厳島の戦い

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厳島の戦い
厳島神社 大鳥居
戦争戦国時代 (日本)
年月日1555年10月16日天文24年10月1日
場所安芸国厳島
結果毛利家の勝利、陶家大内家の弱体化
交戦勢力
毛利軍Alex K Hiroshima Mori kamon.svg 陶軍Japanese Crest Oouchi Hisi.svg
指導者・指揮官
毛利元就Alex K Hiroshima Mori kamon.svg
毛利隆元Alex K Hiroshima Mori kamon.svg
吉川元春Marunouchinimitsuhikiryo.svg
小早川隆景Hidari mitsudomoe.svg
陶晴賢Japanese Crest Oouchi Hisi.svg
弘中隆包
戦力
4,000 - 5,000 20,000 - 30,000
損害
4,000(諸説有)
毛利元就の戦い
月岡芳年『大日本名将鑑 毛利元就』ロサンゼルス・カウンティ美術館所蔵

厳島の戦い(いつくしまのたたかい)は、天文24年[注 1]10月1日1555年10月16日)に、安芸国厳島毛利元就陶晴賢との間で行なわれた合戦である。

背景[編集]

天文20年(1551年)の大寧寺の変で、大内義隆を討った陶隆房(変後に晴賢に改名)は大内氏の実権を握った。

周防国長門国を本拠とする大内氏は安芸国や石見国国人たちも傘下に収めていたが、石見三本松城(現在の津和野城)の吉見正頼が陶打倒を掲げて挙兵したため、天文23年(1554年)3月に三本松城の戦いが発生。大内・陶の軍勢は三本松城を包囲し、安芸の毛利元就にも参陣を呼びかけたが、同年5月に元就は大内・陶と決別して桜尾城など4城を攻略し、厳島まで占領する(毛利元就が陶晴賢と決別した経緯は防芸引分を参照)。陶氏との対決に備えて、厳島・広島湾周辺の諸城や水軍の守りを固めた[1]

安芸を掌握した毛利氏は、5月15日には周防国玖珂郡まで侵入して小瀬・御庄(岩国市)で陶軍と交戦する[2]。 反旗を翻した元就に対して陶晴賢は家臣の宮川房長を急派するが、宮川勢は6月5日に折敷畑の戦いで敗北した。折敷畑の戦いの後、毛利軍は佐西郡の山里と呼ばれる地域に侵出するが、陶方の地下人一揆の抵抗を受ける。8月には毛利隆元が出陣しているが攻めきれず、一揆勢の一部を取り込んで攻勢に出た毛利軍が友田高森要害を落としたのは10月25日になった。元就が山里攻略を意図したのは、周防に侵入して三本松城を攻める大内・陶軍を背後から牽制することを考えていたとも言われ、山里攻略が難航したことで毛利方の戦略に影響を与えた可能性も指摘される[2]

毛利と陶の攻防は海でも繰り広げられており、6月中旬には毛利方の水軍が陶氏本拠の周防富田浦(若山城周辺)を襲撃[2]。対する陶方も水軍で厳島を攻めたが、宮尾城の守りにより陶軍の上陸は阻止された[1]。7月になると、陶の調略を受けて呉・能美の警固衆(水軍)が毛利から離反したが、9月には毛利と小早川の警固衆が両者を討伐[2]能美島を占領している[3]

三本松城の戦いが継続中であった間、大内・陶軍は主力を動かせなかったことから戦闘が大規模化することはなかったが、8月下旬[1](若しくは9月2日[4])に吉見正頼との和睦を成立させると、以降は毛利対策に本腰を入れた。

合戦の経緯[編集]

外交と調略[編集]

大内氏・陶氏と毛利氏の関係が決裂した天文23年(1554年)春から、厳島で合戦が生じる翌24年(1555年)秋までの間に、直接的な軍事衝突以外にも次のような外交・調略の動きがあったとされる。

