荒木村重

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荒木村重
村重.jpg
荒木村重錦絵図「太平記(太閤記)英雄伝」のうち
歌川国芳嘉永元年-3年(1848-50年)頃
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文4年(1535年
死没 天正14年5月4日1586年6月20日
改名 十二郎、弥介(弥助)、村重、道糞、
道薫(号)
別名 受領名:信濃守
戒名 秋英宗薫居士
心英道薫禅定門
墓所 大阪府堺市堺区南宗寺
兵庫県伊丹市荒村寺
官位 従五位下摂津守
主君 池田勝正織田信長豊臣秀吉
氏族 荒木氏
父母 父:荒木義村
正室:だし
村次村基岩佐又兵衛ほか

荒木 村重(あらき むらしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名利休十哲の1人である。幼名を十二郎、後に弥介(または弥助)。荒木氏は波多野氏の一族とされ[1]、先祖は藤原秀郷である。

生涯[編集]

池田・織田家臣時代[編集]

天文4年(1535年)、摂津池田城主である摂津池田家の家臣・荒木信濃守義村(異説として荒木高村)の嫡男として池田(現:大阪府池田市)に生まれる。最初は池田勝正の家臣として仕え、池田長正の娘を娶り一族衆となる。しかし三好三人衆の調略に乗り池田知正と共に三好家に寝返り知正に勝正を追放させると混乱に乗じ池田家を掌握する。

その後、織田信長からその性格を気に入られて三好家から織田家に移ることを許され、天正元年(1573年)に茨木城主となった。同年、信長が足利義昭を攻めた時に信長を迎え入れ、若江城の戦いで功を挙げた。

天正2年(1574年)11月5日に摂津国国人である伊丹氏の支配する伊丹城を落とし、伊丹城主となり、摂津一国を任された。

その後も信長に従い石山合戦高屋城の戦い天王寺の戦い)、紀州征伐など各地を転戦し、武功を挙げた。

謀反[編集]

有岡城跡

天正6年(1578年)10月、三木合戦羽柴秀吉軍に加わっていた村重は有岡城伊丹城)にて突如、信長に対して反旗を翻した。一度は糾問の使者(明智光秀松井友閑万見重元)に説得され翻意し、釈明のため安土城に向かったが、途中で寄った茨木城で家臣の中川清秀から「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」との進言を受け伊丹に戻った。羽柴秀吉は村重と旧知の仲でもある黒田孝高を使者として有岡城に派遣し翻意を促したが、村重は孝高を拘束し土牢に監禁した。

その後村重は有岡城に篭城し、織田軍に対して1年の間徹底抗戦したが、側近の中川清秀と高山右近が信長方に寝返ったために戦況は圧倒的に不利となった。それでも村重は「兵を出して合戦をして、その間に退却しよう。これがうまくいかなければ尼崎城と花隈城とを明け渡して助命を請おう」と言っていたが、天正7年(1579年)9月2日、単身で有岡城を脱出して尼崎城へ移ってしまった。

11月19日、信長は「尼崎城と花隈城を明け渡せば、おのおのの妻子を助ける」という約束を荒木久左衛門ら荒木の家臣たちと取り交わした。久左衛門らは織田方への人質として妻子を有岡城に残し、尼崎城の村重を説得に行ったが、村重は受け入れず、窮した久左衛門らは妻子を見捨てて出奔してしまった。信長は村重や久左衛門らへの見せしめの為、人質の処刑を命じた。

12月13日、有岡城の女房衆122人が尼崎近くの七松において鉄砲や長刀で殺された。この事は

百二十二人の女房一度に悲しみ叫ぶ声、天にも響くばかりにて、見る人目もくれ心も消えて、感涙押さえ難し。これを見る人は、二十日三十日の間はその面影身に添いて忘れやらざる由にて候なり。

信長公記

と記されている。12月16日には京都に護送された村重一族と重臣の家族の36人が、大八車に縛り付けられ京都市中を引き回された後、六条河原で斬首された。立入宗継はその様子を、

かやうのおそろしきご成敗は、仏之御代より此方のはじめ也。

立入左京亮宗継入道隆佐記

と記している。

その後も信長は、避難していた荒木一族を発見次第皆殺しにしていくなど、徹底的に村重を追及していった。天正9年(1581年)8月17日には、高野山金剛峯寺が村重の家臣をかくまい、探索にきた信長の家臣を殺害したため、全国にいた高野山の僧数百人を捕らえ、殺害している。

しかし肝心の村重本人は花隈城に移り(花隈城の戦い)、最後は毛利氏に亡命し、尾道に隠遁したとされる[2][3]

茶人として復活[編集]

天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変横死するとに戻りそこに居住する。豊臣秀吉が覇権を握ってからは、大坂茶人として復帰し、千利休らと親交をもった。しかし有岡城の戦いでキリシタンに恨みを持っていた村重は、小西行長や高山右近を讒訴して失敗し、秀吉の勘気を受けて長く引見を許されなかった。さらに、秀吉が出陣中、村重が秀吉の悪口を言っていたことが北政所に露見したため、処刑を恐れて出家し[4]荒木道薫となった。はじめは過去の過ちを恥じて「道糞」と名乗っていたが、秀吉は村重の過去の過ちを許し、「道薫」に改めさせたと言われている。

