釈した方が、「ミマナ」の「ミマ」だけをとって「ミマキ」イコール「任那の城」などと解釈するよりもはるかに自然であり、また、江上の解釈では、後続する垂仁景行成務仲哀などの名を崇神天皇との関係で整合的に理解することができないこと[17]

などがあげられる。

日本には弥生時代後期から古墳時代にかけて倭国と大陸や朝鮮半島との交易や戦火を契機に騎馬文化が流入したとはいえるものの、それは主体的・選択的なものであって、征服による王朝交代によって否応なく受容したものであることを示すような文献資料考古資料は見つかっていない。

学説に対する批判・評価[編集]

江上は上記のような反論や疑問に対し、1964年、東北大学日本文化研究所のシンポジウム「日本国家の起源」や1989年の佐原眞との討論で一部これに答えている。それによれば、騎馬民族は農耕民族とは異なって柔軟で適応性が強く、日本の原住民の『歓迎』を受けて『平和的』に進駐し、征服地で被征服者の言語や墓制を取り入れたが、征服者の数は少数で、騎兵だけでなく歩兵をもともなっていたという。また、騎馬民族のなかには去勢をおこなわない民族もあるから、日本にこういった習慣がのこらないのも不思議ではないとしている。

  • 佐原眞は、江上の「騎馬民族」なるものの概念はきわめて「融通無碍」で、自説の都合のよいかたちに自由に変更できることが可能であると批判し、騎馬民族説はもはや「昭和の伝説」であると述べ[18]、「戦時中には、日本神話が史実として扱われ、神武以来の万世一系の歴史が徹底的に教え込まれました。江上説にはそれをうちこわす痛快さ、斬新さがあり、解放感をまねく力がありました。また、人びとの心の奥底では、日本が朝鮮半島や中国などに対して近い過去に行ってきたことの償いの役割を、あるいは果たしたのかもしれません」といっている[19]
  • 田辺昭三は「この説はこれが提唱された時代の要請の中で生まれた産物であり、いくら装いを改めても、もはや現役の学説として正面から取り上げる段階ではない」と評した[20][18]
  • 大塚初重は「多くの考古学者はこの仮説には否定的であったが、アジア大陸での雄大な民族の興亡論にロマンを感じる人も多かった」としている[21]
  • 樋口隆康は「大陸から対馬海峡を渡っての大移動による征服」という大きなイベントにもかかわらず、中国・朝鮮・日本の史書に揃って何ら記載がない。それどころか中国の史書では、日本の国家を、紀元前1世紀から7世紀に至るまで一貫して「倭」を用いており、何の変化もない」としている[22]
  • 岡内三眞は「江上は、騎馬民族がどのようにして日本に侵入し、征服したのか、そしてどのように征服王朝を立てたのかを、考古学の面から何も立証していない」[23]とし、また「この仮説は、現代では通用しなくなった戦前の喜田貞吉の「日鮮両民族同源論」を基礎にして、戦前・昭和初期の歴史教育を受けて北京に留学し、軍隊の庇護の下に中国東北地区を闊歩した江上流の資料収集法と旧式研究法に基づいている。無意識に吐露する現代論や人間感にはアジアの人々の心を逆なでするような言葉が含まれる。」としている[24]
  • 田中琢は「騎馬民族が国家を形成経営しうる能力を持った優秀な民族で農耕民はその面で劣っていると決め付け、人間集団をラベルを貼るような危険」としている[25]
  • 護雅夫は「この説に対しては、多くの日本史家は批判的であるが、井上光貞のように、これを高く評価する学者もあり、また、水野祐はネオ騎馬民族説と称される説を唱えた。江上の騎馬民族説の細かい点については多くの疑問がある。」としている[26]
  • 所功は「あくまでもスケールが大きい仮説に過ぎない。不明確な点が多く定説として受け入れることはできない」と述べている[27]
  • 鈴木靖民は「古代史研究の大勢は日本中心の偏った任那史観を乗り越えて、朝鮮史の発展のなかの加耶史本来の理解へとほぼ変革を遂げている。ところが江上説は最近に至るまで一貫して、戦前とほとんど変わることなく、ヤマト王権(朝廷)の朝鮮支配地に置かれた任那日本府の存在を是認し、それが倭韓連合王国、日本の府であるという論を主張し続けるのである。学問の進歩や苦悩・反省と無縁の騎馬民族説は大いに疑問とせざるをえない。」[28]「先学が巨細に解析するように、騎馬民族説は確かに腑に落ちないところがきわめて多い。論証は必ずしも体系的でなく、断片的でおおざっぱ過ぎる。それとともに江上氏の歴史観・思想には深刻な問題があることもすっかり明白になった。」[29]とし、「本来の騎馬民族説は、古代国家あるいは王権の中に編成される渡来人集団の問題として受け継がれているといえましょうし、素朴な騎馬民族征服説はもう克服されている」とした[30]
  • 安本美典は「ひょうたんナマズの構造(とらえどころのない学説)を持つ説」としている[31]
  • 岡田英弘は「完全なファンタジーであって、なんら史実上の根拠はない。江上波夫が創作した、新しい神話」とし[注釈 5] 、また騎馬民族征服王朝説が一世を風靡した理由を次のように挙げている[32]
  1. 『民族学研究』誌上に、江上がはじめて騎馬民族征服王朝説を話した座談会の記録が掲載されたのは、朝鮮戦争前年の1949年であり、朝鮮半島を騎馬民族の大軍が疾風怒涛のごとく南下してくるというイメージは、当時の日本人には、目の前で起こっていることから連想して、極めて受け入れられやすいイメージだった。
  2. 日本というアイデンティティの起源の説明を提供するものであった。
  3. 明治以来の神話の合理化解釈の線に沿っていた。それを具体的に証明したように見えた。
  4. 日本建国を騎馬民族征服王朝説のように解釈すると、西ヨーロッパの歴史と対比して、日本史を説明できる。日本は孤立しているのではない、昔からアジアの一員だったんだ、という感覚も、終戦後ようやく国際社会に受け入れられ、再出発をはかっていた日本人の気に入った。