尼子氏への対応
折敷畑の戦い直後となる6月7日付けで陶晴賢が石見の益田藤兼に送った書状(『益田家文書 65号』)では、雲州(出雲国を本拠とする尼子氏)についての記述があり、尼子氏と連合して毛利氏を挟撃することが検討されていた[2]。対する毛利元就は、尼子氏と敵対していた三村氏備中国)や福屋氏(石見国)を支援することで尼子氏の牽制に動いている[1]
少弐冬尚への密書
9月10日、元就は九州肥前国少弐冬尚に密書を送り、挙兵を促した[1]。少弐氏は大内氏に攻められて九州北部の領地(豊前国筑前国)を奪われており、大内氏・陶氏への牽制を狙ったものと思われる。
来島水軍との婚姻
天文23年頃、毛利氏は村上水軍の一族である村上通康(来島村上氏)と姻戚関係を結んでいる[2][5]。これは、毛利家の一門衆である宍戸隆家の嫡女を小早川隆景の養女にした上で通康へと嫁がせたもので、毛利方にとって大きな力になったと考えられる。
江良房栄の内通と暗殺
陶家臣である江良房栄に対して毛利方の調略が行われ、天文24年2月19日には300の所領(毛利家の譜代重臣らの所領に匹敵する)を条件に内応に応諾した[1]。『桂岌円覚書』によると、房栄は晴賢に対して毛利との和睦を進言したとされ、元就の力量を知っていた人物と言われる。しかし、房栄がさらなる加増を要求してきたため、元就は房栄の誅殺を意図して内通交渉を大内方に流した。それを知った晴賢から命を受けた弘中隆包により、3月16日に岩国の琥珀院で房栄は討たれた。なお、房栄の加増要求に対して隆元が怒ったことは史料(毛利家文書 709号)で確認できるため、房栄の内応は事実と考えられるが[1]軍記物で描かれる通りに元就の謀略で暗殺されたかどうかは定かでは無いと言われる[2]
桂元澄の偽装内通
厳島の戦いにかかわる逸話のひとつに、桜尾城主桂元澄が陶方への内通を偽装したという話が軍記物では伝わる[3]。かつて元就の家督相続に絡んで異母弟・相合元綱とその支持者(元澄の祖父である坂広明が含まれる)が粛清された時に元澄の父・桂広澄が自害しており、残された元澄も一度は元就と戦おうとしていた過去があったため、「元就には遺恨がある」として陶方に内通を申し出る密書や起請文を元澄は送った。これは元就が命じて「陶軍が厳島を攻めれば、毛利軍本隊も厳島防衛に動くので、元澄の手勢が吉田郡山城を攻める」ことを提案して陶軍を厳島に誘い込む謀略とされるが、真偽を確認できる一次史料は存在しない[1]。なお、晴賢を信用させるために7枚も誓紙を書いた元澄自身は、桜尾城に留まって厳島には出陣せず(元澄の子たちは参戦)形式的ながら義理立てしたとも言われる[6]
その他の内応者
元就の調略により、陶方の武将である久芳賢重などが毛利方に応じた[1]。逆に、白井賢胤の調略により、安芸国人・野間隆実が離反して陶方に付いたが、厳島の戦いを待たずして毛利軍に討たれた。

前哨戦[編集]

天文24年正月、防芸引分後の毛利軍の攻撃で仁保城(当時の仁保島、現在は地続きで広島市南区)を追われて府中出張城に籠もっていた白井賢胤が、水軍衆を率いて草津城や毛利方河内警固衆の拠点を襲撃し、毛利軍と交戦する[2]

3月15日、江良房栄が警固船140艘からなる水軍を率いて厳島などを襲撃(ただし、前述の通り房栄は岩国帰陣後の16日に殺害される)。その後、野間隆実が毛利方から離反して白井賢胤と共に海田浦(毛利方の阿曽沼広秀領)や仁保島を攻めた[2][3]

4月8日、江良房栄を寄親としていた小方・大竹(現在の大竹市)の神領衆が70〜80艘で厳島に来襲したため小規模ながら合戦となる(『棚守房顕覚書』)。

4月9日、元就率いる毛利軍3500が野間隆実に総攻撃を仕掛けた。野間軍1200と陶援軍300は居城矢野城で抵抗するが、出城が落とされたことで4月11日に降伏[3][4]。隆実は舅に当たる熊谷信直を通して降伏を申し出ており、元就も一旦は了承するが、城外に出たところで城兵諸共に討ち滅ぼされた。また、同時期に蒲刈島倉橋島(いずれも現在の呉市)の多賀谷氏を攻めている[3]