銘器「荒木高麗」を所有していた(現在は徳川美術館所蔵、公式サイトの解説)。

天正14年(1586年)5月4日、堺で死去。享年52。

子孫[編集]

  • 江戸時代初期に絵師として活躍し浮世絵の祖といわれる岩佐又兵衛は、信長による処刑から乳母の機転によって生き延びた子孫のひとりとされている[5]
  • 荒木善兵衛も荒木村重の子であり、有岡城落城の際に幼い善兵衛を細川忠興が預かって家中で育てた。成長すると無役の御知行三百石を賜り、後に丹後大江山の細川家高守城代などを務めた[6]
  • 大阪府岸和田市荒木町は、伊丹城陥落時に村重の子供が乳母と共に逃れ、後に開発した場所だと伝えられている[7]
  • 熊本藩に息子荒木村勝の子荒木克之の系統が仕官している。
  • 荒木夢仁斎源秀縄荒木流拳法、捕手術を中心とした総合武術の創始者。[8]

謀反の理由[編集]

村重の織田信長に対する謀反の理由は、諸説があって今でも定かではない。ただ、信長は村重を重用していたため、その反逆に驚愕し、翻意を促したと言われている(信長公記、フロイス日本史など)。

  • 村重は足利義昭石山本願寺とも親しかったため、両者の要請を受けて信長に反逆した。村重が支配していた摂津は当時、中国方面に進出していた羽柴秀吉と播磨丹波方面に進出していた明智光秀らにとって重要な地点であり、村重が反逆した場合、両者は孤立することになるため、前掲2者の意向を受けての謀反だったのではないかという説。
  • 村重の家臣(中川清秀という)が密かに石山本願寺に兵糧を横流ししていたため、それが信長に発覚した場合の処罰を恐れての謀反であったという説。
  • 信長の側近・長谷川秀一の傲慢に耐えかねたという説(『当代記』)。
  • 天正元年(1573年)、村重は信長を近江瀬田で出迎えたが、この時に信長が刀の先に突き刺して差し出した餅をくわえさせられるという恥辱を味わさせられたという怨恨説。
  • 黒田孝高と相談の謀略説。信長暗殺のため後に成功した本能寺のように手勢が手薄なところへ誘き出し夜襲する計画であったという。そのため信長の遺産を継いで天下人となった秀吉・徳川家康などからは厚遇されることになったとされる説。
  • 将来に希望が持てなくなったからという説。石山合戦では先鋒を務め、播磨国衆との繋がりもあったが、本願寺攻めの指揮官が佐久間信盛になり、播磨方面軍も羽柴秀吉が司令官に就任したことから活躍の場がなくなったからといわれる。

太平記英雄伝[編集]

『荒木村重錦絵図』は「荒木村重が餅を食らう」シーンを描いた絵図である(凡例参照)。『太平記英雄伝』によると織田信長に拝謁した時に、「摂津国は13郡分国にて、を構え兵士を集めており、それがしに切り取りを申し付ければ身命をとして鎮め申す」と言上した。

これに対して、信長は腰刀を抜き、その剣先を饅頭を盛っている皿に向けて饅頭3〜5個を突き刺し「食してみろ」と村重の目の前につき出した。周りにいたものは青ざめてしまったが、村重は「ありがたくちょうだいします」と大きな口を開け剣先が貫いた饅頭を一口で食べ、それを見ていた信長は大きな声を上げて笑い、摂津を村重に任せたという、その時の絵図である。

村重はこの時22歳。信長は村重が高槻城を攻略した(高槻城攻城戦)事を激賞し、村重がどのような人物なのか、どのような態度をとるのか試したのではないかと考えられている。

なお『太平記英雄伝』がどこまで史実を伝えているかは不明である。

小説[編集]

テレビドラマ[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 『荒木略記』『寛永諸家系図伝
  2. ^ 「軍師官兵衛」にも登場、荒木村重しのび茶会 : ニュース : 新おとな総研- 読売新聞
  3. ^ 中国新聞 2014年2月28日12面
  4. ^ 完訳フロイス日本史
  5. ^ 『岩佐家譜』など。近年『寛永諸家系図伝』所収の荒木家の家系図を根拠に、又兵衛は村重の末子ではなく、村次の長男で村重の孫とする説もある(畠山浩一「岩佐又兵衛伝再考 ─血縁関係の再検討を中心に」、『国華』第1364号第114編第11冊所収、2009年)。
  6. ^ 熊本藩細川家の家譜『綿考輯録』(『細川家記』)巻五(『出水叢書一 綿考輯録 藤孝公』所収、出水神社 ISBN 978-4-7629-9323-7
  7. ^ 岸和田市:市史史料目録「荒木家文書」
  8. ^ 荒木流拳法”. 日本古武道協会. 2010年1月19日閲覧。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

池田市の伝・荒木村重の祠

外部リンク[編集]