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小早川秀包

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
小早川 秀包 / 毛利 秀包
絹本着色毛利秀包像(玄済寺所蔵)
時代 安土桃山時代
生誕 永禄10年1月18日1567年2月26日
死没 慶長6年3月23日1601年4月25日
改名 才菊丸(幼名)→大田元綱→小早川元総
→秀包→秀直[1]→秀兼→玄済道叱(法名
別名 諱:行包
通称:藤四郎
受領名:市正、内記
戒名 瑞光院殿玄済道叱大居士
霊名 シマオ・フィンデナオ
墓所 普賢寺山口県下関市
官位 従四位下筑後守侍従
主君 毛利輝元豊臣秀吉→毛利輝元
長州藩
氏族 大江姓毛利氏大田氏桓武平氏良文流小早川氏→毛利氏
父母 父:毛利元就、母:乃美大方
養父:大田英綱小早川隆景
兄弟 見室了性毛利隆元五龍局宍戸隆家正室)、吉川元春小早川隆景、三女、穂井田元清毛利元秋出羽元倶天野元政末次元康芳林春香上原元将正室)、秀包
養子兄弟:小早川秀秋
正室:桂姫大友宗麟の娘)
元鎮吉敷毛利家継嗣)、釈妙慶井原元以正室)、覚照院毛利元景正室)、元貞自安妙性桂繁政正室、井原元栄正室)、於佐手黒田直之養女、黒田家臣吉田重成継室・長光院[2])、小早川能久(小早川家継嗣)
養女(臼杵統尚の娘、益田景祥継室)
特記
事項
二宮就辰井上就勝を毛利元就の落胤とする説があり、それに従うと両名は秀包の異母兄にあたる。
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小早川 秀包(こばやかわ ひでかね)/毛利 秀包(もうり ひでかね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将筑後久留米大名安芸国戦国大名毛利元就の九男で、異母兄である小早川隆景の養子となる。

生涯

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誕生から養子時代まで

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永禄10年(1567年1月18日毛利元就の九男として生まれる。母は乃美大方で、同母兄に穂井田元清天野元政がいる。秀包が生まれた時点で長兄(異母兄)の隆元は既に死去しており、父の元就は71歳、甥の輝元は14歳だった。

元亀2年(1571年)1月、元就の意向によって、安芸国戸坂氏の75貫の遺領と遺臣を与えられる。だが、同年5月に同じ備後国の国人の大田英綱が死去し、その遺臣である平対馬守渡辺河内守に懇願されて大田氏の後継となり、大田 元綱(おおた もとつな)と名乗った。この時から、白井景俊家老を務めている。

天正7年(1579年)、母の乃美大方小早川氏庶流乃美氏の出身であるという縁もあり、兄の小早川隆景の養子となり、元服した後は元総(もとふさ)を名乗る。小早川氏に入った際には、隆景より椋梨景家亀門景信横山景義など多くの家臣を付けられている。

天正11年(1583年)10月、人質として甥の吉川広家と共に大坂の羽柴秀吉の下に送られた際に「秀」の字を賜り、秀包(ひでかね)と改名する。人質でありながらもその行動は制限されたものではなく、翌天正12年(1584年)3月の小牧・長久手の戦いや5月の竹鼻城水攻にも秀吉に従い出陣している。秀吉の下にある秀包を母の乃美大方は大変心配し、早期の帰還が叶うよう秀吉に働きかけてほしいと毛利輝元に訴えている。

大名取立て

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秀包は容姿に秀でていたとされ、秀吉に優遇された[注釈 1]。天正13年(1585年)1月に河内で1万石、3月に紀州雑賀征伐に参戦、次いで6月の四国征伐の氷見原の戦いで金子元宅を撃退し、高尾城を攻める際に自ら長宗我部元親の家臣の花房親兵衛を討ち取り、金子元春の守る伊予金子城を攻略した戦功により伊予宇和郡大津城で3万5千石を与えられた。天正14年(1586年)から始まった九州征伐では養父の隆景に従って豊前小倉城宇留津城香春嶽城を攻略した。特に高橋元種が守る香春嶽城を攻める際、秀包は鉄砲隊を率いて敵と激戦となって、一番乗りの戦功を挙げて敵将三人を討ち取って城門を破る大活躍と伝わる。