5月13日、陶水軍100艘が厳島を攻撃、宮尾城のある有ノ浦で毛利軍(宮尾城には中村二郎左右衛門が入っていた)と交戦[3][4]。翌6月、元就自身が厳島に渡海して宮尾城などを視察[1]己斐直之坪井元政(新里宮内少輔)に軍勢500を与えて城に入れた[3]

7月7日、白井賢胤が宮尾城を攻めるが、宮尾城の己斐直之らが撃退する[2][4]。10日には三浦房清率いる水軍が兵500で仁保城を攻めるが、城番の香川光景勢200の抵抗により攻略できなかった[3][4]。この敗戦後、房清は厳島上陸を晴賢に進言したと言う。

本戦[編集]

9月21日〜27日(両軍の出陣)[編集]

9月21日、陶晴賢は周防・長門・豊前・筑前などの軍勢を引き連れて岩国から出陣。その兵力は通説では2万余とされ、玖珂郡の今津・室木の浜から500艘の船団で出港して海路で厳島に向かった。同日の夜は厳島の沖合に停泊し、翌22日早朝に陶軍は上陸した[1][6]。海路の要衝である厳島(宮尾城)を攻める晴賢の計画に対し、毛利軍が後ろから攻撃してくることを懸念した弘中隆包が諫言したと『中国治乱記』には書かれている[7]。大元浦(現在の宮島水族館付近)から上陸した陶軍は、三浦房清と大和興武が先陣を務め、晴賢の本陣は宮尾城が見通せる塔の岡(現在の豊国神社付近)に置かれた。陶軍は大軍だったため、大聖院弥山に至るまで広く布陣しており、北の杉ノ浦から南の須屋浦まで海側も警固船で埋め尽くされた[6]。陶軍は、宮尾城を尾根沿いに陸路で攻めており、城の水の手(水源)を断とうとしていた[1]

24日、陶軍の厳島上陸の報を受けた毛利軍は佐東銀山城を出陣、水軍の基地でもある草津城(現在の広島県広島市西区)に着陣した。元就・隆元率いる毛利軍には、吉川元春の軍勢と熊谷氏平賀氏天野氏阿曽沼氏などの安芸国人衆が加わっており、さらに水軍を率いる小早川隆景勢も合流した。この時、宮尾城兵を除く毛利軍は、兵4000・軍船110〜130艘(毛利・小早川水軍)程度と伝えられており[6]、小早川の傘下に入っていた因島村上氏の加勢を加えても200艘に満たなかった[1]。『武家万代記(三島海賊家軍日記)』や『桂岌円覚書』によると、かねてより小早川家(家臣の乃美宗勝)が沖家水軍(能島村上氏と来島村上氏)と交渉に当たっており、元就は草津城で援軍を待った。

26日、元就は熊谷信直に50〜60艘の船を与え、宮尾城へ援軍として派遣する[6]。同日付の手紙で、元就が隆景に対して村上水軍の救援催促を急ぐよう指示しているが、宮尾城の窮状のためか焦燥感のある内容だと言われている[1]

27日、この頃までに宮尾城は堀を埋められており[2]、水源も断たれていたとされるが、28日と29日の日柄が悪いため総攻撃が延期されたと『武家万代記』には記述されている[8]。一方の元就は「これ以上は来島は待てないので、毛利・小早川の水軍だけで宮尾城に出陣する」という内容の指示を隆景に出した。

9月28日〜晦日(合戦直前)[編集]

28日、元就は草津城を出て、地御前(現在の広島県廿日市市)に全軍を前進させた。通説では、この日に村上水軍200〜300艘が毛利軍の救援に駆けつけたとされる。これは、『棚守房顕覚書』『武家万代記』『万代記(厳島合戦之記)』などに記されている日付で、作家の森本繁は「史実として疑う余地はない」として、毛利軍の渡海は「翌29日に直ぐにも渡海したと考えるのが合理的」と述べており[8]、古記録に残る9月晦日の記載について森本は「当時の宣明暦では、9月29日が晦日」と説明している[9]。一方、県立広島大学の秋山伸隆は、『棚守房顕覚書』の筆者である棚守房顕が同年9月晦日を29日としたのは勘違い(正しくは30日)[注 2]としており[1]、この説を採る場合、29日に地御前着陣と村上水軍来援、30日に渡海、1日に合戦の流れになる。なお、『武家万代記』では元就が村上水軍に対して厳島を回り込んで掛け声や櫓拍子などで目立つように西側から陶軍に近づくよう指示しており、村上水軍が陶方に付くかのように見せたと考えられるが[7]、同じ日に弘中隆包の書いた書状には、村上水軍が毛利方に付いたのを見て水軍力の差で劣勢に陥ったことを認める記述がある[2]