水野祐「ネオ騎馬民族説」[編集]

1952年、文献史家の水野祐は『日本古代王朝史論序説』を著し、それまで神武天皇以来、日本が万世一系の天皇によって統治されてきたという通念を批判し、『古事記』の崩年干支、記紀の天皇諡号、『日本書紀』に示された空位の分析・検討などの実証的な研究をもとに、古代日本は、血縁関係のない三王朝によって支配されたとする「三王朝交替説」を唱えた[33]。そして、この三王朝を合わせて「大和朝廷」の称号を排して「日本古代王朝」と称した[33]。三王朝とは、崇神天皇を祖とする崇神王朝(古王朝、呪教王朝)、仁徳天皇を祖とする仁徳王朝(中王朝、征服王朝)、継体天皇を祖とする新王朝(統一王朝)の各王朝である[33]。水野説は、井上光貞によって「ネオ騎馬民族説」と命名されたが、それは、水野が騎馬の習俗を有する種族の日本列島侵入を江上が唱える4世紀初頭よりも2ないし3世紀以上古くさかのぼらせて考えるならば、その列島への渡来はある程度認めてもよいとしたからであった[34]。のちに水野は紀元前2世紀以前ならばツングース系の種族が人種移動し、一時的ではなく、間歇的に少しずつ日本列島に土着し、原住民と混血を重ね同化したという考え方は認めてよいと言い換えている[35]

水野自身は、終始一貫して騎馬民族による日本列島の征服と国家の建設とを結びつける学説には賛同できないと主張しており、それゆえ、井上光貞は水野説を江上の騎馬民族征服王朝説に代わりうる学説という意味もこめて「ネオ騎馬民族説」と呼称したのであった[35]。三王朝交替説において、水野は仁徳王朝(中王朝)を九州より大和へ移動し、さらに大和を根拠地として次代以降も継続して東方を経略を目指したとみる立場から、呪教王朝たる古王朝、統一王朝たる新王朝との対比から中王朝を「征服王朝」と性格づけたのであって、そこにおける「征服」とはあくまでも日本列島内のことであり、ここでは騎馬民族・騎馬文化はまったく考慮されていない[35]。水野自身は、騎馬の習俗は戦闘において戦車を馬に曳かせる技術よりも後に発達したものであって、「騎馬民族」とは戦闘においてつねに集団的な騎馬戦法を主体とする種族であるとし、日本においては記紀においても、後世にあってもそのようなことがなかったとして江上説を批判している[35]

今日において、水野の三王朝交替説は、江上の騎馬民族征服王朝説とはあらゆる点で主張が異なるのみならず、多くの点で主張の対立がみられ、これを「ネオ騎馬民族説」と称するのは適切とはいえなくなってきている[35]

騎馬民族征服王朝説の現在[編集]