また、筑後の国人豪族の草野鎮永[5]が秀吉の九州仕置に反発して発心嶽城に立て籠もった。秀包に攻められて下山、善導寺に逃げ込んだ鎮永は秀吉に謀られ木塚の里で自害したという。

戦後に隆景が筑前筑後を領すると、筑後3郡7万5千石を領した。天正15年(1587年)には久留米城を築き、居城とした。

肥後国人一揆の際は討伐軍の総大将として出陣し、和仁親実ら兄弟が籠城した田中城を攻略し、立花宗茂と共に戦功を挙げた。この際に宗茂と意気投合し、義兄弟の契りを結んだ[6]。この2人は天正16年(1588年)7月、秀吉により羽柴氏を名乗ることが許された。この時、宗茂には豊臣姓が下賜されたが、翌年の天正17年(1589年)7月13日、秀包が侍従に任官すると同時に秀包にも豊臣姓が下賜された[7]。これ以降、秀包は「羽柴久留米侍従」と呼ばれるようになった。

久留米を居城とした後は大友宗麟の娘を妻とした縁もあり、受洗。洗礼名をシマオ(Simao)とした。以後はキリシタン大名としての活動が目立つようになり[8]、天正19年(1591年)には大友氏の依頼により[注釈 2]高良山座主の麟圭[注釈 3](りんけい)・了巴(りょうは)父子を鴻門の会のような計策で誘殺し、城下に天主堂を建設、キリスト教信者は7,000人と言われる。もっとも麟圭を滅ぼしたのは宗教対立からではなく、純粋な武力抗争の結果である。後に慶長元年(1596年)、秀包は麟圭の末子の秀虎丸を召し出して高良山座主尊能としている[10]

文禄・慶長の役

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天正20年(1592年)から始まる文禄の役では、1,500の兵士を率いて朝鮮に出兵、竹島城を守る。全羅道攻略の際、大鼓城の攻城で一番旗の戦功を挙げた。碧蹄館の戦いでは明将・李平胡の襲撃を受けても、隆景・立花宗茂と共に明軍を撃破している[11]。のち幸州山城の戦いにも参戦した。それらの戦功により筑後久留米のまま5万5千石を加増されて13万石となり、筑後守に叙任された。

また第二次晋州城攻防戦では、攻城戦前、晋州城東北方の星州に明副総兵劉綎ら約三万余の明軍を各地に駐屯した。6月14日、宜寧に集結していた朝鮮都元帥金命元・平安巡辺使李薲・全羅巡察使権慄・全羅兵使宣居怡・防禦使李福男・助防将李継鄭鄭名世・慶尚左兵使高彦伯・右兵使崔慶会・忠清兵使黄進・京畿助防将洪季男・星州牧使郭再祐・倡義使金千鎰・義兵高従厚などの朝鮮軍5万余は咸安に到着して日本軍の進軍を止めさせたが[12]、日本軍先鋒隊の立花宗茂高橋統増、小早川秀包と共に兵4千で釣り野伏せ戦法を連携してこれを敗走させた[13]。朝鮮軍の一部は15日に全州へ撤退し、金千鎰を主に一部の朝鮮軍は晋州城に入った。このため日本軍は昌原より咸安・宜寧を通過して晋州城へ進軍した。

  • 『問註所家譜』により文禄2年(1593年9月2日問註所統景問註所正白兄弟は小早川秀包の先鋒になって晋州城外南西方向河東郡 (慶尚南道)へ向かって二十里ほど前進する際、明の劉綎と遭遇し数百兵が戦死した、立花宗茂は敗れた小早川軍を救援のため劉綎と対戦し、劉綎は敗れて晋州城に返る[14]

文禄3年(1594年)、秀吉の養子である木下秀俊(後の小早川秀秋)が隆景の養子となったため、秀包は廃嫡され、別家を創設する。

慶長2年(1597年)から始まる慶長の役においても参戦。竹島城[15]、星州や谷城の防戦[注釈 4][注釈 5]など、大いに手柄を立てた。

慶長3年(1598年11月18日、秀吉が死去すると朝鮮に派遣されていた日本軍に撤退命令が下ったが、順天倭城小西行長らが海上封鎖を受け撤退を阻まれていることを知ると、秀包は立花宗茂・高橋直次島津義弘宗義智寺沢広高筑紫広門 (主水正)[注釈 6]らと共に水軍を編成して救援に向かい、陳璘率いる明水軍や李舜臣率いる朝鮮水軍朝鮮語版英語版と戦い(露梁海戦)、自ら愛用の鉄砲を持って敵と激戦した[17]