30日、元就・隆元・元春らの率いる第1軍(毛利本隊)・隆景を大将に宮尾城兵と合流する第2軍(小早川隊)・水軍で構成される第3軍(村上水軍)に別れた厳島に渡海する準備を行う。夕方頃になって天候が荒れ始め雷を伴う暴風雨になるが、元就は「今日は吉日」であると称して風雨こそ天の加護であると説き、酉の刻(18時)に出陣を決行した[6]。なお、『老翁物語』には程なくして荒天は収まった旨が書かれている[1]。毛利本隊は敵に気付かれないよう元就の乗船する船のみ篝火を掲げ、厳島を密かに東に回り込み、戌亥の刻(21時)頃に包ヶ浦と呼ばれる厳島東岸の浜辺へ上陸。元就は、全ての軍船を返すように児玉就方に命じて背水の陣の決意を将兵に示した。その後、吉川勢を先陣に博奕尾の山越えを目指して山道を進軍した。

一方の第2軍・第3軍は、夜の海を作戦通りに大野瀬戸(厳島西方の水道)まで西進、大きく迂回してから厳島神社大鳥居の近くまで近づいた。『万代記』によると21時頃に神社沖までたどり着いた小早川隊は、乃美宗勝らの進言により、敵味方の区別が付けられないほどの風と闇に乗じて岸に近づき、「筑前から加勢に来たので陶殿にお目通りする」と称して上陸したとされる[1][6]。そして、第3軍となる村上水軍の船団は沖合で待機し、開戦を待った。

10月1日(合戦当日)[編集]

翌10月1日の卯の刻(6時)に毛利軍の奇襲攻撃が開始された[6]。博奕尾を越えてきた毛利軍主力は、鬨の声を上げて陶軍の背後(紅葉谷側)を駆け下り、これに呼応して別働隊(小早川隊)と宮尾城籠城兵も陶本陣のある塔の岡を駆け上った。塔の岡で戦いが始まったのを見て、沖合に待機していた村上水軍が陶水軍を攻撃して船を焼き払った。前夜の暴風雨で油断していた陶軍は、狭い島内に大軍がひしめいていたことから進退もままならず、『棚守房顕覚書』に「陶、弘中は一矢も射ず、西山をさして引き下がった」と書かれる程の総崩れとなった[1]

毛利軍の挟撃を受けて狼狽する陶方の将兵たちは我先と島からの脱出しようとして、舟を奪い合い沈没したり溺死する者が続出した。弘中隆包・三浦房清・大和興武らが手勢を率いて駆けつけて防戦に努めるが、大混乱に陥った陶軍を立て直すことはできず、晴賢は島外への脱出を図った。西に逃げる晴賢らを吉川隊が追撃するが、それを阻止しようとして弘中隆包・隆助父子の手勢500が厳島神社の南方の滝小路を背にして立ちはだかった。途中、陶方の青景・波多野・町野らの兵300が横から吉川隊を突いたため弘中隊が優勢になるが、吉川隊にも熊谷信直・天野隆重隊が援軍に駆けつけたため、最終的に弘中隊は大聖院への退却を余儀なくされた。この時、毛利軍の追撃を防ごうとして隆包らが火を放ったため、厳島神社への延焼を危惧した元春の命で消火活動が行われたという逸話が残っている[6]。最初に陶軍が上陸した大元浦まで晴賢らは辿り着くも、脱出に仕える舟は無かった。そこで隆景の手勢が追いついてきたため、房清が殿となった。房清勢は激しく抵抗して隆景に手傷を負わせたとされるが、消火を終えて追いつた元春勢の加勢によりついに討ち死にした。なお、最後まで戦った房清は、厳島への渡海を勧めたことで責任を感じていたという(『陰徳太平記』)。