騎馬民族征服王朝説は、古墳時代中葉の変革を、新しく大陸から渡来した騎馬民族の征服によって説明しようとしたものであり、『魏志倭人伝』が第三十巻に配される『三国志』烏丸・鮮卑・東夷伝が記録する、4世紀から5世紀にかけての北方騎馬民族の満蒙から朝鮮半島にわたる農耕地帯への南下、農耕民との混血、既存の文化との混合による建国という、東北アジア世界における大きな民族移動の動きをふまえて構想された仮説だとされている。しかし、江上の唱える、夫余高句麗百済辰王 という南進ルートについては、いくつもの検討課題がのこされている。

まず、夫余については『史記』などの記載によれば、濊族の地の一部に夫余族が入ってきて、そこに残った濊族を支配するようになった可能性もあることから、征服王朝的性格が皆無とはいえないが、『魏志』によれば、「その民は土着し」「東夷の地域でもっとも平坦で、土地は五穀に適している」「性格は勇猛であるが謹み深く、他国へ侵略しない」とあって、農耕主体の定住民であり、侵略も好まず、また実際にその後に南下したという記録も存在しないという事実が挙げられる[36]。また、夫余族が南下して高句麗を建国したという伝説も、近年の李成市の研究によれば、北夫余を奪取した高句麗が、新附の夫余族との融合と夫余の旧領を占有することの正当性と歴史的根拠を主張することをめざした政治的意図によるものであったことが明らかにされ、夫余と高句麗の種族的系譜関係はないものと結論づけられている[36]。考古学的知見においても、高句麗の墓制が積石塚主体であるのに対して夫余の墓制は土壙墓であり、同族関係である可能性はきわめて低い[36]。百済における夫余起源説もまた、後進の百済が高句麗との同源を主張することによって高句麗との対等を主張した政治的主張であり、事実とは考えられない[36]。百済の場合は、3世紀から4世紀にかけて高句麗族の南下を想定する余地はあるものの、その場合でも「辰王」に結びつくことは、年代的にも考えられない[36]。辰王もまた夫余とは無関係で、馬韓人であり、しかも韓族全体に君臨した政治的君主であった記録はなく、武田幸男の実証的な研究によれば、政治的・軍事的活動とは異なる諸国間の調整を担当する特殊権能を有する王であり、治所であった月支国も、朝鮮半島中部(京畿道南部または忠清南道北部)にあったと考えられる[36]。この王を、日本列島に渡る基盤を形成していた君主とみなすことはできない[36]

したがって、江上の考古学説の一部である、朝鮮南部に日本の王朝の血筋を求める説に関しては、きわめて根拠が薄いものと結論づけられる。もとより、白村江の敗戦で倭国(日本)が朝鮮半島から完全に撤退するに及んで、「朝廷は日本古来の伝統的王朝たることを主張し、その意図をもって記紀の編纂がなされた」という江上の主張が無視できないものであることもまた確かではある。

日本列島における古墳時代中葉の諸変化は、急激な変化ではなく、きわめて漸進的なものである。これに対し、上田正昭(1973年)は水野の三王朝交替説を「応神・仁徳両天皇の代を新王朝とする見解は、ある意味では江上説を承認するもの」としており、古墳時代における前期・中期の間に変化があったとしている。ただし、江上の唱えた「倭韓連合王国」なるものは、称号に対する研究が充分に進んでいない時点での憶説にすぎず、研究の進んだ今日にあってはまったく問題にされていない[36]。何より、5世紀代の南朝の一王朝であるが認めた称号は、あくまでも宋主体の称号であって、当時の北東アジア国際社会でどれほど客観的な価値を有するかは別問題である[36]。河内政権で営まれた大規模な前方後円墳もまた、朝鮮半島起源ではなく大和盆地起源であることは明白である。

427年、高句麗では、長寿王の時代に国内城(現在の中国吉林省集安市東郊)にあった都城を平壌城(現在は北朝鮮の首都)に遷し、朝鮮半島へ進出した。ただし、広開土王碑文にみられるように長寿王の父にあたる広開土王を顕彰する碑文や王墓は国内城につくられた。騎馬民族征服王朝説を否定する立場からは、5世紀以降、ヤマトの朝廷が大陸から新しい文物や文化を受容したのは、こうした高句麗の南下政策などといった国際情勢に対応するため、朝鮮半島に出兵し、朝鮮半島南部の鉄資源の確保を目指して、意識的、選択的になされた変化だととらえられる。