慶長4年(1599年)頃に秀直(ひでなお)、慶長5年(1600年)には秀兼(ひでかね)と改名した。

関ヶ原の戦い

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慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に加わり、8月に大坂城玉造口を守備した。

9月3日、京極高次の籠る大津城を兄の末次元康や立花宗茂らと共に攻め、数人の部将を失い、3人の重臣が重傷を負う痛手を蒙りながらも落城させた[18]。しかし、9月15日の本戦では、小早川秀秋や吉川広家の内応、広家が邪魔したことで毛利秀元が動けずに西軍が敗れたため、大津城を撤退して大坂城に帰還する。

この時、国許でも戦が起こっており、10月14日に久留米城は黒田如水鍋島直茂率いる37,000の軍に攻撃を受けていた。城中には宿老の桂広繁白井景俊以下わずか500の兵しか残っていなかったが、数日城は持ちこたえた後、両人は開城勧告に応じて城を明け渡した。秀包の娘の於佐手が黒田氏の人質に、桂広繁の四男の黒寿丸(後の桂包政)が鍋島氏の人質とされ、秀包の正室の桂姫や嫡男の毛利元鎮らは長門国豊浦郡川棚へと移った。

関ヶ原の戦い後は改易され、毛利輝元より長門国内に所領を与えられる。その頃、小早川秀秋の裏切りへの謗りを避けるため、小早川姓を捨てて毛利姓に復し、大徳寺で剃髪して、玄済道叱と称した。

秀包は大坂から帰国する途上で発病し、長門赤間関宮元二郎の館で療養したが、翌慶長6年(1601年3月23日喀血して病没。享年35。遺体は当時の秀包の知行地で、館があったと伝えられる現在の山口県下関市豊北町滝部に安置され、吉敷毛利家の菩提寺である玄済寺[注釈 7]供養塔が建てられた。この秀包の墓の横には、殉死した筆頭家老・白井景俊の墓が寄り添うように建っている。また、後に久留米城には秀包を祀る小早川神社が建てられている。

嫡男の元鎮が後を継ぎ、後に吉敷毛利家の始祖となった。

人物

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  • 毛利一族の中では目立たない人物であるが、隆景が弟の秀包を養子としたのは、元就の武勇を吉川元春と並び最も受け継いでいたためだと言われている。秀包はその期待を裏切る事なく、毛利氏の一族として朝鮮に渡り、立花宗茂とも並ぶ抜群の武勇を誇り、小早川の名跡を汚すことなく活躍した。
  • 容儀端正の美少年にして、勇猛壮健と評された[4]
  • 鉄砲術に長けていたとされ、毛利秀包略伝には「秀包銃ヲ善クス其銃ヲ雨夜手拍子ト云フ」と記されている。

肖像画

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束帯を着用して右手にを持ち、高麗縁の上畳に座る秀包を描いた「絹本着色毛利秀包像」は、慶安3年(1650年)頃に吉敷毛利家お抱えの雲谷派の絵師によって作成され、上部に奇雲玄勛によるが記されている。寸法は縦96.7cm、横34.2cm。現在も吉敷毛利家の菩提寺である玄済寺に所蔵されており、平成19年(2007年)12月7日に山口市有形文化財に指定されている[19]