ごく僅かな近習たちのみに守られた晴賢は、さらに西の大江浦まで着いたが舟は無かった(その後、山を越えて東海岸の青海苔浜で舟を探し、高安ヶ原の山中まで引き返したという説[注 3][10]もあるが、地理的・時間的に無理がある[6])。この大江浦で、晴賢は伊香賀房明(または隆正)の介錯によって自刃して果てた。晴賢に最期まで付き添った近侍は、房明の他に柿並隆正山崎隆方の名が残っており、山中に晴賢の首を隠した後、3人とも自害している[6]

大和興武は香川光景と戦った後に捕虜にされた。『陰徳太平記』によると、かつて元就が興武を召し抱えたいと言っていたのを光景が思いだしたので生け捕りにしたとされる。そのため、一旦は光景に預けられて仁保城に送られた興武であったが、結局1ヶ月後に元就の命令で殺害された。

厳島での戦闘は後述の弘中隊の抵抗を除いて、14時頃までにはほぼ終結した(『吉田物語』)[3]

10月2日〜5日(戦後処理)[編集]

陶軍主力を壊滅させた元就は、島に散り散りとなった敗残兵を掃討するため山狩りを命じた(『芸侯三家誌』)[6]

一方、大聖院付近で吉川元春らと交戦した後に撤退していた弘中隆包は、大聖院を経て弥山沿いの谷を駆け登っており、手勢100[6][11]〜300[1][12]を率いて隣接する山の絵馬ヶ岳[13](現在の駒ケ林)にある龍ヶ馬場と呼ばれる岩場に立て籠もっていた[11]。山頂を包囲した吉川勢の猛攻に激しく抗戦した隆包であったが3日に討ち死、弘中隆助を含め弘中隊は全滅した。

5日、晴賢の首を探していた毛利軍が、晴賢の草履取りである少年を捕らえ、助命と引き替えに、晴賢の首級の隠し場所を聞き出した。首級を発見した元就は、軍勢を厳島から引き上げて対岸の桜尾城に凱旋、同城で首実検が行なわれた。この首実検の際に元就は「主君を討って八虐を犯した逆臣である」として晴賢の首を鞭で3度叩いた[1](『万代記』)。その後、晴賢の首は洞雲寺(廿日市市)に葬られた。

『吉田物語』の記述では、この戦いで討たれた陶兵は4,780人にのぼり、捕虜も3000余人とされる[1][3]。厳島は島全体が信仰の対象とされる厳島神社の神域[注 4]であるため、元就は死者を全て対岸の大野に運び出し、島内の血が染み込んだ部分の土を削り取らせた。また、血で汚れた厳島神社の社殿から回廊に至るまで全てを潮水で洗い流して清めさせ、合戦翌日から7日間に渡り神楽などを奉納し、万部経会(まんぶきょうえ)を行って死者の冥福を祈った(『万代記』)[6][1]

戦後[編集]

この戦いで陶晴賢を失った大内氏と陶氏は急速に弱体化した。

10月5日、桜尾城で首実検を済ませた元就は、毛利軍の本陣を小方(広島県大竹市)に移して周防長門への侵攻を開始(防長経略)。弘治3年(1557年)、晴賢によって擁立されていた大内義長大友宗麟の異母弟で義隆の甥、一時義隆の養子となっていた)が勝山城にて自害に追い込まれ、大名としての大内氏は滅亡に至った。その後、大内氏旧領を併合して大大名となった毛利氏は、博多石見銀山(どちらも大内氏支配下)の権益を狙って、九州の大友氏や山陰の尼子氏との抗争を開始する。

なお、本合戦直後には大内水軍を構成していた屋代島警固衆の桑原氏沓屋氏が毛利に帰属し、大内氏滅亡後には白井賢胤も毛利傘下に入るなど、毛利水軍は勢力を大きく伸ばしている。元就が毛利直轄の水軍育成を本格化したのは、陶氏との対決が視野に入り始めた天文20年以降とされており、厳島の戦いに前後して発達した毛利水軍は、その後の大友氏・尼子氏との戦いのみならず、後の織田信長との戦いでも大きな貢献を果たすことになる[14]

兵力と参戦・関連した人物[編集]

毛利軍[編集]

毛利軍主力(吉川隊・小早川隊及び安芸国人衆勢を含む)は3000〜4000程度[1][6][10][15]、主力軍以外に宮尾城兵500、吉田郡山城に残された守備兵が800とされる[6]。毛利方に参加した諸勢力を含めると、厳島に動員された毛利軍の総数は5000を大きく越えていたとする説もある[16]

