畠山氏

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畠山氏
家紋
本姓 桓武平氏
清和源氏河内源氏
家祖 畠山重能
畠山義純
種別 武家
出身地 武蔵国男衾郡畠山郷
主な根拠地 河内国紀伊国
大和国越中国
能登国陸奥国
著名な人物 畠山重忠畠山国清
畠山満家畠山政長
畠山義就畠山義続
畠山義継畠山一清
支流、分家 岩松氏武家華族
二本松氏(武家)
田中氏(武家)
河内渋川氏(武家)
安井氏(武家) など
凡例 / Category:日本の氏族

畠山氏(はたけやまし/はたけやまうじ)は、武蔵国を本貫地とする武家の一族。主に桓武平氏系と清和源氏系の2家系があるが、両者は間接的な血縁関係である(後述)。読みには他に「はたやま」もある。

室町時代には畠山金吾家大和宇智郡河内紀伊(管領就任時には山城も)などの畿内およびその周辺国に該当する重要な地域を守護として治め、また幕府の管領として国の政務を執った。しかし、家督争いにより、#畠山総州家#畠山尾州家に分かれて、応仁の乱勃発の一因となり、その後も激しく争い続けた。

また、北陸越中の守護も兼ね、分家は能登の守護を代々世襲する。著名な末裔として実業家の畠山一清がいる。

概要[ソースを編集]

平安時代・鎌倉時代[ソースを編集]

坂東八平氏の一族・秩父重弘の子である秩父重能武蔵国男衾郡畠山郷(はたけやまごう、現在の埼玉県深谷市畠山周辺)に所領を得て畠山姓を称したことに始まる(平姓畠山家)。治承・寿永の乱において、その子畠山重忠は、はじめは平家方についたが後に源頼朝に従い、一ノ谷の戦い奥州合戦などで活躍した。重忠はのちに北条時政と対立し、元久2年(1205年)に武蔵国二俣川北条義時の軍との戦闘で敗死した(畠山重忠の乱)。

その後、重忠の旧領と畠山の名跡は、足利義兼の庶長子・足利義純が重忠の未亡人である北条時政女(異説として、時政女を所生とする畠山重忠の娘[1])と婚姻し、継承された。義純はもともと新田義兼(足利義兼と同諱の従兄弟)の娘と婚姻し子も儲けていたが、その妻子を義絶した上での継承であった(ただし、重忠の所領は後家(一説に岳母))から直接息子泰国に継承され[2]、更に一部は岩松氏に流れた可能性がある[3]など、義純の畠山氏継承には不明点も多い)。これによって桓武平氏のひとつ秩父平氏の流れを汲む平姓畠山氏は消滅し、清和源氏のひとつ河内源氏の一系・足利家の一門として存続することとなった。

義純の家系(源姓畠山家)は名門・畠山家の名跡を継承したことから、後に足利一門の家臣筋分家の中で斯波家に次いで高い序列に列せられ、細川家など他の家臣筋分家とは異なる待遇を足利宗家から受けることになる。

紀伊および河内越中の守護をおおむね務め、分家は能登守護を務めた。

室町時代以降[ソースを編集]

建武3年(1336年)に足利尊氏室町幕府を創立すると、畠山家はこれまでの功績によって越中河内紀伊守護に任じられた。足利家の内紛である観応の擾乱では、庶流の畠山国清足利直義方に付くも後に尊氏方に鞍替えして家勢を保ち、その一方で畠山家嫡流の畠山高国国氏父子は、観応2年(1351年)直義派の吉良貞家に敗れ自害し、国氏の子二本松国詮は二本松に移った(#奥州畠山家)。

本来の嫡流である奥州畠山家が衰退する中で、畠山国清の家系(#畠山金吾家)が畠山家の惣領格となる。国清は関東管領に任命されて東国で南朝方と戦うが、その後鎌倉公方足利基氏と対立し、康安元年(1361年)に失脚した。国清はそのまま没落するが、国清の弟の畠山義深がのちに守護に任命され畠山家を再興させる。義深の子・畠山基国は明徳2年(1391年)の明徳の乱で功績を挙げるなどして足利義満の信任を受け、能登の守護を任されるなど守護大名として力をつける。

応永5年(1398年)には管領に任じられ、同じ足利一門の斯波武衛家細川京兆家とともに三管領家として名を連ねる家柄となった。基国の子・畠山満家は義満には冷遇されたが、足利義持の代になってから表舞台に復帰して管領に就任する。満家の子・畠山持国(徳本)は、将軍権力の強化を目論む足利義教の干渉に苦しめられるが、畠山家の内紛を鎮めて細川家や山名家と拮抗する勢力を維持した。

