松永久通

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松永久通
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文12年1月8日1543年2月11日[1]
死没 天正5年10月10日1577年11月19日
改名 久通→義久→久通
別名 :久道
通称:彦六、右衛門大夫、右衛門佐、金吾
官位 従五位下右衛門佐
主君 三好長慶義継織田信長
氏族 松永氏
父母 父:松永久秀、母:不明
正室:十市遠勝の娘
子2人、彦兵衛(一丸)?
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松永 久通(まつなが ひさみち)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将松永久秀嫡男

生涯[編集]

天文12年(1543年)、三好氏の家臣・松永久秀の嫡男として誕生。早くから父に従い、永禄6年(1563年)に家督を譲られて大和多聞山城主となる。同年閏12月に従五位下右衛門佐に叙位任官する。翌永禄7年(1564年6月22日には主君・三好長慶の甥で養嗣子の三好義継に従い上洛、23日室町幕府13代将軍足利義輝と謁見したが[2]、永禄8年(1565年)、父に代わり三好三人衆や義継と共に二条御所にいた義輝を暗殺した(永禄の変)。

同年から父と三人衆の内戦が始まり、永禄9年(1566年)5月から父が姿をくらますと多聞山城の守備に徹し、永禄10年(1567年)4月に父が復帰するまで三人衆派の筒井順慶と大和で戦った。永禄11年(1568年)、織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してくると、父と共に信長に降伏して所領の大和を安堵された。その後、信長包囲網が敷かれると父と共に信長に対して反逆するが、天正元年(1573年)に多聞山城を織田軍に攻められ再び降伏した[3][4]

天正3年(1575年)7月、十市遠勝の娘おなへ(御料)を妻に迎え龍王山城に移ったが、大和守護の原田直政の命により、天正4年(1576年)3月に妻の叔父である十市遠長十市城を攻め落とした。同年5月の石山本願寺攻め(石山合戦)に参加し、天王寺の戦いで原田直政は戦死、一時は久通も戦死したとの噂が流れたという(『多聞院日記』)[5]

天正5年(1577年)10月、再び父が信長に対して謀反を起こした時もこれに従って信長に反抗するも、父と共に信貴山城で自害した(信貴山城の戦い)。信貴山城から脱出し、大坂方面へ落ち延びる途中で雑兵に殺されたとする説もある(『老人雑話』)。織田家に人質として預けられていた子が2人(14歳と12歳だったという)いたが、信貴山城落城前に京都六条河原で処刑されている(『兼見卿記』『信長公記』)[6]

子孫[編集]

一説に子に彦兵衛(一丸)がいたといわれ、その系統の子孫から海軍中将・松永貞市、海軍大尉・松永市郎iモード開発者の松永真理が出た。

脚注[編集]

  1. ^ 系図纂要
  2. ^ 長江 1989, pp. 218,254.
  3. ^ 福島 2009, pp. 133-136.
  4. ^ 谷口 2007, pp. 176-181.
  5. ^ 谷口 2007, pp. 216-218.
  6. ^ 谷口 2007, pp. 218-220.

参考文献[編集]

  • 長江正一『三好長慶』吉川弘文館人物叢書〉、1989年4月(原著1968年)、新装版。ISBN 978-4-642-05154-5
  • 谷口克広『信長と消えた家臣たち』中央公論新社、2007年。
  • 福島克彦『畿内・近国の戦国合戦』吉川弘文館〈戦争の日本史11〉、2009年。

関連項目[編集]