偏諱を与えた人物

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登場作品

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テレビドラマ
ゲーム

脚注

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注釈

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  1. 男色美麗なるに依って、秀吉公耽る心在しける故[3][4]
  2. 耳川の戦い後、龍造寺方になった麟圭は大友方の兄の良寬の神領、座主を横領した[9]
  3. 筑後入りの際に、秀吉が座主・良寛(麟圭の兄)に替えて座主としていた。
  4. 『続本朝通鑑・卷第二百二十三-後陽成天皇八 P.5560』[16]、『荻藩閥閱錄』によれば、慶長2年(1597年)10月末、秀包は筑紫広門とともに星州の谷城を守備した。明将の李如梅が軍を率いて谷城を包囲すると、秀包・広門の兵は千人にも満たず、また兵糧も不足していたため、やむなく決死の抗戦を覚悟したという。 このとき、小早川秀秋山口正弘南部光顕に千余の兵を与えて救援に派遣した。これを受けて広門は、夜陰に乗じて城を出て援軍と合流することを提案した。そこで秀包は家臣の桂繁次亀門景信・野津太兵衛・河井源兵衛・小河内又左衛門らを率いて出撃し、多くの敵兵を討ち取り、李如梅の兵勢を星州・求礼の間にある大河まで追撃したのち、竹島城へ退いた。なお、家臣の鶴原三太夫・丹下太郎左衛門・樋口与三兵衛ら七名の部将が防戦の中で戦死したとされる。
    • 原文には「星州之谷城」と記述されたが、星州(慶尚北道星州郡)と谷城(全羅南道谷城郡)は地理的に大きく離れている。また、明軍を「星州と求禮(全羅南道求礼郡)の間の大河」まで駆逐したと記されている点からも、地理的位置関係を推測すれば、ここでいう「星州」は実際には谷城郡および求礼郡の南方に隣接する全羅南道順天市を指す可能性があると考えられる。
  5. 『野史 第3巻 3版』P.1895-1896『大三川志・附録豊臣家譜』によると、秀包は筑紫広門とともに星州の守備にあたった。明将・李如梅来襲の報を受けた当時、兵力は寡少であり、加えて寒冷のため兵士の士気も低下していたことから、城を放棄して退却すべきか判断に迷ったとされる。 この頃、谷城にいた山口宗永・南部光顕が約二千の援軍を率いて来援し、途中で李如梅軍と遭遇戦を行いながら星州城付近まで接近した。これを受けて秀包・広門らは城外に出て援軍と合流し、如梅軍に対して攻撃を加えたという。兵力差に加え、防御機能の十分でない城郭での防戦は困難であったが、戦闘は夜まで続き、結果として如梅軍は一旦退却したと伝えられる。 その後、秀包らは星州を離れて谷城へ向かったが、すでに明軍によって陥落していたことを知り、求礼方面へ転進した。途中で大河に遭遇したが船がなく、渡河の手段を得られなかったため、兵士同士を連結し、馬を繋いで徒渉により渡河したとされる。
    • これを慶尚北道星州郡漆谷郡の間で行われた戦闘と解する見方もある。漆谷郡内には文禄・慶長の役で日本軍の兵糧集積地と伝えられる倭館の存在が知られており、これが本文の「谷城」に相当する可能性も指摘される。また、この場合における「求礼」は、星州郡の南方に位置する高霊郡を指す可能性があると考えられる。
  6. 筑紫広門(筑紫上野介)の養子の筑紫主水正のこと、父子とも広門の名を乗る。
  7. 黄龍山玄済寺。現在の山口県山口市吉敷佐畑4丁目にある曹洞宗の寺院。