しかし、持国の子畠山義就と甥畠山政長との間で家督をめぐっての激しい争いが起き、それが後の応仁の乱の一因になった。文明9年(1477年)に応仁の乱の終息後も義就流(#畠山総州家)と政長流(#畠山尾州家)は内紛を続け、この対立は両細川家の乱と共に畿内を内戦状態とする主因となった。また、畠山政長(畠山尾州家)や畠山義堯(畠山総州家)は管領に就任したが、戦国末期に両家でそれぞれ、木沢長政(畠山総州家)や遊佐長教(畠山尾州家)による下克上が起こった。

越中は守護代神保氏に奪われ、河内も度々守護代の遊佐氏に脅かされたが、尾州家の紀伊だけは最後まで勢力を保った。江戸時代においては旗本高家として数家が残った。

平姓畠山家[ソースを編集]

歴代当主
  1. 畠山重能(平姓畠山氏の祖)
  2. 畠山重忠
  3. 畠山重保

平姓畠山家の系譜[ソースを編集]

奥州畠山家[ソースを編集]

奥州二本松城に拠ったかつての奥州四管領の一雄・畠山家の後裔であり、二本松畠山氏、二本松氏とも呼ばれる。源姓畠山氏の祖である足利義純の嫡流は、本来この二本松の奥州畠山家であったが、観応の擾乱において畠山高国国氏足利直義方の吉良貞家に敗れ自害し、国氏の子二本松国詮は二本松に移ったが、戦国時代には、一国人にまで衰退した。

天正13年(1585年)、当時の当主・二本松義継伊達氏との抗争の中で討死し、まもなく国人領主としての二本松氏も滅亡する。彼の次男である二本松義孝蘆名氏佐竹氏などに仕えた後、徳川氏譜代大名である水野氏に仕えた。水野忠邦の転封運動に反対して諌死した家老・二本松義廉はその末裔である。

歴代当主(源姓畠山本宗家:奥州畠山家)
  1. 畠山義純(源姓畠山氏の祖)
  2. 畠山泰国
  3. 畠山時国
  4. 畠山高国(奥州畠山家の祖)
  5. 畠山国氏(奥州畠山家)
  6. 二本松義孝

畠山金吾家[ソースを編集]

代々、衛門督や衛門佐に任じられたため金吾家(金吾は衛門府唐名)とも称された。本来の嫡流である奥州畠山家が冷遇されたのとは対照的に、庶流である畠山国清は知勇に優れていたため重用され、紀伊国および和泉国の守護となり、後に河内国の守護にも任命された。これが河内畠山家の始まりである。

観応の擾乱においては国清は当初は直義派であったが、嫡流で尊氏派であった高国・国氏父子の敗北した後まもなく尊氏派に鞍替えし、没落した奥州畠山家に代わって畠山家の惣領格となる。鎌倉の足利基氏を補佐する関東執事(関東管領)として活躍し、さらに将軍足利義詮執事細川清氏と共に仁木義長を追放して一時中央の政務を壟断したが、のちに義詮や基氏と対立し失脚し、河内畠山家は畠山国清の弟・畠山義深の系統によって受け継がれる。

義深の子の畠山基国は当初は鎌倉公方に仕えていたが、足利義満の側近として京の幕府を中心に活動するようになり、管領家の細川京兆家と斯波武衛家が対立する中で第三勢力として台頭、能登国の守護職を獲得し、のちに畠山家の人物として初めての管領職に任命される。これ以降、河内畠山家は代々管領を輩出する家柄となった。因みに現在の京都市上京区畠山町は、この付近一帯に管領畠山氏の邸宅があったことに由来する地名である。

畠山満家畠山持国は管領として幕政において重きをなしたが、持国の後継を巡り畠山政長畠山義就の子孫が互いに争い、応仁の乱後も両家が分裂し、内紛を続けた。西軍であった義就流畠山家は官途の上総介から#畠山総州家、東軍であった政長流畠山家は官途の尾張守から#畠山尾州家をそれぞれ称した。