また、元就が率いていた水軍戦力は、毛利水軍(川ノ内警固衆)50〜60艘と小早川水軍(沼田警固衆)60〜70艘とされる[6]

陶軍[編集]

軍記物では、陶晴賢は周防・長門・豊前・筑前から集めた将兵20000〜30000の大軍を率いて厳島に上陸したという[1][4][6][10]。しかし、『山口県史 通史編 中世(2012年・山口県編)』では兵力差に疑問を呈しており、内藤氏杉氏などの他の大内氏重臣が参加していないことや、内陸部(廿日市)にも兵力を展開するなど戦力が分散していたことなどを鑑みて、厳島に上陸した陶兵は1万に満たなかったとする[16]。なお、この合戦における陶方の損害は、『棚守房顕覚書』によると戦死4700・捕虜3000[1]であり、軍事史研究家の河野収は、厳島に上陸した陶軍は8000程度としている[15]

陶軍の水軍戦力は、屋代島(現在の山口県周防大島)を拠点とする水軍(屋代島衆、屋代島警固衆)で500〜600艘[6]。しかし、陶軍が包囲した宮尾城に、毛利方の船団60〜70艘が援軍として入城していることや、弘中隆包が書状で水軍の不足を嘆いていることから[2][12]、宮尾城の沖合を埋め尽くすほどの陶水軍が投入されたという従来の逸話は再考の余地がある[17]

村上水軍[編集]

毛利方の勝利に貢献した村上水軍の援軍はおよそ200〜300艘の船団で加勢した[1][2][6][15]。ただし、因島村上氏・能島村上氏・来島村上氏それぞれの動向については諸説あり、日本史学者長沼賢海国立歴史民俗博物館名誉教授宇田川武久などは来島・能島村上氏は厳島合戦には不参戦だったと唱えている[18]

因島村上氏
合戦時までに小早川氏の傘下に入っていた(因島村上氏の先代当主・村上尚吉の代より毛利氏に近い立場だった)ことから、毛利軍への参戦は確実とする意見があり[1]村上吉充は重臣末永景道(後の磯兼景道)を派遣したと伝わるが、参戦を確証づける史料が無いため不明とする見方もある[19]。加勢していた場合、9月24日に草津城に毛利軍が集結した時点で因島水軍は既に加わっていたと思われる[6](数は毛利・小早川・因島水軍の合計でも200艘足らず[1])。
能島村上氏
村上武吉率いる能島村上氏の来援については、江戸時代に編纂された軍記物や覚書(『武家万代記』『老翁物語』『桂岌円覚書』など)などに言及されているが[1][14]、信憑性のある史料にその名が見られず、防芸引分後は陶方であったとの記述(『益田家文書』)[19]もあることから、参戦したかどうかは不明である[2](そもそも独立志向の強い海賊衆は日和見的であるため、元就は過大な期待はしていなかったという見解もある[14])。
来島村上氏
9月28日(もしくは29日)に来援した村上水軍に対して、元就が「来島の来援により我らの首は繋がった」という旨の書状(『毛利家文書 579号』)があり、村上3氏の中で唯一参戦が明示されている[1]

合戦に関連した主な人物[編集]

毛利軍主力
別働隊(小早川水軍)
村上水軍
  • 村上武吉 - 能島村上氏の当主。※不参戦説あり
  • 村上通康 - 来島村上氏の当主。
  • 末永景道(後の磯兼景道) - 因島村上氏の家臣。当初より小早川隊に合流して行動。
宮尾城
その他の毛利関係者
  • 宍戸隆家 - 毛利家臣。吉田郡山城留守居。
  • 桂元澄 - 毛利家臣。桜尾城在城。
陶軍主力
水軍(屋代島警固衆)
  • 宇賀島忠重(十郎左衛門) - 屋代島警固衆の大将。敗戦後、毛利軍の掃討により死亡。
  • 桑原隆祐 - 屋代島警固衆の将。合戦で討死。

検証[編集]

史料[編集]