神話に関しては、むしろ、大林太良などは、日本の神話伝説をベトナムや朝鮮半島、ミャンマースリランカなどの神話と比較して、その独立性を指摘しており[注釈 6]、また「国生み神話」などにみられるように、記紀では、神話や王権の舞台として島々(大八島)を念頭に置いており、大陸に起源を求めていないことはよく知られている。

近年盛んな遺伝子の研究からは、ユーラシア・ステップアルタイ系騎馬民族に高頻度にみられるY染色体ハプログループC-M86が東日本ではゼロであるが、九州徳島でそれぞれ3.8%、1.4%確認されており[37]、騎馬民族の小規模な流入があったことを支持する結果となっている。

脚注[編集]

注釈[編集]

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  1. ^ AERA』2009年12月28日号では、「ある専門家は『騎馬民族征服説というのは証拠のない仮説で、今日ではほとんど否定されている』と指摘した」と報じている。
  2. ^ しかし、『日本書紀』には、崇神天皇は初めて渡朝した韓の人間に対し、自分の名前を与えて「御真」を国名にせよと命じたとあり、文献上は整合しない。
  3. ^ 『新撰姓氏録』では清原氏橘氏源氏などの「皇別」335氏、藤原氏大中臣氏(以上「天神」)、尾張氏出雲氏隼人系(以上「天孫」)、安曇氏弓削氏(以上「地祇」)など「神別」404氏、帰化人系の「諸蕃」326氏に大別されている。「諸蕃」はさらに「漢」163氏、「百済」104氏、「高麗(高句麗)」41氏、「新羅」9氏、「任那」9氏、その他117氏に分類される。
  4. ^ 上智大学名誉教授の渡部昇一はかつて江上の講演で江上本人にこの矛盾を質問したが、「えっ、出て来ない? そうだったかな。困ったな」と狼狽してまともに答えられなかったという。[11]
  5. ^ 「騎馬民族説が世間に熱狂的に受け入れられているあいだは、ほかの学者がいくら批判しても、まったく利きめがなかった。日本人にはモンゴルが好きな人が多くて、モンゴルに観光旅行に行っては、われわれの祖先はここから来たんですね、と言う。騎馬民族説には何の根拠もないですよ、あれはまったくの空想なんですよと言っても、みんな、ふーんと言うだけで、まったく耳をかそうとしない。だいたい、ふつうの人はそういうものだ。これは、神話としての歴史を必要とする、心理的な欲求があることを示している。歴史に、情緒的な満足を求めているのだ。だから、騎馬民族説が、根拠のないただの空想で、歴史的事実ではないとしても、それが史実ではない、と言うだけではだめなので、もっと『よい歴史』を提供しなければいけない、ということになる。」岡田 2001, p. 116
  6. ^ 三国史記』には新羅王家の始祖は前漢孝宣帝の五鳳元年の4月丙辰の日に即位したとあるなど、ヴェトナムや朝鮮半島では中国との関わりから、ミャンマーやスリランカの場合はインド文明のかかわりから自らの歴史の古さを由緒あるものに仕立てあげているが、日本では大陸の大文明との関わりを求めようとはせず、自らの宇宙論すなわち高天原に王権の基礎を求めていることに着目している。大林 1990 [要ページ番号]

出典[編集]

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  1. ^ 小林
  2. ^ 手塚治虫火の鳥・黎明編』角川書店〈角川文庫〉、1991年12月。ISBN 4-04-185101-7
  3. ^ 岡内三眞 1994, pp. 41.
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  6. ^ 白石 2009 [要ページ番号]
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  8. ^ a b 小林行雄「上代日本における乗馬の風習」『史林』34-3(1951)
  9. ^ a b 伊東信雄
  10. ^ 樋口 1983 [要ページ番号]
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  17. ^ a b c d 小林敏男「騎馬民族説の記紀批判の妥当性を問う」『歴史と旅』平成6年12月号(1994)pp.54-61
  18. ^ a b 岡内三眞 1994, pp. 56.
  19. ^ 佐原 1993, p. 220
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  33. ^ a b c 水野祐『日本古代の国家形成』(1967)pp.100-107
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  36. ^ a b c d e f g h i 田中俊明「騎馬民族は朝鮮半島を南進したか」『歴史と旅』平成6年12月号(1994)pp.100-107
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参考文献[編集]

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    • 水野祐『日本古代王朝史論序説』小宮山書店、1954年、増訂版。
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関連項目[編集]

外部リンク[編集]