歴代当主(源姓畠山本宗家:金吾家)
  1. 畠山貞国
  2. 畠山家国
  3. 畠山国清…関東執事
  4. 畠山義深(国清の弟)
  5. 畠山基国…管領、紀伊国守護、能登国守護、越中国守護、河内国守護。
  6. 畠山満慶…河内国守護などの守護、後、能登畠山家初代。基国の次男。
  7. 畠山満家…管領、紀伊国守護、河内国守護、越中国守護。基国の長男。
  8. 畠山持国…管領、紀伊国守護、河内国守護、越中国守護。満家の長男。
  9. 畠山持永…河内国守護。満家の次男。持国の弟。
  10. 畠山義就…持国の子、河内国守護、紀伊国守護、越中国守護。
  11. 畠山政長…持国の子、管領、紀伊国守護、河内国守護、越中国守護、山城国守護。

家臣団[ソースを編集]

応仁の乱前後に、畠山氏の家臣団はそれぞれ政長方、義就方に分かれるなど混沌とした。戦国時代になり畠山氏の当主の権力が弱くなるにつれて、在地勢力でもあった「国人衆」・「大和衆」が力を有するようになったが、守護代として権力を掌握した遊佐氏・神保氏は「鎌倉衆」「鎌倉以来」の家柄であった。畠山家の家臣団は大きく分けて、出身により「武蔵衆」、「足利衆」、「鎌倉衆」、「国人衆」、「大和衆」の五系統に分かれる。

畠山総州家[ソースを編集]

総州家は金吾家から別れ、主に大和国河内国に勢力を有した。

応仁の乱の最中に山名宗全細川勝元が死去したのち、東西両軍の和睦が進められる中、畠山義就は講和に反対し、文明9年(1477年)9月21日に畠山尾州家の政長討伐のために河内国へ下り諸城を攻略、政長派の守護代遊佐長直を若江城から追い河内を制圧した(若江城の戦い)。また、義就派の越智家栄古市澄胤らも大和国を制圧、政長派の筒井順尊箸尾為国十市遠清は没落し、義就は河内と大和の事実上の支配者となった。一方、京では義就が河内方面に下向後の11月11日、東西両軍の間で講和が成立し、西軍は解散した。文明14年(1482年)に幕府の命を受けた管領の畠山政長と細川政元連合軍が義就追討に出陣したが、義就はこれを撃退している。

義就の跡を継いだ畠山義豊は、明応2年(1493年)に10代将軍足利義材と畠山政長を主力とした幕府軍の追討を受けるが、管領細川政元によるクーデター(明応の政変)が勃発し、細川政元と同盟した義豊は、逆に畠山政長を自刃に追い込んだ。政長の子・畠山尚順は紀伊に逃れた。しかし、明応6年(1497年)、義豊の家臣の遊佐氏と誉田氏が内紛を起こし、これに乗じた畠山尚順が紀伊で挙兵、居城の河内高屋城を尚順に落とされ、義豊は山城へ逃亡、明応8年(1499年)に河内で戦死した。

義豊の子の畠山義英は細川政元の後援の元、畠山尾州家との戦いを優勢に進めたが、義英は畠山尾州家と和睦し細川政元と対立した。更に、永正4年(1507年)に起きた永正の錯乱直後に、高屋城を奪い返した。その後の両細川の乱において、義英は阿波国細川澄元の娘を子の畠山義堯の妻に迎えて同盟し、足利義材を擁する細川高国大内義興畠山稙長ら幕府軍に対して抵抗を続けた。

畠山義堯は重臣の木沢長政の補佐を受け、大永7年(1527年)、細川高国が桂川原の戦いに敗れて高国政権が崩壊すると、阿波国の細川晴元が擁していた足利義維和泉国堺に上陸し堺公方が成立した。義堯は管領に就任し、阿波細川家の重臣の三好元長と共に細川高国派の朝倉宗滴と戦っている(川勝寺口の戦い)。さらに、享禄5年(1532年)三好元長と共に、離反した木沢長政の居城・飯盛山城を攻囲し、戦局を優位に進めていたが、木沢長政の支援に現れた一向一揆に敗れて、義堯は自刃した(飯盛城の戦い)。

家督は義堯の子の畠山在氏が継いだ。しかし実権は木沢長政が掌握しており、天文11年(1542年)の太平寺の戦いにおいて木沢長政が三好長慶遊佐長教により敗死すると、木沢長政の勢力の中核はかつての総州家の被官だった国人衆であったため、長政と共に総州家も実質的に滅亡した。なお、在氏の子、畠山尚誠足利義昭の上洛を助け、義昭による足利将軍家継承を実現させた。これには、尾州家も協力した。その後の消息は不明である。