出典

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  1. イエズス会の資料による。
  2. 『郷土資料 第1 歴史之部』P.186
  3. 「毛利秀包略伝」
  4. 1 2 『筑後国史』筑後将士軍談 卷之第四十二 系譜小伝 第十四 毛利氏 小早川秀包並貫稱考附出 P.388
  5. 筑後草野氏・草野鑑員の子、名は家清とも。肥前の草野鎮永とは別々の人物。
  6. 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.127
  7. 村川浩平『日本近世武家政権論』29・38・39頁
  8. 『筑後郷土通史 上巻』P.185~186
  9. 『郷土資料 第1 歴史之部』(久留米初等教員会)
  10. 『筑後国史』筑後将士軍談 卷之第四十二 系譜小伝 第十四 毛利氏 小早川秀包並貫稱考附出 P.388~389
  11. 『荻藩閥閱錄』
    • 秀包の手勢は桂紀伊守繁次・白井土佐守包俊・椋梨越前守包祐・亀門雅楽助景信・横山肥前守景義・成松弥左衛門統清・林次郎兵衛包次・内藤三右衛門ら都合1500余。
    • 二月二日注進之趣加披見候、抑今度於朝鮮表大明之大敵攻来之剋、平壤城を守、大友義統不致同意、神妙之覺悟を極、都表押寄候時、隆景為先手、御方柳川侍従(立花宗茂)二陣に進、盡粉骨家中之者共討取頸注文到来、誠無比類働感思召候、彌此後可抽軍中事肝要候、猶木下半介(吉隆)可申也 文禄二卯月三日 秀吉御朱印 羽柴久留米侍従(秀包)とのへ
    • 明将・李平胡については、李大孤と記された。
    • 先鋒を率いた家老の横山景義・物頭の桂五左衛門・内海鬼之丞・伽羅間弥兵衛・手島狼之助・湯浅新右衛門・吉田太左衛門・波羅間郷左衛門ら家臣数十騎戦死。
    • 秀包は敵将と馬上で組み討ちとなり、双方とも馬から落ちて坂下へ転落したが、家臣の助勢を得てその敵将を討ち取った。桂紀伊守繁次・粟屋源兵衛・神多羅来杢左衛門・片山二郎左衛門・名井越後守父子・橋本九郎左衛門・清水清右衛門・手嶋五郎左衛門・河相源兵衛・小河内又左衛門・鶴原平左衛門父子らは秀包に従って敵陣に突撃し、後陣を率いる白井土佐守包俊・荒川善兵衛・井上五左衛門らも横合から突撃した。この際、土佐馬が秀包に差し出され、これに乗り換えて戦闘を続行したという。秀包勢が討ち取った首級は数百余に及んだとされる。
  12. 『日本戦史・朝鮮役』 (本編・附記),263頁
  13. 木下吉甫著『翁物語』P.138-141旧柳河藩主立花家文書-系譜附録00001816、『柳川藩叢書 第1集 碧蹄館大戦記』P.90-93、『柳河戦死者名誉録』(三五)朝鮮両度の役、河村哲夫 著 立花宗茂 (西日本人物誌 ; 13)P.146-148
  14. 『問註所家譜』、『柳河戦死者名誉録』(三五)朝鮮両度の役
  15. 『荻藩閥閱錄』秀包が病に伏していた際には、林次郎兵衛包次が名代として兵を率い、戦功を挙げた。
  16. 『荻藩閥閱錄』秀包は船上から鉄砲射撃を行い、自らも鉄砲「雨夜手拍子」を携えて敵を討ち取った。家臣の桂繁次・椋梨包祐・成松統清・林包次・粟屋源兵衛・野津太兵衛・草下長兵衛らも奮戦して功を上げた。特に成松統清と野津太兵衛は、明軍の軍船に乗り込んだ際に急難に陥った立花宗茂を救援して殊功を挙げた。これにより、成松は長刀を、野津は太刀をそれぞれ賜った。なお、この海戦においては、家臣の南清兵衛・中戸弥市・湯浅善右衛門・湯浅十郎兵衛が鉄砲によって討ち取られた
  17. 『荻藩閥閲録』によれば、秀包は大手門攻め口の攻撃を任され、手勢2500余を率いて12日夜半に仕寄を付け、13日未明より攻撃を開始した。使番の丹波伝兵衛は大手門攻め口において一番乗りの戦功を挙げたが、末兼利庵とともに戦死した。 続いて亀門景信・白井包祐らが城中に突入して大手門を開き、これにより秀包勢はさらに二の曲輪へ攻め入り、多くの敵を討ち取った。秀包の下知のもと、林包次・神多羅来杢左衛門・多羅間弥左衛門・山田五郎右衛門・金子正左衛門・村上助右衛門・鶴原平左衛門・片山二郎左衛門・小河内又左衛門・清水清右衛門・河相源兵衛・橋本九郎左衛門・別納六右衛門・手嶋五兵衛・井村五左衛門らも相次いで攻め入り、秀包勢は一番乗りの功を立てた。 この時、多羅間弥左衛門・蔵田仁左衛門・福永源右衛門ら6名の部将が討死し、白井包俊・林包次・山田五郎右衛門の三名が重傷を負った。また、旗奉行の粟屋源兵衛・野津太兵衛は矢倉からの鉄砲射撃を受け、旗手の小頭・作間半助がこれを救援する最中、3名ともに鉄砲により討ち取られた。 その後、桂繁次の下知により名井弾右衛門・吉田新左衛門らが旗手を護り、秀包勢は夕刻に至るまで攻撃を継続したという。
  18. 絹本着色毛利秀包像」『山口市の歴史文化資源』。2024年4月3日閲覧。

参考文献

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