本合戦の目撃者・従軍者によって書かれた信憑性の高い史料としては、合戦当時に厳島神主家の本宮棚守職であった棚守房顕が書き記した『棚守房顕覚書』、村上水軍の一員である村上喜兵衛から聞き取った内容をまとめた『武家万代記(三島海賊家軍日記[注 5])』、川ノ内警固衆の賀屋市助の覚えを取りまとめた『万代記(厳島合戦記)』、吉川家臣の二宮俊実や森脇春方が書いた『二宮俊実覚書』『森脇覚書』などがある[8]

一方、一般的に知られている合戦の経緯はおおむね、江戸時代に香川景継が編纂・執筆した軍記物『陰徳太平記』を元にしている。この書は前述の『二宮俊実覚書』『森脇覚書』を元に書かれたものであるが、毛利氏に都合の良いように改ざんや虚飾が行われており、『甲陽軍鑑』などと同様史料的価値は低く見られており、史実とは異なる部分が多々あるとされる。

陶軍の厳島誘因(宮尾城囮城)説[編集]

『陰徳太平記』や『吉田物語』などによれば、元就は厳島に陶晴賢をおびき寄せるための囮として天文24年春に宮尾城を築いたとされる[6][16]。これは圧倒的兵力を誇る陶軍を奇襲作戦により殲滅する策略であり、陶の間者が元就の周辺で諜報活動をしていることを逆に利用して「(宮尾城の防備が遅れているので)『今厳島を攻められれば困る』と元就が言った」という嘘情報を流させたという(『中国治乱記』)[7]。これらは全て、前述の桂元澄偽装内通の計略を含め、元就の謀略とされてきた。

しかし、厳島の戦いが勃発する以前より宮尾城は存在しており(『棚守房顕覚書』では天文23年時点で宮尾城の存在が記述されている)、元就は合戦前に防備強化のため改築したに過ぎない。そもそも厳島は宗教・交通・経済的な重要拠点[12][20]であるため幾度も厳島には軍勢が派遣されており[注 6]、安芸への進軍(毛利側の視点では防衛)の拠点として厳島の奪還を最初に図ったことは不自然では無い。元就の謀略により晴賢が厳島に誘引されたという逸話は、元就の智将ぶりを強調して賞賛するための創作と見られる[1][20]

兵力差[編集]

従来説では、少数の毛利軍が5倍以上の大軍を擁する陶軍を相手に、様々な謀略と厳島の奇襲戦で鮮やかに撃ち破ったとされる。しかし、前節のとおり陶軍は1万にも達していなかった可能性が指摘されており、伝えられているような圧倒的優位な戦況では無く、実際はもっと小規模で戦力は拮抗していたのではないかという意見も出ている。これを裏付けるように、弘中隆包は開戦の直前に妻に宛てて遺言めいた手紙を残している[16][12]

後年の豊臣秀吉の時代に行なわれた太閤検地では、周防・長門・石見半国といった旧大内領国を併せた石高は60万石から70万石とされており、ここから導き出される動員可能兵力はおおよそ2万強になる。だが、当時の陶晴賢の足下は政情不安であり、領国警備に兵を割く必要もあった上に、晴賢の動員令に従わなかった家臣や国人衆もいた。このため晴賢が動員した兵力が2万以下だった可能性は十分にある。

合戦の主導者[編集]

この厳島の戦いに関して、本来ならば元就が家臣たちに対して発行しているはずの感状が、今に至るも見つかっていない。このことから、そもそも毛利元就がこの戦を主導していたのか疑問視する声もある。歴史学者の山室恭子は、厳島の戦いは村上水軍と陶氏の戦いであり、元就は感状を出せる立場では無かったと唱えており、江戸時代になって村上水軍の功績が毛利家の手柄にすり替えられたと推測している[18][注 7]