歴代当主(畠山総州家)
  1. 畠山義就…河内国守護、紀伊国守護、越中国守護
  2. 畠山義豊…河内国半国守護
  3. 畠山義英…河内国半国守護
  4. 畠山義堯…河内国半国守護(管領)
  5. 畠山在氏…河内国半国守護
  6. 畠山尚誠

総州家家臣[ソースを編集]

畠山尾州家[ソースを編集]

総州家は金吾家から別れ、主に紀伊国越中国に勢力を有した。

文明9年(1477年)に終結した応仁の乱の後、山城守護となった畠山政長は管領となったが、文明17年(1485年)に山城国一揆が起こり失脚、山城守護の任を解かれた。その後、細川政元と対立する10代将軍足利義材に政長は重用され、明応2年(1493年)には、遂に将軍自らによる畠山総州家討伐が実行された。しかし、その遠征中に細川政元日野富子によりクーデターが起こされる。政長は子の畠山尚順を逃して討ち死にし、足利義材は将軍の座を失った(明応の政変)。

紀伊に逃れた畠山尚順は、足利義材を擁し周防国から上洛した大内義興細川高国と結んで船岡山合戦に参戦し、総州家の畠山義英を破った。しかし、管領には細川高国、山城の守護職は大内義興が任命された。尚順は領国運営の為、嫡子の畠山稙長と二元政治を行なった。その後、管領・細川高国と将軍・足利義材が対立すると稙長は細川高国、尚順は足利義材に味方し、永正17年(1520年)に尚順は堺に追放された。しかし、畠山稙長も天文3年(1534年)に遊佐長教により追放され、その後は遊佐長教により畠山長経畠山政国と尾州家の当主は挿げ替えられた。

天文20年(1551年)に遊佐長教が刺客により暗殺されると、政国の子の畠山高政が実権を復した。高政は、三好長慶三好実休三好三人衆と争い、足利義昭織田信長と結んだ。その後、高政は隠居したが、天正元年(1573年)に義昭派だった弟の畠山昭高が信長派の遊佐信教に殺されると挙兵し、河内に進攻するも敗北、紀伊に後退した。天正4年(1576年)、高政は死去した。

その後、高政の弟・政尚の子である畠山貞政は紀伊に拠点を移し勢力を盛り返した。貞政は徳川家康と連携するなど、羽柴秀吉に対抗した。しかし後に豊臣政権により放逐された(紀州征伐)。

貞政の子である畠山政信大和で放浪中豊臣家重臣の片桐且元に出会い、片桐家に仕官することとなった。人柄を認められ且元の娘婿となり片桐家重臣となる。政信は能書家としても極めて有能であり豊臣秀頼の祐筆として且元に推薦されることによって豊臣家の直臣となった。しかしやがて片桐且元が豊臣家から徳川家へと主人を変えると、且元の近親であった政信も豊臣家にいづらくなり豊臣家を退散し徳川家に仕えた。

徳川家康は名族好きで知られた戦国武将であり畠山家が河内紀伊大和を領した名家であることから江戸城内の典礼を司ることなどを命ぜられ将軍家近侍を仰せつかる。

政信の子孫は江戸幕府高家の内の一家となって、その後も幕末まで家系は続いた。

歴代当主(畠山尾州家)
  1. 畠山持富…満家の三男。持国の弟。弥三郎、政長の父。
  2. 畠山政久…持富の子。政長の兄。弥三郎。名は義富とも。
  3. 畠山政長…尾州家の実質初代、紀伊国守護、河内国守護、越中国守護、山城国守護(管領)
  4. 畠山尚順…政長の子、紀伊国守護、河内国半国守護、越中国守護
  5. 畠山稙長…尚順の長男。紀伊国守護、河内国半国守護、越中国守護
  6. 畠山長経…尚順の次男。紀伊国守護、河内国半国守護、越中国守護
  7. 畠山政国…尚順の三男?。紀伊国守護、河内国半国守護
  8. 畠山晴熙…尚順の四男?。紀伊国守護、河内国半国守護
  9. 畠山高政…政国の長男、紀伊国守護、河内国半国守護
  10. 畠山政尚 政国の次男、紀伊国半国守護代、紀伊国守護
  11. 畠山昭高…政国の三男、河内国半国守護
  12. 畠山貞政 政尚の長男。紀伊国の戦国大名
  13. 畠山政信 豊臣秀頼の祐筆。徳川秀忠の近習
  14. 畠山基玄 江戸幕府の旗本

