相合元綱

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相合元綱
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 大永4年4月8日1524年5月11日
別名 少輔三郎、相合四郎、今義経
墓所 広島県安芸高田市船山城跡[注釈 1]
主君 毛利興元幸松丸元就
氏族 大江姓毛利氏流相合氏
父母 父:毛利弘元、母:相合大方
兄弟 興元元就元綱北就勝、見付元氏、
武田氏室、八幡上(渋川義正正室)、
吉川元経継室 相合のお方[[井上元光室]]
敷名元範
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相合 元綱(あいおう もとつな)は、戦国時代武将毛利氏の家臣。毛利弘元の三男で庶子[1]。吉田相合(現在の安芸高田市)にある船山城を居城としており、その所領から「相合」を姓とした[2]

生涯[編集]

安芸国国人領主・毛利弘元と側室の相合大方の子として誕生[1]。異母兄に正室の子である毛利興元元就がいる。武勇に秀でており「今義経」の異名を取ったと伝わる[2][3]

永正14年(1517年)の有田中井手の戦いでは、次兄の元就と共に武田元繁を討つなどの活躍を見せた[4]。また、元就とも仲が良かったといわれる。

大永3年(1523年)7月、当主であった甥の毛利幸松丸(興元の嫡男)が9歳で病死し、元就が後継者となった。これに対して坂広秀渡辺勝らは元綱を推していた[4]。一説には、尼子豊久を毛利氏の娘婿として当主に立て、元綱は後見人となる予定であったとも言われる。

大永4年(1524年)4月[5]、元綱らは元就への謀反を計画していたが、それに気付いた元就に先手を取られて志道広良率いる軍勢300の夜討ちを受ける(元綱事件[6])。『陰徳記』によると、「船山城の元綱の手勢は30名余りだったが、武勇に優れる元綱は広良の軍勢を押し返す抵抗を示すが、最後には体中を射抜かれた後に槍で刺された」とされる[6]また、別説では「尼子氏の謀略により憤死した」とも伝わる。ただし、その没年には、大永3年8月から大永5年(1525年)3月の間、と諸説ある[要出典]

死後[編集]

子の元範は幼少であったため罪を許された。後に敷名を名字とし、備後地方を拠点とする毛利家臣となった。

元綱派は尼子氏の有力家臣の亀井秀綱を後ろ盾としており、この内紛に尼子経久の意志が絡んでいることは明白であった[4][7]。そのため元就は、元綱殺害後に尼子氏から離反して大内氏への接近を図るようになった[8]

後年、元就は3人の息子たち(毛利隆元吉川元春小早川隆景)に兄弟と家中の団結を諭しているが(三子教訓状)、それは元綱を誅殺した経験が影響していると考えられている[6]

登場作品[編集]

注釈[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 弟の北就勝墓所説あり。

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 吉田龍司『毛利元就 「猛悪無道」と呼ばれた男』新紀元社、2010年9月。ISBN 978-4-7753-0840-0[信頼性要検証]
  • 歴史群像シリーズ9「毛利元就―西国の雄、天下への大知略―」』学習研究社、1991年2月。ISBN 978-4051051464