そのため、毛利元就は漁父の利を得たに過ぎないとする意見もある(桶狭間の戦いでの織田信長の勝利に松平元康が便乗して勢力拡大に成功した、というような歴史的類例がいくつもある)。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 合戦の発生年について「弘治元年」とする資料や史跡案内(厳島各所の史跡説明板)も多いが、天文から弘治への改元は天文24年10月23日(西暦1555年11月7日)である。
  2. ^ 棚守房顕覚書が完成したのは、天正8年(1580年)であり、合戦から25年後である。
  3. ^ 『藝州厳島図絵』では高安ヶ原を自刃の地と記されている。
  4. ^ 島民の女性は月経の際には島外に避難するほど、血の穢れの禁忌は厳しい。
  5. ^ さんとうかいぞくけいくさにっき
  6. ^ 大永4年(1524年)の佐東銀山城の戦いでは大内軍の本陣が置かれ、天文9年(1540年)の吉田郡山城の戦い直前には大内軍が厳島を中継して頭崎城に出陣した。また、大寧寺の変や防芸引分でも厳島は早々に占拠されている。
  7. ^ 長州藩となった毛利家に対して、村上氏は毛利家臣に組み込まれたか、小藩である森藩として残っているため力関係が弱くなっている。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae 毛利元就 「猛悪無道」と呼ばれた男(著:吉田龍司 2010年 新紀元社
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 戦争の日本史12 西国の戦国合戦(著:山本浩樹 2007年 吉川弘文館
  3. ^ a b c d e f g h i j 歴史群像シリーズ9 毛利元就 p62~70・森本繁「防長経略 陶晴賢を撃破、有名天下に轟く!」(1988年 学習研究社
  4. ^ a b c d e f 戦国合戦史事典(著:小和田泰経 2010年 新紀元社)
  5. ^ 戦国期の権力と婚姻(著:西尾和美 2005年 清文堂)
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 歴史群像シリーズ9 毛利元就 p22~37・森本繁「厳島合戦」(1988年 学習研究社)
  7. ^ a b c 歴史群像シリーズ49 毛利戦記 p106〜113・宮本義己「人道主義に根ざした合理性の追求」(1997年 学習研究社)
  8. ^ a b c 歴史群像シリーズ49 毛利戦記 p94~95・森本繁「毛利軍の渡海は『二十九日』」(1997年 学習研究社)
  9. ^ わがふるさとと愛媛学V ~平成9年度 愛媛学セミナー集録~ 厳島合戦と村上水軍 - 愛媛県生涯学習センター データベース『えひめの記憶』
  10. ^ a b c 厳島合戦 - 宮島観光協会ウェブサイト
  11. ^ a b 現地説明版「龍ヶ馬場(駒ヶ林)」
  12. ^ a b c d おもしろ山口学 大内氏・陶氏VS毛利氏 厳島の戦い 第2回:陶晴賢らの渡海と、渡海に反対した弘中隆兼の最期 - 山口きらめーる 2013年8月23日号 vol.256(山口県総合企画部広報広聴課)
  13. ^ 宮島の歴史 - 宮島観光協会ウェブサイト
  14. ^ a b c 歴史群像シリーズ9 毛利元就 p118~124・宇田川武久「"厳島"を制した毛利直轄水軍」(1988年 学習研究社)
  15. ^ a b c 歴史群像シリーズ49 毛利戦記 p146~151・河野収「鳥瞰戦国講座『戦国三大奇襲戦』勝利の条件」(1997年 学習研究社)
  16. ^ a b c d おもしろ山口学 大内氏・陶氏VS毛利氏 厳島の戦い 第1回:兵力差の真実と、手紙が残した真実 - 山口きらめーる 2013年7月26日号 vol.255(山口県総合企画部広報広聴課)
  17. ^ 秋山伸隆「ひろしま歴史回廊 第9部・再考 厳島合戦(5) 警固衆の役割 攻防繰り返した水軍」(中国新聞 2007年5月26日)
  18. ^ a b わがふるさとと愛媛学V ~平成9年度 愛媛学セミナー集録~ 日本史の中の水軍 - 愛媛県生涯学習センター データベース『えひめの記憶』
  19. ^ a b 秋山伸隆「ひろしま歴史回廊 第9部・再考 厳島合戦(7) 包ヶ浦から博奕尾越 島熟知 房顕の献策か」(中国新聞 2007年6月9日)
  20. ^ a b 歴史群像シリーズ49 毛利戦記 p40~44・鍛代敏雄「神意を湛える瀬戸内の要衝」(1997年 学習研究社)

参考文献[編集]

  • 森本繁戦史ドキュメント 厳島の戦い』(学研M文庫、2001年) ISBN 4059010340
  • 小和田哲男『戦国合戦事典』(PHP文庫)
  • 小和田哲男『戦国10大合戦の謎』(PHP文庫)
  • 小和田哲男『戦国軍師の合戦術』(新潮文庫)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]