尾州家家臣[ソースを編集]

能登畠山家(匠作家)[ソースを編集]

七尾畠山家ともいわれる。歴代の当主が修理大夫に任じられたため、その唐名より畠山匠作家とも称された。修理大夫は畠山国清が称した官位であることから、没落した畠山国清系統の再興を意図したのではないかとの指摘がある。

能登国は、当初は吉見家が守護を務めていたが、康暦の政変において細川頼之派であった吉見氏興が失脚し、代わって守護となった本庄宗成(義満の寵臣の一人で元々日野家の家人)もまた統治に失敗があったため、足利一門にして足利義満の信頼の厚かった畠山基国が守護となり、以降は畠山家の分国となった。

初代当主である畠山満慶は、父である畠山基国の没後、当時足利義満の逆鱗に触れて蟄居していた兄・畠山満家に代わって畠山家本家の家督を継いでいたが、義満の没後に満家が赦免されたため、満慶は家督を兄満家に返還した(当時は「天下の美挙」と言われた)。兄の満家は感謝の意から分国のうち能登一国を満慶に与え、応永15年(1408年)に畠山満慶を初代とする能登畠山家が創設された。

満慶と第2代当主・畠山義忠は、在京守護であり、所領の支配は守護代の遊佐家に委ねられていたが、応仁の乱後、第3代当主・畠山義統が能登に下向したことで在国大名となり、強力な領国支配体制を築き定着していったことで、他国の守護大名分国で起こったような下剋上が能登では起こらなかった。

しかし、第4代当主・畠山義元の時、弟の畠山慶致との間で兄弟争いが起こり、明応9年(1500年)には慶致派の守護代の遊佐統秀によって義元は追放され、第5代当主に弟の慶致が擁立された。だが、一向一揆など戦国の状況が能登でも差し迫ってくると、永正3年(1506年)、両者は和解して義元は復帰して再び当主となった(その代わりの条件として、慶致の子・義総が義元の後継者と設定された)。

第7代当主・畠山義総は名君であり、畠山氏のお膝元である七尾は都から貴族も転居してくるなど小京都と呼ばれるほどに栄え、能登畠山家もまた大いに繁栄した。

しかし義総が死去し第8代当主として畠山義続が家督を継ぐと統制が乱れ、畠山七人衆と呼ばれる重臣の権力者グループに実権を握られ大名は傀儡化されてしまう。第9代当主・畠山義綱のときに一時、内乱を鎮圧し大名権力を奪回し大名専制支配を行ったが、重臣たちの反発を招き、当主の追放というクーデターに発展した。その後はまた重臣たちに権力を握られ、内部紛争が続き衰退の道をたどった能登畠山家は、天正5年(1577年)に越後上杉謙信の侵攻を受けて滅亡した。義綱の弟・畠山義春(上杉義春)は上杉景勝に仕え、その正室に迎えて上条上杉家の名跡を継いだ。彼の長男・畠山景広米沢藩藩士(上杉家一門衆)となる。 次男長員は上杉姓を称し高家旗本の上杉家の祖となる。三男・畠山義真が父の実家である能登畠山氏の名跡を継承し、江戸幕府高家肝煎畠山家の初代となった。江戸時代中期、当主は江戸猿楽町や木挽町に居住していた。

歴代当主(匠作家)
  1. 畠山満慶
  2. 畠山義忠
  3. 畠山義統
  4. 畠山義元(後に再承)
  5. 畠山慶致
  6. 畠山義総
  7. 畠山義続
  8. 畠山義綱
  9. 畠山義慶
  10. 畠山義隆
  11. 畠山春王丸

能登畠山氏家臣団[ソースを編集]


源姓畠山氏の系譜[ソースを編集]

