国司元蔵

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国司元蔵
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 享禄4年(1531年)?
死没 慶長13年1月15日[1]1608年3月1日
改名 国司元熈[1]→元蔵[1]
別名 助六[1]、助兵衛[1]、隼人、隼人佐
戒名 牛庵以吽居士
墓所 西方寺墓地(山口市徳地伊賀地)
官位 従五位下[1]、隼人佐[1]
主君 毛利元就隆元輝元
氏族 高階姓高氏庶流国司氏
父母 父:国司元相[1]、母:渡辺勝の娘[1]
兄弟 元武[1]、元蔵、元貞[1]
赤川元秀の娘[1]、後妻:井原元良の娘[1]
女(粟屋元武室)[2]就正[2]、女(桂元忠室)[2]左門[2]、女(神村元忠室)[2]
伊賀地にある国司元武・元蔵の墓塔

国司 元蔵(くにし もとただ/もととし)は、戦国時代から江戸時代にかけての武将毛利氏の重臣。

生涯[編集]

毛利氏家臣・国司元相の子として生まれる。天正15年(1587年)に兄の元武隠居したため、国司氏家督を継承する。毛利輝元の信任篤く家老となり、輝元嫡子の毛利秀就傅役も任せられた。天正16年(1588年)、豊臣秀吉から豊臣姓を下賜された。

文禄元年(1592年)から始まる文禄の役に従軍し、朝鮮へ渡海。文禄2年(1593年)6月の晋州城攻防戦では毛利秀元に従って戦う。この戦いで元蔵はを用いて敵兵を多数討ち取る武功をたてた。後に小早川隆景から元蔵の武功を聞いた輝元は、元蔵を賞賛した[3]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、毛利氏は2ヶ国に減封されることとなった。翌慶長6年(1601年)9月には、毛利秀就とともに江戸に登り、徳川家康らに面会。その後は江戸にあって毛利氏の新たな拠点となるべき城地選定の際に、毛利輝元の意向を汲んで福原広俊とともに幕府との折衝にあたった。

慶長12年(1607年)に江戸から所領の徳地伊賀地村に帰るも、兄の元武に先立ち慶長13年(1608年)に病死。西方寺に葬られた(西方寺は現存せず、墓地のみが残る)。家督は嫡男の国司就正が継いだ。

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 田村哲夫編修 1980, p. 116.
  2. ^ a b c d e 田村哲夫編修 1980, p. 117.
  3. ^ 『毛利輝元卿伝』p. 497.

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]


先代:
国司元武
安芸国司氏歴代当主
? - ?
次代:
国司就正