太線は実子、細線・二重線(縦)は養子、二重線(横)は婚姻関係。

  秩父重弘
    ┃
  畠山重能       北条時政     足利義兼     新田義兼
 ┏━━╋━━┓       ┃        ┃        ┃
重清 重宗 重忠 ========= 六女 ======== 足利義純 ======== 女子
 ┏━━┳━━┳━━┳┻━┓     ┃         ┣━━━━━━━┓
重政 重慶 重俊 重季 重保   畠山泰国      岩松時兼    田中時朝
       ┏━━━━━━━━━━━┫         ┃       ┃
    (美濃畠山家)       (嫡流)     (岩松氏へ)  (田中氏へ)
      義生          時国
       ┃           ┃
       ┃           ┣━━━━━━━━━━━━━━┓
       ┃           ┃           (嫡流・奥州家)
      義方          貞国             高国
       ┃           ┃              ┣━━━━━━┓
      宗義          家国             直泰     国氏
       ┃        (河内守護家)                (奥州管領)
 ┏━━┳━━┫     ┏━━┳━━╋━━┳━━━━━┓             ┃
直顕 宗国 宗生    国清 国頼 義熈 清義    義深           国詮
    ┃     ┏━━┫     ┃        ┣━━┳━━━┓     ┣━━━━┳━━━━┳━━━┓
   直宗    宗基 義清    満熈       基国 深秋 石垣満国  本宮満国 鹿子田満詮 満泰 新城氏泰
          ┏━━┫              ┣━━━━━┓           ┏━━━━╋━━━┓
         満純 清貞             満家    満慶          満盛   持重 高玉家重
          ┃  ┃              ┃  (能登守護家)        ┃    ┃
          ┃  ┃    ┏━━━┳━━┳━━┫     ┣━━┓        ┃    ┃
         持純清純? 西方国賢 持富 持永 持国    義忠 教国      高倉政泰  政国
          ┃  ┣━━━┓    ┣━━┓  ┃     ┃           ┏━━━━┫
         成純 政栄 松倉満友  政長 政久 義就    義有          村国  新城村尚
             ┃        ┃     ┃     ┣━━┓     ┏━━┫    ┃
            家俊       尚順    義豊    義統 政国    家泰 義氏  *義国
             ┏━━┳━━┳━━╋━━┓  ┃     ┣━━┳━━┓     |
            昭国晴熙 政国 長経 稙長 義英    義元 慶致 義智   *義国
             ┃  ┏━━╋━━┓     ┃     |  ┃        ┃
            頼国 昭高 政尚 高政    義堯    義総義総       義継
             ┃     ┃        ┃  ┏━━┫           ┣━━━━┓
           阿多盛淳   貞政       在氏 義繁 義続          義綱 二本松義孝
             ┃     ┃        ┃     ┣━━━━━┓     
            忠栄    政信       尚誠    義綱    義春
                   ┣━━┓           ┣━━┓  ┣━━┓
                  基玄 義玄          義慶 義隆 義真 長員
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                  基祐 基祐             春王丸 義里上条上杉家へ)
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                  国祐                    義寧
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                  政如 義福 国儔             義躬 知義
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                  国儔                   義紀米沢藩主・上杉吉憲3男)
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                  国祥                   義福 資施 義周
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                                         義一 義宣
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                                               義勇

その他[ソースを編集]

平姓畠山氏の一族については畠山氏 (平姓)秩父氏を参照。

源姓畠山氏の祖である足利義純の子孫のうち、義絶した新田家の娘との間の子らは岩松氏となる。岩松家は新田一門として活動し、後に新田家の末裔を称した(詳細は岩松氏を参照)。

鎌倉時代に源姓畠山氏から分かれた一族としては、日向に畠山家の庶流の一族がある。また、失脚し没落した畠山国清の子孫の系統も存続したとされる(西谷内畠山家)。薩摩に下向した一族もあり(阿多氏)、島津氏の家臣長寿院盛淳(阿多盛淳)はその子孫である。

三河畠山氏(足利氏の一族)は、室町時代に、足利幕府の奉公衆として、畠山宗元が、三河国志貴荘に下向。志貴荘の荘館である安城古城を本拠にした。その後、和田氏と改め、和田親平の代に、安祥城を築城して移る。安祥城は、松平信光の奇襲で落城した時の城主は、徳川実紀によると、畠山加賀守某という。

脚注[ソースを編集]

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  1. ^ 竹村紘一「足利一族の基礎知識」『歴史研究 第576号』歴研、2009年、p23
  2. ^ 渡政和「鎌倉時代の畠山氏について」(初出:『埼玉県立歴史資料館研究紀要』第12・13号(埼玉県立歴史資料館、1990・1991年)/所収:清水亮 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第七巻 畠山重忠』(戎光祥出版、2012年) ISBN 978-4-86403-066-3
  3. ^ 彦由三枝子「足利氏と畠山氏」(初出:『武蔵野』第81巻第2号(武蔵野文化協会、2005年)/所収:清水亮 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第七巻 畠山重忠』(戎光祥出版、2012年) ISBN 978-4-86403-066-3

参考文献[ソースを編集]

関連項目[ソースを編集]

畠山一族

外部リンク[ソースを編集]